「大人になるということ」愛されなくても別に R41さんの映画レビュー(感想・評価)
大人になるということ
愛されなくても別に ― 毒親と水の儀式
2025年の作品。
同名小説の映画化というだけあって、その内容は心の真実に迫っていた。
三人の女子が主体となるが、焦点は宮田と江永へと絞られていく。
映像で見える宮田の人生と、語ることで示される江永の人生。
そして、何不自由のないわがまま女に見える木村。
宮田は「陽彩」という特別な名前を父に付けられ、江永は「雅」、木村には「アクア」
この名前たちは、親の愛とエゴの両面を象徴している。
そしてこの三人の親は、いわゆる毒親。
娘を家族という枠に縛り付けながら、何かを搾取する。
親と子は、愛という言葉で一見同じに見えるが、子どもにとってその愛は諸刃の刃だ。
個人的にも、長い間「長男」という呪いをかけられ、やりたくもない仕事をしてきた経験がある。
正しいという概念は常に変化する。
かつて「長男は家を継ぐ」という絶対があったが、それも今は昔。
この物語は、未だに「それ」が実在していることを我々に伝えている。
そして、自殺するか親を殺すかというまでに追い詰められた心の真実と、そこから抜け出すまでを描いている。
木村が大学で出会った「宗教」へ走ったのは、よくある話だ。
宗教、つまりカルトは必ずしも教祖様の形態を持たない。
「実践○○」とか、そういう類のものを知らない人は知らないだけで、日本には約17万8,000の宗教法人があり、諸教(新宗教など)は約700万人、社会教育関係団体には400万人超の会員がいる。
人は、心の拠り所を求める。
それはごく自然なことだ。
大学は、親から離れる一歩でもある。
宮田の場合、大学へ行く条件を母が提示した。
条件をつけるという行為は、どこにでもある。
「言うことを聞かせる」――その真意はどこから来るのか。
これこそ親のエゴだろう。
宮田は、積み立てられていると思っていたお金を母が食いつぶしていたことを知る。
父の養育費のことさえ知らなかった。
その父からのメール「誕生日おめでとう」は、宮田にとって赤の他人の言葉だった。
江永と二人で乾杯し、そのメールを見て「殺しに行く」と言ったのは、親からの決別だった。
それを「大人になった抱負」と言ったのも、大人としての踏ん切りだった。
宮田の母がコンビニで宮田と再会したシーン。
母の手にはGoogleプリペイドカードとタバコ。
その買い物は、彼女の日常を露呈していた。
もし宮田を探しに来たなら、そんなものは買わないだろう。
母の哀願には「お金がないから帰ってこい」というニュアンスがあった。
宮田は瞬時に察したのだろう。
そして、水。
滝つぼに身を沈める宮田。
あのシーンは、ただの逃避ではない。
俯瞰しようとしていたのかもしれない。
しかし、実際は「清め」だったのだろう。
母との決別を言葉にする前に、彼女は水の中で静かに儀式を終えていた。
やがて彼女は20歳を迎える。
そのための通過儀礼が、滝つぼで行われていたのだ。
「私は、他人から愛されなくても別に、幸せに生きたい」
江永が宗教団体で放ったこの言葉は、現代の若者の核心だ。
愛と幸せは別。
人間関係はいらない。
ただ、普通で、自由でいたい。
それでも、似たような苦悩を抱えた仲間と関わることは、拒否しない。
そこに愛などという大げさなものはいらない。
大人になるとは、ライオン狩りをすることではない。
自分の問題に対して、道を選ぶことだ。
宮田は選んだ。
「愛されなくても別に」
その言葉を胸に、彼女は大人への階段を上り始めた。
