「もはやアメリカに「西部劇」は存在しない。」エディントンへようこそ 暁の空さんの映画レビュー(感想・評価)
もはやアメリカに「西部劇」は存在しない。
本作は、もはや現代アメリカには「正義としての暴力」を支える物語が存在しないという冷酷な事実を、西部劇文法をというアメリカ映画の古典的文法をあえて用い、それをことごとく意図的に解体して主張していく。
保安官、辺境の町、無法者、決闘、街は救われる、という西部劇の典型的記号を配置しつつ、現代が舞台の本作では善悪の対立も、正義の決闘も、救済のカタルシスも成立させない。ことごとく裏切ることで現代アメリカの問題点を浮かび上がらせる。
主人公は秩序を守ろうとするが、理念を語らず、敵を名指しせず、自らを物語化しない。その沈黙は倫理的ではあるが、分断と過激化が進む社会においては致命的な弱さとなってしまう。語らない者は中立ではなく「怪しい存在」と見なされ、やがて主張ある者たち――過激派、扇動者、物語を操る者――ここでは義母であり、妻であり、妻の相手、に利用され排除されていく。
後半の展開は、確かに理解不能な面がある。ただこの理不尽な暴力は欠落ではなく意図のように感じる。誰が敵で、なぜ狙われるのかが最後まで曖昧にされることで、観客自身が「理由なき敵意」に理不尽に晒される感覚を追体験させられる。
あえて答えを与えないことで現代社会における暴力と正義の空洞、その中で沈黙する者の敗北を身体感覚に刻ませる。理解できないのではなく、理解不能であること自体がこの映画の正解であり完成形なのだと思う。
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