「天邪鬼なあたいは、解説を読んで... 全否定をする。」両親(ふたり)が決めたこと Paula Smithyさんの映画レビュー(感想・評価)
天邪鬼なあたいは、解説を読んで... 全否定をする。
オープニングクレジット... 赤みのかかったブラウン、否、茶色っぽいエンジ... それはともかくどうでもいいけど、そのカーテンが開くと。。。。 !!
その時にかかっていた曲が♪Mon coeur s'ouvre à ta voix (私の心はあなたの声に開く)、しかもマリア・カラスです。その歌詞の一部より
Mon cœur s’ouvre à ta voix,
Comme s’ouvrent les fleurs
Aux baisers de l'aurore!
Mais, ô mon bien-aimé,
Pour mieux sécher mes pleurs,
Que ta voix parle encore!
この曲をオープニングクレジットの時にかけたのは、妻のクローディアの今、この時の現状を見た時に夫であるフラヴィオの切ない心のメタファーとして... 多くを語らない優しい表現なんです。(本作とは大きく違っていて、このアリアはデリラの隠されたしたたかさを表現している。)
Su cuerpo dejará, no su cuidado;
Serán ceniza, mas tendrá sentido;
Polvo serán, mas polvo enamorado.(フランシスコ・デ・ケベードのソネット『死の彼方の変わることなき愛』によるラストの行より参照)
映画製作者は、このケベードの詩をフラヴィオのセリフとして本編では暗示させている。
"No, you're not going, you're not leaving me alone,
we are going together or nobody is going. None of
us are going, well, perfect, none of us are going."
この感情的なやりとりは、一緒に人生を終わらせる "デュオ安楽死" による決断に苦しむ主人公のクラウディアとフラビオの夫婦間の強い相互関係、つまりお互いの愛情度を示す大事なフレーズであり夫婦の "絆" と私的には捉えている。
本作をミュージカルと例える人もいる。それはそれでいいとして、この安楽死、特にヨーロッパを中心に考えさせられる重くなりがちな死、愛、自殺ほう助といったテーマを形而上学に頼ることなくコンテンポラリーダンスと音楽を用いて、忌まわしさのある事への実際かつ感情的な現実に焦点をおき、表現を試みている。そのシナリオがいいとか悪いとか表現を許せるのか?それとも許すことができないのか?という単純では割り切れないところに塩梅があって、観ている側のシチュエーションでも変わったり違ってしまうので判断は自分自身で見るしかないのかもしれない... あたいとしては、こんな表現しかできないのが、自分の稚拙さが分かるし、いい加減なところだと思ってもいる。失礼
映画の内容は、これぐらいにしてエンドロール前に見られるシニカルというか、どちらかと言えばアイロニカルなシーンを持ってくるあたり、映画製作者の少し冷めたところが見受けらえるかも...!?
本作と共通する点が重なる映画『Together』を見た後だったので、すこぶるこの映画がよく見えました〇
