中山教頭の人生テスト : 映画評論・批評
2025年6月24日更新
2025年6月20日より新宿武蔵野館、YEBISU GARDEN CINEMAほかにてロードショー
雑音だらけの学校で教頭先生が見つけたこと
佐向大監督最新作の主人公は、目の上には校長というたんこぶ、その上にはお節介な大先輩、周りには言いたい放題の教師と児童たちに囲まれた教頭先生である。娘と二人暮らしの彼は典型的な中間管理職。コンプライアンスを楯に過剰反応される昨今、言いたいことは山ほどあるが、そこはぐぐっと堪えて、些末な雑務から臨時担任までオールラウンドに対応しなければならない。
渋川清彦が演じるこの教頭、上昇思考がないわけでない。高校生の娘を最高学府に行かせて独り立ちさせるまであと数年、もうひと踏ん張りせねばならない。学校では小まめにメモを取り、夜な夜な自室の勉強机に向かうと校長試験の問答集とにらめっこ。だが身が入らない。うーん、困った。

(C)2025映画「中山教頭の人生テスト」製作委員会
この映画を観て得も言えない余韻が残った。その理由を考えてみると、数限りない雑務に追われる教頭が、その都度向き合う取捨選択にあるのではないかと行き当たる。
その選択で良かったのか、悪かったのか。その行為は正しかったのか、誤りだったのか。自分が耳にしたことは真実なのか、嘘なのか。相手が口にしていることは、単なる自己主張なのか、誰かを慮っての偽りなのか。ルールを正しく把握しているわけではないが、決まり事は必要だ。では、それは規範としての効果を生むのか、それとも意味をなさないのか。
黙って聞いていれば誰もが勝手なことばかり。それでも自分を押し出すことなく誰の声にも耳を傾ける。できることはやる。大先輩のアドバイスにも従うし、娘の苦言にもじっと我慢する。もちろん雑用だって引き受ける。でもなぁ…。
劇中、二回のスローモーション描写がある。ひとつは、教頭が校庭を横切ってある生徒の前に歩いて行くシーン。もうひとつは、左から右へと走る車を横移動で撮った場面だ。このとき、映像を追いかけるように劇伴が流れる。そして無音描写が効く場面がいくつかある。映画という表現が呼吸であるとするならば、それは思わず息を止める瞬間である。
「映画という表現は音楽に似ている」―これは黒澤明の言葉だ。
橋本忍さんによると、「音楽は感覚を伝えるだけで、説明はできない。映画も同様で、説明しなきゃ分からないことを説明しても観客には分からない。脚本も同じだ」ということになる。(「複眼の映像:私と黒澤明」文春文庫より要約)
佐向監督は「今回は分かりやすく、いい映画を目指したが、出来上がってみればいつもとそれほど変わらないような気もして…」と著者にメールをくれた。その通り、言葉にできないからこそ生まれた映像は極めて映画的な表現として結実している。
その象徴として作品を根底で支えているのは教頭の“顔”だ。監督の意を汲んだ渋川清彦が、終始変わらぬ表情で、2025年の“江分利満氏”ともいえる中山教頭を体現している。雑音だらけの学校で、いつも持ち歩いていた大切なものを失くしたときに彼が見つけたことは…。人生テストはまだまだ続く。
(髙橋直樹)