星と月は天の穴のレビュー・感想・評価
全56件中、1~20件目を表示
衰えゆく文芸映画の残り火
原作は吉行淳之介が1966年に発表した小説、時代設定は1969年(昭和44年)、主人公は恋愛小説を執筆している作家、映像はモノクロ基調(口紅や糸など赤系の色が要所でパートカラーになる)とくれば、昭和レトロな文芸映画の薫りが自然と漂う。主人公・矢添(綾野剛)の執筆シーンでは、原稿用紙に文字を綴る姿に合わせて文章を音読する綾野の声が流れ、さらに白文字の縦書きテロップを映像に重ねる念の入れよう。3人の女性たちとの関りから、作家が何を思考し、それをどう創作物に転換していくのか、その内面の動きが物語の軸の一つになる。
吉行淳之介作品の愛読者や、かつて文芸映画が人気の一ジャンルだった時代を知るシニアの映画好きなら、本作を懐かしさとともに楽しめるだろうか。ただまあ、このジャンルが衰退傾向にあるのも確かで、キャストの顔ぶれや映像の作りからも予算の少なさが伝わるのが切ない。ヌードで濡れ場を演じるのはメインの女優3人のうち比較的マイナーな2人。モノクロ映像も、フルカラーで60年代を再現することに比べて製作費の節約につながったはずだ。
振り返ると、テレビの普及に押されつつも映画がまだ娯楽の王様とみなされていた頃、文芸大作がそれなりに作られ、メジャーな女優がヌードで情愛の場面を熱演して話題になることもあった。例を挙げるなら、五社英雄監督作「鬼龍院花子の生涯」(1982)の夏目雅子、吉田喜重監督作「嵐が丘」 (1988)の田中裕子、森田芳光監督作「失楽園」(1997)の黒木瞳など。
文学的に描写された男女の情愛を映像化する際、必然性があればヌードも辞さないという女優は、従来から欧米に比べ日本では少なかった。さらに言えば、成人向けコンテンツも多様化している昨今、エロティックなものも含めた好奇心の対象を劇場公開映画に求める層は確実に減っているはず。文芸映画に限らないが、邦画界においてヌードはキャリアのある女優にとってメリットよりもリスク、配給元や製作委員会にとっても客層を限定する点でやはりリスクととらえる傾向がさらに強まっているのだろう。
「火口のふたり」「花腐し」などでも監督・脚本を務めた荒井晴彦は、情愛を描く文芸映画のそうした衰退傾向に抗い、火を絶やさぬよう奮闘しているようにも思える。
昭和はエロスが溢れていた
1969年。昭和で言うと44年は、ブルーボーイ事件の判決、連続射殺事件の永山則夫逮捕、アポロ11号月面着陸、ウッドストック開催、ビートルズ最後の制作アルバム「アビーロード」の発売、世界各地の紛争と日本の学生運動の高まりも含め、映画やドキュメンタリーの題材が溢れるほど起こった激動の年である。吉行淳之介原作の小説は1966年に上梓したのでこれらの出来事は後に起こったことであるが、月と星をアポロと絡めたかったのだろう、。
荒井晴彦監督作品は「火口のふたり」「花腐し」で男と女の性の営みを沢山見せつけていたので既に免疫はできていたが今回の綾野剛と咲耶の絡みは又別の種類のエロスを感じさせてくれた。
助監督時代からピンク映画で鍛えられ商業映画に進出し有名になった監督は沢山いらっしゃいますが皆さん随分とお年となってきました。荒井監督のこのような作風を継承する方がいるのかどうかわかりませんが、令和になっても日本には必要な映画のジャンルではないのか?と勝手に思っています。しかし、邦画も大作映画が上映するスクリーンの大半を制するような時代になってきたので、性愛をメインに据えるような作品は(今日、私が観た映画館では観客は3人のみだったし)興行的には厳しいのではないかと少し心配してしまいます、。
是非、この映画も高い評価を得て有名になってもらいたいです。
荒井監督だから、恐る恐る
私の偏見であるが、荒井監督というとロマンポルノ時代のにっかつがベースにあって、日本映画について常に厳しい論評をされる方、と思う あれだけの論評をするのであれば、本人の作品を是非観たい、と思っていた
私は60代前半の男性であるが、本作の時代背景(革命に対する憧れ)、こじれながらも捨てきれない恋愛観、歯がゆさを感じる一方で、あまりにも情けない自分勝手な思慮に大いに共感を覚えた 原作の吉行氏も「そういった」感を作品から感じる方ではあるし、あまりにも多い濡れ場シーンも、ある意味「原作に忠実」とも言えるのかもしれない
原一男さんの名前をみてびっくり、また主人公の自分勝手さも綾野さんはよく演じられていたと思う 宮下順子さんもあの時代からずっと活躍されていて嬉しい
ロマンポルノからロッポニカ(一般映画路線)に移行した1988年の第一弾が荒井氏脚本の「噛む女」で、情事中に「噛む」行為が描かれ、本作と重なった
それでも長いキャリアで物言う存在感を持つ荒井氏の本作、濡れ場シーンは多いが意味のある描き方だったと思う(2025年12月31日 テアトル梅田にて鑑賞)
とにかくセックスシーンが多い映画
作家というものは
昭和のノスタルジー感がたまらない
何もないようで深い作品
煙草が心の拠り所
吉行淳之介の小説を荒井晴彦が映像作品化。
近年、荒井晴彦が自らの監督作品としてR18指定で連作しているのは、日活ロマンポルノへの思い入れもあるだろうが、昨今のポリコレによって漂白された巷の表現に対する異議申し立てがあるのだろう。
主人公にやたらと煙草を吸わせるのも、世の趨勢に対する反発が感じられる。まるで心の拠り所であるかのように、主人公が少しでも動揺すると、必ず煙草を口にくわえさせる。主人公のコンプレックスに掛けて、口にある意味を込めているのかもしれない。
メタフィクションの構成で、文章そのものの字幕と語りを大胆に使って文学を映像化する試みは、結構うまくいったのではないか。原作の持つ諧謔味も加わって、面白味がある。ただ、1969年という時代にこだわることで、ノスタルジー色が強くなり、今この作品を受け取る意義といったものは見出しにくい。
主人公役の綾野剛は、まだ格好良すぎる。もっと中年の枯れた感じがあってもよいのでは。相手役の咲耶は、姿態が子供っぽくてミスキャストのように思ったが、だんだんと無邪気で無頓着な感じが好ましく見えてきた。田中麗奈がすっかり大人の女性になりきっていて、見違えるほど。
前作の時には、荒井晴彦の遺言を見せられたようなある種の寂しさを感じたが、まだ彼自身の創作意欲は枯れていないようだ。
吉行淳之介だねぇ~
原作を読みたくなる。
2025年。荒井晴彦監督。1969年、40代の小説家は妻に逃げられて一人暮らし。関係を深めない範囲で女性と肉体的な交際を続けているが、その反動(補償?)として精神的な恋愛を追究する小説を書き始める。そんなとき、知り合った女子大生と深い関係になっていき、、、という話。
①セリフがいいので原作を読みたくなる。他人も自分も突き放したところから、しかし、決して関係を断ち切ろうとはせず、あたかも実験のように関係を続けようとする主人公の立ち位置がおもしろい。淡々としたセリフが一定のリズムをもたらしている。それが心地よい。
②1969年に大きな比重を置いている。男尊女卑的なジェンダー配置はもちろん、学生運動と月面着陸。
リベラルの人達はどう思うの?
文学は苦手です。
日活ロマンポルノ・オマージュ?
吉行淳之介が1966年に発表した同タイトルの小説の映画化作品。結婚に失敗した40代の作家が固定的な関係を築くことには臆病なくせに若い女との関係が深まっていく様を描く。
舞台の始まりは1969年の春の東京。ちょうど私が小学校に入学した頃と重なるので、壁に貼ってある看板やポスト、建物などの風景や店で流れるBGMを含めた空気感は懐かしくもある。それ故に、現代の若者には違和感があるかも知れない登場人物の話し方やタバコの吸い方(例えば、医者が診察中に喫煙する)なども、あの時代だと思うと自分にはまったく気にならない。
ただ、全般的にノスタルジーを押し出すのはいいのだが、全編白黒画面なのに、差し色として「赤」だけがカラーにすることで官能的な演出を狙ったりするなど、いかんせん感性が古めかしいとしか思えない。
原作小説は読んでいないのでどのくらい忠実に映像化しているのかは分からないのだが、性と愛を人間の本質として文学作品が描くことはよくある。だが、本作を鑑賞しながら感じていたのは昭和の時代へのノスタルジーというより、あの当時に隆盛を極めていた日活ロマンポルノへのノスタルジーなのではないか、ということだ。
日活ロマンポルノといえば、10分に一度程度「裸」あるいは「濡れ場」のシーンを入れさえすれば、純文学だろうがコメディだろうがSFだろうが題材やテーマは何でもありで、低予算で実験的な作品群を次々と作りながら若手監督たちが場数を踏むことができ、後の大物監督を何人も輩出してきたと言われている。
荒井晴彦監督自身、若い頃は若松組の助監督で、日活でいくつもの作品制作に関わってきた。宮下順子が本作でフィーチャーされているのも当時への想いからであろう。
1969年の最大のイベントといえばアポロ11号の月着陸。そして、翌年の1970年には「人類の進歩と調和」を謳う大阪万博が開催され、時代の潮流が大きく変わる。そんなアポロ以前へのノスタルジーで終わらせてしまうのは何かもったいないような気がするのは私だけだろうか?
美しい言葉のやり取りに、男女の心の機微を感じとる。
文学的行き止まりを打ち破る咲耶の突破力。
1969年を舞台とした作品である。この年にあったことで映画内で映像が取り上げられているのはアポロ11号の月面着陸だが、全学連による東大安田講堂事件があった年である。実に時代は政治の季節だった。政治と文化は一体化しており、その中で政治とは一線を画して恋愛と性愛をベースとした文学を志向した吉行淳之介の初期作品群(この「星と月は天の穴」は1966年の作品)は軟派な文学とされてマイナーな位置づけであった。
吉行の文学が、さらに性愛を濃く激しく描く一方で、時代がそれを容認して、より幅広い読者に支持されるようになるのは、政治的動態が一段落した80年代近くになってから。作品でいうと「夕暮れまで」である。
さて、映画は、綾野剛演じる作家の矢添が、自分をモデルにした小説を書きながら、複数の女性の間を揺れ動く物語である。全編モノクロームであり矢添が性欲を感じる対象(スモークサーモン、女性の唇、女性の身体の傷跡など)だけが赤のパートカラーで表現される。舞台も矢添の部屋や、銀座や国立の店店ばかりであり(「ロジーナ茶房」とかね)人工的で閉鎖的な印象を与える。つまり吉行=矢添の世界は、その世界の中にいる女性への興味、欲望に内向しており、外の世界には開かれていない。
これが文学的内宇宙であることは、原稿用紙の文章が映画内クレジットとしてそのまま現れることや、基本、出演者が皆、セリフを棒読みすることでも表現されている。そして内宇宙では、星も月も書き割り的な穴ぼこに過ぎず固有の光も熱ももたないことからこのタイトルになっているのだろう。
唯一、矢添が、外界と接する可能性があるのは、矢添の部屋の下にあるブランコのある公園だけである。
だから矢添は、最終盤まで公園に足を踏み入れない。
実にグジグジした作品であり、正直、途中で席を立とうかと思ったほどである。それを救ったというか、映画的に決着をつけたのは、主演女優咲耶のラストカットとエンドロールのブランコを漕ぐ姿である。このシーンは、彼女が矢添を赦し、違う世界に導いたことを暗示している。おそらく、その世界では、矢添はミソジニーな女たらしではなく、一人の男として、おそらくは同じ性癖をもつ女と対等な関係をもっているのだと思う。というか、そうあって欲しい、そうあるべきだと思うのだが。
主演女優の華奢がどうしても気になる。
全56件中、1~20件目を表示
映画チケットがいつでも1,500円!
詳細は遷移先をご確認ください。













