テレビの中に入りたいのレビュー・感想・評価
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繊細で大胆で生々しい表現力。刺さる人には刺さるはず
本作に触れた瞬間、なぜか胸が震えた。と同時に、子供の頃のノスタルジーやあの頃の漠然とした不安がこみ上げ、正直、恐ろしくもなった。優しい顔をした亡霊のような、はたまた一向に醒めない夢のような一作だ。手掛けた監督はトランスジェンダーなのだそうで、おそらくあの少年少女は、閉ざされた町で自分に違和感を抱え続ける、かつての監督の分身とも言うべき存在だろう。しかしたとえその状況や心情が重ならなくとも、思春期における「俺はおかしいのか?正常なのか?」という自問は誰もが少なからず共感可能なものではないだろうか。逃げ出したい。でも逃げ出せない。正気が保てなくなる。叫び出したい。そして気がつくと、最近あまりにも年月が経つのが早すぎるーー。A24作品はいつも言語化不能の感情を豊かに提示してくれる。酷評する人もいるはず。意味不明に思える人もいて当然。だが私は繊細かつ大胆なタッチで世界を彩った才能に拍手を送りたい。
クィア映画を初めて見た。
クィア映画を初めて見た。こういう感じなのか。
TV番組「ピンク·オペーク」にハマる2人、オーウェンとマディ。「ピンク·オペーク」では、敵のボスMr.Melancholyが毎週色んな怪物を登場させ、それをちょっと臆病なイザベルと自由で解放されているタラが、退治していることになっている。
マディはタラと同化し自分自身を見つける(=クィアであることを自覚)が、オーウェンは卵の殻に閉じ込もっていて、臆病なまま。
あなたは孵化しますか?
それともMr.melancholyのLunaJuiceを飲み続けて「甘美な」監獄に居続けますか?
と問いかけられているような気がした。
自分自身(59才男)のことを考えると、小さい頃から疑いもなく男として育ち結婚し子供も3人いるが、割合乙女チックなところもあり、多少理解はできるかな。
A24史上最高の憂鬱
1回目の鑑賞で1mmも理解出来ませんでしたので、再鑑賞しました。結果3分の1ぐらいには理解度が深まりました。
全体的に負のオーラは感じましたが、ノスタルジーやエモーションはほぼありません。中二病ほど知ったかぶりしてる風でもないし、リンチワールドも望めません。映像美に浸るほどでもない。
ただ独自の世界観を最後まで押し通せる力量は、ある意味逞しいと言えます。
中高生時代のマディの口元にうっすらと髭が生えているように見えてしまい、ずっと気になっていました。たまたまそう見えるだけなのか、セクシュアリティの表出なのか。
オーウェンが中年になって胸を割いても、やっぱり空っぽでTVの光しかないっていうのは、ちょっぴりペーソスを感じました。
音楽はよかった。特にパンクボーカルにはとても惹かれました。
残念ながら、私には向いておりませんでした。。
短い期間で続々と公開が続いているA24作品、ハピネットファントム・スタジオさん、頑張ってます。
以前に一度だけ劇場でトレーラーを観た記憶がある本作。その時はあまり自分向きな作品ではないように思えていたのですが、公開が近づくにつれて評判が聞こえだし、特に業界方面はザワついている様子。と言うことで、用途が決まらないまま使用期限切れが目前に迫ったU-NEXTポイントを使い、ヒューマントラストシネマ有楽町で鑑賞することにしました。
毎週土曜日22時半。謎めいた深夜のテレビ番組『ピンク・オペーク』に激しく傾倒している少女/女性・マディ(ジャック・ヘブン)。そして、そんなマディと出会い彼女に“通じるもの”を感じて自らの意思で『ピンク・オペーク』にのめり込んでいく少年/男性・オーウェン(ジャスティス・スミス)の30年に渡る人生。時代の変遷とともに“見方・見え方”も変わり、戸惑いつつも自分の本質についてこだわって探し続けるオーウェンの“行き着く先”は…
と言うことで感想ですが、、惨敗ですね。ごめんなさい、私には正直解りませんでした。。元々「理屈」に頼るタイプの私にとって、この手の作品はいちいち自分が解らないことにこだわってしまい、ストーリーやその中にあるメッセージについていけなくなりがち。本作の場合、冒頭の展開までは問題ないと思っていたのですが、全般を通して独特すぎる表現や編集のアレコレに理解が追いつかなくなり、自己防衛本能が働いて正直何度か気を失っていたような気がします。
勿論、理解できないものに対しそれだけの理由で作品を否定する意図はありません。むしろ、「あゝ、これこそA24作品だな」と感じるようなクリエイター・ファーストを地で行く(将来的にも)重要な作品なのだと思います。ただ、トレーラーを観た際の印象は間違ってはおらず、“自分向き”な作品ではなかったと言うこと。なので、低い点を付けてしまうこと、何卒ご理解いただけますと。。ご容赦ください。
テレビの中に入りたい(映画の記憶2025/9/28)
シーズン5で1000話超え!?
アメリカの郊外で暮らす中学生の男の子が、同級生の女の子に教えてもらったTV番組「ピンク・オペーク」にハマって行く話。
マディの家にお泊りに行って、毎週土曜日22:30から放送されるヒーロードラマ?「ピンク・オペーク」をオペークを教えて貰ったけれど、オーウェンの就寝時間は22:15と決められており観られません!ってことで、録画して貰ったビデオで鑑賞!となって行くけれど、見る順番はぐちゃぐちゃなので?そして良くわからないけれど初回はPILOT?
なんだか不思議な女子2人組ドラマのピンク・オペークを観続けたけれど、環境が変わってマディは引っ越してしまい、取り残されたオーウェン君ががるぐるぐるぐるぐる…そしてマディが現れこいつマジか!?
現実とドラマが交錯しなんだか良くわからないことになっているけれど、アイデンティティ云々ってそういうこと?
スリラーといえばそうなのか?
どういうことかはなんとなくは分かったつもりだけれど、ちょっと自分には理解できない話しだった。
「自分」とは?
家庭での居場所や性的アイデンティティについての自分探しをする若者達の右往左往を独特の映像美(と言っていいのか否かわからんが)で描く、いかにもA24な作品。
TV番組と現実との区別が曖昧になっていく描写を通じて、物事を認識する主体としての「自分」がいったい何処に居るのか、さらに、その「自分」の知覚が実際に目の前で起こっている出来事の忠実な反映なのが、脳内の神経回路で生じたそれっぽい情報伝達が生んだだけのバーチャルなイメージなのかも分からなくなっていく。
自分の内側を覗いて空っぽだったら怖い、みたいな台詞が象徴的なのだか、そもそも「自分」なるものが存在する、という前提で考えるから出口が見つからない訳で、仏門に入って、自分なんて「空」だぜ、と悟ってしまえばOKじゃないのかな、というのは意地悪かな。
主役2人の、様々な場面での居心地の悪さの描き方が独特で面白かったのだが、監督もこの2人も性的アイデンティティについて少数者に属するらしい事と関係してるかどうかはわからない。
徹底して「出口がない」表現が痛々しい。
予想していた内容とは違っていた。ジェーン・シェーンブルン監督はトランス女性でノンバイナリーである。90年代中頃のアメリカの田舎町ではキュアな指向をカミングアウトするのはとても難しかった、その体験を作品として取り上げマイノリティを勇気づけるというようなことをインタビューで話していたのだが。
主役のオーウェンは母親を病気でなくし、父親とも血の通った関係性にない、おそらくはほとんど友達もいない孤独な少年である。「どれだけ掘り下げても自分が見つからない」というようなことを言っているので広い意味ではキュアな傾向にあるのかもしれない。一方、彼に「ピンク・オペーク」の存在を教えるマディは同性愛者であると自分で述べているし「ピンク・オペーク」の内容(少なくともオーウェンの目に映る限り)は性的に規範外である匂いはする。でもこの映画は性自認や性指向は主題ではないのかも。
1996年が起点で、その2年後、その8年後、さらに20年後と時制が進んでいく。この間、オーウェンは多分、一度たりとも町を出ていないのである。両親の残した家に住み、最初は映画館に、その後はゲームセンターに勤める。家族を持ったとのモノローグがあるがその姿は示されない。
徹底的に地元暮らしなのである。閉じ込められているといっても良いかもしれない。彼が外界と接したのは、「ピンク・オペーク」とマディだけ。でも「ピンク・オペーク」は10年後、配信で見直してみたら全く違う印象の作品だったし、マディについては2回も裏切ったという罪悪感が残る。ひょっとしたら「ピンク・オペーク」もマディも彼の心が見せるまぼろしだったのかも。それならば彼の人生は一体、何だったのか?映画は最後、おそらく喘息の新薬の副作用でフラフラになった彼が、ゲームセンターの中で誰彼構わず「すいません、すいません」と謝って回る痛々しいシーンで終わる。(マディには謝らないよう言われていたのに)
生きることの徒労感、出口が見えない不安感が、オーウェンと同じ世代(日本で言えば氷河期)の人たちに共有化されたことがこの映画がアメリカで拡散され支持された理由じゃないだろうか?
映画の中に入りたい…
■ 作品情報
監督 ジェーン・シェーンブルン。主要キャストは、ジャスティス・スミス、ジャック・ヘヴン、ヘレナ・ハワード、リンジー・ジョーダン、フレッド・ダースト、ダニエル・デッドワイラー。脚本 ジェーン・シェーンブルン。製作国 アメリカ。プロデューサー エマ・ストーン、デイブ・マッカリーほか。A24製作作品。
■ ストーリー
1990年代のアメリカ郊外。冴えない日々を送るティーンエイジャーのオーウェンは、毎週土曜深夜に放送される謎のテレビ番組「ピンク・オペーク」にのめり込んでいた。「ピンク・オペーク」は、イザベルとタラという二人の少女が「ミスター・憂鬱(メランコリー)」の送る怪物と戦うヒーローものだという。同じ番組の熱心な視聴者であるマディと出会った彼は、二人で番組の登場人物たちに自分を重ね合わせ、生きづらい現実を忘れられる唯一の場所としていた。しかし、ある日突然マディはオーウェンの前から姿を消す。一人残されたオーウェンは、自らのアイデンティティや真実を知ることへの葛藤を抱えながら、漠然とした不安の中で時を過ごすことになる。
■ 感想
全体としては、まるで90年代のアンダーグラウンドな空気感に吸い込まれていくような感覚に陥ります。少年オーウェンと少女マディが、架空の深夜番組「ピンク・オペーク」に自分たちの居場所を見出す姿は、多くの人が経験するであろう「自分探し」の切実さを象徴しているように感じられます。
しかし、正直なところ、物語の核心や登場人物たちの内面に深く共感するまでには至りませんでした。思春期の漠然とした不安、理想と現実のギャップ、そして性自認といったテーマはなんとなく感じます。そんな思いが絡み合って、マディは現実からの逃避を選んだのでしょうか。
一方で、マディについて行かなかったオーウェンは、マディほどの強い不安や不満を感じていなかったということでしょうか。それとも彼女のように一歩踏みだす勇気が持てなかったということでしょうか。そして、大人になった今、当時を振り返りつつ、選ばなかった方の選択肢を思い描いたり、選ばなかった後悔に苛まれたりしているということでしょうか。
まさに「ピンク・オペーク」が特定の視聴者に深く刺さったように、この映画もまた、観る人を選ぶ作品なのかもしれません。深く没入し、自らの体験と重ね合わせることで、唯一無二の感情を呼び起こされる人もいるでしょう。ただ、残念ながら自分にはそこまで刺さることはなく、むしろもう少し「映画の中に入りたい…」と感じるような作品でした。なんとも理解し難い作品です。
Show
予告が100点だった
予告と本編で使われているyeuleの「Anthems For a Seventeen Year-old Girl」。これが刺さりすぎて期待度が上がりすぎてしまった。
観ている最中は「なんか面白くなりそうで面白くならないなぁ」と思いながら見ていた。しかし刺さる人には刺さりそうだなという印象だった。
もちろんいい点はあり、最初に述べた曲や他のサウンドトラックがUSインディーだったりドリーム・ポップ系統の音楽で統一されていてこの映画の世界観や映像とてもマッチしていた。
現実なのか妄想なのかその境目がよくわからない演出も最近の映画ではあまりなかったので久々にこういうの見たなぁと言う感じ。
観終わったあとCINRAに載っている監督インタビューを見たら何を伝えたいのか腑に落ちた。
しかし、伝えたいことを抽象化しすぎて映画自体の面白さが半減してしまっているように思える。
一度観ただけでは語れないリピート必至映画
ピンク・オペークのシールがおまけ
ブリジット・ランディ=ペイン目当てで鑑賞。作品紹介には「アイデンティティにもがく若者たち」とあるのだが、一般的な青春の悩みとはかなり遠い意味不明感…。
予備知識なしで観たせいで、主人公たちが常に何かに怯えているような様子や、時間感覚の曖昧さ、現実とは別世界の妄想などから統合失調的世界観?と思ったのだが、それは誤解で、監督・脚本のジェーン・シェーンブルンはトランスジェンダーとのこと。役者の側もブリジットはジャック・ヘブンと名を変えた(本作クレジットはブリジットママ)ノンバイナリーだし、ジャスティス・スミスもクィアを公表している。その目線で観れば全部理解はできずともいろいろ納得。
とはいえ暗めの画面と妄想的展開で、ミスターメランコリックに支配され寝落ちする観客も散見!
どこにも運んでくれない鬱映画
恐れていたが…
全27件中、1~20件目を表示
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