「個人的にはぶっ刺さった。」テレビの中に入りたい Naku11さんの映画レビュー(感想・評価)
個人的にはぶっ刺さった。
【まず初めに】
この映画の解釈は観る人にだいぶ委ねられます。
それゆえ抽象的、分かりにくいといった感想を抱きやすいです。
※私も観終わった直後は「なんやこれ」って感じでした。
ただ、監督自身がわざと余白を残して作成した、と答えているのでそれがこの映画の狙いでもあります。 ※cinraというサイトにインタビューが載っています。
あとbgmが凄くいいので、soundtrackもオススメです!
【以下、整理用の備忘録】
「The Pink Opaque=理想郷」
理想郷=自分のセクシュアリティを開示しても受け入れられる世界。
TVの中にはいる=トランスやクィア的アイデンティティを発見・解放する比喩。
ピンクは性的マイノリティのシンボルカラーでもあり、冒頭のバルーンの色もジェンダーフラッグの色を意識している。
【オーウェン】
主人公のオーウェンは内気でクィア、家庭にも問題がある。
母親は過保護で支配的、冒頭の選挙日にも自分が望む候補者を指示するなど。
父親は保守的でオーウェンと会話らしい会話をせず、畏怖の存在として描かれている。オーウェンがテレビの中=理想郷にはいろうとすると無理矢理引きずり出す。
このような環境では自己肯定感が育つわけもなく、オーウェンはより内気で自ら選択ができないまま大人になる。
例えば、マディの1回目の誘いの時、友人宅の母親に僕が外出禁止になるようにして!と懇願したり、2回目の誘いの後、マディが来るまで家に引きこもるなど。あと、映画館がつぶれたから上司と一緒にゲームセンターに就職するとか全体的に他人まかせ。
その結果、オーウェンは理想郷に行けず、クソな現実にとどまることを選ぶ。
「男にならなきゃ」「家庭を持った」は現実で受け入れられる"異性愛者である普通の男性"として自身を偽ることの表れ。
でも、偽り続ける日々も長続きせず、誕生日パーティーでの絶叫シーンにつながる。
その後のトイレシーン、お腹の中のtvの光は理想郷であり、オーウェンが自身のクィア性、トランスジェンダーであることを解放したがっていることを示す。
【マディ】
一方、マディはオーウェンとは対照的で「解放された人」として描かれている。
レズビアンとしての自己を肯定できたキャラクター
数年後に再登場した彼女は、外見・態度からも「解放された姿」で示されている。
だからオーウェンを助けに来る=「あなたもtvの中(理想郷)に来られるよ」という手を差し伸べている。
が、オーウェンは自身のセクシュアリティを認める自己肯定感が育ってなかったので2度マディの誘いを断る。
→オーウェンは誰かに助けをもとめ、謝り続ける人生をおくる。
観た直後は、マディ=精神異常者
つまり、彼女もまた家庭の抑圧から逃れられず、「ここではないどこか」への願望を拠り所にしていた。そこで自身をお気に入りのtv show の登場人物である。ということにして自身の精神性を保っていた。
中盤の「tvの中に入っていた」は虚言。
本当は地方を放浪しながらどこにいっても現実は変わらないということに絶望して、オーウェンに会いに来た。
その後の穴=死のメタファー
※これは偽りの自分を殺して、本来の自分として生き返ることにもみえる。
と思ったんですけど、これはあまりに暗すぎかつ救いのない感想なのでなし。
でも、保守的な家庭に育ったオーウェンからみると自らのセクシュアリティを認められたマディは狂人にみえるかもしれない。
なぜなら、彼にとって自分のトランス性を認めるのはありえない、狂気じみた行為だから。
