見はらし世代のレビュー・感想・評価
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低温のマグマみたいな黒崎煌代がとても良い。
印象には残るものの、似た感じの押し出しが強い役が多かった黒崎煌代が、この映画ではいくばくかの鬱屈を抱えた現代の若者を演じていて、わざわざ主張はしないが文句はある!みたいな低温のマグマみたいな佇まいがとても良い。心情を説明するようなセリフが全然なく、この役にも役者にもそんなものは必要ないのだという気がしてくる。
その主人公が仕事で運んでいる胡蝶蘭は、花の持つ美しさや生物的な価値は一旦脇に置かれ、ただ社会における儀礼の品として取引され、右に左に運ばれていく。そのバカバカしさはある種の現代建築が持っている空虚さともシンクロしていて、ランドスケープデザイナーというカタカナ職業の父親や彼が関わっている再開発をチクリと皮肉っているようでもある。社長室にいくために屋外の階段に出ないといけない建築事務所のビルを見せるのも自分にはイジってるとしか思えないが、真意は明かさないというかある種の韜晦趣味に見えるのは好みが分かれるところではないか。
そこに介在していないはずの視点を持ち込んだ画作りはときに刺激的だが、才気ばしりすぎていてノイズに感じられることもある。その辺は意図を汲み取れているとは到底言えないので評価しづらいが、あえてハッキリさせずに、言いたいことを言い切らない演出がもどかしくもある。とはいえ若い才能のセンスに同調できないのは年寄りとして当然なので、今はいささか距離を取りながらこれからどうなっていくのか監督の今後に注目したい。いつかこの映画のこともああそういうことだったかともっとわかった気がする日が来るのかもしれない。
水掛け論と言って逃げる初(はじめ)
冒頭から不穏。
道路を渡ろうとする母・由美子(井川遥)、いきなり車にはねられて亡くなるんじゃないか
と思うほど怖いシーンだった。いずれ由美子が亡くなるとの示唆なのだろうかと思った。
家族で別荘?で過ごす家族だが、父・初(遠藤憲一)は仕事を優先させる。
あれこれ由美子に言い訳し、すでに心ここに在らず的な雰囲気はクソ親。
ここでの由美子のせつなく儚げな雰囲気が素晴らしかった。さすが井川遥である。
10年後の主人公・蓮(黒崎煌代)は胡蝶蘭の配送をやっていて、
父が日本に帰ってきていることを知り、それを姉・恵美(木竜麻生)を知らせるも、
姉は全く興味なし。
それでも姉の引っ越しにかこつけて、10年半前に家族で食事をとった場所で、
再び父・娘・息子で会うことにするのだが、ここでファンタジーへ突入。
カフェのライトが落ち、そこから曖昧な感じに。
カフェのライトが落ちる示唆は、蓮の乗るハイエースのカーテレビで2度ほどあり。
なるほど、そこがファンタジーへの入り口になるとの示唆だったのかと感心した。
食事しているところに亡くなった母・由美子が現れたのには驚いた。
そして母が見えているのは父・初のみ。
会話の最後に「仕事をしている貴方が好きだった」という言葉に
嗚咽する初、やはり後悔していたのだろう。泣く父を不思議そうに見る蓮。
この反応から母が見えていないことがわかる。
姉と父の彼女(菊池亜希子)が昔行った別荘へ。
このふたりはフィットネスで知り合っているのだが、不思議な再会をしている。
そして姉も、10年半前に母と過ごした時間に後悔を滲ませる。
という、それぞれが母と家族について思いを馳せる。
けど、時間は戻らない。後悔が滲む。それを踏まえて前を向いていくのだろうか。
黒崎煌代は特に表情や声の演技が素晴らしかったし、
吉岡睦男との絡みが最高に笑えた。
あと、独特の間と画の構図が段塚唯我監督らしさなのだろう。
次回作を楽しみに待ちたい。
単なる渋谷宣伝映画。
文化庁の委託事業である若手映画作家育成プロジェクト「ndjc(New Directions in Japanese Cinema)」だからループやミヤシタパークばかりが映るのか。
終盤、死んだ井川遥が現れ離散した家族みんなに見えて、だから何か変わる訳でもなく、シャレオツな音楽とやたらロングショットや引きなシーンばかりで何が言いたいのか理解不可能でみんながみんな上っ面だけで付き合って他人に踏み込まない、だから理解まで行かない。
久しぶりに全く1ミリも心に何も残らない超駄作を観た。
文化庁はこんな映画に金を出すならもっと援助すべき映画人がいるだろ(怒)
家族の現代的な有様を、街並みと建築を絡めて爽やかに表現
崩れていく家族がテーマで、それが都市や建築の様相を絡めて描かれている。そのロケーション選択が素晴らしい。監督の父上は有名なランドスケープデザイナーだが、血筋に加えて、おそらくはチームアップされたスタッフにも恵まれている感じがした。三浦半島の貸別荘は、10年半前の設定で、デザイナー好みの家具調度が素敵、グランドピアノはスタインウェイ? 特筆すべきなのは階段への偏愛と、フレーミングの技。その何れもに両義的な意味と象徴を示唆させている気配がある。
階段は、宮下パーク、代官山ヒルサイドテラス、父のモダンなアトリエ、再開発されるハケ地!の公園等で、ポンジュノ的明解さではなく、少し曖昧な両義性をもって描かれる。この映画は、全てに明解な二項対立を避けて、両義性の立場に立つことがポリシーのようだ。また近代建築の特徴である内と外が大きなガラスで繋がることを、映画のフレームとして活用することで、透明な、俯瞰的な立ち位置を獲得している。それはカットインされる渋谷のスナップシーンでも意識的に選択されている。何よりも宮下パーク自体が、外側のガラスがほぼ取っ払われた裸の建築で、公道を跨いだ上に作られているその一番おいしい部分が何度も舞台となる。
全体に薄味で淡白に感じられるけど、随所に込められた細やかな趣向が意味深で、あざといくらいに冴えている。祝い花のデリバリーは、監督自身のアルバイト体験からとのことだが、都市を縦横無尽に移動する語り部(無口だが)として秀逸な設定。様々なクラスの人々とダイレクトに接することができ、華やかな世界の舞台裏が殺伐としたブラック度であることも伺える。
無口な息子に対して、未来志向で吹っ切れているような語りの娘は、本作の本来の語り部だけど、実は吹っ切れてないことが所々で・最後のシスターフッド的シーンでもわかる。人物造形もとても両義的だ。その最たるものが父親。強さと弱さがあり、慟哭シーンでは感情の爆発が不思議なカタルシスに繋がる。息子の複雑な笑みは、両者がバラバラに邂逅したことを感じさせた。SAで後ろ向きに歩いていた少年は、この禊ぎを経て「前に」吹っ切れたのだ。
小物の使い方にも唸らされた。お化けが出る前の、スマホの呼び出しバイブ音がモールス信号のSOSだったり、最後に放置されるボールや、道を横切る際の車優先社会と、そこを無防備に横断するLUUP。よく見るとLUUPは最後に突然出てくるのでなく、サブリミナル的に数回登場していた。監督の言によれば、今の若者には免許取得に30万円かかる自動車はそもそも敷居が高くての「LUUP」とのこと、納得至極。
後半の重要なトリガーとなるお化け設定がかなり強引だけど、見えないのに見える、見えるのに見えないというのは歌舞伎でも使われる手法。また最後にLUUPでクローズアップされる女性は、ブラック花屋での解雇騒動中に「やめた」女の子なのがわかりにくいけど、そこは脇線だから良いのだろう。
冷めているようで冷めていない、無表情のようで実はエモーショナル、吹っ切れているようで吹っ切れてない、家族の人間関係の現代的な有様を、今だからこそ撮影できる街並みと建築を絡めて表現していて、ふわっと感じられる明るさもあり、ぽよよんとした音楽も今風で、爽やかな好印象を受けた。次回作が楽しみな監督です。
水掛け論
渋谷が舞台。
仕事を優先し疎遠になった家族と
宮下パークの再開発がテーマになり
この2つを重ね合わせながらを描いている。
何かを得る為には何かを犠牲にする時もある。
生きているとその壁にぶち当たる。
そこには摩擦がおきて隙間が徐々に出来ていく。
その隙間を埋める為には時間もかかるし
お互いの労力と気持ちも不可欠。
新しく進化する世界、置き去りになり
排除される世界。
どちらが正しいか分からないし
何もしなければ理解できない水掛け論。
電球の落下によって失望した大きな損失が
分かり、替えのきかない大切な事を
個々に感じた気がした。
そして止まってる時間を破壊して前に進んだ。
最後のループに乗ってる4名。
一人は花屋で蓮が辞める時に辞める女性だよね。
お世話になり名前を覚えてる方には
『◯◯さん』ありがとうございましたと。
あの自分で決めた姿は潔く挨拶の仕方も面白い。
ループ運転姿は自分の意思をもち、見る
見はらしている感じ。
一人一人が自分のハンドルを持ち
未来に進み、晴れている光へ
個性と意見と意志を持っているようなにも。
後はハンドル持つのは自由だけど
責任を持ってくれますように。
家族・仕事・時代の空虚──見はらしを失った私たちの物語
見終わって「一体何を見せられたんだろう…」という感覚になった。
監督の意図や物語の意味がすぐに読み取れない作品は少なくないが、それでも多くの場合、登場人物の苦悩や葛藤、善良さに共感を感じたり、成長や変化にカタルシスを感じたりする。しかし、本作については、それらが自分の中にうまく起動しない感じであった。
主人公の青年、黒崎煌代演じる胡蝶蘭の配達ドライバーの蓮くんは、ほとんど自分の気持ちや、意味ある言葉を語らない。その場に合わせて言葉少なに語り、時々感情的反応を見せる。
彼が唯一、積極的に自分の意思を示したのは、崩壊した家族の再会を実現することだ。しかし、そこでも彼は黙っていて、どうしたいのかがわからない。家族の再生を試みたいのではなさそうだ。ラスト近く、父の精神崩壊のような涙に、彼は「ざまあみろ」と言わんばかりの邪悪な(僕にはそう見えた)笑顔を見せた。
ーーこんな主人公や家族のどこに、どう共感すればいいのだろう…。
…と、鑑賞直後は思ったのだが、一晩経って、自分なりの解釈・映画の構造が見えてきた気がする。そして、現代の家族と個人の困難を描いた名作ではないかと思い始めている。キーワードは空虚さ(=空っぽ)だと思う。少し考察してみたい。
本作の類似作品をあげるとしたら、山田太一「岸辺のアルバム」ではないだろうか。1977年に放映されたテレビドラマ史上の名作である(僕は原作小説の方しか知らない)。世間的に認められる「絵に描いたような幸せな家族」の裏側と崩壊、その再生の予感を描いた社会派のドラマだ。
夫婦(働く夫と専業主婦の妻)と子供二人の家族の物語であるところも、この映画と共通している。こうした家族はかつては〝標準世帯〟と呼ばれて、日本の制度(税制や社会保障など)は、この世帯を基準にして作られてきた。だから、家族の物語であると同時に、日本社会の〝標準的な幸福な生き方モデル〟に沿って生きることの困難を描いている。本作も同じ系譜にあるように感じる。
井川遥が演じる妻は今では少数派となった専業主婦だ。ただ、少なくとも2000年前後までは、こうしたライフコースは多かった。かつて女性の就労率グラフはM字カーブと言われて、結婚・出産前後で一度仕事をやめて、子供の成長などに合わせて、再び就職する(多くの場合、非正規雇用で)形だった。ただ、当時、高学歴女性の就労率を調べたら、就労率は回復せず、右肩下がりに近かった。それは、夫が高収入層であることから可能であったのだ。
おそらく本作の妻もかつては夫と同じ建築デザイナーで高学歴専門職女性。結婚とともに仕事を辞めたようで、このように女性がキャリアを諦め、子育てに専念するのは、つい最近まで少なくなかったはずである。
このような標準的な生き方、標準的な家族を無条件に良き生き方として受け入れる(受け入れざるを得ない)ことが、さまざまな困難につながる可能性があることを本作は描いているように感じられた。
遠藤憲一演じる建築家・ランドスケープデザイナーの父。家庭を守るためにも仕事で成功しなければならない。ただ、自分の内的動機ではなく、暗黙の社会ルールに従っているだけのようだ。だから、守ろうする家族との感情的な絆が持てていないし、自分の中から湧いてくる愛情みたいなものが弱い。内的必然性がないから、どうやって家族に接したら良いかわからず、〝標準的に正しい態度〟を取ってなんとか乗り切ろうとする。それは仕事においてもそうである。
芸術的な仕事でもあり、同時に社会を設計する大きな仕事でもあるのだが、クライアントの要望に応え、売上を上げ続けることに汲々としている。その後、デザイナーとして成功しても、何のためにその仕事をするのか、その仕事の意義や目的を語れない人物だ。その内的な空っぽさを台湾人の社員に見透かされたりして、尊敬も得られていない。
これは個人の問題ではないと思う。僕自身も社会的意義のある仕事と思い、ある仕事を続けてきたけれど、経営会議や事業開発会議で話されるのは、売上利益計画のことばかりであった。そして「今はそんな理想論を言っている時ではない。まずは売上利益を計画通りに上げることに集中するべきだ」と言ったような緊急対応が常態化していた。それが年々ひどくなってきたように感じるのは、会社の事情もあるだろうが、日本の状況とも関係あるだろうし、新自由主義的な企業運営が広がる中での必然的結末でもあったと思う。
そんな状況の中では、この父のような仕事に意義・意味を語れない人間になるのも当然かもしれない。つまり働くのは「生存のため」であって、内的必然性や社会的な意義を実現する「実存のため」の仕事なんて滅多に手に入らなくなってしまっている。
彼の息子、主人公の蓮もそれは同様だ。彼が花屋さんで働くのは、生活費のためで、それ以上の内的理由(職場が好き、人間関係がよかったり尊敬できる人がいる、意味のある仕事だといった理由)は持てていないようだ。もちろん、親からの仕送りもなさそうだから、生存のために働かなくてはならない。
彼の職場にも問題がありそうだ。花屋さんは、小学生のなりたい職業ランキングの上位常連の、憧れの仕事でもある。それなのに職場に活気も会話もなく、淡々と組立ライン労働者のように働き、そして突然「もう辞めます!」と叫んで職場を去る女性がいる。誰も引き留めない。
自分の「好き」を押しつぶされるほどの職場環境・労働環境なのだ。蓮くんが、ホームレス支援の炊き出しをランチにする場面があるが、彼は当たり前のようにそうしている。実際、生活が相当厳しいのだろう。東京で一人で働きながら暮らすのは楽ではない。それがアルバイト扱いなら尚更不安だし、苦しいのは当然だ。
彼には、何かやりたいことはないし、自分らしさなんてわからない。そもそも、それを追求する余裕がない。組織に入ってうまくやるような社会的スキルも身につけられていないようだ。それは父親もそうだった。父は、自分を殺し、周りに従い同調することで生存し、成功もしたけれど、常に〝それ以外仕方ない〟からしていたに過ぎなかった。
木竜麻生(「秒速5センチメートル」でも印象的役柄を見事に演じていた)演じる主人公の姉は、弟よりもうまく適応しているようだが、かなり危なっかしい。父を恨み、家族はもう諦めている。母親は父との家庭を夢見ていたが、子供には愛情を持っていなかったと思っている。そして、夢見た家族の姿を実現できず、絶望死のような最後を迎えたのを見ている。
それなのに、一緒に暮らして何かを作り上げようとも、特別な相手だとも思えない〝ただ当たり前のように一緒にいる相手〟との結婚に進もうとしている。母の人生の再演に向かおうとしているようだし、本人も不安を感じている。
もちろん外的な環境や暮らし方を変えることで、何かが変わったり、新しい発見があることもあるだろう。でも、内的必然性があまりにも空っぽだと自分の内側からエネルギーというものが全く湧いてこない。
だから、井川遥演じる母親の最後の言葉も「私は横になっているのが好きなの」というようなものだった。内的必然性を喪失し、生きるエネルギーが無くなってしまっていた。
この映画は、たまたま渋谷Bunkamuraル・シネマで観た。その映画館のある宮下パークが主要ロケ地で、(僕が誤読していなければ、)遠藤憲一演じる父がこの宮下パークをデザインしたという設定だった。
かつての宮下パークの場所は戦後のバラックからの名残を感じる場所だった。ホームレスの人が定住していて、この世界での生存の困難さが可視化されている場所でもあった。それが、宮下パークですっかり漂白され、生きていくことの困難さは不可視化された。台湾人社員が言う通り、ここに生活していた人たちはどこにいったのだろう。この論理的空洞に、デザイナーの父は答えることができなかった。
この映画のテーマであろうタイトルの「見はらし」は何を言いたいのだろうか。
少なくとも、この映画に登場する人(そして現実もそうだけれど)現在を生存するだけで精一杯で、未来を見通せてはいない。そして、内的な基準は確立できておらず、だから内的基準から見えてくる未来の目標や、人生の目的も持てていない。
そして宮下パークに象徴されるように、現代の生存の困難さは不可視化されて、漂白され表面上は美しくなった社会で生きるしかない。「見はらしなき世代」の反語、あるいは省略としてのタイトルではないだろうか。
団塚唯我監督(1998年生、26歳)は、構造的にわかりやすく何かを告発することなく、直感的に鋭く空っぽな個人と社会を描き出したように感じた。監督本人の中にも、この映画の登場人物たちのような空っぽさがあって、空虚さを生きる自覚があるのかもしれない。そしてその現実の空虚さを写し取った物語として見事に描き切ったようにも感じる映画であった。
オーソドックスな映画っぽいゆったりとした語り口と巧みな作劇が心地よい「東京映画」
始まって数分で「あ、この映画、自分と波長が合うな」と感じました。ゆったりとした語り口で間(ま)の取り方が絶妙です。最近の映画を観ているとなんだかTVドラマのようなせわしない語り口にがっかりすることがあります。我々は入場料を払って一定時間暗い場所に閉じこもって椅子にゆったりと腰かけて映画を観ようとしているわけです。面白くなければリモコン片手にザッピングして別口に移動なんてこともしないし、スマホを弄りながら、部屋の掃除をしながら、お茶碗を洗いながら観ているわけでもありません。映画館で一定以上の集中力を保ちながら鑑賞するに足るだけの映画が観たいだけです。その点、この作品は合格です。話の中身を「説明」するのではなく「描写」して見せてくれています。
物語は夫婦と子供2人(姉、弟)の車を使っての家族旅行のシーンから始まります。サービスエリアで食事をした後、家族はレストランから駐車スペースに停めてある車に戻るのですが、母親(演: 井川遥)だけが少し遅れて歩いていて、他の3人は車のところまで到着しているのに、彼女は横断歩道を渡ろうとするとまずは大型トラックが目の前を通り、次に普通の乗用車が2台ほど通りといった具合で、道の手前で少し待った後、ようやく、道の向こう側の3人に合流することになります。これ、なんてことのないシーンのようなのですが、その後の母親を暗示しているようで…… また、家族が海辺のコテッジに到着した後の駐車場と庭を入れたロングショットでは、車の側にいる父親(演: 遠藤憲一)が息子に用を頼もうと声をかけるのですが、息子はひとりでサッカーボールのリフティングを黙々とやっており、父親の呼びかけに反応しません。ロングショットで父子の間に広い空間があることもあって、この親子関係、大丈夫かと心配になります。
そして、話は10年後へとジャンプして、仕事中心で家族を顧みなかった父親は建築家として成功していますが、母親は既に亡くなっています(死因は明らかにされませんが、自殺ではないかと思われます)。姉(演: 木竜麻生)は恋人と同棲生活を送る予定があるような感じで結婚を考えてるみたいです。弟の蓮(演: 黒崎煌代)がこの物語の主人公っぽい感じなのですが、何か大人になりきれず、漂流してる感じ。彼は生花店の配達の仕事をしています。まあ家族としてはもうバラバラです。そんななかで、海外から戻ってきた父と蓮の再会を始めとする細かなエピソードが丁寧に描かれます。
建築家である父親は渋谷の宮下公園の再開発で中心的な役割を担ったようで、進行する物語のそこかしこに渋谷の風景が挿入されます。何か汚いものを隠して作った綺麗で清潔な街として描かれているのではないかという印象を持ちました(最近の言葉で言うと「ジェントリフィケーション」という含みがあるのかな)。全般的に美しい画が多く、音楽の使い方は抑制的で時折り、おやっといった感じの劇伴が入ります。作劇がとても丁寧です。物語が途中からファンタジー展開をするのですが、そこに入る前の父子3人で食事をするシーン(冒頭に出たサービスエリアのレストランに10年ぶりに集まるんですね)の間の取り方が絶妙で、ストーリーにタメみたいなものを作ってるなと感じました。そして、レストランの天井の照明器具の電球が落下してきて床でガッシャーン。そこからファンタジーに突入です。
団塚唯我監督は1998年生まれの27歳と非常に若く、若さゆえの生硬さが時折り気になるところはあるものの、この作品自体はなかなかの出来栄えで好感を持ちました。たぶん、彼はかなりの映画オタクではないでしょうか。本当に楽しみな若手が出てきたと感じましたので、さっそくチェックを入れておきました。ネット検索してわかったことですが、彼のお父上はランドスケープデザイナーで宮下公園の再開発に携わったとのこと。息子としては何か思うところがあったのでしょうか。
さて、ファンタジー展開した物語は終盤で時空を超えたようです。私はこの映画を Bunkamura ル•シネマ渋谷宮下で観たのですが、終盤の姉と弟の立っている場所が分からず、ヒューマントラストシネマ渋谷あたりまで歩いて行って位置関係を確認しました。そして、あることに気づきました。なるほどね。これはやっぱり「東京映画」です。
子どもたちに見えていたものは、案外本物の人格なのかもしれません
2025.10.23 アップリンク京都
2025年の日本映画(115分、G)
幼少期に壊れた家庭に向き合う子どもたちの感情を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本は団塚唯我
物語は、栃木にあるコテージにて、ある家族が休暇を過ごす様子が描かれて始まる
父・高野初(遠藤憲一)は駆け出し中の建築デザイナーで、あるコンペの結果を待っていた
妻・由美子(井川遥)は元デザイナーだったが、娘・恵美(高校時代:石田莉子、成人期:木竜麻生)と息子・蓮(荒生凛太郎、成人期:黒崎煌代)を育てるために家庭に入っていた
その日は久しぶりの家族揃っての遠出だったが、そこに初のコンペの結果が届いてしまう
初は妻にコンペが通ったことを報告すると、彼女は「この3日だけは子どもたちのために」と不機嫌になってしまう
だが、コンペを通すことで家計が潤うと考えている初は、休暇を切り上げて東京に帰ろうと考えていた
初は翌朝には東京に向かおうと考えていて、その日だけは子どもたちと過ごすことに決めた
恵美と蓮を海に連れて行った初だったが、由美子はそのままコテージに残ることになる
それから10年と半年が過ぎ、家族はバラバラになっていた
初は仕事を選び、今では著名な建築家として名を馳せていた
宮下公園の再開発事業で功績を上げた彼は、その展示物のギャラリーを催すために日本に帰ってきていた
蓮は花屋の配送員として働き、恵美は近々恋人・明(中村蒼)と同棲し、ゆくゆくは結婚しようと考えていた
蓮は結婚のことを父に言わないのかと言うものの、彼女の中で父親はすでに過去のものとなっていて、義務も興味もないと言い切ってしまう
物語は、子どもから見た両親の離婚を描いていて、家庭よりも仕事を取った父と、それに愛想を尽かした母との関係に悩む様子を描いていく
悩むと言っても、それはその関係破綻に対して「自分たちの責任があったのでは」と感じている部分があって、母親の気持ちに寄り添えなかったり、あの時こうしていればと言う後悔が残っていたことが描かれていく
そして、そう言った根幹にあるモヤモヤが今の自分たちの生活に影響を及ぼしていて、蓮はやり直したいとは思わないけどはっきりさせたいと考えていて、恵美は過去のものとして封印したいと思っていた
後半では、「あんなことになった母」がPAに登場するのだが、あれは家族だけが見る幻想のようなものなのだろう
母が失踪したのか、自殺をしたのかは定かではないものの、感覚的には後者であると思う
再会の母は10年経っているのに若々しく、それは家族そうであってほしいと思う母親のイメージなのだろう
彼女と再会することで、恵美は自分の感覚が正しかったことを再確認するのだが、これは両親の離婚問題は結局「子どもを言い訳にした男女関係のほつれ」であると悟っている部分があった
それに対して、蓮は男女関係には疎い部分があって、泣き崩れるちちを見て「こんなくだらないことにこだわっていたのか」と笑ってしまう
そうした過去は単に過去であり、そういったものが可視化されることで「見はらし」を得ることに繋がっていくのだろう
自分の中にあるモヤモヤにどう向き合うかは世代によって違うが、映画内で描かれる若者というのは、このような感覚を持っているということを示唆していたのかな、と感じた
いずれにせよ、子どもの頃に両親の不和があって、その原因が自分ではないかと考えたことがある人には刺さる内容で、父親が偉大だったからこそ巻き起こる感情というものがあるのだと思う
どうしようもない父親とか、仕事を選んだ割には結果も出ずにアルコールに埋もれていたとかなら起きない可能性もあるのだろう
それぞれが過去のある瞬間を後悔しているものの、それをどのように埋め合わせるかは難しいところがあって、両親の離婚問題の余波というのはこういうところにあるのだと思う
結局のところ、離婚するしないは男女問題であり、どんなに言い繕っても子どもの存在は都合の良い悪いを含める言い訳でしかない
そう言った意味において、なんとなく過去を思い出すなあ、という映画だったように思えた
再開発/再構築で得られるものと失われるもの
高校時代に最低でも週に6〜7日は過ごしていた渋谷も今ではすっかり様相が変化して迷子になりそうだし、自分が知っている宮下公園の姿は既に跡形もない。
街の風景も家族の在り方も、その年代によって異なる姿を見せ、どこで・誰の立場で見るかによってまったく違って見えてくる。
再開発によって得るものもあれば失うものもある。再開発によって恩恵を受ける人々も多数いるが、それによって被害を被るのは常に弱者であり、マイノリティーたちだ。親の不和で家族が解体されたときに犠牲になるのも常に子どもたちであるように。
仕事が軌道に乗り始めのめり込みがちな父親と、仕事より家族との時間を優先して欲しい母親の間の亀裂。せっかく別荘で休暇を過ごしに出かけてきたが、仕事の電話が入ってとんぼ返りする父親。そのしばらく後に母親が亡くなり(原因への言及はないが、精神的にかなり参っていた様子なので自死の可能性も高い)父親は自分のキャリアのためにシンガポールへ子ども達を置いて出ていく。親に捨てられたという思いと共に成長し、10年後には、無理して斜に構えながら社会を見て「家族」という概念に距離を置くことで寂しさを忘れようとする姉と、子どもがすねたまま成長した寂しさがゆえに直接的に怒りを露わにする弟となって父親と再会する。
そうでなくとも世知辛い世の中。黙々と文句を言わずに働く社員もいれば、理不尽さに我慢できずにとっとと仕事を辞める社員もいる。
そんな社会で過去を忘れて前向きに生きるのは薄情なのか?
でも、薄情にもとっとと仕事を辞めた社員は時折り沖縄旅行を楽しみながら颯爽と渋谷の街を電動キックボードのLUUPで駆け巡っている。
かつてのしがらみに拘泥せず、達観したかのように世の中を「見はらし」ながら生きていくのが、ひょっとすると、現代の若者の生き方なのかも知れない。
まだ20代の監督による新しい感覚の作品。東京(渋谷)の街を切りとる額縁構図なども多用した絵作りも(冗長だという意見もあるようだが)個人的には嫌いじゃない。
天才監督現る! 既存の物語に収束しない独自さが素晴らしい。
初(父:ハジメ)が蓮と偶然に再開して(最初互いに顔を見ただけ、翌日の再開)、蓮は父に「わかってないな」と毒づく。
しかし父はいったいあの状況で何が言えたのだろう。
そして、蓮は、父がどのような態度をとれば納得できたのだろう。
蓮はその後、車の中で泣きじゃくる。タクヤはそばで泣き顔を見てしまうが、何が起こっているかわからず、そっと知らないふりをする。
ポイントは蓮自身、自分の感情を説明できないだろう点だ。
(このタクヤが全編よい味を出している。)
対して、恵美(娘)は
「蓮はなんとなくお父さんが反省して、できればもう一度家族三人でとか、そういうことを期待しているのかもしれない。でもね、もうそういう、現状を無理に変えようとか、いわゆる向き合うとか、そういうの私には必要ないの」
「私もう昔のこといいの」
このあたりのセリフはいかにも既存の物語にありそうな内容だ。
このいかにもの達観が「見はらし世代」と感じた。
さらに、
「私だけが前向いてて何か悪いみたいじゃん」
とくる。
姉の恵美のセリフはまるで安手のカウンセラーのセリフを自分で構築して、なんとか自分を保っているように見える。
弟の蓮は「ていうか、こっちが前だよ」と答える。
この蓮のセリフ一つでこの映画は稀代の名画となった。
息子と父の心のありようは、私たちが持っている物語のどこにも収束しない。
一言で要約できない。
この微妙で複雑なこころのありようは、ハリウッドの対極にある。
父は、死んだ母の幻影(父も、姉も、弟もはっきりと認識しているが、母には夫(父)しか見えていない)を送った後、「すまない」と一言のあと、泣き崩れる。
息子が泣いたように。
蓮が黄色のポーチを注意してもやめない。
33000円の胡蝶蘭の花を一輪切り捨て880円がこれだという。
自動販売機で缶コーヒーを買うシーンが繰り返される。
この空気感の演出はずば抜けている。
初(遠藤憲一)は自分の理想の為に家族を捨てるわけだが、そこに葛藤がある。
蓮も簡単に父を恨むことができない。
世に、ひどい父親像はいくらでもある。
それに比べて初は現代的なポリコレの中にいる。
渋谷というどんどん汚いものをきれいなもので覆い隠す舞台背景が秀逸である。
最後にLUUPに乗った4人の若者が登場し蕎麦の話などする。
これは唐突であった。
Offical Bookを参照しないではわからなかったのが残念。
最後の女性は「奈月」。蓮が解雇されたとき、こんなところで働けませんといきなりやめた女性だ。
蓮の何かをこれから補完する象徴なのだろうが、さすがにこれは分からない。(これで星半個減点)
時間の前後する物語はついていくのが大変だが、車載テレビの、何度付け替えても落ちてくる照明の話で、場面の時間を切り替える手法は面白い。(大成功とはいいがたいが…)
団塚唯我 1998年生まれ。27歳
脚本と監督。
天才現る!! ブラボー!
見逃さないでよかった。
新時代のマルクス啓蒙映画です
誰も気がついていないだろうけど、プロデューサーと制作配給に入っているシグロ(会社)と言う会社はコレまで三里塚や辺野古に沖縄関連、そして反原発に再開発反対運動を背景にした映画を制作してきた。
本作も意味不明に感じている人はいるかもだけど、明らかに渋谷の再開発による不条理(資本主義的な社会に対する反対意思)を描いており、主人公家族の崩壊をそのメタファーとして配置している。
しかしこの時代にまだアップデートして活動家たちが左翼活動に勤しみ啓蒙活動をする映画屋に心底辟易とさせられる。
誰も語らないだろう事実として、シグロという会社を詳しく調べてみてらよくわかる
見なおし世帯
帰宅なのか引っ越しなのか旅行なのか分かりづらい導入から、だらだらプロローグ。
ここ丸々なくても成り立つ気がする。
しばらく蓮の仕事の様子を見せてから、父との再会。
粗筋では「偶然」ってなってるけど、明らかに分かってて配達買って出ましたよね。
再配達から改めて顔を合わせるが、接し方を間違える父とガキっぽい反応する息子。
父親の会社なのに、そのままクレーム行くんだ…
合間に姉の引越しだの結婚だのお相手との微妙な空気だの見せるけど、意味あったかな。
初の、仕事だの社員だの会社だのの話も、何も知らないこちらには何のことやら。
蓮の「部屋はムリ」も謎だし、最初の配達の横断歩道での微妙なスローも無駄。
あんな対応しといて父に会いに行った蓮の心情が分からんし、展示場は戸締まりしないの?
そこからムリヤリ家族会議…と思ったら喋らんのかい。笑
何がしたかったのか、理解不能。
電球落下には周りノーリアクションだし、いきなり母が現れるし、謎展開すぎる。
マキさんSAに置き去りだし。
蓮と恵美がそれぞれ後悔を語ったり、初が妻と話したりしたけど、あれで解決?
車返してないから後輩くんもクビですよね。
都市を撮りたいだけにしか見えないカット多数で、他もやたらと冗長。
言いたいことも分からないし話もオチてない。
吉岡睦雄はいつも通りの立ち位置だったけど、服部樹咲は一体なんだったんだ…
瑞々しい感性と新しいスタイル…それだけで良いハズがない。
設定があり、仕掛けがある。
その中の登場人物を丁寧に描写し、映画的技法で切り取っていく。
そんな映画があっていいし、数々ある。
だが本作はあまりに表面的で雑な造りをしていて、とても丁寧な描写と言えない。
遠藤憲一と井川遥が演じる両親のありきたりな設定と描き方。
木竜麻生が演じる姉の結婚相手である中村蒼が話すセリフの、何とも考え込まれてない表面的な薄ら寒いさ。
父親の新しいパートナーと姉の真面目に考えて設定しているのかと疑問しかない関係性。
極めつけは、取ってつけたような電球話からの母親の再登場。
その仕掛けを受け入れたとしても、その描き方で良いのかと言う疑問しか残らない雑さしか感じられない。
巻き込み事故みたいで申し訳ないのだが、私は今の黒沢清監督が好きではない。
ただ自主映画、商業デビューから流れてきての現在には納得するものはある。
団塚唯我監督が長編デビュー作から、この様な作品を撮るのは疑問と危惧しか感じないのだが、ただ黒沢清監督と逆の流れをたどっていくのであればと思える才気は感じ取れた。
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