「実際のペンギンを用いた、英語教師との実話を基にした物語」ペンギン・レッスン 緋里阿 純さんの映画レビュー(感想・評価)
実際のペンギンを用いた、英語教師との実話を基にした物語
【イントロダクション】
実在の英語教師トム・ミッシェルの回顧録『人生を変えてくれたペンギン 海辺で君を見つけた日』を原作に、1976年のアルゼンチンを舞台に、人生を諦めた英語教師とペンギンの出会いが起こす、実話に基づく小さな奇跡の物語。
主演は、『ロスト・キング 500年越しの運命』(2022)のスティーヴ・クーガン。監督に『フル・モンティ』(1997)のピーター・カッタネオ。脚本に『僕たちのラストステージ』(2018)のジェフ・ポープ。
【ストーリー】
1976年、軍事政権下のアルゼンチン。英語教師のイギリス人、トム・ミッシェル(スティーヴ・クーガン)は、混乱する社会情勢によりクーデターも日常茶飯事の中、名門寄宿学校セント・ジョージズ・カレッジに赴任してきた。校長のパクル(ジョナサン・プライス)は、寮内はペット禁止だと告げ、彼に英語教師の他にラグビー部の顧問を命じる。ミッシェルは家政婦のマリア(ヴィヴィアン・エル・ジャバー)や、彼女の孫娘ソフィア(アルフォンシーナ・カロシオ)と出会う。
ミッシェルが請け負ったクラスは、家柄は良くとも問題児の多いクラスであり、生徒の殆どが授業に集中せず、中でも内気なディエゴ(デイヴィッド・エレロ)はクラスメートからの虐めの標的にされてしまう。
ある日、都市部で軍事クーデターによる爆破事件が発生。全校生徒が1週間帰宅する事となり、ミッシェルは理科教師のタピオ(ビョルン・グスタフソン)と共に、ウルグアイへ旅行に出かける。別れた妻への未練たらたらのタピオに辟易しつつ、ミッシェルはダンスクラブでカリナという女性と出会い、彼女に好意を抱く。
翌朝、海辺を散歩していた2人は、重油漏れによって大量のペンギンが死んでいる現場に遭遇する。しかし、一羽だけは油まみれになりながらも辛うじて息をしていた。カリナの気を引きたいミッシェルは、ホテルの部屋でペンギンの油を洗い流し、綺麗にする。そして、いざカリナと行為に及ぼうとするが、彼女は既婚者であり、寸前のところで拒否されてしまう。カリナを見送り、ホテルのバスルームに残されたのは自分とペンギンのみ。
ミッシェルは海岸までペンギンを連れて行き、海に返してあげようとするが、当のペンギンは彼に懐いた様子で、放してもすぐに戻って来てしまう。
ホテルのチェックアウトの際、ペンギンを部屋に置き去りにしようとするが、財布を忘れて取りに戻った際、既に次の宿泊客が部屋におり、堪らずペンギンを連れてフロントまで行く。フロント係や駆け付けた警察に逮捕をチラつかせられ、ミッシェルは渋々ペンギンを連れて帰国する。
税関でもペンギンの持ち込みについて問われるが、やはり逮捕をチラつかせられ国内へ持ち込まざるを得なくなる。結局、ミッシェルはピーターと仮に名付けたこの雄ペンギンを、ペット禁止の宿舎へと連れ帰る事になった。
ペンギンを隠す生活が長続きするはずもなく、部屋の掃除に訪れたアリアとソフィアにバレてしまう。しかし、2人はペンギンを大層気に入り、ソフィアは彼に“フアン・サルバドール”と名付けた。
やがて、フアンは授業に集中しなかった生徒達やタピオも巻き込んで、学校内に次々と変化を齎していく。
【感想】
予告編やポスタービジュアルから、「ペンギンと教師の心温まる交流」と思って鑑賞した人も多い事だろう。しかし、それは半分正解で、半分間違いでもある。ペンギンのフアン・サルバドールという“癒し”こそ存在するが、本作は軍事政権下のアルゼンチンを舞台にしており、クーデターや逮捕が日常茶飯事の中で生活する人々と混乱する社会の様子は、社会派ドラマとしても優れている。通りで助けを求めて叫ぶソフィアの声に応えられず、彼女が連れ去られるのを黙って見てしまう周囲の人々も、ミッシェルの人間的な弱さも印象的。
ミッシェルのキャラクターが魅力的で、イギリス人らしい皮肉に富んだジョークと、有名な詩人の詩を引用して展開される授業がオシャレで、あんな授業ならペンギン抜きにしても受けてみたいものだが。新しく買ってきた靴を、ソフィアに「古くさい」と揶揄われたミッシェルが返した「流行は廃れるが、スタイルは滅びない」という、ココ・シャネルの名言(調べて知った)の引用もオシャレ。
また、台詞で言うと、本作は人生についてを考えさせられる印象的な台詞が幾つも登場する。
ミッシェルとのウルグアイ旅行への最中、タピオがバスの車内の人々を指して言った
「旅をする人は皆、それぞれに物語を持っている」
という台詞は、“旅に出る”という事は、人生において何かしらの苦境に立たされたり、自らの人生について見つめ直す心境に至ったり、あるいは未知へと飛び込もうとする好奇心であったりと、理由は人それぞれなれど、そこに至るまでにはそれぞれの“ドラマ”が積み重なっているはずであり、この台詞はその本質を的確に捉え、端的に表現していると感じた。
「人生は人を変える」
ミッシェルがソフィアに語るこの台詞は、「物事の積み重ねが“人生”として人を形作っていく」と考える私とは違い、「そもそも人は、人生という大きなうねりの中で、抗いようのない出来事を積み重ねて形作られるのだ」と語っているように感じられた。そして、それは教師として各国を回り、娘を失った喪失感を抱え、人生を諦めかけているミッシェルだからこそ辿り着いた境地だったのだろう。
「悲しくて幸せだ」
フアンを埋葬し、全校生徒と教師達の前でフアンとの歩みについてミッシェルが語る際に、彼はフアンとの出会いをこう表現する。しかし、この台詞は人生を諦めかけていたミッシェルにとって、とても前向きな台詞だろう。交通事故である日突然娘を失った喪失感と、生涯を全うして役割を終えて旅立ったフアンを失った喪失感とは、同じ喪失感でも似て非なるものだからだ。
もう一つ、フアンを埋葬するミッシェルにディエゴが語った、「ペンギンは生涯一羽しか伴侶を持たず、伴侶を失った後はずっと一人で生き続ける」という習性も興味深かった。ともすれば、「愛」の何たるかを知っているのは、我々人間より動物の方なのかもしれない。
ところで、気になるのは、ソフィアを拉致した当局の上司とカフェで対話する際、上司がミッシェルは自分の身の上話やフアンで同情を誘おうとしていると判断し、彼に立ち去るよう命じるが、これは、背後に部下達が控えているからこその体裁だったのだろうか。後にミッシェルは当局から拉致されるが、1日で釈放されているわけだし、迎えに来たタピオの言うように単に「運が良かった」だけなのであろうか。ラストで学園に帰されるソフィアも、あの上司が裏で手を回してくれたからなのだろうか。
だとすれば、それもまたフアンの起こした「小さな奇跡」なのだが。作中では裏で何があったのかは明かされないので、こうして推測するしかないのであるが。
【本物のペンギンを用いて撮影された、人と動物が織りなすリアルな癒しの空間】
一部シーンのロボットや人形(内容的に、重油塗れの姿や遺体のシーンだろう)を除いて、本作はペンギンのフアン・サルバドールの登場シーンの殆どを実際のペンギンを用いて撮影している。だからこそ、フアンが画面に現れる度に、そのキュートな魅力が作品を彩り、劇場内が温かい空気で満ち溢れる。
海辺でミッシェルの元に戻ってくる姿や、寄宿学校の廊下をペチペチと足音を立てて進んで行く後ろ姿は非常に癒された。
タピオやパクルの本音混じりの愚痴を聞かされる話し相手としての姿も愛らしい。物言わぬペンギンだからこそ、曝け出せる部分もあるのだろう。
そして、ラストでミッシェルが撮影した当時の映像に映る本物のフアンの姿。半世紀近くも前の、素人撮影・保管のフィルムが、あれほどの状態で残っていた事もまた、「小さな奇跡」と呼べるかもしれない。
【脚色の塩梅】
本作では、映画化に際して脚色された部分が多々ある。老齢に差し掛かったミッシェルは、実際には当時23歳の新米教師だった様子で、当然娘を事故で亡くしてもいない。映画のキーパーソンとなるソフィアも存在せず、本作の感動的なクライマックスの為に用意された人物である。
物語として成立させる上で、こうした脚色は決して珍しくはないが、本作においては、そうした脚色がやや「感動させよう」という製作側の思いが透けて見える“湿っぽさ”を含み過ぎていたようにも感じられる。
【総評】
ペンギンの愛らしさの裏で、軍事政権下の社会の混乱や軍事クーデターという“もう一つの事実”が描かれており、フアンの可愛さに癒されながらも、社会派ドラマとしてもしっかり成立している。映画化に際して脚色された部分が多々あり、美談として描かれ過ぎてしまっているきらいはあるが、優れた一作だと感じた。
映画チケットがいつでも1,500円!
詳細は遷移先をご確認ください。
