「あふれるサイレント映画愛。「物語」を紡ぐ敗残の主人公はターセム監督の分身に他ならない。」落下の王国 4Kデジタルリマスター じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
あふれるサイレント映画愛。「物語」を紡ぐ敗残の主人公はターセム監督の分身に他ならない。
『ザ・セル』のターセム・シン監督が、ほぼ自主製作映画として自ら資金を集め、4年をかけて作った極私的なカルト・ムーヴィー。
このたび4Kリマスターが完成して、武蔵野館で再上映がかかった。
これは観ておかないとと、土曜日の夜の回に開始直前のタイミングでのこのこ行ったら……上映三週目にして、なんといまだに大入り満員! 残っていたのは最前列左の「最後の一席」だけ! 場内はおおむね若者たちが占めていて、『落下の王国』の斬新で衝撃的な映像センスが、20代の若者にしっかり刺さっているのを確認。いやあ、素晴らしい!
原色を用いたド派手な衣装の色彩美と、実在する衝撃の絶景を用いた壮大なロケーションがウリの、映像センス炸裂の一作。
とにもかくにも絵柄の強烈さとポージングのカッコよさが図抜けているので、それだけを目的として観てもまったく問題ないくらい、ヴィジュアルインパクトは凄まじい。
ストーリーは、面白いといえば面白いのだが、想像以上に根暗だし、難解だし、語り口がとつとつとしていて頭に入ってきづらい。
祖型としては、おねだりされた大人が子どものために語った幻想譚が、しだいに現実とオーバーラップしていくというルイス・キャロルの『不思議の国のアリス/地下の国のアリス』に近い物語構造をとる。
『プリンセス・ブライド・ストーリー』のように「語り聞かせ」から冒険譚が展開していくつくりで、物語の中に現実の登場人物が別の役で出てくる仕掛けは、他の映画でも何回か経験したことがある。
ただ、似たようなナラティヴを愛用するテリー・ギリアムやジュネ&キャロあたりと比べても、圧倒的に戯作味やサーヴィス精神が足りないので(笑)、やっぱり観ていて結構退屈するし、睡魔に襲われる。語られる6人の英雄の冒険譚自体が、きわめて断片的で、思いつきのまま迷走していて、そのまま「人の悪夢を追体験させられている」かのような内容なので、さすがにだんだん疲れてくるんだよね。
ただ、六英雄のキャラ立ちはすごい。
まんま「ゴレンジャー」みたいなんだけど(笑)、衣装デザインの石岡瑛子の脳内で、日本の戦隊もののイメージがあったんだかなかったんだか。
まず、リーダーの「黒い山賊(バンデット)」がめちゃかっこいい。
(容易にテリー・ギリアムの『バンデットQ』が想起される。)
軽くハードゲイみたいな恰好なんだけど(笑)、エッジがきいててスタイリッシュ。
とてもめそめそしているベッド上のロイと同じ俳優が演じているとは思えない。
彼の仲間も濃ゆい。爆弾のエキスパートのイタリアン(どっちかというと顔がコサックっぽい)とか、めちゃくちゃスタイルの良い奴隷あがりの黒人戦士とか、燃える木(旧約聖書のモーゼと燃える柴を否応なく思い出させる)から生まれてきた神秘家(ミスティーク)とか、実在の進化論の学者である「チャールズ・ダーウィン」(&猿)とか、緑の服を着た「インド人」とか。この「インド人」って、ロイは明らかに「アメリカのインディアン」のつもりで話しているのに、アレクサンドリアの脳内では「インド人」として再生されているんだよね。なんて小粋なギミック!
彼らの活躍の舞台となる「絶景」がまたすごい。
6人が出てくる前、ロイはアレクサンドリアに、彼女の名前からの連想でアレクサンドロス大王が「水を捨てちゃう」エピソードを披露するのだが(このシーンはのちに六英雄のエピソードとして再現される)、その背景になっているナミビアのデッドフレイからして、もう声を喪うような絶景ぶり。圧倒的な赤い砂壁と、卑小な人間たちとの対比。こんな風景、ほんとうにこの世に存在するんだなあ。
あと、なんといっても衝撃的なのが、終盤で6人が死闘を繰り広げる「階段造の無限城」みたいな謎空間。あのチャンド・バオリって、インドにある公共井戸なんだってね!! 井戸があんな恐ろしい悪夢の幾何学迷宮に変容するなんて!!
他にも、フィジーのバタフライリーフや、ジョードプルの青い町もビジュアル・インパクト十分。インドのあちこちにある王宮や城が、冒険の舞台として巧みに使用されている。
六英雄が場面ごとに各国の世界遺産を移動していく展開は、さながら「ストリートファイター2」や後発の格闘ゲームにおけるバトルフィールド選択のようで、ちょっと熱くなる。キャラクターの雰囲気は「アサシンクリード」と親和性が高い感じもするし。
そういえば、彼らのスタイリッシュなファッションや立ち姿はどこか『JOJO』っぽくもあるし、アレクサンドロス大王を含む英雄勢ぞろいとか実在人物の英雄化とか、やっていることはちょっと『Fate』感もある。「ミスティーク」の名称なんかも『Xメン』を思い出させるし……。
縁遠いように見えて実は結構、日米のアニメやサブカルチャーから影響を受けている部分もあるかもしれないし、監督本人がゲーム&アニメカルチャーに造詣が深い可能性もありそうだ。
終盤の悲劇的な展開は、かなり中二病っぽくもある。
不肖私も、三匹の子豚がオオカミと殺し合ってみんな死んじゃうような劇台本を、小5のお楽しみ会の寸劇用に書いたことがあった(笑)。
こういう「全滅エンド」みたいな話って、基本「子どもじみた」発想なんだよね……。
本作の場合は、ロイが取り憑かれている幼児退行的な希死念慮と自殺願望の直接的な反映として、物語内の勇者たちにも裏切りと悲劇が訪れることになる。
あるいは、冒険活劇系の夢を見ていて、目覚めかけにどんどん酷い状況になっていく感じともとても似ているかもしれない。あと、本当に目が覚めそうになってくると、多少夢だと頭の片隅でわかったうえで、脳内で無理やりハッピーエンドに持っていこうとしたりしません? 最後の方にアレクサンドリアが「介入」してくる展開って、まさにそういう「明晰夢」の香りが漂っている。
子供じみた自暴自棄と捨てられ男の絶望に囚われて、自分の生み出したキャラクターを虫の如く始末し始めるロイに対して、彼をいさめ、清らかな涙でさとし、遂にはロイの病んだ心まで洗いきよめてしまうアレクサンドリア。
ロイとアレクサンドリアが物語の結末をめぐって壮絶な綱引きを繰り広げる終盤の展開は、本作で最もスリリングなシーンといってよい。
そしてこれは、「物語の創造主なら物語を好きにして良い」とするか、それとも「生み出された物語には自立性があり、読者の願望もまた物語の展開を決める一要素たり得る」とするかという、究極の「作家論」をめぐる対立でもある。
二人の壮絶なせめぎ合いが、結局どうなったかは、ぜひ映画館で確かめていただきたい。
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以下、寸感。
●冒頭とエンディングだけ、ベートーヴェン交響曲第7番の第2楽章が流れる。葬送のイメージをこの曲に抱くかどうかは人それぞれのようだが、少なくとも悲劇的なテイストは感じられるアレグレットであり、この物語におけるロイの心境に寄り添う。
●冒頭のシーンは最初まったく意味がわからず、何かのイメージ映像かと思っていたくらいだが、あとあとロイがケガしているのを見て、ああスタント失敗で救出されているシーンだったんだ、と理解した次第。あらすじも何も見ないで映画を突然観ると、出だしでつまずくことが結構多い(笑)。
シーンとしては、モノクロームによって「過去」であることが明示されると同時に、ある種の「悪夢」であることが暗示される。活人画(タブロー・ヴィヴァン:実際の人間が静止して構図をつくることで絵画を模してみせる)を明確に意識した断片的なシーンの組み合わせは、ロイのなかで伝聞情報をつなぎ合わせてつくられた偽記憶の可能性もあるだろう。
水から引き上げられる馬のイメージは、のちに登場する水中を泳ぐ象のイメージとかぶる。
機関車・鉄橋・馬の取り合わせは、容易にサイレント映画を想起させ、ラストの破天荒な無声映画スタント連発と呼応する。
●病院での娘の可愛さは異常。顔はおかめみたいでファニーな感じだが、とにかく愛嬌と吸引力のあるおそろしい子役だ。
●砂漠で繋がれた六英雄が、顔面に直射日光による火傷を負いながら追い詰められている描写って、そのまま(マカロニ)ウエスタンからのいただきだよね。
一方で、「金持ち」のいる「プール」が最終決戦の場となる展開は、サミュエル・フラーの『殺人地帯U・S・A』など、ノワールの世界観だといっていい。
●神秘家(ミスティーク)と「鳥」の取り合わせは、なんとなく聖フランチェスコを想起させる。また、鳥は「魂」の象徴であり、口から飛び出す鳥の群れは、命が抜けてゆく隠喩に他ならない。奴隷戦士の最期は、殉教聖人である聖セバスティアヌスを思わせる。
●本作のタイトルは『落下の王国』。原題も『The Fall』だ。冒頭のロイの川への転落から始まり、少女の木からの墜落、少女の医局でのハシゴからの墜落と、常に本作における試練は「落下」の形で襲ってくる。栄光からの失墜。愛した女の堕落。語り部としての闇落ち。この映画では、下向きのベクトルが常に物語を動かしていく。物語内の英雄たちにも悪人たちにも、墜死を遂げる者が出てくる。
本作では「作り話」が作品の中核を成しているが、それを生み出すのも、阻むのも、眠りに「落ちた」状態だ(fall asleep)。話はどちらかの眠りで妨げられ、一方で「夢」は次なる物語の供給源となる。
そういや「落下」というキーワードを軸に物語が構成されていた映画が、最近も何かほかにあったなと思ったら『落下の解剖学』(2023)だった。
●この映画のラストで、観客は本作が実は「映画をめぐる」物語だったことに気づく。
実際の製作シーンが出てこないから気づきにくいが、これは『アメリカの夜』や『軽蔑』と同様、「映画に携わる人」を扱った映画であり、1915年という時代設定も含めて、サイレント映画への限りない憧憬と敬慕の念を込めた映画なのだ。
病院での手回しカメラでの、ロイが出演している映画の上映。
そのあとえんえんと流れる、無声映画の「名スタントシーン」集。
今の時代ではちょっと考えられないような身体をはったスタントの数々に、ロイが生きた時代に対する純粋な尊敬の念が湧きだしてくる。
「あれもロイ、これもロイ」と少女のナレーションがかぶる。
(ちなみにここって、最初は「結局ロイも復帰できてよかったね」というハッピーエンド展開なのだが、あの一言で、実は復帰など出来ていなくて、単なる少女の願望がロイの影を見させているだけかもしれないという怖い想像をしてしまう。感動的であるとともに、ぞくっとさせる、映画にとって「楔」となる一言だと思う)
あの怒濤のスタント・シーン集は、僕にとって思いのほか感動的だった。
人が映画にかける情熱。身体をはることの重み。娯楽に「死ぬ」覚悟で臨む心意気。
あれを特撮もCGもなしで全部やってたんでしょ? あの頃の俳優さんたちって。まあまあガチで頭がおかしかったとしか思えない。時代も人も映画にくるってたんだよ。だからサイレント映画には、古くさくとも異様な熱気と吸引力がある。
それをターセム監督は、この映画の最後になって、ひとまとめで観客に叩きつけてくる。
ターセムが示したのは、今はなき映画の先人たちへの深い愛慕の念だ。
あるいは、映画を撮ることでしか生きられない、映画を撮らないと前を向いて生きられない自分の「業」を肯定するために、彼はサイレント時代の先達の覚悟に「すがった」のだ。
この映画の「作り話」だって、その中味は実のところサイレント時代の映画の断片から構成されている。剣戟の仮面の盗賊。インディアン。復讐劇。砂漠。宮殿。すべてはサイレント映画からロイが「拾ってきた」アイテムの組み合わせに過ぎない。
語ることで、客を動かそうとする話。
語ることで、死のうとする話。
語ることで、希望を取り戻す話。
この物語のロイ――語り部であり、敗残者であり、自らの物語を踏みつけにしようとするが、純粋なひとりの観客の力で、闇を祓って再生する映画人――は、他ならぬターセム監督自身の分身でもあるのだ。
≫アレクサンドリアの脳内では「インド人」として再生されている
彼の“配役”だけずっと分からないまま観てました。
最終盤でアレクサンドリアの農園の使用人と知って、まぁ、そういうことですよね。笑
あの衣装や映像美が、完全なエンタメ脚本と融合するところが見てみたい。
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