「旅=非日常感」旅と日々 マルホランドさんの映画レビュー(感想・評価)
旅=非日常感
日本で活動している脚本家の李は、思うような映画を作ることができず、行き詰りを感じていた。
そこで彼女は思い切って地方に旅に出ることに決めた。
宿泊先を探そうにも、どこの宿も満席で部屋が取れなかったが、地元の人にとある一件の民宿を教えてもらい、そこに足を運ぶ。
そこで不器用ながらほそぼそと経営している一人の亭主と出会うことになり、しだいに彼女の心の緊張が溶けていくという物語。
この物語は、都会のビル群が並んでいる風景から始まるが、その時点で「彼女の気持ちがなぜ行き詰っているのか」を、息の詰まるような都会の風景から静かに描き出すことに成功している。
映画の序盤、彼女がいた都会は「乱立するビル群」に囲まれている。
それはまさに「コンクリートジャングル」であり、観客にさえ「閉塞感」を与える。
この物理的な圧迫感は、脚本家として「うまく説明できない」「きっちり生きられない」彼女の精神的な「息苦しさ」そのもの。
彼女が旅行先で遭遇した「ホテルが満室で泊まれない」という出来事は、彼女が社会のルール(予約、秩序)から「どこかはじき出されている」ことを象徴的に示す。
社会(地図)から「はじき出された」彼女がたどり着いたのは、皮肉にも「地図にない宿」だったように思った。地図の範囲外のところにあったのは意図的な演出に感じるし、そこは、都会の「こうしなければいけない」という規範から完全に切り離された場所であることが分かる。
その民宿では、布団は自分で敷いて、寝たいときに寝て、置きたいときに起きる。決められた時間が定義されておらず、その日のうちにやることだけやる。そこが良い意味で適当な暮らしを強いられるところがとても良い。
民宿の不器用な亭主もまた、どこか社会にうまく適応できない「よそよそしい」人物であると思うし、そんな二人は説明不要の関係性を築いていく。
そして、彼女が亭主と過ごす日々は「夢見心地」なように思う。
とある深夜に「鯉を盗む」といった非現実的な出来事は、亭主の「思いつき」で行動することが許される、この場所の性質をよく表している。
彼女は、この「夢」のような体験を「写真」に撮り、「記録」として残そうとする。それは、この非現実的な日々を、かろうじて「現実」に繋ぎ止めようとする行為だ。
しかし、彼女は「カメラをなくす」。
これは決定的だ。唯一の「記録」を失ったことで、宿での体験は再び現実から切り離され、「あれは本当に夢だったんじゃないか」という曖 …(あいまい)な記憶へと変わっていく。
脚本を練っている時の「こうだったらいいのにな(と頭で描く)」ことと、映像化(=記録)の「差異」に悩んでいた脚本家の彼女が、旅先で「記録そのもの」を失うことの意味は大きい。
結局、彼女の「行き詰り」は根本的には解決していないのかもしれない。
しかし、旅から戻った彼女の表情は違うと思う。
今までの生活で人と接するときにはどこか「完璧」なところを見せなければいけないので気疲れしていたと思うが、今回の旅で体験した「ちょっとゆるい出来事」は、都会で暮らしていたらきっと経験はできなかっただろう。
良い意味で「いい加減」な亭主と出会えたことが彼女の「心の緊張」を溶かしたものの正体だと思うし、この作品の静かな救いなのだろう。
日本人でも毎日の慌ただしさで虚しくなる人も多いと思うが、韓国人である李にとっては我々が思う以上に疲れてしまうと思う。
この作品はそうした日常を生きることに精一杯な人に対しての休息映画だと思う。この作品を見終わったあとはきっと、心が少し和らいで和やかな気持ちになる作品だと思う。
今まで都会で感じる「完璧な対応」とは別に、「疎外されたままでいい」と許容してくれる場所(地図にない宿)と時間(夢のような日々)が存在し得たと知ること。
それこそが、彼女の「心の緊張」を溶かしたものの正体であり、この作品の静かな救いだと感じた。

