旅と日々のレビュー・感想・評価
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つげ義春の世界を三宅唱が静かに描き出す、“何も起きない”ことの美しさ。
この映画を観ようと思ったのは、やはり漫画家・つげ義春(88)の原作という点に惹かれたからである。
それに、私自身も一人でふらりと旅や散策をするのが好きなので、タイトルの「旅と日々」という響きに心を動かされた。
そしてもう一つの理由……河合優実さんの出演。これも外せない。。。
本作は、つげ義春の世界観を現代に蘇らせた静かな旅の物語。
「自分には才能がない」と思い悩む脚本家の孤独と再生を、三宅監督らしい繊細なタッチで描いている。
映画は90分構成で、前半が「海辺の叙景」(李さんの脚本で撮影した映画として劇中劇として描かれる)、後半が「ほんやら洞のべんさん」。
ロケ地は前半が伊豆諸島・神津島、後半が雪の山形・鶴岡と庄内地方。どちらも作品の雰囲気にぴったりであった。
前半の「海辺の叙景」では、渚(河合優実さん)と夏男(髙田万作さん)が登場。つげ作品らしい“影”と“間”を体現していて、特に展望台での夜景の会話シーンが美しい。
そして河合優実さん、高田万作さんの二人が、つげ作品の住人のように二人の雰囲気が作品にフィットしていた。
そして荒れ狂う海を泳ぐ夏央に向って渚が、「あなたすてきよ」「いい感じよ」というあの有名なセリフも再現されていた。
後半の「ほんやら洞のべんさん」は、打ちひしがれた脚本家・李(シム・ウンギョン)が、山奥のさびれた宿に泊まるエピソード。宿主のべん造(堤真一)とのやり取りはユーモアもあり、どこか人間くさい。
「宿を映画にしてくれたら客が来る」と提案するべん造に、「この宿に客が来ても対応できるのか?」と思わず笑ってしまった。
また、ウサギの“ぴょんちゃん”の名前の由来をめぐる会話も秀逸。
「なぜ子どもがいないのにそんな名前を?」という李の観察に、べん造が「もうええ、お前は人のことを勘繰るヤツだ」と返す場面も笑える。また、脚本家という職業の本質を見たような気がした。
そして、佐野史郎さんが演じる魚沼教授。原作にはないキャラクターだが、前半と後半をつなぐ“橋”のような存在で印象に残った。
令和の現代において、ここまでつげ義春の世界を丁寧に再現した作品は貴重だと思った。
前半の真夏と後半の真冬という季節の対比が、現実と非現実の境界をぼかし、観客を“つげワールド”へと誘う。
ただし、原作を知らずに観ると「何も起きない映画」と感じる人も多いはず。
でも、その“何も起きない時間”こそがつげ義春の真髄。
静けさの中にあるユーモアと、人間の哀しみを感じ取れる人にとって、本作は忘れがたい一本になると思われる。
ぜひ、原作漫画を読んでから映画を観ることをおすすめする。
以上
薄味
つげ義春の漫画2篇を原作にして、どう繋ぐのかと不思議に思っていましたが、アクロバティック!
まさか、主人公の韓国人脚本家が、1篇を映画化する、という作中映画でまず使い。
その出来を見て、「だめだ、私才能がない」と落ち込み、自分を見つめ直す旅に出てのエピソードそのものがもう1篇という。
作中映画は、「いかにダメで出来の悪い映画に見せるか」に注力し、ほんとに酷いんですが、その作品のヒロイン(主人公)が河合優実で、実に豪華な無駄遣いというか、意味なく出てくる水着シーンが、意味なくめちゃくちゃセクシーで大笑い。
そして、行き詰まって何も書けなくなった主人公に、旅に出たら?と唆す佐野史郎の大学教授の怪しさ。
旅先の旅館が満室で、古い古民家の宿に泊まることになるが、そこの主人・べん造のやる気のなさを演じる、堤真一の朴訥さ。
この二人のあまりの「つげキャラ」っぷりには爆笑。
ただ……映画として面白かったかと言われたら、かなり微妙。
うん、微妙。
油や塩は少ないのはいいが、七味をかけて刺激だけそこそこ、出汁の旨味やコクがない薄味な料理を食ったみたいで、物足りなさが残った。
肌で感じる、映画の中の退屈さに心留まる
ところどころのシーンにモヤっと……
つげ義春さん原作の漫画なので、舞台は昭和後半なのかなぁ、だとすると新島・神津・式根島などは空前のブームが訪れた時期に近いだろうけど、それにしては海辺(今回は神津島がロケ地)に賑わいが感じられず、先ずそこでモヤっと。
それに主役の脚本家(シム・ウンギョン)さんの鉛筆の握り方にモヤ、夏男がビーチで茶色の靴から履き替えた不ぞろいのビーサンとサンダルにモヤモヤ。
なかなかストーリーに集中できません。
それでも堤真一扮する宿の主人との絡みが始まるとジワリ、面白みが出てきました。
立ち寄った食堂のメニューに「おばこラーメン」とあったので東北地方(秋田でしょうか
)なのでしょう、朴訥な語り方が染みてきます。
まあ結局、人生って特筆すべきドラマは誰もが経験するものではなくて、小さな日々の積み重ねが各々の経験となり、その人を形成していくものなのでしょうね。
「ケイコ 目を澄ませて」とは異なる作風で、幅の広い監督さんだなぁ、なんて思いました。
つげ義春は良い
脚本家の作品世界と日常と、旅のちょっとした出来事に身を浸す心地よい時間。 シム・ウンギョンが自然体でリアルで、実にチャーミング。俳優然とした色が薄まった堤真一がちょうど良くていい。短いのが残念。
こいにこいする
映画から遠いところに佇む映画
『ケイコ目を澄ませて』(2022)・『夜明けのすべて』(2024) と観る者を驚かせつつ強く揺さぶり続けた三宅唱監督の新作です。
本作で一番印象的だったのは「言葉から遠い所で佇んでいたい」「私は言葉の檻に居る」と語るシム・ウンギョンさんの言葉でした。でも、その思いを伝えるには言葉がなくてはならないという自家撞着に陥ってしまいます。それが上の言葉に続く「しかし、いつも言葉に捕まってしまう」という事なのでしょう。
そうだよなぁと思います。「意味」とか「解釈」「分析」の様な物に僕も疲れ切っていると感じます。でも、だからと言ってそれを表す「言葉」のない世界に行ったら不安で堪らなくなる事でしょう。
同じ様に三宅監督も、 感動・共感・主張といった映画がこれまで背負わされて来た物から遠い作品を撮りたかったのかもと感じました。でも、それを表すのは「映画から遠い所で佇む映画」が必要なのです。
本作は、観終えてから時間が経てば経つほど色んな思いがジワジワ滲み出て来ます。これぞ映画の最高の愉楽のひとときです。
そして本作には励ましの特別な言葉がある訳ではないのですが、観終えてから「さあ、明日もがんばるか」と、う~んと伸びをしたくなりました。
先ず言葉ありき
『つげ義春』の漫画、
〔海辺の叙景〕と〔ほんやら洞のべんさん〕の二作を
原作にしていると、エンドロールでクレジットされる。
〔海辺の叙景〕は劇中で上映される映画作品として使用。
『河合優実』演じる、車に乗っていた若い女性が
浜辺で若い男性に逢い親しく言葉を交わす。
嵐が迫る海の中を誘い合い泳ぐシーンは印象的。
二人の間は、言葉で埋め尽くされている。
件の映画の脚本を書いたのは主人公の『李(シム・ウンギョン)』。
大学での上映会後のティーチインで、
学生の質問に対し「自分には才能が無い」と吐露してしまう。
(おそらく)韓国人の彼女は、日本に来た当初は
何もかもが新鮮で刺激的だったハズ。
それが今は日常に埋もれてしまい。
もはや新たに言葉を紡ぎ出せないでいる。
『李』はあてどない旅に出る。
トンネルを抜けるとそこは雪国で、
夜の外が白くなる。
まさに『川端康成』が描いた情景。
彷徨った後に山奥の宿に辿り着き、
主人の『べん造(堤真一)』の厄介になる。
以降が〔ほんやら洞のべんさん〕での展開。
ここで『堤真一』がいい味を出している。
訥々とした語り口。
仙人のような暮らしぶりなのに、
それなりの世俗への欲はあり。
彼と幾日かを過ごすうちに、
次第に主人公の心は解れ開かれ、
書くべき言葉を取り戻す。
九十分ほどの小品はドラマチックな事件が起きるわけではない。
が、思わずくすりと笑いを漏らしてしまう会話が冴えている。
登場人物たちは皆良き人で、
醸し出す善意がじわじわと観る者の心に沁みて来る。
言葉と対峙していた主人公は、
やがて自家薬籠中のものとする。
とは言え、雪の積もった道を帰る彼女の足取りは、
けして軽やかでもまっすぐでもないのだが。
「第78回ロカルノ国際映画祭 インターナショナル・コンペティション部門」での
「金豹賞《グランプリ》」「ヤング審査員賞」受賞とポスターにも書かれている。
(身につまされる)書けないでいる脚本家
日本の原風景
主人公を助ける朴訥な宿の主人
体験を経ての再生
異国の審査員の琴線に触れる要素は、幾つも揃っている。
平昌じゃなくてピョンちゃん
良い意味で"無"
旅と日々
僕らが旅に出る理由
三宅唱×つげ義春「旅と日々」完璧な映像と脚本と演出の映画でしか得られない多幸感が詰まった傑作。そして後半は場内で笑いが起こるまさかの優れたコメディです、マジで。前半「海辺の情景」編で、日常に行き詰まった2人の出会いと微妙な距離感の河合優実と高田万作のシーンも素晴らしいけど、前作「夜明けのすべて」で素晴らしかった松村北斗が光を浴びながら自転車に乗る希望のシーンをシム・ウンギョンがノートに脚本を書くシーンだけでやってしまうのがすごかったです。
あと「海辺の情景」編で河合優実が浜辺に着くまでのぶらぶらと歩くシーンも素晴らしかったな、ナミビアの砂漠の序盤のシーンを思い出した。今、映画で歩かせたら世界No. 1
風が吹いている、言葉を求めている
2025年。三宅唱監督。①夏の終わりの島になんとなく来ている若い女は、海辺に一人でいる若い男と出会う。何気なくお互いの境遇を話し合う二人。別れが迫った日、二人は台風で荒れた海へと泳ぎ出す。②という映画の脚本を書いた女性は仕事に行き詰っている。旅に出た東北地方の雪国でようやく見つけた民宿は変わった男が1人で経営していた。仕事も進まないなか、何気ない男との話のなかで、錦鯉の養殖をしようという話になって。
①も②もつげ義春原作の物語を元にしている。二つの物語のつなぎ方がすばらしい。旅をする女性の映画(フィクション)を作った女性が実際に旅をする(現実)という構図。フィクションをなぞる現実。言葉で世界をつくりあげることと、身体で体験すること。しかも、フィクション世界のなかの人物(河合優実)も妙にリアルな身体性をもって迫ってくる。また、フィクション世界でも現実世界でも海の波、山の木々、川の流れが、常に風に吹かれて揺れており、ここにしかない物質性を表している。ひとまず、身体/物質の映画だといえるだろう。「自然」の撮り方がすばらしいってことだ。
一方で、フィクションと現実をつなぐ脚本家は言葉を求めている。脚本は書こうとして書けないが、日記のようなモノローグが語られる。その文章が的確で胸に響く。①も②も人物たちに交流が生まれるのは、なにかが起るからではなく、なにげない会話からだ。つまり、言葉/会話の映画でもある。「人間関係」の撮り方がすばらしいってことだ。
三宅監督の作品「ケイコ 目を澄ませて」でも「夜明けのすべて」でも、言葉あるいは書くことが重要なテーマになっていた。この映画もまたその系譜にあるといえるだろう。
いい映画を見た。
鯉は美味しいのだろうか
リアリズムの宿
言葉の誕生によって私達は多大な恩恵を受けてきましたが、それと引き換えにもう世界を言葉を介してではないとみれなくなってしまっています。赤ちゃんや数十万年前の人類のようにありのままに世界を見る事ができなくなっているわけですから、そう考えると恐ろしいのですが恐ろしいと思っていないで日々過ごしているのでそれはまた別の意味で恐ろしいと思います。
芸術というものは基本、この厄介な「言葉」というものを取っ払って世界をこちらに提示するというのが任務だと私は思ってます。絵も音楽も、言葉を使って作り上げる小説でさえ同じだと思います。
つげ義春の漫画の面白さを私には到底説明する事はできませんが、私「俺あの場面めっちゃ好きなんだよね」友人「めっちゃわかる俺もちょー好き」私「な、だよな」みたいな話にはなります。
主人公の女性が書きたい脚本とはまさにそういうもので、言葉の檻からどうやって逃れることができるかという事と格闘しています。孤独がテーマとか〇〇がテーマとかそんな矮小化されたものは作りたくないと思っているのです。しかし自分の脚本作品は〝それっぽい何か〟にしかなっておらず落ち込みます。
そしてあることがきっかけで彼女はカメラを手に入れます。弟の方の佐野史郎が言うように写真を撮るという行為がなんか楽しい、というのは人によってはシャッターを切る瞬間言葉から解放されているからではないかと推測します。そんな新しい武器?を持ち旅に出ます北国に。そしてあるカットで私の脳裏に国境の長いトンネル、、、という文章が反射的に浮かんでしまい言葉に支配されている事を痛感し、彼女の問題は私の問題にもなってきます。
この辺りから話は後半に入って行き、最後までいい緊張感を持ったまま本当に面白く観れました。
堤真一とのやり取りの中で主人公が自分達の経験した事をメタ的にみているという内容の事を話すると、おめえよく喋るなというような事を堤真一が言います。そのセリフが私にとってこの作品のパンチラインでした。そしてこのセリフを書ける三宅唱監督、やっぱり凄いとと今回も前作同様確認させて頂きました。尺も私には丁度良い。
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