「三池の最高傑作!「企画協力・新潮社」で「週刊文春」のペンの暴力を告発する構図が愉快。」でっちあげ 殺人教師と呼ばれた男 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
三池の最高傑作!「企画協力・新潮社」で「週刊文春」のペンの暴力を告発する構図が愉快。
三池の最高傑作じゃないか、これ?
少なくとも観てきたなかでは、
ここまで心にぶっ刺さった三池作品は初めてだな。
原作が「ルポルタージュ」だというのが、すべての出発点だ。
もちろん映画化に際してエンタメとして誇張した要素だって諸々あるのだろうが、三池はあらゆる場面で「これは実話である」という前提に立ち戻って、出来る限りの自制と自重をもって「事実」に奉仕している。だから「嘘くさい話」がぎりぎり陳腐化せず、リアリティを手放さない。
自分が作り手の立場にいたら、たとえば、改心した亀梨君が今度は先生の側に立って記事を書くみたいなシーンを終盤に入れたくなる気がする。でも、実際は最初の民事裁判が結審したあとは、記者はもう姿すら見せない。現実がそうだったからだ。
そもそも、もっと『藪の中』のような作りにすることだって可能だったはずだ。すなわち、終盤まで綾野剛が殺人教師か巻き込まれた被害者か、どちらかわからないように作るやり方だ。『落下の解剖学』(23)のように最後までぼやかすのも面白かったかもしれない。
だが、三池はそうしなかった。原作どおりのタイトルを掲げて、自分がどちらの側について描くつもりなのかを明確にした。ルポを原作とした「でっちあげ」の恐ろしさを描く映画だというスタンスをあくまで崩さなかった。
ここで描かれる綾野剛は、弱い。
たとえ教師を生業にするような人間でも、実際の試練に見舞われれば、そう簡単に物語のヒーローにはなれない。与えられた試練に、ただとまどい、うまく動けず、もがき苦しみ、予想以上にボロボロになっていく。
家族もまた暴虐の嵐に巻き込まれ、気丈に振る舞っていても、どんどん消耗していく。
むしろヒーローたりえない「素人」が危地に陥ったとき、すがれるのは「弁護士」だけだ。
本作で弁護士役の小林薫の与える「救世主感」はハンパではない。
一般人にとって、トラブルの最中に寄り添ってくれる弁護士先生というのは、実際にこのくらい頼りになる心の安定剤のような存在なのだ。
そのあたりの「戦えない主人公」「巻き込まれる家族」「救い主としての弁護士先生」というリアリティを、三池は等身大で描く。
ラストにおいて、僕たちは思いもかけない事実を突きつけられることになる。これは通常のドラマツルギーからは絶対出てこない意想外な展開であり、一瞬何が起きたのかと目を疑うくらいに唐突でショッキングな印象を与える。
だが、これもまた「主人公に実際に起きた出来事」だった。だから、三池はそのままそう描いた。しかも、ドラマとして盛り上げることなく、ただ淡々とさりげなく。
僕たちは、そのあまりにビターな結末と、年齢不相応に老け込んだ主人公の姿に、家族を襲った理不尽な試練がもたらした真の代償を知ることになる。
現実とは、無惨なものだ。勝ったと思っても、ドラマのようなハッピーエンドがつかめるわけでは必ずしもない。
僕は本作のラストに、現実の重みを痛感した。
そして、勧善懲悪のドラマツルギーすら侵蝕する現実の恐ろしさを痛感した。
三池は、一般的にはむしろ「エスカレーション」の映画作家だと思われているのではないかと思う。『DEAD OR ALIVE』の頃から「やりすぎる」ことで、観客の心をふるわせ、ゆるがせることを常に心がけてきた人だ。
その三池が、今回は抑制した。
もっと派手に出来るところをそうしなかった。
もっとサイコに出来るところをそうしなかった。
もっと感動的に出来るところをそうしなかった。
結果として、これまでの「やりすぎる」三池がエンタメの枠内で破れそうで破れなかった何かを破って、観客の心に重い衝撃をぶっ刺すことに成功した。
僕は三池のやりすぎアクションも、やりすぎホラーも、ジャリ番も(とくに『ケータイ捜査官7』は大傑作!!)、ひとしく愛する人間だが(漫画・ゲーム原作のコスプレ映画だけは吐き気がするくらい嫌いだけど(笑))、今回の三池は、今までにない領域に到達していると思う。
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僕がこの映画にはまれたのは、自分がいま持っている問題意識とものすごくフィットしたという部分も大きい。
とにかく最近の僕は、SNSやヤフコメでの「叩き」の風潮と、それを助長し扇動する週刊文春を筆頭とするジャーナリズムの挙動に、猛烈に腹が立っている。
見境なく犯罪者を叩き、不倫した芸能人を叩き、10年以上前には大して問題視されていなかったセクハラや乱痴気騒ぎを事後法で断罪する、正義を振りかざす大衆の傲慢に対して、心底むかついている。
もちろん、こういった「叩き」は昔からあった。だが、SNSで活字フォントとして「可視化」されるようになって、個々人のチラ裏の書き込みは、大幅にその権威と真実味と影響力を増した。素人評論が横行し、ワンワードで断罪するのが流行っている。
何か事件が起こるたびに、ばああっとSNSやヤフコメに「許せません!」コメントが10万、100万単位で殺到し、一度「叩かれた」というデジタルタトゥーが残れば、5年経っても10年経っても蒸し返される。
その音頭取りをせっせとやっているのが『週刊文春』を代表とするスクープ誌だ。僕は、事件の軽重や警察機構ではなく、一介の編集部の意向で「次のターゲット」が決定されるあり方自体が気持ち悪くて仕方がない。文春がさらしあげた標的に、ファンネルの如きネット民が集まって、よってたかって炎上させていくシステム自体が、どうにも納得がいかない。
僕は炎上が連鎖し、くだらないことがいつしか大ごとになって、当事者や社会を潰してしまいかねないような今の世の中が怖くて仕方がない。
それを支配/差配しているのがマスコミとSNSだというのが、本当に気持ち悪い。
僕は正義をふりかざす大衆が怖い。彼らは正義に酔い、加害の意識がない。結局は有名人や権威のある者を自分たちの力で引きずりおろし、踏みつけられる昏い歓びに身を任せているだけ。自らの浮かばれない憂き世の「うさ」を晴らしているだけなのだ。それを「正義」と呼び、標的を求めて徘徊している。
そのような認識のなかで『でっちあげ』を観ると、
こんなに恐ろしいお話はないわけだ。
一般に、大衆は「被害者」を信じがちだ。訴えたのが「母親」でお題が「いじめ」で相手が「先生」とくれば、9割がたの関係のない大衆は「被害者」を信じる。
一度、週刊誌によってターゲット化された「容疑者」は、「いくら叩いてもいい標的」「死ぬまで遊べる溺れる犬」として公式に認定される。
正義の名のもとに下される大衆の攻撃というのは、要するに「私刑」である。
その標的にされた人間は、あまりにも無力だ。
海千山千の芸能人や政治家だって潰されるのだ。まして一介の教師に何ができるというのか。
『でっちあげ』には、全能感を漂わせる(ちょっと若い頃の橋下さんみたいな風体の)記者が登場する。亀梨くんだ。こいつのまあむかつくこと。まさに「週刊文春」の奢りと危険性を擬人化したようなキャラクターだ(「週刊春報」と書いてあるけど、カバーがまんま文春)。
「おれ、こいつちょっと許せないんでやっちゃっていいっすか?」
これってさあ、典型的な「いじめる」側の思考法だから(笑)。
興味本位や売上だけを考えて「燃やす相手」を選別しているよりはまだマシという考え方もあるだろうが、僕は「自らの正義と記者の矜持」を本人が信じている場合こそが、いちばんタチが悪いと考えている。
出演者たちもまた、この「週刊誌とSNSによって作られる地獄絵図」の登場人物に他ならない。
主演の綾野剛なんて、まさにその渦中にいた人間だ。
渦中にいたどころではない。この映画に出る半年前まで、本物の裁判に臨んでいたのだ。
ガーシーとの裁判で、綾野剛サイドは「ファンクラブの退会が約2000人に上り、CMスポンサーの打ち切りなどで事務所に1億円以上の損害が生じた」と明らかにしている。「根拠のない情報で傷つけるのは許せない。東谷という存在自体が恐怖だった。CMを打ち切られたり、冷たい目で見られたり、つらい思いをし、精神が崩壊する寸前でした」とも。
『でっちあげ』の撮影期間は2024年の8月~9月。
ガーシーとの裁判は、2023年の6月から2024年の3月。
綾野剛は、おそらくなら自らの経験を「そのまま」この撮影に生かしている。
亀梨くんは文春の記者を憎たらしく演じてみせた。
だが彼自身、文春砲を、最近だと2020年7月と2024年1月に思い切り食らっている。
HPの自己紹介では「僕自身も様々な思考が交差する難しい役どころ」と言っていて、オファーが来ても即答できなかったという。それくらい「週刊誌記者」というのは、本人が何度もひどい目に遭わされている相手であり、簡単に「演じられる」職業ではなかったということだ。
芸能界にいれば、誰しも一度や二度はスキャンダル記事を書かれるし、ことによっては一撃のスキャンダルで、タレント生命が断たれる可能性だってある。
その恐怖と背中合わせに生きながらも、おそらく一般人の僕たちよりはよほど華やかでお盛んなナイトライフを送っているのもまた本当だろう。彼らにとっても「告発」と「報道」の持つ「力」と「恐怖」は極めて身近な感覚であり、常に頭の片隅で考えて続けている重要なテーマでもあるはずだ。
だからこそ、『でっちあげ』の演技では、出演者の誰もがヒリついている。
何かしらの化学反応(ケミストリー)が起きているかのように、登場人物全員がベストアクトをぶつけ合っている。
それは、出演者にとっても本作で描かれる悪夢は「明日は我が身」の出来事だからだ。
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●原作のルポルタージュ(福田ますみ著)の版元が新潮社だからなんだけど、「制作協力」が新潮社になってて、あからさまに「週刊文春」だとわかる雑誌が、大誤報をかましたカス雑誌(しかも一切責任を取らない)としてやり玉に挙げられているのは笑える。まさに新潮Vs.文春。まあ、新潮も目くそ鼻くそなんだけどね。
●この映画の舞台になった2003年だと、たしかにADHDはまだそう知られた概念ではなかったかもしれない(ネットで公開されている原作の出だしを読んでみると、母親は「ADD児」と言って、教師はADHDは知ってるけどADDは知らないな、と考えている)。
一方で、このお母さんも今の感覚からいうと、見紛うことなき「パーソナリティ障害」(ボーダー、自己愛性、猜疑性他)であり、現在の司法や入口の心理分析では、この手の「告発者」(モンペ含む)の危うさは相応に知られているし、もしかすると今なら「まあまあ防げた事件」かもしれない。
●原作だと、教師の処刑方式は、「アンパンマン=両頬を指でつかんで強く引っ張る。ミッキーマウス=両耳をつかみ、強く引っ張り、体を持ち上げるようにする。ピノキオ=鼻をつまんで鼻血が出るほど強い力で振り回す。」とあって笑う。「うさぎさん」じゃねーじゃねーか!!(笑) 司法の闇は描けても、版権ビジネスの闇には踏み込めないということなんだな。
●インタビューを読むと、あの大雨のなかで綾野剛と亀梨くんがやり合うシーンって、最初雨降らしでやってたんだけど、そのうちガチの暴風雨が来て、そのまま撮影を続行して撮ったらしい。傘が飛んで行ったのも、声がちゃんと聴こえてこないのも、モノホンの嵐のせいだということで、いやあすげえな、と。神様は本気の仕事はちゃんと見ていてくれて、そっと手助けをしてくれるようだ。
●小林薫の演技には引き込まれた。この安心感。優秀さ。このあいだ『プロジェクトX』で観た闇金に立ち向かった町の雑草弁護士たちをちょっと想起した。
逆に、校長(光石研)と教頭(大倉孝二)のまあ腹の立つこと(笑)。ここで主人公が意に反して罪を「認めてしまった」ことがあとあとまで大きく響くわけで、その行為に真実味を持たせた二人の演技は実は映画のキモを支えているといっていい。
●子役さんはみんなうまかった。みんな三浦綺羅くんの顔と演技と名前に注目していると思うが、おじさんは引き続き照井野々花ちゃんに注目していきたい。
コメント、共感ありがとうございました。
撮影中に本物の嵐に恵まれた甲斐あってアスファルトを叩く雨が風で飛沫を上げるシーンは圧巻でした。
制裁や糾弾を「善」と考えている輩にこそ観てもらいたい作品でしたね。