劇場公開日 2025年12月26日

「本嫌いの少女と犬耳少女が繰り広げる「本の中の世界」の冒険。若干「狐につままれた」感も。」この本を盗む者は じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

3.0 本嫌いの少女と犬耳少女が繰り広げる「本の中の世界」の冒険。若干「狐につままれた」感も。

2025年12月29日
PCから投稿

話はテンポ良いし、絵柄はきれいだし、
主演二人の声もかわいいし、
余り考えないで観てるぶんには、
普通に愉しいアニメ映画なんだけど……。

結局なんの話だったんだっけ? コレ?

真白「これは××なんです」
深冬「ええええええええ??」
真白「本泥棒は●●になるんです」
深冬「ええええええええ?!」
真白「××すれば●●できます」
深冬「ええええええええ!?」
真白「●●の正体は実は××です」
深冬「ええええええええ!!」

いろいろ「えええええええ?」の声色を使い分けてはいたけど(笑)、基本的に真白が延々と「実は~~」と、事態の状況説明や世界のルール設定を告げては、深冬があたふたしている間に次のシーンに飛ばされて、みたいなのを繰り返してるうちに、そのまま話が終わってしまったので(マジです!)結局、まさに「キツネにつままれた」みたいな後味しか残らなくって(笑)。

原作未読の俺が悪いのか?
長い原作の切り詰め方が駆け足すぎるのか?
この手のメタに対する俺の理解力が足りないのか?
それともパンフを買い忘れたのがいけないのか?

なんかね、チュートリアルに付き合わされてる間に、本編の物語まで勝手に進んじゃって、こっちはチュートリアルだと思って流し見してたら、あれよあれよというまにラストまでたどり着いてしまって、プレイヤーとして関与するきっかけも共感する余地もないまま、宙ぶらりんの気持ちで、微妙なハッピーエンドを観させられているって感じすかね? 言い方、感じ悪くてすいません。

― ― ― ―

話の大きな枠組みとしては、ヒロインが異世界に滑り落ちて冒険を強いられるという、『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』と同型の展開を持つ。

バディとして登場する「真白」の正体が終盤までわからないというのは、いくつかの前例を思いつくが、結局のところ本作はいわゆる「イマジナリーフレンドもの」のヴァリエーションだと思っていいのだろう(大半の観客は、真白の正体が「むかし飼っていた犬」だと推測して観ると思うのだが、そこは巧いミスディレクションになっていると思う)。

なんでもかんでもキツネがどうのこうのといっておけば、あらゆる怪現象の説明がつくとでもいわんばかりの展開についても、いくつかの前例を思いつくが(お稲荷ってそういうもんだっけ?)、本作の一番重要な部分は「物語=本」の世界を主人公が繰り返し体験するという数珠つなぎの連作短篇的なスタイルだろう。

マジック・リアリズム小説、ハードボイルド・ミステリ、スチームパンクSFと、舞台のテイスト自体短時間で切り替わっていくので、そのあたりはまあ目先が変わっていいのだが、発動条件とか、中で起きる現象の意味とか、脱出のルールとか、全部「横から真白が解説してくれるとおりにこなしていく」だけの仕様なので、正直「冒険活劇」としてはあんまりおもしろくない気も。

ていうか、物語全体のルールが煩雑なうえに、何層にも重なっているので、だらっと観てるだけだと、あんまりよくわからないんだよね。
●この街はブック・カースのせいで「物語」の支配を受ける。
●おばあ様は父から譲られた蔵書に執着し、拘泥している。
●誰かが蔵書を盗んで「呪い」を発動させようとしている。
●巻き込まれたヒロインを少女「真白」が助けようとする。

これらの要素は、必ずしも同じ次元の話ではないにもかかわらず、独自のファンタスティックなルールで複雑に組み合わされている。
(たとえば、この町で不思議な現象が起きるのはブック・カースのせいだというが、そのおかげで真白は顕現できている。すなわち、ブック・カースは必ずしも、おばあ様の目論見に沿って発動しているわけではない。)
ルール(世界観)の説明は、常に「小出し」で「漸進的」だ。
「この世界ではAだから、Bをしないといけなくて、そこにCが関わってくるので、Dも必要で……」と、やたら後付けの要素が多い。
結局、真面目に観ていても、どうしてもとらえきれない部分が出てくる。
たとえば僕は、誰が何をもくろんでどう動いていたのか、最後まで観てもいまひとつよくわからなかった(とくにメガネキツネ)。
あの万国旗みたいな蔓が説明どおり、ちゃんと本泥棒を追尾していたのかもよくわからないし(大小の猫と本泥棒の関連性は?)、ブック・カースの素材に●●の本が用いられていた理由もよくわからない。東山声のおばさんのことも結局何となくけむに巻かれたみたいで、現象のロジック自体、僕にはよくわからなかった。あと、なんでああいうラストになるのかもよくわからない。

言っちゃなんだけど、僕は「町が物語に侵蝕される」物語自体は、むしろ大好物なのだ。
なんといっても、僕にとっての日本アニメ史上の最高傑作は『プリンセスチュチュ』なわけですから。
あのアニメのモチーフは、まさに「物語に侵蝕された町」(=金冠町)そのもの。
そこで「役」を割り振られた登場人物たちが、物語の書き手によって強制された「役」を生きることに苦しみ、翻弄され、「自分たちの物語」へと書き換えようと戦う物語、それが『プリンセスチュチュ』だ。
その意味で、『プリンセスチュチュ』と『この本を盗む者は』には、共通点がいろいろとある。
ただ、僕は『プリンセスチュチュ』を愛するほどに、『この本を盗む者は』を愛せない。
『この本を盗む者は』には、『プリンセスチュチュ』ほどの「物語」と「現実」についての洞察や煩悶――「書くことの呪い」の重さが感じ取れないからだ。

同様に、本作は人によれば『猫の恩返し』や『泣きたい私は猫をかぶる』『かがみの孤城』あたりと、いろいろと共通点が見出せる作品ではないかと思う。
動物キャラのかかわり方とか、人の姿と動物の姿を切り替えられるところとか、飛ばされた異世界の幻想的な世界観とか、相手から「ゲームを勝利するための条件」が提示されて共闘してそれをクリアしていく展開とか、今あげた三作と本作は、基本「同じカテゴリ」の作品といっていい気がする。

本作が、上記三作品と一番異なるのは、世界観の設定に「シンプルさ」がないことだ。
たとえば『かがみの孤城』は、とある大きな仕掛けを本格ミステリ的に成立させるために、すべてが仕組まれた物語だった。その「とある仕掛け」に物語は集約され、謎解きが始まると、一見雑駁で無理やりに見えた世界観が、実は「ひとつの目的とひとつの意志」で構築されたきわめてシンプルなものだったことがわかる。
『泣きたい私は猫をかぶる』では、ヒロインの「今の私じゃいやだ」という想いが、猫の町を引き寄せ、やがて暴走させる。あの話は常に「人生への絶望」と救済の地としての「隠れ里」の話として成立していて、バタバタしているわりに話は頭に入ってきやすかった。

一方、『この本を盗む者は』には、「核となるテーマ」が複数存在する。
●さまざまな理由で図書館に侵入する敵によって持ち出された「本」を取り戻す。
というのが、表向きに提示されるヒロインの冒険の目的だが、
●厳格な毒親としての祖母の悪しきトラウマを克服し、自信と生命力を取り戻す。
●幼いころに抑圧された「物語を紡ぐこと」への思い入れと創造力を取り戻す。
●祖母が遺した「独占欲」という悪意の塊を解きほぐし「公共」性を取り戻す。
といった要素が、実は「解決されるべき問題」として底層に横たわっている。

これらの要素は複雑に絡み合っているわりに、ヒロインは徹底的な「巻き込まれキャラ」としてふるまうために、結局は「外的にもたらされた試練を何も考えないままにあたふたこなしているうちに、いつのまにかすべての問題が解決している」という微妙なことになっている。
彼女が能動的に「努力」をするのは、一通り物語が終わった「あと」に、とあるものを取り戻すために「もう一度紡ぐ」行為に本気で取り組むあたりだが、そこも「ブック・カース」の条件設定や存在目的があやふやであるせいで、「なぜそうやったら取り戻せるのか」についていまひとつ確信が持てず、なんだか観ていてもやっとする(雰囲気的には出来そうな気がするんだけどねw)

やっぱり、端的にいうと、全般に説明が足りてないんだろうな。
世界観の理屈だてた説明も。
ヒロインの内面描写も。

― ― ― ―

●川の中州に山があるって、マジで不思議な町だな(笑)。
立地がちょっと違うけど、僕は「山・川・地方都市」の連想で、長野の飯田市を想起しながら観ていた。そういや、あそこは柳田國男館があるな。

●話はよくわからないところも多かったけど、可愛い制服女子2人がわきゃわきゃ一緒に冒険して、ときどき空飛んで、一緒にお風呂入って、という百合要素だけで本当は大満足すべきなのかもしれない(笑)。深冬役の片岡凛も、真白役の田牧そらも、ふたりとも声優演技は初体験ということで不器用な感じはいなめなかったが、一生懸命頑張っていたとは思う。脇をバリバリのベテラン声優陣が固めているのは安心感があって良かった。

●白い巨大な犬(狼)に乗っているって意味では、思い切り『もののけ姫』。
白い巨獣に乗って空を飛びまわるって意味では、思い切り『千と千尋の神隠し』。
スティームパンク・パートの『ラピュタ』感も含めて、ファンタジー要素には宮崎駿の影響が(おそらく原作も含めて)結構濃厚に出ている気がする。

●お父さんが柔道家でガテン系で、でも実はかつて●●していたというのは、ヒロインの深冬とパラレルな関係にある。厖大な蔵書のプレッシャーと、凝り固まった母親の毒をやりすごすために、そういう生き方を二人とも選択せざるをえなかったんだろうな。

●朴璐美、こっわ(笑) あの外見もまた「九尾のキツネ」なんだよな(それどころじゃない数はえてるっぽいけど)。若干敵キャラとしては、あまりにストレートというか、もっといくらでも可哀そうな部分とかやむにやまれぬ事情とか織り込めそうなのに、かなり突き放して「純粋悪」として描かれていて、むしろ不思議な感じがした(もう少し「おばあ様も大変だったんだね」って思わせる情緒的な要素を加味するほうが「ふつう」の作劇だと思う)。

●飛んでくる「矢印」との攻防! 『Re:ゼロ』のペテルギウス戦みたい。

●作画はほぼ文句なし。細かいシーンまで崩れることなく描けてるし、レイアウトも安定している。物語が切り替わるごとに作画の調子を変える試みも、うまく機能していたように思う。

●最近、空想の物語のなかに現実のキャラクターが別役で登場するってのを観たばかりだと思ったら『落下の王国』だった。あと、映画を観る前日には、「真白」という同名のキャラクターが出てくる『友達の妹が俺にだけウザい』の最終回を録画で観ていて、当日の移動中は、まだ読んでいなかった大倉崇裕の『福家警部補の挨拶』を読んでいた。この連作短編ミステリの一話目は、「巨大な私設図書館を継承した人物が、図書館を売り払おうとする本に関心のない人間を排除して、図書館を守ろうとする」話だった(倒叙ものなので犯人を明かしてもネタばらしにはならない)。なんてシンクロニシティ!!

じゃい
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