レッツ・ロック・アゲイン! : 特集
ジョー・ストラマーの最期を見つめた「レッツ・ロック・アゲイン!」、ニール・ヤングが監督した「グリーンデイル」、ラモーンズの歴史を追った「END OF THE CENTURY」など、今年から来年にかけていくつかのロック映画が公開される。果たしてこれらの作品は何を語るのか? ロックンロールの歴史を紐解きながら、これらロック映画が示すものが何かを探っていこう。
A Young Person's Guide to ROCK'N ROLL MOVIES
(樋口泰人)
ロックンロールはテレビの映像とともに始まった。まずそのことを思い出そう。蔑むべき黒人たちの音楽を白人の少年が歌い、しかもいやらしく激しく足腰を震わせる、その耐え難い白人の尊厳の冒涜に、全米を牛耳る大人たちが眉をひそめテレビのチャンネルを変え、あるいは自粛したテレビがエルビスの腰から下を映さないことで再びエルビスがお茶の間に登場したとき、ロックは全米に認知された。画面に登場したエルビスが、ギターを掴みマイクに向かったとたん空気が変わり歌がいきなり始まる、その急激な変化の落差を目の当たりにした多くの人々は、ロックンロールとは何かをその目で見ることになったのである(これらのエピソードはザ・バンドのレボン・ヘルムがナレーションを務める「エルビス'56」で、見ることができる)。
だからキング・オブ・ロックンロールであるエルビスが、軍隊からの除隊後、ステージではなくカメラの前に立ち、スクリーンの中だけからその存在を見せつけたのも、ロック・スターの華麗なる転身というよりも、あくまでもロックンロールが視覚的なものであることを全うする、王としての正しき歩みであったと言うべきだろう。その後私たちは、長髪のビートルズやエルビスよりさらにわいせつに腰をくねらせるミック・ジャガーやギターを歯でかきむしるジミヘンや、あるいは、宇宙人のように冷たい輝きを放つデビッド・ボウイの姿を見るたびに、彼らの音の秘密を視覚的に了解したはずなのだ。
ミュージックTVやビデオクリップの登場は、おそらくそんなかつての「了解」が生み出したものだと言えるのだが、皮肉なことにそれらは、生来視覚的な音をさらに視覚的にとらえようとしてみてもそれが見えるわけではないということを示してくれたようにも思う。
例えば73年のデビッド・ボウイをとらえた「ジギー・スターダスト」の中で、ボウイを見つめる少女たちの恍惚の表情が映し出されるとき、彼女たちの目に映るはずのボウイが何者であったかを、私たちは一瞬のうちに理解する。そしてそこにもまた、ロックの秘密があることを。あるいはまた、02年末に心臓病で突如他界したジョー・ストラマーの最期の2年間を追った「レッツ・ロック・アゲイン!」で、街角やライブ会場、放送局のスタジオやCDショップなどで出会うファンたちが皆、ジョーに抱きついては涙を流し、「あなたのおかげで人生を変えられた」と告げるとき、ジョーの歌がどのように世界に広がり人々の間に染み渡って行ったか、その時の流れと彼らそれぞれの抱える物語の豊かさを、私たちは目の当たりにする。
つまり、その誕生から既に半世紀以上を経たロックンロールは、その発信者であるミュージシャンだけではなく、受信者である聴衆によってもまた生み出されることでひとつの歴史を作り始めているのだと、言えるのではないか。発信者と受信者との間をロックンロールが還流することで、それは強さと美しさを獲得する。そしてその強さと美しさこそが私たちの人生とこの世界を変える力となる。そのことを、映像だけがとらえることができる。そしてその映像が再び発信者たちの音に流れ込み、ロックンロールはさらに鍛えられる。そんな、個体や固有名、そしてメディアをも超えた大きな力の流れの中に、ロックンロールはある。数々のロックンローラーたちを記録した映像が教えてくれるのは、そのようなことだ。