「日常に潜むユーモアは、真剣に人々の間を埋める緩衝材なのかもしれません」旅と日々 Dr.Hawkさんの映画レビュー(感想・評価)
日常に潜むユーモアは、真剣に人々の間を埋める緩衝材なのかもしれません
2025.11.11 一部字幕 イオンシネマ京都桂川
2025年の日本映画(89分、 G)
原作はつげ義春の漫画『海辺の叙景』『ほんやら洞のべんさん』
行き詰まった脚本家が言葉から遠い世界に旅をする様子を描いたヒューマンコメディ
監督&脚本は三宅唱
物語の舞台は、都内某所
つげ義春の漫画『海辺の叙景』の実写化に挑んだ脚本家の李(シム・ウンギョン)は、その上映会が行われる大学にて、学生たちと一緒に完成した作品を観ていた
その後、映画監督(松浦慎一郎)とともに質疑応答のために登壇することになった李だったが、魚沼教授(佐野史郎)や学生たち(安光隆太郎、トロツキー・マックレンドン、嶋貫妃夏)の質問を受けて、「自分には才能がないな」とこぼしてしまった
劇中映画は、ある夏の日に人気の少ない島に辿り着いた女・渚(河合優実)と青年・夏男(髙田万作)を描いた作品で、教授は「エロティックでセクシー」と評し、学生からは「わからない」と言われてしまっていた
その後、教授と話すことになった李は、そこで旅に出たら良いと言われてしまう
李は韓国をルーツに持ち日本で生活してきたが、徐々に言葉を覚えていくたびに、不思議だと思えていた日常に閉塞感を感じていた
今では「言葉に追いかけられている」という感覚があって、「言葉から遠いところ」という漠然としたイメージを持つようになっていたのである
映画の後半では、言葉に追いかけられていた李と、言葉足らずの宿屋の主人・べん造(堤真一)との交流を描いていく
劇中映画が嵐の夏で、現実は大雪の冬という構図になっていて、彼女は寡黙な世界では多弁な存在だった
あれだけ言葉から遠いところを渇望していたのに、今度は自分が言葉で相手を追い詰めている
そんな感覚の中、李はべん造が抱える悲しみにふれ、また事件に巻き込まれてしまうのである
劇中映画に限らず、執筆した脚本のテーマを言葉にできない李が描かれ、彼女は数々の言葉によって日常が退屈になっていた人物だった
それでも、個々の事象を言葉で定義できても、一連の繋がりとか、言葉が映像になった瞬間に起きることなどを言語化できていない
それは「韓国語ではできているけど日本語ではまだできない」のかはわからない感じだが、おそらくは韓国語でも無理なんだと思う
そう言った資質がありつつも言葉に追いかけられているという表現を使うのは、ある種の言葉にしなければダメだという職業的な強迫観念なのだろう
映画では、べん造が作品の定義を語るのだが、そこには「人間の悲しみとユーモア」という言葉が登場する
物語には必要な要素であるとべん造は言うのだが、李にはいまいちスッと入ってこない言葉だった
だが、映画の後半は「この言葉を映像にした」という感じになっていて、ある意味、映画の後半で物語の主人公の悩みを解決している、というふうにも思えるのである
いずれにせよ、かなりゆるいテンポの作品で、特に劇中映画はそれを意識しているのかかなりゆったりした内容になっていた
前半の動きがあるのに遅いというのと、後半の動きがあまりないのに速いという感覚が交差して不思議な感覚の映画だったと思う
劇中映画の教授の感想に共感する人も多いと思うのだが、女性が書いた脚本を男性が映像化するという構図があの感想を生み出しているように思える
このあたりの感覚の妙とか、言葉を捉えて映像にする能力というのは個々の観念によると思うのだが、それを共有するのはとても難しいことだと思う
それは言葉をたくさん知っているからできるということではなく、相手が持っている言葉に対するイメージをいかに想像できるかなのだろう
映像を観て言葉に起こすと人それぞれであるのと同様に、その逆も然りということで、それでも人のコミュニケーションは成り立つというところが面白い
後半はおそらく無音にしても面白さが伝わる内容になっているので、映像から想像を発揮して物語を補完できる能力というのは、人に備わっている特別な能力なのかな、と感じた
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