劇場公開日 2025年12月19日

「ロマンチシズムの終わりとリアリズムの始まり」星と月は天の穴 かなり悪いオヤジさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5 ロマンチシズムの終わりとリアリズムの始まり

2025年12月20日
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吉行淳之介の同名小説を映画化。作家の分身である主人公矢添克二(綾野剛)が、画廊でナンパした女子大生瀬川紀子(咲耶)とひたすらヤリまくるモノクロ作品。時代設定を1969年=東大安田講堂事件が起こった年に変更したのは、学生運動に明け暮れた監督荒井晴彦がいろいろな意味で“始まりと終わり”を意識した思いいれのある年だったからだそうだ。時代性を常に意識しながらシナリオを書いていると語っていた荒井が、本作において現代社会との接点をどこに置こうとしたのか、今回映画を観ていろいろと邪推をめぐらしてみたいと思ったのである。

離婚歴のある矢添は現在独り暮らし。“乗馬倶楽部”なる娼館に出入りしていて、そこには馴染みの娼婦千枝子(田中麗奈)が働いている。千枝子とのSEXにはそれなりに満足しているものの何か物足りない。身体の関係だけではない“精神的つながり”というか、要するに“愛”を感じない矢添だったのだ。そのため千枝子を“不感症”などと揶揄したりする矢添。矢添が執筆する劇中小説のパートでは、小説家AをバーのアルバイトB子と“散歩”させたりするのだが、どうもしっくりこないのだ。

女の情欲のメタファーともいえる“赤”のパートカラー演出、小説の文言をそのままスクリーン上にタイプアウトしたり、矢添自身のモノローグもらしくない演出であり、編集の段階では“失敗作”に終わるかもという危惧が荒井の中にあったという。リベラルがもたらした多様性によって、男女の自由恋愛がかくも“悪者”にさせられている現代社会において、はたして映画の言わんとするところが観客に上手く伝わるのか。荒井晴彦はその点を最も怖れていたがためについ説明過多に陥ってしまった。私にはそう思えるのである。

紀子に精神的つながりを求めていたはずの矢添だが、いつの間にか身体と身体のズブズブな関係に嵌まってしまい、革命の幻想も安田講堂事件終息とともに過去の記憶へと追いやられる。アポロ11号が月面着陸に成功しそれがTV中継されると、“星と月は天の穴ぼこ”なんてロマンチシズムに誰も興味を示さなくなってしまったのだ。若き日の吉行淳之介や荒井晴彦の甘ーい思い出も、“政治の季節”の終わりと共にどこかへと吹き飛んでしまったのである。

そんな脱け殻状態の♂たちに対して、地に足がついている♀たちはいつの時代も常に逞しかったのである。乗馬倶楽部の千枝子は、娼館で働いていることを内緒にしたままサラリーマンの男と結婚すると言って矢添と👋、「私を目茶苦茶にして」と下手に出ていたはずの紀子との体位もいつの間にか入れ替わり?ラストシーンではまるで“犬”のように矢添を後ろにつき従わせてしまうのだから。荒井晴彦の言うとおり、ことSEXに限らず女はいつも男との勝負に勝ってきたのである。

岸田や石破といった女の腐ったような政治家にはもう日本を任せておけない、と日本初の女性首相高市早苗がそう思ったのかはわからないが、ソウルにおける日中首脳会談では高市の気迫におされ、さしもの習近平もトイレ休憩といって2分間途中退席を余儀なくされたらしい。やれミソジニーだ、フェミニズムだとかいって、リベラルが陣営に取り込もうとした♀たちは、なよった♂たちに守ってもらうまでもなく、はじめから♂より強かったのである。グローバリズムが失敗した原因は、♀の“穴(ロマンチシズム=ミニスカ)”に隠れた“角(リアリズム=白パンティ)”を見逃していた♂たちの浅はかさにあったのかもしれませんね。

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かなり悪いオヤジ
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