旅と日々のレビュー・感想・評価
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傷ついた言葉
日本では、傷ついた時にどうして東北へ行くのだろう。
険しい山、硬く締まったように感じる海、朴訥な人々、突き放されているようで見守られているようなそんな感覚が傷心の人びとを招くのだろうか。
この映画は主人公である脚本家の李(シム・ウンギョン)は自身に迷いがある。自分が書いた
脚本に自信が持てず才能が無いと自嘲する。
彼女が書いた脚本の映画世界は暖かく気候の良さそうな島なのに台風で大雨が降り、大風が吹き、海は荒れ、魚の死骸や土左衛門により死が想起される。
冷たい世界。彼女は映画の中に自分を観ている。
恩師が亡くなり形見として貰ったカメラを持ち旅行に出ることを思い立ち山形へ。
雪の積もる山形は風が強く寒いが、手に取った雪は白く冷たく優しい。
そこで出会う宿屋の主人(堤真一)は何があったか詳しくは語られないがいろいろあったようで時の止まったらような茅葺き屋根の家で 1人で宿屋を営んでいる。
人生を達観しているのかと思ったがそんなことはなく、本当にしょうもない親父である。
しょうもないが人の温もりを感じさせてくれる。
李はこう独白する。「日本に来た時の驚きや恐怖はなくなり、感じたことは全て言葉が追いついた」(この引用は正確じゃないと思うがこんなかんじのこと)。
脚本家であるということもあるだろうが彼女は言語による観念的な視点で世界を見ている。シム・ウンギョンはそんな李の姿をよく演じている。
全てに言葉が追いついたと言う割には、彼女は自身に関わるごく簡単な質問に答える際に言葉を詰まらせ即答できない。言いたいことがあるのに言葉に出来ない。
この映画には日本語、イタリア語、韓国語、山形弁、そして李の韓国人として第二言語として学んだ日本語が存在する。
李が感じる言語的で観念的な混乱を山形での触覚と行動の体験が回復させる。
観客も彼女と同じように五感を刺激され記憶にある自然世界の感触を思い出すだろう。
彼女は自分で思うほど自分を言葉に出来ていない。
自分が何であるのか。
それを見つけられる気がするから人は旅に出る。
画作りや脚本に驚きはない。 三宅監督だから撮れた!というショットが...
味わい深い。 仕事をしていて適性や才能と向かい合ったことがある人に...
無力を感じる力
冒頭のハングルの筆記シーンで同期完了
太ももと膝小僧
独特の世界観。
難しいことは考えず、スクリーンを眺めていよう。
河合優美が出てきた前半は耐えられたが、後半は眠くなってしまった。。
前半は、ある韓国人女性脚本家の書いた脚本の映画の映像と、脚本家の女性の話が交互に進む。
脚本は韓国語、心の中の言葉は韓国語、日本にいる彼女が実際に話す言葉は日本語。
そして後半は、その脚本家の旅が描かれる。
河合優美が出てきた前半は耐えられたが、後半は眠くなってしまった。
予告がすべてだったかな。
それ以上、超えることはなかった。
河合優実は良いですね。
決して美人じゃないけど、雰囲気のある女優さん。
『少女は卒業しない』を劇場で見て以来、『ひとりぼっちじゃない』『あんのこと』『ナミビアの砂漠』『八犬伝』『敵』『悪い夏』と映画館で見てきた。
彼女目的で見に行った映画も多い。
それ以前に劇場で見た『僕は、線を描く』『ある男』にも出ていたみたいだけど存在を認識していなかったので気づいていなかった。
ドラマの『ふてほど』で大ブレイクして、もはや知らぬ者がいない大女優という感じですね。
エンドロールでチラッと山形という文字が見えたからロケ地は山形なのでしょう。
あの古民家宿はさすがに存在しないでしょうね。
日本昔話に出てくるような雰囲気。
都会の人のイメージで田舎の雪国の宿として使われたんだろうけど。。
外国人が描く日本のように、北国の人間としては違和感を感じた。
そして、もっと旅感を出して欲しかった。。
旅を感じるシーンが少なかった。
電車に乗ってるシーンとか、旅で来てるって感じが欲しかったかな。
昔、退職する上司が『旅に出ろ、街に出ろ、人と会え』と書いた色紙を記念に事務所に置いていった事がある。
それ以来私の中で『旅』は重要な人生・生活の中での一つの要素となっている。
『旅』とはなんぞやと考えさせる映画なのかと期待して行ったのだが。。
三宅唱監督の『ケイコ 目を澄ませて』『ケイコ目を済ませて』は映画館で見て面白かったと記憶している。
次回作に期待したい。
昔話に迷い込んだような
「映画を見ることは旅と同じだ」
シム・ウンギョンさんが韓国人でありながら日本語で脚本を書く
豊かな自然、厳しい自然、そこにふれることができるのが旅
「言葉」「まとう言葉」「裸の言葉」
「感情」「裸の感情」
「とらわれる人生」「とらわれる人生に必要なもの、旅と映画」
これらのことを考えながら書いてみました。
以下、私の感想文を読んでください。
【映画感想文】
李は脚本家で夏の物語の映画の脚本を書いている。書く、すなわち「言葉」で物語を作っている。映画の中で李が脚本を書いた映画が上映される。
真夏の太陽がさんさんとふりそそぎ、白い雲が空に漂っている。女性が島を歩いている。三叉路にさしかかったとき、一方向に進みだす。資料館に入り写真をながめる。河合優実が演じるこの女性はこの間一言も「言葉」を発しない。彼女は自分で「感じた」まま方向を決め写真を心の中で「感じて」いる。
彼女は立ち入り禁止の地域に入っていく。その時林を揺るがすほどの暴風が吹く。そこを通り抜けると砂浜に出て男と出会う。二人は並んで座るが「言葉」は最小限だ。日が落ちる、夜が更ける、雨が降ってくる。
翌日台風が襲う。二人は再会し男は大しけ海の中にいる。女はもっと沖へと指で合図する。そして・・・。この映画は「言葉」は少ないが男女の心情が自然の描写と相まって見る者の「感情」を揺さぶる映画になっている。
脚本家の李はどこまでト書きで情景描写したのか。上映会が終わった後、観客とのQ&Aがおこなわれるが、李は質問に明確な答えを言えない。それは彼女が書いた脚本と映画が乖離していることではなかろうか。上映された映画は会話、すなわち「言葉」が非常に少ない。見る者は映像を視覚と聴覚で「感じる」だけだ。
映画を見終わって韓国人の李は言葉の持つ弱さを思い知ってスランプに陥る。彼女が自問自答する。最初は何事も先に「裸の感情」でとらえていたものが、いつしか「まとう言葉」の檻にからめとられてしまっていると。李は親しくしていた人が亡くなり遺品としてカメラをもらう。部屋から電車が走るところをシャッターを切る。なぜ彼女は撮ったのか。「言葉」は不要だ。ただ撮りたかっただけだ。それが「裸の感情」だ。このシーンは非常に重要な意味を持っている。
李はカメラを持って旅に出る。雪深い北国。ホテルが満室で遠いところの旅館しか空きがない。雪の中をただただ歩く、橋で帽子が飛ばされ慌てて拾う、なんとか旅館に着く。旅館はぼろい。老人が一人、個室もない、布団を自分で敷き、寝る。ここまでのシーンで「言葉」が出てくるのは老人とのたわいのない「裸の会話」だけだ。映画は彼女の「行動」と五感で感じる「裸の感情」しか撮らない。しかし彼女の「裸の感情」は表情の微妙な変化や仕草によって、見事にスクリーンに映し出され見る者に伝わってくる。
夜中、二人で沼に鯉をとりに行くシーンでも李はカメラを持っていく。二人が歩く「行動」と鯉をとろうとしている「行動」、諫める李と老人の「言葉」はわずかだ。見る者は彼女と老人の五感で感じる「裸の感情」と「行動」を映像で「感じて」いる。
映画館で映画を見るという行為はまさに映像を視覚と聴覚で心の中で「裸の感情」で「感じる」だけで、その時「言葉」は存在しない。この映画は作り手が伝えたいメッセージを、情景描写と人間の「行動」「感情」を映像として、見る者がしっかりと「裸の感情」で「「感じる」ことができる。それゆえ見る者は旅で「裸の感情で感じる」主人公の李、シム・ウンギョンと一体化する幸せを与えてくれる稀有な体験をうみだしてくれる。
旅は「行動」と「裸の感情」と「裸の言葉」だけで事足りる。だから李のようにリラックスし、まとっている人生から「再生」していくのだ。映画を見る者もたえず「裸の感情」で「感じる」ことで現実社会から「再生」している。映画を見ることはまさに旅と同一なのだ。
脚本家の女性, 納得のゆく作品を書こうとするものの,行き詰まりを感...
これから観ようと思ってる人は読まないで🙏
フィルム撮影だよな
スタンダードサイズ。『海辺の情景』いい風が吹いている。少年が泳ぐ。傘を差した女の後ろ姿。漫画では、女が「すてきよ」と言う。女は何も言わず、テアトル新宿の最前列の真ん中で見ている私が「すてきよ」とつぶやく。と映画の中は、海で少年が泳いでいるのを見ている傘をさした女の後ろ姿はスクリーンの映像で観客席。そして、監督と脚本家のトーク。女性脚本家は映画の感想を聞かれ、海の撮影はどうやったのかすごいという。わたしの感想とおなじ。わたしには才能がないと弱気なことを言う。で、その脚本家が『ほんやら堂のベンさん』の世界にはいていく。ほんやら堂のベンさんは、草野大吾みたいだ、誰だろう?と思っていると、堤真一。原作漫画の構図が随所に。つげ漫画の世界に入り込んでいく。ほんやら堂のベンさんのとぼけたユーモアに笑いの澱がたまり、席を揺らし声を出さずに笑った。前のほうの席のさんよにんが笑っていた。
面白くてうれしくなった。画は実にきれいだった。フィルム撮影だよね。映画的でうれしくなった。何が映画的といわれても困るが、映画的なのだ。
動くつげ義春作品
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