「大切なのは「眼差し方」を変えてみること」旅と日々 sow_miyaさんの映画レビュー(感想・評価)
大切なのは「眼差し方」を変えてみること
「言語化」とか、「わかる」ということに関わる思考を、とても刺激される映画だった。
自分はこれまで「自分が感じ取ったモノ」には、「自分の中を掘り返して、ピッタリとした言葉をあてていかないと、その感じとったモノ自体がいつの間にか流れていってしまう」とずっと思ってきた。(レビューを記しているのも、そうした理由による)
ただし、「ピッタリした言葉」をあてられることなんてほとんどないので、本当は「言葉をあてようとする意識をもつこと」「言葉を探し続けること」が大事だと思ってきた。
だが、今作で李は「言葉に囚われている」とか、「日常とは、周囲のモノや感情に名前を与え慣れ合うこと」と言って、「言葉から遠いところに身を置きたい」とまで言う。
彼女が使っている「言葉」とは、なんだろう。自分が考えている「言葉」とは違うのだろうかと思いながら観ていた時、ある場面で、一つの答えが見つかった思いがした。
それは、彼女が旅に出ることを決める、走ってくる電車に向かって、アパートの中からカメラのシャッターを切るシーンだ。
李の表情を変えたのは、魚沼教授のカメラのファインダー越しに視た風景。つまり、物理的に「眼差し方」が変わるという体験だった。
「言葉」とは、つまり「眼差し方」なのだと思う。「旅」をしていても、日常の「日々」を過ごしていても。
「自分の中に、いつの間にか染み付いてきたモノの見方・考え方から遠いところに身を置きたい」というのが、彼女の姿を借りた三宅監督の願いだったのかもしれない。
今作は、つげ義春の2編が原作になっているとのこと。確かに、その味わいを感じるが、ちゃんと三宅監督らしい映画にもなっている。
自分は、「(映画は)ユーモアがあるものを見たい。ただし、いい映画は、人間の哀しさが描けているかどうか」というセリフを、とぼけた風情の堤真一に言わせたところが面白かった。
ちゃんと、ユーモアがあって、人間の哀しさが描けている映画でした。
こんにちは。
私もかばこさんがコメントされた箇所と同じ箇所に、同じような思いを抱きました。
私も、レビューを書くとき、映画を観た直後の感想を、できるだけ記憶と記録に留めたくて、言葉を探すことがあります。しかし、なかなかこれぞという言葉は出てきませんね。
べん造の映画についての台詞も李の数々の台詞も、三宅監督自身が言いたかった台詞なのかと感じました。
>自分はこれまで「自分が感じ取ったモノ」には、「自分の中を掘り返して、ピッタリとした言葉をあてていかないと、その感じとったモノ自体がいつの間にか流れていってしまう」とずっと思ってきた。(レビューを記しているのも、そうした理由による)
ただし、「ピッタリした言葉」をあてられることなんてほとんどないので、本当は「言葉をあてようとする意識をもつこと」「言葉を探し続けること」が大事だと思ってきた。
その感覚、よくわかります。つたないながら、私も同じ様に感じています。(時々ですが、ぴったり当てはまる言葉が見つかることがあります。お風呂に入っている時に思いつくことが多いです。笑)
共感ありがとうございます。私は、李がハングルで脚本を書いているところに意味があるかなと。ほら「憂鬱な感じ」と漢字、ひらがな混じりで書くと途端に意味を持ち始めるけど、ハングルだと表音文字だけに意識的にはもうワンステップ手前にいるというか解体されている感じがする。だから「海辺の叙景」については脚本家として何かズレみたいなものを感じたのでは。それが彼女にとっての言葉の限界だったと。




