「昭和100年と明治100年」星と月は天の穴 LukeRacewalkerさんの映画レビュー(感想・評価)
昭和100年と明治100年
吉行淳之介の匂い、モノクロームの画作り、性描写などは他のレビュアーさんたちの的確な評があるので省略する。
むしろ「そんなところ見てて変だねw」と言ってもらえそうな重箱の隅を突きたい。
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『星と月は天の穴』は、原作小説は1966年(昭和41)に発表されたが、映画での設定は1969年(昭和44)だ。この齟齬がどうしてできたのかは不明だ。
エンドロールにも「1969年の思い出」という不思議なテロップが出る。
ともあれ、こんなことから、「昭和」に言及されるレビュアーさんが多かったように思える。
それはそうだ、今年は戦後80年、すなわち「昭和100年」だ。
そしてかつて、1968年(昭和43)は日本において「明治100年」として捉えられた。
当時は、公的な行事や記念碑の建立、回顧的な特集出版、テレビ放映などが盛んに行われ、一種の「明治ブーム」だった。小学生だった小生も朧気に憶えている。
その時の明治のイメージは「祖父母が生まれた時代」というものだった。
つまり、2025年の小学生から見たら「昭和は遠くなりにけり」で、リアルに昭和を生きた私も明治90年生まれのお爺さんとなる。とほほ
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それはさておき。
ドラマとして今とは違う時代を描こうとする時、身につける衣服や髪型、使う日用品、道行く自動車、家庭内の家電などが考証に基づいて用意されるだろう。オープンセットやCGでの町並みは予算によって精度が左右されるだろう。
しかし意外と混乱があったり、意図的に?崩されているのは、役者の発する「日本語」ーーーすなわち、台詞のボキャブラリーや言い回しや、トーンやスピードだったりする。
芸人のゆりあんレトリバーが「細かすぎて伝わらないモノマネ」で昭和の映画のこれをやっていた。早口で、珍妙な発声で、ほとんど聴き取れないようなやり取りの再現である。
この作品でも綾野剛たちの喋る日本語は、およそ現代では使う人が少ない語彙も飛び出すし、気障な(死語?)レトリックも駆使される。しかしこれは原作がテキスト(2次元)としてそうなっていれば、脚本家と演出がよほど型破りでない限りオリジナルに近いものが踏襲されるだろう。
だが、それに加えて綾野たちの3次元の演技や語りは「棒読み」だ。
抑揚に乏しく、平板に見える。
あえて現代的な語りに寄せていくことも可能だったし、例えば別の極端な例では大河ドラマが現代語の平安貴族を現出させてしまうこともあった。
しかしそうしなかったのは意図的な「昭和感作り」だろう。
ここに多少なりとも、この作品の位置づけが垣間見える。
しかしこれは珍しいことではない。
『スパイの妻』で蒼井優と高橋一生は見事にやってのけていたし、『遠い山なみの光』も同じ意図で広瀬すず、特に二階堂ふみが「喋り方で醸す昭和」を作っていた。
すべての源流は、小津にある。
今からおよそ30年ほど前に、博報堂生活総合研究所の一部で「小津ブーム」が盛り上がっていて、とある講演で熱心に語る研究者がいた。
彼の主張によれば、小津の作品、特に『東京物語』(1953;昭和28)には、昭和20年代後半の東京の風俗や言語がそのまま標本のように保存されている、ということだった。
確かに当時、平成の日本人が昭和28年すなわちその時から40年前の日本を観る時、あの独特の語彙や言い回し、抑揚、暗喩や間の取り方は、日本語のように聴こえ、日本人らしき人びとが動いているが、まるで別世界の「日本」だった。
そのような小津作品の影響がその後の「昭和を描く映画」にどの程度影響しているのか、どこかに論文でもあるのかもしれないが、不明にして定かではない。
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そして『星と月は~』の1969年から今年で56年が経った。半世紀である。
『東京物語』ほどの化石感はないにしろ、矢添克二や瀬川紀子の使う言葉はその思考や世界観や価値観そのものを現代と似て非なるものにしている。
もうこうなると、パラレルワールドだとまで言える。
56年前の日本人らしき人たちのあの言動と認知の中に、こんにちの私たちにまで普遍的に連なるものが、果たしてあるのだろうか。
それが性欲と性行為だけだ、としたら、ちょっと憮然とする。
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