「(アリ・アスター+ホアキン・フェニックス)✕A24=クセ強でクセになる」エディントンへようこそ LukeRacewalkerさんの映画レビュー(感想・評価)
(アリ・アスター+ホアキン・フェニックス)✕A24=クセ強でクセになる
公開初日@TOHOシネマズ六本木ヒルズ。
いやはや、久しぶりのアリ・アスター。
そして、もはや「専属俳優」のホアキン・フェニックス・・・って、AVじゃないんだからねw
前作の『ボーはおそれている』はロッテン・トマトで「神経症的オデッセイ」と評されたらしい。Wikipediaによると「日本公開時のキャッチコピーは「ママ、きがへんになりそうです。」だった」とある。確かに私も「監督、客のきがへんになりそうです」と言いたかったのを憶えている。
さて『エディントンへようこそ』だ。
予告編では単に“EDDINGTON“だったので「〜へようこそ」は余計だと思えるが、配給は原題通りに地名だけをきっぱりと置くことに不安を覚えるらしい。
しかしこちらはエディントンを目指す観光客でも何でもないので「ようこそ」と言われても違和感しか残らない。
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それはさておき。
アリ・アスターは今度はどんな時空間の歪みを見せてくれるのか。
予告編を観た限りでは、コロナ禍のさなか、小さな田舎町でマスク着用の是非を巡って分断が進み・・・、という、なんだかふつうの社会派ドラマに見えたのだが。
蓋を開けてみたら、確かにきっかけはコロナだった。
ところがそこに、あの国の持つ壮絶で根深い社会問題がこれでもかと積み重なってゆく。
白人vs黒人vsヒスパニックvs先住民の確執、保守的な中高年vsブラック・ライブズ・マターの若者たち、保安官vsアンティファ、陰謀論とカルトに染まる人びとと家庭崩壊、かつて銅の採掘で栄えながら寂れてしまった街、再興するためのデータセンター誘致計画の推進派と反対派の対立、そしてこれらの問題への対処を巡って紛糾する町長選・・・。
こうしたアメリカにありがちな、同じような問題のいくつかを抱えたコミュニティも、現実にあることはあるとは思う。
アリ・アスターの脚本が秀逸なのは、それらの問題をエディントンという架空の小さな田舎町にあり得ないほど「全部入り」でブチ込んでしまったことだ。
しかも最初からそれは露呈していない。
一見ゆるゆるとした田舎町の水面下で徐々に熱せられ、住民たちにとっての「些細だけれど現実的で切実な問題」に変換され、問題同士が絡み合う。一つの綻びが次の問題の導火線となる。
ここに、ジョー保安官(演: ホアキン・フェニックス) の妻(演: エマ・ストーン)の夫婦関係と、同居して間もない陰謀論者の義母とのストレスフルな日常が重なって、ジョーを追い詰めていく。
この、ごく個人的なストレスが、町に潜在する数々のストレス源によってじわじわと加速されていくプロセスの見せ方がすごい。
やがて、正気と狂気の狭間をふらふらと蛇行するような精神状態のジョーが、ライブ配信で決定的な一線を超える。
そこからの常軌を逸した展開は実にスピーディで、エンタメ度の高さとスリルを感じた。
しかしアメリカの極左テロリストたるアンティファは、プライベートジェットで乗り込んでくるのか? すごく潤沢な資金力だなw ←ってそこじゃない。
アンティファの登場と最終決戦は、ここまで来ると荒唐無稽さの頂点を迎える。もはやジョーの悪夢の中の出来事にしか見えない。
そしてラストで含みを持たされたのは、ジョーの陰謀によって町長とその息子の殺害犯に仕立て上げられ、アンティファの爆弾で吹っ飛ばされながらも一命を取り留め保安官補に復帰したマイケルの存在だ。
傷だらけの顔となったマイケルが砂漠で淡々と銃撃の練習をしているシーンは、植物人間状態になりながらも次期町長となったジョーの行く末を暗示させる。
エンドロールに掛かってロングショットで浮かび上がる、完成したデータセンターの仰々しくも安っぽいネオンサインはとてもシュールに見えた。
テック企業に牛耳られているアメリカ社会への皮肉なんだろうか。
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この作品で、アリ・アスターは「わかり合えなさ」と「分断」と「破綻」を徹底的に描いた。
それも『シビル・ウォー』や『ワン・バトル・アフター・アナザー』とは違って、パロディの風味がキツい、非常にクセの強いトーンでだ。
そのキツい匂いが、鑑賞後もまとわりついていて困惑する。
予想はしていたが、相変わらずクサヤのような作品を作ってくれるものだ。
こうなると、じゃあ、次は何を作るのか?と気になって仕方がない。
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