星と月は天の穴のレビュー・感想・評価
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衰えゆく文芸映画の残り火
原作は吉行淳之介が1966年に発表した小説、時代設定は1969年(昭和44年)、主人公は恋愛小説を執筆している作家、映像はモノクロ基調(口紅や糸など赤系の色が要所でパートカラーになる)とくれば、昭和レトロな文芸映画の薫りが自然と漂う。主人公・矢添(綾野剛)の執筆シーンでは、原稿用紙に文字を綴る姿に合わせて文章を音読する綾野の声が流れ、さらに白文字の縦書きテロップを映像に重ねる念の入れよう。3人の女性たちとの関りから、作家が何を思考し、それをどう創作物に転換していくのか、その内面の動きが物語の軸の一つになる。
吉行淳之介作品の愛読者や、かつて文芸映画が人気の一ジャンルだった時代を知るシニアの映画好きなら、本作を懐かしさとともに楽しめるだろうか。ただまあ、このジャンルが衰退傾向にあるのも確かで、キャストの顔ぶれや映像の作りからも予算の少なさが伝わるのが切ない。ヌードで濡れ場を演じるのはメインの女優3人のうち比較的マイナーな2人。モノクロ映像も、フルカラーで60年代を再現することに比べて製作費の節約につながったはずだ。
振り返ると、テレビの普及に押されつつも映画がまだ娯楽の王様とみなされていた頃、文芸大作がそれなりに作られ、メジャーな女優がヌードで情愛の場面を熱演して話題になることもあった。例を挙げるなら、五社英雄監督作「鬼龍院花子の生涯」(1982)の夏目雅子、吉田喜重監督作「嵐が丘」 (1988)の田中裕子、森田芳光監督作「失楽園」(1997)の黒木瞳など。
文学的に描写された男女の情愛を映像化する際、必然性があればヌードも辞さないという女優は、従来から欧米に比べ日本では少なかった。さらに言えば、成人向けコンテンツも多様化している昨今、エロティックなものも含めた好奇心の対象を劇場公開映画に求める層は確実に減っているはず。文芸映画に限らないが、邦画界においてヌードはキャリアのある女優にとってメリットよりもリスク、配給元や製作委員会にとっても客層を限定する点でやはりリスクととらえる傾向がさらに強まっているのだろう。
「火口のふたり」「花腐し」などでも監督・脚本を務めた荒井晴彦は、情愛を描く文芸映画のそうした衰退傾向に抗い、火を絶やさぬよう奮闘しているようにも思える。
昭和の大人の恋愛?
何故か大衆小説家の趣き‼️❓
私は小説を添削しながら読む癖があるが、原作者の吉行は大いに添削のしがいがある、でも、純文学でもあるが、脚本が悪くて、まるで大衆小説家の私生活である。ちなみに添削できないのは志賀直哉と漱石と村上春樹くらい。ところで、最近、映画でモノクロを観たのは筒井康隆原作の敵、以来だが、赤だけカラーなのは、シンドラーのリストを真似ているようで悪趣味だと感じる。綾野剛は名演技だが、ヒロインは棒読みで、ある意味、リアルなのかもしれない。濡れ場は昔のポルノみたいで懐かしい趣きだ。演技は良いのに脚本が悪いので残念でした。車で漏らす恋愛小説は当時斬新でしたが変なセリフ回しが笑わせてくれます、原作者は泣いてるでしょう。あと、小説の中の女子大生と年増の娼婦が名演技でした、ありがとうございました😊
ロマンチシズムの終わりとリアリズムの始まり
吉行淳之介の同名小説を映画化。作家の分身である主人公矢添克二(綾野剛)が、画廊でナンパした女子大生瀬川紀子(咲耶)とひたすらヤリまくるモノクロ作品。時代設定を1969年=東大安田講堂事件が起こった年に変更したのは、学生運動に明け暮れた監督荒井晴彦がいろいろな意味で“始まりと終わり”を意識した思いいれのある年だったからだそうだ。時代性を常に意識しながらシナリオを書いていると語っていた荒井が、本作において現代社会との接点をどこに置こうとしたのか、今回映画を観ていろいろと邪推をめぐらしてみたいと思ったのである。
離婚歴のある矢添は現在独り暮らし。“乗馬倶楽部”なる娼館に出入りしていて、そこには馴染みの娼婦千枝子(田中麗奈)が働いている。千枝子とのSEXにはそれなりに満足しているものの何か物足りない。身体の関係だけではない“精神的つながり”というか、要するに“愛”を感じない矢添だったのだ。そのため千枝子を“不感症”などと揶揄したりする矢添。矢添が執筆する劇中小説のパートでは、小説家AをバーのアルバイトB子と“散歩”させたりするのだが、どうもしっくりこないのだ。
女の情欲のメタファーともいえる“赤”のパートカラー演出、小説の文言をそのままスクリーン上にタイプアウトしたり、矢添自身のモノローグもらしくない演出であり、編集の段階では“失敗作”に終わるかもという危惧が荒井の中にあったという。リベラルがもたらした多様性によって、男女の自由恋愛がかくも“悪者”にさせられている現代社会において、はたして映画の言わんとするところが観客に上手く伝わるのか。荒井晴彦はその点を最も怖れていたがためについ説明過多に陥ってしまった。私にはそう思えるのである。
紀子に精神的つながりを求めていたはずの矢添だが、いつの間にか身体と身体のズブズブな関係に嵌まってしまい、革命の幻想も安田講堂事件終息とともに過去の記憶へと追いやられる。アポロ11号が月面着陸に成功しそれがTV中継されると、“星と月は天の穴ぼこ”なんてロマンチシズムに誰も興味を示さなくなってしまったのだ。若き日の吉行淳之介や荒井晴彦の甘ーい思い出も、“政治の季節”の終わりと共にどこかへと吹き飛んでしまったのである。
そんな脱け殻状態の♂たちに対して、地に足がついている♀たちはいつの時代も常に逞しかったのである。乗馬倶楽部の千枝子は、娼館で働いていることを内緒にしたままサラリーマンの男と結婚すると言って矢添と👋、「私を目茶苦茶にして」と下手に出ていたはずの紀子との体位もいつの間にか入れ替わり?ラストシーンではまるで“犬”のように矢添を後ろにつき従わせてしまうのだから。荒井晴彦の言うとおり、ことSEXに限らず女はいつも男との勝負に勝ってきたのである。
岸田や石破といった女の腐ったような政治家にはもう日本を任せておけない、と日本初の女性首相高市早苗がそう思ったのかはわからないが、ソウルにおける日中首脳会談では高市の気迫におされ、さしもの習近平もトイレ休憩といって2分間途中退席を余儀なくされたらしい。やれミソジニーだ、フェミニズムだとかいって、リベラルが陣営に取り込もうとした♀たちは、なよった♂たちに守ってもらうまでもなく、はじめから♂より強かったのである。グローバリズムが失敗した原因は、♀の“穴(ロマンチシズム=ミニスカ)”に隠れた“角(リアリズム=白パンティ)”を見逃していた♂たちの浅はかさにあったのかもしれませんね。
セリフまわしが面白い
紀子の喘ぎ声がノイズすぎて、最後の方は笑っちゃうぐらいだった。恋愛...
荒井さん、気取りすぎ。劇映画もやりましょう。
原作が
不感症
昭和を再現
自分主体に答えを出さない拗らせ方が絶妙
最近殊に「話題作だから」と言う理由で作品を選択する、或いはそれを強迫観念のように「観なきゃ」とは感じることが“ほぼ”なくなり、今年は劇場鑑賞を見送った“話題作”が沢山ありました。今週もビッグタイトルである『アバターシリーズ』の新作が公開されましたが、私は鑑賞予定なし。と言うことで、“私チョイス”の今週1本目は、荒井晴彦監督(脚本)の新作をTOHOシネマズシャンテで鑑賞です。
時代は1969年、作家を生業とする43歳の矢添克二(綾野剛)は過去に「短い結婚期間、からの離婚歴」があり、またある身体的な事情にコンプレックスもあって、女性との関係の持ち方や距離の取り方に敏感で譲れない一線があります。とは言え、定期的に娼婦を買ったり、何の脈略もなく街中で声を掛けたりと、作家と言う職業柄「なんでも仕事につながる」と言いつつ、“お盛ん”と言っても過言ではないくらいに積極的。勿論、それが成立するくらい女性に対するあしらい方は堂に入っており、だからこそ女性にモテていることが前提にあります。ふらりと入った画廊で出会う大学生・瀬川紀子(咲耶)とは、意気投合とは真反対なのになぜか急接近していく二人の仲はその後…
荒井晴彦氏と言えば“オトナ♡”な作品が多くありますが、特に自身が監督も務められる作品は濡れ場こそが重要な要素でありつつ、やはり映画としての芸術性があり品格を感じるしちゃんとエロい。そして肝心なストーリーですが、殆ど劇的と感じるような展開はなく、むしろ終始が淡々としてアクシデントですら次の展開への“きっかけ”ぐらいにしか扱いません。そのせいか、出てくるキャラクター次第では話に乗れたり、乗れなかったりと、観てみないと判らないという難もあります。その点で、綾野剛さん、柄本佑さんへの信頼の高さも解りますし、お二人も見事に応えていて、本作における綾野さんも女性に対して自分主体に答えを出さない拗らせ方が絶妙です。
そして、1969年と言う時代、私自身が生まれる2年前なのですが、見ていた世界や雰囲気はある程度わかるからこそ、部屋の様子や家具、連れ込み宿の感じなど美術・装飾についても見どころが多い。一部、ポケットのタバコが“赤ラーク”だったり“ハイライト”だったりとやや繋がりに欠けるところもありますが、その程度は些末な問題で見過せるレベル。私としては矢添の愛車“ベンベー”の状態がよくて、観ていて非常にトキメキました。
そして、これは決して演じられた咲耶さんを批判するわけではなく、彼女が「瀬川紀子」と言うキャラクターに対してあまりハマっていないように見え、その紀子が本作における“女性側”のメインキャラクターだけにイマイチ入り込めず、、、田中麗奈さんの「千枝子」は凄く良かったんだけどな。。本作に対して比較的高い評価が多い中、誠に恐縮ですが私はやや点数を下げての評価となりました。相済みません。そして、咲耶さん、益々のご活躍を期待しています。
ひどい喘息発作の最中にも“いたした”ことがある
吉行淳之介の武勇伝は数知れず。武者修行と称して男色(男役)も何人か体験。夜毎、銀座に出没、飄々と吉原フーゾクをひやかし、淫行三昧を公言してはばからない。もっとも、女の数やスケールでは永井荷風にはかなわないが………
自身を投影した映画の主人公、妻に逃げられた男を設定したが、凡そ似つかわしくない。飽きてしまったから丁度よいとばかり、舌をペロリと出していそう。真顔で人生に向き合い、重厚な人間ドラマを書こうなんて気もないし、“文学者”を標榜しているわけでもない。軽妙洒脱、これがモットー。自身マイナーな文章家を自覚しているし。軽薄の中にエッセンスを収穫していくのが吉行淳之介の“トリセツ”であって、自虐に耽溺する主人公に焦点を充ててもあんまり意味がない。
やもめ暮らしの食事シーンは長塚京三の『敵』を彷彿させる。比べてしまうと雰囲気はアチラの勝ち。
監督お気に入りの綾野剛。演出の棒読み台詞はどうもいただけない。ホアキンが“出した”のを観たばっかりなので、ここもかよ!と思ったが見えなくて良かった。
出だしから死語を幾つか聞きました。億劫、接吻、おみおつけ。
なんと!宮下順子サマご出演!ほんならさー、インティマシーなんちゃらは、要らないよね。田中麗奈のも見せてくれっての! もう吝嗇!
『赤』で発情するってやつ、何処かで観たな。何かのパクリのような……
車中のお漏らしの場面、“純文学者”大江健三郎センセイはこう表現
『ただちにその肝要な部分が潤沢な分泌物で満たされた』
ちっとも“そそられない”が、世界市場を意識すれば、隠語や匂わせは排除。なにより翻訳者を困らせないこと。“女はしとどに濡れた”なんて論外。
吉行の好きなチーズケーキやパウル・クレーの絵はお約束で登場。
山崎ハコは好きだけど『夜明けのスキャット』はやっぱり由紀さおりで聴きたかった。
古いBMWでクラッシュ、プッツン終了かとおもえぱ、まだ先があった。長い!
振り返ってみると、今年は戦争映画がやたら多かったような気がするんだけど……“成人映画”の下地となる文学の需要があった20世紀、一連の大作が当局の忌諱に触れ、発禁処分や裁判沙汰があっても、それらをくぐり抜けてきた大御所、ヘンリー・ミラーは語った。
『悲惨な戦争より““平和的””な性交を書くのが何故いかんのかね』
昭和100年と明治100年
吉行淳之介の匂い、モノクロームの画作り、性描写などは他のレビュアーさんたちの的確な評があるので省略する。
むしろ「そんなところ見てて変だねw」と言ってもらえそうな重箱の隅を突きたい。
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『星と月は天の穴』は、原作小説は1966年(昭和41)に発表されたが、映画での設定は1969年(昭和44)だ。この齟齬がどうしてできたのかは不明だ。
エンドロールにも「1969年の思い出」という不思議なテロップが出る。
ともあれ、こんなことから、「昭和」に言及されるレビュアーさんが多かったように思える。
それはそうだ、今年は戦後80年、すなわち「昭和100年」だ。
そしてかつて、1968年(昭和43)は日本において「明治100年」として捉えられた。
当時は、公的な行事や記念碑の建立、回顧的な特集出版、テレビ放映などが盛んに行われ、一種の「明治ブーム」だった。小学生だった小生も朧気に憶えている。
その時の明治のイメージは「祖父母が生まれた時代」というものだった。
つまり、2025年の小学生から見たら「昭和は遠くなりにけり」で、リアルに昭和を生きた私も明治90年生まれのお爺さんとなる。とほほ
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それはさておき。
ドラマとして今とは違う時代を描こうとする時、身につける衣服や髪型、使う日用品、道行く自動車、家庭内の家電などが考証に基づいて用意されるだろう。オープンセットやCGでの町並みは予算によって精度が左右されるだろう。
しかし意外と混乱があったり、意図的に?崩されているのは、役者の発する「日本語」ーーーすなわち、台詞のボキャブラリーや言い回しや、トーンやスピードだったりする。
芸人のゆりあんレトリバーが「細かすぎて伝わらないモノマネ」で昭和の映画のこれをやっていた。早口で、珍妙な発声で、ほとんど聴き取れないようなやり取りの再現である。
この作品でも綾野剛たちの喋る日本語は、およそ現代では使う人が少ない語彙も飛び出すし、気障な(死語?)レトリックも駆使される。しかしこれは原作がテキスト(2次元)としてそうなっていれば、脚本家と演出がよほど型破りでない限りオリジナルに近いものが踏襲されるだろう。
だが、それに加えて綾野たちの3次元の演技や語りは「棒読み」だ。
抑揚に乏しく、平板に見える。
あえて現代的な語りに寄せていくことも可能だったし、例えば別の極端な例では大河ドラマが現代語の平安貴族を現出させてしまうこともあった。
しかしそうしなかったのは意図的な「昭和感作り」だろう。
ここに多少なりとも、この作品の位置づけが垣間見える。
しかしこれは珍しいことではない。
『スパイの妻』で蒼井優と高橋一生は見事にやってのけていたし、『遠い山なみの光』も同じ意図で広瀬すず、特に二階堂ふみが「喋り方で醸す昭和」を作っていた。
すべての源流は、小津にある。
今からおよそ30年ほど前に、博報堂生活総合研究所の一部で「小津ブーム」が盛り上がっていて、とある講演で熱心に語る研究者がいた。
彼の主張によれば、小津の作品、特に『東京物語』(1953;昭和28)には、昭和20年代後半の東京の風俗や言語がそのまま標本のように保存されている、ということだった。
確かに当時、平成の日本人が昭和28年すなわちその時から40年前の日本を観る時、あの独特の語彙や言い回し、抑揚、暗喩や間の取り方は、日本語のように聴こえ、日本人らしき人びとが動いているが、まるで別世界の「日本」だった。
そのような小津作品の影響がその後の「昭和を描く映画」にどの程度影響しているのか、どこかに論文でもあるのかもしれないが、不明にして定かではない。
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そして『星と月は~』の1969年から今年で56年が経った。半世紀である。
『東京物語』ほどの化石感はないにしろ、矢添克二や瀬川紀子の使う言葉はその思考や世界観や価値観そのものを現代と似て非なるものにしている。
もうこうなると、パラレルワールドだとまで言える。
56年前の日本人らしき人たちのあの言動と認知の中に、こんにちの私たちにまで普遍的に連なるものが、果たしてあるのだろうか。
それが性欲と性行為だけだ、としたら、ちょっと憮然とする。
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