でっちあげ 殺人教師と呼ばれた男 : 特集
【「地面師たち」に衝撃を受けたなら、絶対に本作を】
あの“ヤバさ”に匹敵する超強刺激を欲するあなたへ…
予告編はほんの一部、その先にある“想像を超える感情”
雷のような感情貫く“あり得ないほど素晴らしい一作”

刺すような冷たさだけではなく、燃えるような痛みと、雷に打たれたような感動で――。

まずは予告編をご覧いただきたい。
顔をゆがめた綾野剛。冷徹なまなざしの柴咲コウ。耳を疑う「死に方を教えてあげようか」というセリフ。インパクトは極大だが、なんとこれらのシーンは“氷山の一角”に過ぎない。
本編を摂取すればわかる。もしあなたが「地面師たち」を観ていて、“ただごとじゃない人間のエネルギー”にゾクッとしたのなら、本作はとことんオススメである。
ゆえに、どうしようもなく共鳴してしまった編集部員の感想を、以下からつづっていこう。あなたにこそ、強烈に観てほしい。
筆者紹介:尾崎秋彦(映画.com)

【まず結論】あり得ないほど素晴らしかった――
三池崇史史上、綾野剛史上、“最高傑作”が誕生した。“本当に良い映画”を観たいなら、本作を選ぶといい。

とんでもなく、すさまじく、革命的に素晴らしかった。終わったあと、座席から立ち上がるのが惜しかった。心を全部“持っていかれた”からだ。
世界中でカルト的人気を誇る「殺し屋1」をはじめ、「十三人の刺客」「怪物の木こり」など強刺激作を放ち続けてきた三池崇史監督。
そして「そこのみにて光輝く」「日本で一番悪い奴ら」「カラオケ行こ!」、Netflix「地面師たち」など、実力・人気ともに日本を代表する名俳優となった綾野剛。そんな2人が真正面から、しかも異様な熱量で挑んだ本作は、2人のフィルモグラフィのなかでも“最高傑作”だと、筆者は断言したい。

三池監督史上“最も抑制された演出”でありながら、激しい攻撃力を携えた映画。綾野もまた、自分の肉体と精神の奥底にある“何か”をミリ単位でコントロールし、壮絶に演じきった。
スクリーン越しに伝わってくる感情の大渦。上映中、一瞬たりともダレる余裕なんてなかった。本当に良い映画を観たいなら、この映画を手にとってみてほしい。
【“狂”刺激】「生きてる価値ないから死んだほうがいいよ」
教師が、教え子を、自殺に追い込むほどいじめ抜く。しかし…「やってません」どす黒い感情が、あなたの体を内側から切り裂く

子を持つ親として、本作の少年・氷室拓翔が教師・薮下(演:綾野剛)から受ける仕打ちは、とても直視できない。本編や予告編で観ることや、こうして文字に起こすことすら、つらくて仕方ない。
体罰と暴言の連続。体中アザだらけの少年は、ある日、ふらふらと屋上の縁に向かって歩き出す――。
何だこれは。何なんだこれは。静まり返った劇場で、ただ呆然とスクリーンを見つめる時間。ほんの数秒遅れて、信じられないほど強い怒りが込み上げてきた。「薮下とかいう、こんなやつが、生きていていいのか?」。心臓が早鐘を打つ。拳を握った。頭が、胸が、焼けるように熱くなった。
しかし……その直後だった。

薮下本人が、法廷で“完全否認”したのだ。私の怒りは一瞬にして混乱に変化し、さきほどとは異なるタイプの怒りが、私の体を内側から切り裂いていった。
「もし体罰が本当じゃなかったとしたら?」「誰かの作り話だったとしたら?」――刺激が破裂し、混乱と不信の突風が倫理観を吹き飛ばす。これこそが本作の“映画体験の爆心地”。まるでぶん殴られるような衝撃に直面するだけでも、本作を観に行く価値がある。
【“狂”演技】これを2000円で観られていいのか不安になる
「地面師たち」で綾野剛に衝撃を受けた人は、ぜひ目撃して。また別種のヤバさに満ちている――

ストーリーテリングの巧みさもさることながら、演技があまりにも素晴らしすぎた。
まず綾野剛。完全に“極限”の中で生きていた。少年にデコピンを食らわせる瞬間、とてつもない(としか言いようがない)顔をする。
「これおかしいよ」と声を上げるシーン。理性が吹き飛んでいったことがわかる。なのに、その少しあとで、子どもに向ける笑顔があまりにも優しくて、泣きたくなる。
もはや「演じる」なんて言葉では足りない。生きながら壊れていく、という感覚。人間の複雑さと脆さをひとつの身体で表現しきったそれは、「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」「レヴェナント 蘇えりし者」のレオナルド・ディカプリオを想起させた。「地面師たち」で綾野剛に驚いた人は、本作の彼にもう一発、二発、三発と食らわされるはずだ。


ただ、綾野剛がすごい映画なのかと思ったが、それだけではなかった。柴咲コウもヤバすぎた。
我が子を案じる心配そうな眼差し。一方で、ときに見せる目の奥の“冷たさ”はどうだ。彼女の“まばたき”と“発話”に注目してほしい。そこにいるだけでストーリーを引っ張っていく怪物っぷりを見せてもらった。
そしてバイプレーヤーもとことん良い。木村文乃、安藤玉恵、大倉孝二、光石研、北村一輝、小林薫……“クセの強さ”はもちろんのこと、全員がちゃんと質量を持ち、映画のエンジンになっている。視線、呼吸、手の動き、全部に意味があった。それぞれが“演技の濃さ”をぶつけ合ってるのに、妙に静かで、美しさにため息が漏れる奇跡のようなバランス。

このチームの中心に綾野剛がいることで、彼自身や周囲の名演にさらなる“バフ”(強化の意味)をかけていると感じた。彼がどれだけすごい表現者なのか、こういう作品ではっきりわかるだろう。
鑑賞料金2000円という価格が、もはや“申し訳なく”感じるレベルのアンサンブル。“生き様”を魅せてもらった気がする。
【“狂”変化】刺激だけじゃない。涙が抑えきれなかった…
徐々に移ろうグラデーション。怒りとゾクゾクを乗り越え、痛みを永遠に吸い上げるような情動がやってきた。

これまで刺激を語ってきたが、筆者が本作を愛してやまないのは、刺激のその先に“変化”があったからだ。観る前はまったく予想していなかった、まさか“涙が抑えきれない瞬間”があるなんて。
ましてや、それがあんなにも美しく、柔らかく、感謝と謝罪がごちゃまぜになっているなんて。
ネタバレになるので、詳しいことは書けない。けれど、ひとつだけ言える。怒りとゾクゾクは徐々に形を変え、やがて“とんでもない感情”が豪快にやってくる。
※念のため、この感情と涙は物語の結末によって生まれるものではない。薮下は殺人教師なのか否か――この物語の核心部分は、ぜひご自身の目で確かめていただきたい。

そして、得られる感情はまた、言葉にするのがとても難しい。「感動」の言葉で済ませるには、あまりにも人間臭すぎるからだ。うまく言えないが、先ほど切り裂かれた体の内部を、熱い温度を持った感動が駆けめぐり、すみずみまで修復してゆく、そんな感覚だった。
刺激が強いからこそ、“心”が非常識なまでに際立つ。観終わってから時間が経っても、あの感情が、まだ体の芯に残っている。
【“狂”演出】三池監督「“余計”を排した」
決して“やりすぎない”絶妙なバランス。すべてが噛み合い、1秒も面白さが薄れない“異常な没入感”を生んでいた

三池崇史監督といえば、どちらかというと「足し算の映画監督」だと思っていた。しかし本作では「余計な演出を排した」とコメントしていた通り、まさに引き算の美学が極まっていたように感じた。
この映画、演出が完璧なまでに“やりすぎてない”のだ。それでいて、感情の揺さぶりは尋常じゃなかった。“削ぎ落とされ、生まれるリアル”がここまで刺さるとは。最高だった。

音楽も素晴らしい。時に不穏で、時にドラマチックで、しかし湿っぽくなく、過剰に泣かせにもこない。感情の昂りを邪魔せず、スムーズに、あくまでも自然にアシストする――。
さらに多岐にわたるジャンル感もとても良かった。まるで「ハート・ロッカー」のような緊張感があり、氷室律子をめぐる横溝正史的サスペンスにもなっており、ホラーのような禍々しいルックもあり、映画的記憶を縦横無尽に刺激するめくるめく体験に、ため息をつきっぱなしだった。
どのカットも、呼吸の音が聞こえてきそうなほど生々しく、1秒たりとも間延びしていない。構成する技術すべてが絶妙に噛み合い、異常な没入を感じた。まさに三池崇史監督の最高傑作のひとつ。
【“狂”執念】“つくりこみ”が度を越している
薮下のクセ、カバンの経年劣化…細部に神を宿す仕事ぶりが、映画を超えた感覚を創出。この“良さ”がわかるようになった自分を褒めたい

一言でいえば
この映画には、画面の端で、説明もされず強調もされず、しかし確実に“何か”を語っているディテールが無数にある。それに気づいたとき、思わず心の中で叫んでしまった。

たとえば、薮下の“クセ”。強いストレスがかかったとき、右手で、自分の左肩を揉むのだ。その動きに何の説明もないし、誰も気づかないかもしれない。しかし彼は、確実にその動きをしている。綾野剛や三池崇史は、「人間のクセは作り話では創れない」と、それに意味を込めているかのようだ。
そして、薮下の風呂上がりのあのシーン。換気扇の下でタバコを吸い、妻とともに缶ビールを飲む。引きの画角だが、グレーのTシャツの胸元や左肩に目を凝らしてほしい。水に濡れた指先の“跡”がみえる……跡があることで、その瞬間は映っていないが、薮下が水のしたたる手で肩を揉んでいたことがわかる。
このディテールに筆者は衝撃を受けた。普通ならリラックスしきる日常のいち場面にも、クセが出るほどのストレスがずっと残っている様子(さらに、これから起きる壮絶な困難の予感)を、セリフではなく“たった一筋の跡”だけで、何よりも雄弁に表現してみせたのだ。

ほかにも、薮下が背負うリュックの、持ち手部分の経年劣化など、細部に神を宿す職人芸の数々が、生活の残り香を出現させ、演技と演出をこえた魂のリアリティと“気配”を生んでいる。
しかもそれを、「気づけ」とも「感動しろ」とも押し付けてこない。ただ、そこに“在る”――。観終わったあと、この“良さ”に気づけるようになった自分を、とことん褒めたくなった。
【“狂”偏愛】書ききれぬほど、好きなシーンがある
生活のなかで得る“1週間分の満足感”を、この1本で摂取するような素晴らしい映画体験

ここまでかなりの文字数を費やしてきた。でも、まだ語りきれない。まだまだ好きなシーンが山のようにある。
“偏愛のかたまり”として、好きな瞬間をさらに3つだけ並べていく(なくなく3つに絞った)。鑑賞し、「わかる」となる人がいたら非常に嬉しい。

★迫田孝也が面白すぎる
なに、あの目力。あと顔が黒すぎる。笑わせにきてる? 画面の奥のほうにいて、フォーカスが当たってないシーンでも、一番目立っていた。
★「ボストン」の言い方
なぜあんなに記憶に残るのか。語尾? 響き? 一生忘れないと思う。 誰がどのタイミングで言うかは観てのお楽しみ……。
★終盤の綾野剛の独白
吸い込まれた。息が止まった。

映画はたった2時間なのに、“日常で得られる1週間分の満足感”を摂取できたと筆者は思った。重たい、苦しい、しかし……それでも観て良かったと心から感じられる映画には、そうそう出会えるものではない。
【最後に】まさに“今観るべき映画”
一筋縄ではいかない結末…あなたは何を感じる? 現時点の、筆者の“今年ベスト”。本当に観てほしい一作だった。

これが最後の項目だ。本作がなぜ重要なのか、なぜ今観るべきかを記述し、特集を締めくくろう。
2023年の「怪物」「Winny」、2024年の「あんのこと」「ミッシング」「正体」。これら話題作と「でっちあげ」には、共通するテーマがある。
それは、信じられない、疑われるということが、どれだけ人にとって苦しいことか。そして、信じられる、信頼されるということが、どれだけ人にとって幸せなことか。

さらに「ミッシング」と同じように、「でっちあげ」では「悪意ある匿名の多数」より、「善意の実体のある少数との連帯」の尊さが描かれており、これらを通じて“人間”とは何かを描破していた。
声が大きい者が勝つ。匿名の正義が暴走する。何を言っても届かない。そんな時代の中にあって、「でっちあげ」のテーマの重要性は段違いだった。
一筋縄ではいかない結末は、ただ“観て良かった”だけでは終わらなかった。
ぜひ、観てほしい。どうか“今”観てほしい。あなたのなかにも、この映画のどこかがきっと、響くはずだ。
