「「映画を見ることは旅と同じだ」」旅と日々 かなさんの映画レビュー(感想・評価)
「映画を見ることは旅と同じだ」
シム・ウンギョンさんが韓国人でありながら日本語で脚本を書く
豊かな自然、厳しい自然、そこにふれることができるのが旅
「言葉」「まとう言葉」「裸の言葉」
「感情」「裸の感情」
「とらわれる人生」「とらわれる人生に必要なもの、旅と映画」
これらのことを考えながら書いてみました。
以下、私の感想文を読んでください。
【映画感想文】
李は脚本家で夏の物語の映画の脚本を書いている。書く、すなわち「言葉」で物語を作っている。映画の中で李が脚本を書いた映画が上映される。
真夏の太陽がさんさんとふりそそぎ、白い雲が空に漂っている。女性が島を歩いている。三叉路にさしかかったとき、一方向に進みだす。資料館に入り写真をながめる。河合優実が演じるこの女性はこの間一言も「言葉」を発しない。彼女は自分で「感じた」まま方向を決め写真を心の中で「感じて」いる。
彼女は立ち入り禁止の地域に入っていく。その時林を揺るがすほどの暴風が吹く。そこを通り抜けると砂浜に出て男と出会う。二人は並んで座るが「言葉」は最小限だ。日が落ちる、夜が更ける、雨が降ってくる。
翌日台風が襲う。二人は再会し男は大しけ海の中にいる。女はもっと沖へと指で合図する。そして・・・。この映画は「言葉」は少ないが男女の心情が自然の描写と相まって見る者の「感情」を揺さぶる映画になっている。
脚本家の李はどこまでト書きで情景描写したのか。上映会が終わった後、観客とのQ&Aがおこなわれるが、李は質問に明確な答えを言えない。それは彼女が書いた脚本と映画が乖離していることではなかろうか。上映された映画は会話、すなわち「言葉」が非常に少ない。見る者は映像を視覚と聴覚で「感じる」だけだ。
映画を見終わって韓国人の李は言葉の持つ弱さを思い知ってスランプに陥る。彼女が自問自答する。最初は何事も先に「裸の感情」でとらえていたものが、いつしか「まとう言葉」の檻にからめとられてしまっていると。李は親しくしていた人が亡くなり遺品としてカメラをもらう。部屋から電車が走るところをシャッターを切る。なぜ彼女は撮ったのか。「言葉」は不要だ。ただ撮りたかっただけだ。それが「裸の感情」だ。このシーンは非常に重要な意味を持っている。
李はカメラを持って旅に出る。雪深い北国。ホテルが満室で遠いところの旅館しか空きがない。雪の中をただただ歩く、橋で帽子が飛ばされ慌てて拾う、なんとか旅館に着く。旅館はぼろい。老人が一人、個室もない、布団を自分で敷き、寝る。ここまでのシーンで「言葉」が出てくるのは老人とのたわいのない「裸の会話」だけだ。映画は彼女の「行動」と五感で感じる「裸の感情」しか撮らない。しかし彼女の「裸の感情」は表情の微妙な変化や仕草によって、見事にスクリーンに映し出され見る者に伝わってくる。
夜中、二人で沼に鯉をとりに行くシーンでも李はカメラを持っていく。二人が歩く「行動」と鯉をとろうとしている「行動」、諫める李と老人の「言葉」はわずかだ。見る者は彼女と老人の五感で感じる「裸の感情」と「行動」を映像で「感じて」いる。
映画館で映画を見るという行為はまさに映像を視覚と聴覚で心の中で「裸の感情」で「感じる」だけで、その時「言葉」は存在しない。この映画は作り手が伝えたいメッセージを、情景描写と人間の「行動」「感情」を映像として、見る者がしっかりと「裸の感情」で「「感じる」ことができる。それゆえ見る者は旅で「裸の感情で感じる」主人公の李、シム・ウンギョンと一体化する幸せを与えてくれる稀有な体験をうみだしてくれる。
旅は「行動」と「裸の感情」と「裸の言葉」だけで事足りる。だから李のようにリラックスし、まとっている人生から「再生」していくのだ。映画を見る者もたえず「裸の感情」で「感じる」ことで現実社会から「再生」している。映画を見ることはまさに旅と同一なのだ。
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