夏の砂の上のレビュー・感想・評価
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人は寂しい心を埋めるために愛を求める…のか?
舞台は日照り続きで水不足の夏の長崎。
幼い息子を亡くし、勤めていた造船所も潰れ、気力を全く失った治。
そんな治に愛想を尽かして、家を出て治のかつての同僚に惹かれる妻の恵子。
シングルで娘を育てているが、新しい男ができるたびに娘の優子を置いて出て行き、振られると戻ってくる治の妹の阿佐子。
母親に放置される17歳の優子。
それぞれが痛みと喪失感、寂しさを抱える登場人物たち。
人はそんな寂しさを埋めるために愛を求めるのだろうか?
寂しさを抱える者どうしが少しずつ心の傷を癒やし合うことで、渇いた夏の砂の上に降る雨の如く、カラカラに渇いた心を潤してくれる。
なんの変哲もない日常の中にわずかな希望の光を見出すような作品だ。
期待度○鑑賞後の満足度◎ どことなく昔の日本映画を思わせる。内には抑えきれない想いが渦巻いているのに表には出せない昔ながらの日本人のメンタリティを抑制の効いた演出で映像化しているところとか…
独り彷徨う石畳。頬に零れる涙雨。乾いた心に沁みて行く
1998年初演の戯曲の映画化と聞く。
主演の『オダギリジョー』は共同プロデューサーにも名を連ねている。
そう言えば彼は〔ある船頭の話(2019年)〕で監督・脚本も務めていたか。
舞台は坂の町、長崎。
急峻な山が海っぺりまで迫り、
住宅は斜面に寄り添うように林立。
見るだけで閉塞感はあり、
登場人物たちは始終階段を登り降っており、
彼等・彼女等が置かれた境遇のメタファーでもあるよう。
また、嘗て原爆が落とされた場所でもある。
戦後生まれの女性の口を通し
その様子は語られるが、
そこまでのリアリティは感じられない。
『小浦治(オダギリジョー)』は以前に幼い息子を事故で亡くしている。
働いていた造船所が倒産し、今は定職にも就いていない。
妻の『恵子(松たか子)』との間には距離が生じ、
今は別居している。
独り暮らす『治』の家を
妹の『阿佐子(満島ひかり)』が訪れ、
十七歳の娘『優子(髙石あかり)』を唐突に押し付けて行く。
二人だけの、奇妙な共同生活が始まる。
ここで”よそ者が来ることで世界が変わる”物語になるかと思えば、
その変化は微か。
また”喪失と再生”や”疑似的な家族関係”についても同様で、
何れもビビットな動きは見られない。
物語りは既存のストーリーや鑑賞者の期待をことごとく外して進行する。
ドラマは無いわけではない。
『恵子』との関係の行く末や、
高校にも行かずアルバイトを始めた『優子』の異性関係と
それなりの出来事は盛り込まれる。
また『優子』は『治』に
父親に抱くのに近い想いを持っているようで、
一連のエピソードは心を暖かくさせる。
それがどれもぷつんと途切れてしまう描写で、
意図的な肩透かしを目論んでいるよう。
勿論、最後にはそれなりの光明は示されるも、
そのために払う犠牲は大きい。
人が生きるスタイルは、
そうドラスティックに変わらぬのだとの、
過去作品へのアンチテーゼのようにも感じる。
〔長崎は今日も雨だった〕との唄もあるように、
同地は他の都市に比べ降雨量が多いよう。
嘗て、息子の命を奪ったのも雨だが、
その年はじりじりと太陽が照りつけ、
水不足が理性も刺激する。
感情はなかなかに爆発せず、
思いは表情から読み取るほかはない。
が、終幕で突然恵みの雨へと変わり
万感と精神が解放されるのは
〔台風クラブ(1985年)〕での乱痴気騒ぎを想起してしまった。
砂
公開記念舞台挨拶の抽選に当たって2列目(の端っこ)で鑑賞。鑑賞後にオダギリジョー、髙石あかり、玉田監督の挨拶があり、鑑賞直後の曖昧な感想が補完される体験となりました。オダギリジョーは色々笑わせてもくれ、司会奥浜レイラさんは今回も落ち着いて的確な制御でした。
本作は2022年に田中圭と山田杏奈が出た舞台を見ていたのだが、ちょっとはまりきれておらず、今回街や家屋の中で制御された画角でアップも含む表情がよく見える形(映画という意味)で展開された本作を見て、自分は映像化に向いている作品だと思った。
しかし松たか子は松たか子であるが故にどこかいい人であって欲しいと潜在的に思ってしまう自分がおり、それだけにラストの表情は完全に悪者で、いい意味でやられた感。
で、タイトルの砂とは何と解釈するべきなのか考え中。
オダギリジョーのオダギリジョーによるオダギリジョーのための映画
孤独に生きている男性に、次々と悪夢が襲い掛かる……。九州は長崎。造船会社で溶接工として働いていたオダギリジョー。幼い息子を大雨の洪水で流されて亡くし、造船会社は倒産した上、妻は同僚に奪われ、博多の飲み屋で働くことになった妹の子供を預かることになり、元職場の先輩は交通事故で亡くなってしまう。再就職した中華料理屋では不注意で左手の指を包丁で飛ばし、そしてついに妻は広島の造船所に仕事を見つけた同僚に付いていくことになり離婚届に判を押すのだった。そうして手痛い裏切りに遭った後、博多で裏切られた妹は今度は子供を連れて、新しい彼氏と和食料理店を出すとカナダに旅立ってしまう。
彼女たちを見送り独り残されたオダギリジョーは、長崎らしい坂道を家路に向かう。オープニングと同じようにトヨタのヤリスが急な坂を下って行き、オダギリジョーは坂道の途中で煙草屋に寄り、今日も暑いね、と声をかけられ¥500で一箱のタバコを買って行く。いつもの独りの生活に戻ったのだと悟らせる情景。そして、家の前の階段で振り向き、汗をぬぐいながら長崎の町を眺めるオダギリジョー。下からカメラが追う彼の背景の真っ青な空と白い雲が、左手に大怪我を背負い孤独な彼の生活が、それでも上手く続いていくという予感で終わらせる。
見終わって残った印象が、アキ・カウリスマキ監督の「街のあかり」と似ているなぁ、と思いながら劇場を出た。
昨今、造船会社が復活してきて嬉しいんですが、映画で長崎の三菱造船所の明治時代の艤装クレーンと懐かしい福山の名前が出て来たこと、それにそもそもオダギリジョー贔屓なので+0.5しました (笑)
オダギリジョーの存在感が圧倒的!
雨が降らない長崎の夏における雨、
雨を「うまかー」といって治(オダギリジョー)と優子(髙石あかり)が二人で飲むシーンが圧巻だ。
ここが最大の見せ場であるといって過言ではないだろう。
乾いた心の登場人物たち。
オタギリジョー演じる治は、その動作や佇まいで気だるさや無気力さを体現していて
演技の凄まじさを感じたし、髙石あかり演じる優子も然りである。
彼女の目の演技、表情の演技がカメレオンの如く変化していき、
この年代でこの環境にいるキャラクターの心情をよく表現していて、
もはやベイビーわるきゅーれでの彼女の演技を超えたと思った。
登場人物たちの造船所がなくなってからの生きづらさ&乾きは
説明的に語られずとも、きちんと脚本で紡ぎあげられていて、観ていればわかるようになっている。
タクシードライバー持田(光石研)は自殺?だろうと会話の中で感じた。
実にせつない。
優子が治の心の潤いになったといって良いのではないか。
優子が来るまでは停滞していた治の生活が転がり出したし、息子の死を乗り越えようとする姿がそこにある。
優子とやりたいだけの立山(高橋文哉)、
嵐のようにやってきて去る優子の母(満島ひかり)、
登場人物たち、それぞれが存在感があった。
映像の質感が好き、色あいも好きだ。
淡々とした作品だが、最初から最後まで集中力を切らさず鑑賞できた。
🈶パンフレットも購入。これからじっくり読みたいと思う。
渇き
想像と記憶があれば命は存在できる
オダギリジョーさん演じる主人公のひと夏のいろいろな人との別れを描く。
何か明確な一貫した主張を突きつけられるという感じではなく、
暗示、比喩的な表現の読み解きを楽しむ散文的な映画だと思った。
愛の渇きを感じている人たちに
夏の暑さ、蝉の声は苛立ちや不機嫌さを増長させる。
大雨は過去の悲しみの涙であり、
それを洗い流してくれる天の恵みでもある。
虚無感を感じている高石あかりさん演じる姪は
光を通じて1945年に想いを馳せ、
生きること、存在の意味を考える。
豚骨の下処理は憎しみ。
また、満島ひかりさん演じる妹や、森山直太朗さん演じる元同僚の奥さんとか、
自分本位の必死さに思わず笑ってしまう場面や、
肝心なところで話し手をあえて見せずに表情を想像させるような面白い構図もあり、
ハラハラする物語の展開はないけれど、最後まで楽しく見た。
鎮魂歌‼️❓
長崎は今日も雨だった
オダギリジョーが主演と共同プロデューサーを務めており、まさに「オダジョーの、オダジョーによる、オダジョーのための作品」と言える一本でした。
長崎の造船所に勤務していた小浦治(オダギリジョー)は、会社の倒産によって失業。不幸はそれだけに留まらず、数年前の豪雨の際には、最愛の一人息子・アキオ(5歳)が排水溝に転落し、命を落とすという悲劇にも見舞われたことが明かされます。その出来事がきっかけだったのか、妻・恵子(松たか子)との関係も悪化。やがて恵子は、治の元同僚・陣野航平(森山直太朗)とダブル不倫関係となり、家を出て行ってしまいます。
また、やはり元同僚であり、造船所閉鎖後はタクシードライバーとして働いていた持田隆信(光石研)も、仕事中の交通事故で命を落とすなど、周囲の状況も悲劇に満ちています。治自身も、ようやく再就職を果たした中華料理店で、調理中に包丁で自らの指を三本切り落とすという事故にも遭い、まさに踏んだり蹴ったり。
そんな治のもとに、妹・阿佐子(満島ひかり)が、姪の優子(髙石あかり)を半ば強引に預けていきます。ようやく優子との間に小さな絆が芽生え始めた矢先、気まぐれな阿佐子が突然彼女を連れ戻してしまうという展開も加わり、まさに不幸の連続といえる物語でした。
こうして書き出してみると、徹底して暗い内容のように見えるのですが、実際に鑑賞してみると、坂の街・長崎の穏やかな風景と、ゆったりとした空気感が全編に漂い、不思議と重苦しさを感じさせません。そして、どんな逆境にも飄々と生きる治の姿に、かえって勇気づけられるという印象すら覚えました。
特に印象的だったのが、物語の冒頭と終盤で繰り返される大雨のシーン。これは、息子を失った過去と向き合う治の内面を象徴するものであり、また、バケツで雨水を集め、それを治と優子が一緒に飲む場面に象徴されるように、優子との関係を通して、治の心に突き刺さっていた「喪失」の棘が、少しずつ抜け落ちていく過程が丁寧に描かれていたように思えました。渇水に見舞われた夏の長崎は、乾ききった治の心のメタファーであり、そんな彼の心に慈雨=潤いをもたらしたのが、他ならぬ優子でした。
作中唯一の挿入歌として登場したのが、持田が酔ったときに口ずさんでいた「長崎は今日も雨だった」という点からも、まさに「雨」というモチーフが全編を貫く、象徴的な作品だったといえます。
物語自体は地味な部類に入るかもしれませんが、オダギリジョーをはじめ、松たか子、髙石あかり、満島ひかり、高橋文哉など、主役級、4番バッター級の実力派をズラリと並べた俳優陣は、実に豪華でした。ただ面白かったのは、それぞれが目立ちすぎることなく、逆に本作の物語世界に完全に溶け込んだ演技を見せてくれたところでした。
流石に主役のオダギリジョーは、いつものようにヨレっとした風情の中にも独特の色気を漂わせていましたが、松たか子は『ファーストキス 1ST KISS』の時のキラキラ感満載の演技から一転、くすんだ日常を背負った妻役を深みのある演技で表現していました。
中でも特筆すべきは、優子を演じた髙石あかり。『ベイビーわるきゅーれ』シリーズや『ゴーストキラー』などアクション作品での印象が強い彼女ですが、本作では、母親に捨てられ、バイト先では男(高橋文哉)に体を求められ、遅刻を理由に職も失うという不遇な境遇の少女・優子を、繊細な表情と台詞まわし、そして全身からにじみ出る演技力で見事に体現していました。
去年大ヒットした『ラストマイル』でカッコいい主人公を務めた満島ひかりも、身勝手でどこか抜けている感じの役柄を、実にそれらしく演じていました。
そんな訳で、長崎の風景と役者の演技を楽しめた本作の評価は、★4.2とします。
渇いてるから潤したい。
幼い息子を亡くし妻・恵子と別居中の小浦治、ある日妹の阿佐子が17歳の娘・優子を連れてきては預かってと…、治と優子のひと夏の生活が始まる。
長崎県の暑い夏、何気ない日常で見せ、その日常にある夫婦のいざこざを間近で見る優子、高校は行かず近所のスーパーでバイトを始めバイト先の男・立山との関係を持ちながらも治と優子の抱く心情とは…。
本作を観ての感想は何だろ!?
治の日常と妻のことで色々な心情、だらしない母親のせいで長崎で世話になる優子の日常と心情って感じでストーリーのアップダウンがない為、感想が難しい。
ただ観てて感じたのは治と優子の性格と波長が合ってて何かいい!作品雰囲気もいい!
立山演じた高橋文哉君太った!?てか体型がだらしなくてガッカリが印象に残ってる(笑)
優子は治オジサンの事好きになちゃったのかな!?
高石あかりの存在感
人生における転機というのは、お天道様の機嫌ぐらい曖昧なものかもしれません
2025.7.5 イオンシネマ久御山
2025年の日本映画(101分、G)
原作は松田正隆の戯曲『夏の砂の上』
妹の娘を預かることになった失業中の男を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本は玉田真也
物語の舞台は、長崎県長崎市
かつて造船所で働いていた小浦治(オダギリジョー)は、会社の倒産によって失業し、次の職を探さないまま日々を過ごしていた
妻・恵子(松たか子)は愛想を尽かして出て行ったが、元部下の陳野(森山直太朗)と不倫関係にあると噂されていた
ある日のこと、治の元に妹の阿佐子(満島ひかり)がやってきた
博多で店を開くために娘・優子(髙石あかり)を預かれと言うもので、有無を言わさずに置いていく
優子は未成年だったが、近くのスーパーで働くことを決めていて、金銭的な負担ははいと言う
そんな様子を観ていた恵子は呆れ果て、何も言い残さないままどこかへと消えていく
それから治は、どう接して良いかわからぬ年頃の娘と共同生活をすることになったである
治は元同僚の持田(光石研)の再就職宴会に呼ばれ、そこであることないことを言われてしまう
そこには陳野もいて、噂話は尾鰭が付いていた
新しい女でもできたかと言われる始末で、生きた心地のしない夜を過ごすことになった
映画では、優子のバイト先でも飲み会が行われ、大学生の立山(高橋文哉)から言い寄られる優子が描かれていく
優子は自分に起こることを拒絶しないタイプで、興味本位で立山と付き合いを深めていく
それに対して、治は自分からは決して動かず、自分に起こる事もスルーするタイプだった
何を考えて生きているのか読めないものの、何とかなると気楽に構えていた
そんな治もやがて再就職をすることになるが、恵子との関係悪化が衆目の元となり、正式に離婚することになったのである
映画の冒頭では、干上がった川や溝などが強調され、給水車が出るほどの水不足になっていることが描かれていく
そんな日々も突然の大雨によって終わりを告げ、渇望しても降らず、忘れた頃に降ってくると言う感じに描かれていた
人生に起こる事もこれと同じで、意図して出来事に遭遇することはないと言える
映画のタイトルは『夏の砂の上』で、要は乾き切っていると言う意味になるのだと思う
元々海にいたハズの砂も、やがては海岸に打ち上げられ、海とは無縁のものとなっていく
彼らが潤うのは雨が降った時だけだが、彼らがその時を待っているとも思えない
すぐ近くに潤いがあるとしても、それを感じるのは人間だけで、砂はそんなことを思いもしない
そんな場所に足を踏み入れる私たちは、砂を憐れむかもしれないが、ただ熱いだけと思う人もいるように、その状態をどう受け止めるのかは、人それぞれと言えるのかな、と感じた
いずれにせよ、戯曲ベースなので演技力が必要な作品だったと思う
キャスティングがしっかりしているので、そう言った不安点もなく、淡々とした日常でほとんど何も起こらないのにずっと観ていられるのは凄いと思う
俯瞰的に見れば、治を取り巻く女性は大概だと思うが、そんな中にいて優子だけはまともに見えてしまう
治と真逆の気質で、何でも吸収してしまいがちだが、それが若さと言うものかもしれない
そう言った意味において、優子との出会いは治を少しだけ変えたのかな、と感じた
渇水の長崎に降る雨……
いい映画を見た、ジワーっと沁みる、そして余韻にひたる。
それはリアリティに裏付けされているから、だと思う。
幼い子供を亡くした夫婦がいる。
決して珍しいことではない。
治(オダギリジョー)と惠子(松たか子)は5歳の息子を、
大雨の日に水の事故で亡くした。
戸外に出たのを知らなかった。
側溝に落ちて急流に流されたのだ。
あの時、妻が目を離さなければ、
あの日、夫が、家で遊んでやってれば、
などと相手を責めたり、
お互いに顔を見ると亡くした息子の辛い思い出が蘇る、
後悔がつのる。
松田正隆の同名戯曲を、劇作家でもある玉田真也が監督。
映画は長崎市が舞台で、
坂が多くて、治の家もかなり高台にある。
坂の登り下りが頻繁に出てくるし、
家の窓からは治の勤めていた造船所の鉄塔やドックが無造作に残る港が
一望にできる。
息子を亡くした失意と溶接工の仕事の誇りもあり、
半ば自暴自棄になった夫を、見捨てて妻は家を出ている。
久しぶりに荷物を取りに戻った惠子は、
水もあげておらず、埃だらけの仏壇を見て治を責める。
“位牌を持ち帰る“という惠子、
”持たせないたくない“治、
顔を合わせば、「なんばしに来た」と怒鳴る治。
そんな恵子も、息子の好物を持参した様子はない。
恵子の様子はどこか荒んで渇水のように枯れている。
(長崎は日照り続きで、断水して、放水車が回っている)
暑い、暑い、汗が吹き出す。
喪失感から心が干からびた惠子は、
妻ある造船所の治の同僚だった男、
陣野(森山直太郎)と道ならぬ関係になり、
陣野の妻は治を激しく罵倒する。
長崎言葉の怒鳴り声は、内容がよく聞き取れないが、
自分が考え事をして、自転車事故を起こした・・・
それも治がしっかり恵子をつなぎとめずにいるから・・・
と、責める陣野の妻はかなりの打撲の怪我をを負っている。
前後して、治の妹の阿佐子が、17歳の娘の優子(高石あかり)を
無理やり家に預けにくる。
断りきれずに押し切られる治。
この優子もまた水商売で男から男へ渡り歩いている様子だ。
高校も行かずに、預けにくる途中にスーパーのアルバイトを
勝手に決めてしまう母の阿佐子。
身勝手で幼稚な姿が浮かぶ。
(満島ひかりが、17歳の子持ちを演じるのにも驚く)
この映画の一番の収穫は高石あかりだと思います。
「ベイビーわるきゅーれ」シリーズ以来、売れっ子で
オファーが絶えない・・・タイプは違うが河合優実なみの実力
と、今作で実感した。
底知れぬ何かを秘めている。
自堕落な面、
あどけない童女の顔と天性の魔性、
幾つもの顔を演じ分けるが、
蒼い沼のような寂しさが漂う姿は演技という言葉では言いあらわせない。
スーパーの先輩・立山(高橋文哉)との濡場も演じる。
優子は掴みどころがなくて、ふいにプイといなくなる猫のようだ。
治には心を許したらしく、
美しいシーンが3つある。
一つは、治に離婚届の印鑑を押させて、坂の階段下に待たせた立山と
連れ立って降りていく恵子に、声をかけるシーン。
二つ目は、日照りの空から、バケツをひっくり返すような、雨が
ようやく降って、
喜び、はしゃぐシーン。
三つ目は、長崎から今度はカナダへ行くと言う
「うまい話」で阿佐子が迎えにくる。
「叔父さんは私が守る」と啖呵を切ったのに、
身勝手な母親に簡単に母親に連れられてタクシーで去っていく。
なんとも切ないシーンなのに、
心は治の元に居たいはずなのに・・・
流れていく、流されていく、
(治に被っていた麦わら帽子を被せるシーン、
(17歳の娘の人生経験が・・・乗り越えてきた日々が
(伝わる…………名シーン、
☆優子はもしかして、難聴なのでは……
呼びかけられて振り向かないシーンが何度もある。
想像だが、暴力を受けて殴られて・・・
そんな気がする。
☆治は、優子と暮らすようになり、部屋も見違えるほどに片付く。
☆☆ハローワークにも出向いて、中華の店の下働き始める。
(ショッキングな出来事も起こる)
いつに無く嫌われ役の松たか子。
この戯曲に惚れ込み共同プロデューサーで主演のオダギリジョー。
舞台は見ていないが、会話劇が生き生きした人間の息吹きが伝われ
良い作品に生まれ変わった気がする。
オダギリジョーの存在が光る。
若い頃から独特な個性が好きだった。
恵の雨に打たれて生き返ったように、人も何度でも仕切り直しして、
晴れた空は清々しかった。
『夏の砂の上』が教えてくれた、アパレル経営の本質
映画『夏の砂の上』は、地方の銭湯を舞台にした静かな人間ドラマだが、経営者、特にアパレル業界で挑戦している自分にとっても深い示唆を与えてくれる作品だった。
銭湯という“古き良き文化”が時代の波に押され、存続の危機に直面する様は、まさに大量生産・大量消費の中で“本当に価値ある服”が見失われがちな現代のアパレル業界に重なる。目先のトレンドや売上ではなく、「誰に、なぜ届けるのか」という想いがなければ、ブランドは長く続かない。主人公が家業を継ぐか葛藤する姿は、事業を続ける意味や、自分のビジョンとの向き合い方そのものだった。
アパレルは“流行”を扱う業界だが、その根底には“人の生活に寄り添う”という本質があるはず。だからこそ、ただモノを売るのではなく、物語や価値観を纏ってもらえるかが重要だと、映画を通して改めて感じた。
『夏の砂の上』は、数字では測れない価値、そして“人と人との繋がり”の中で育つブランド力を思い出させてくれる。アパレルで挑戦するすべての人にとって、ブランディングや事業の軸を見直すヒントが詰まった一本だ。
高石あかりの体当たりの演技
昔の映画評なら間違いなくこう書くだろうけど、【ナミビアの砂漠】の河合優実の例に及ばず、『俳優のキャリアとしてまったく必要がないカット』なので、見ていて頭に来るやら腹が立つやら。その代わりと言ってはなんだけど、作中は息を呑むような推しの美しいクローズアップやミドルのショットだらけで「こんだけ愛してるならむしろマジであんな直接的な表現やらせんなよ!」と改めて思ったり(また腹立ってきた/森七菜とは鮮度が違う)。
ストーリー的にはまさにタイトル通りのカラカラに乾いた救いのない話なんだけど、悲しみの雨から始まって小さな救いの雨をクライマックスに持ってくるのは素敵だなと思ったし、なんなら雨の中ではしゃぐ優子に何故だか泣きそうになったし。これはなんか新しい感情の引き出され方だなと思った。ベビわるでもなんかこんなことあったからやはり高石あかり恐るべし。大好き。
あと違和感の塊の今どき勘違い大学生(仮面ライダーゼロワン!)に流されるように着いていく毒親に育てられた娘の悲しい感じは直近で見た【ルノワール】と共通の気持ち悪さと居心地の悪さでどちらもGJです。
こっから雑感。
セクシーダイナマイトが過ぎるオダジョー。クウガ25周年おめでとうございます。超クウガ展最高でした。さすが平成初代ライダー俳優。あなたがいなければその後のライダー俳優の道はなかったかもなのでライダー界の野茂英雄です。ありがとう。【ゆれる】の「もっと舌出せよ」からやられっぱなしです。でもプロデューサーとして「指は落とさんでもええっちゃろ」って言って欲しかったな。あ、やりたかったのか。
松さんは【ファーストキス】と打って変わって年相応で新鮮かつ残酷。直太郎は「こいつ絶対見たことあるけどだれだっけ?!」な既視感をエンドロールで回収する感じが面白かったな。満島ひかりは本当に声が良過ぎて驚く。目が覚める。
そんな感じ。駆け込みで行ったけど楽しめた。
あと、タバコがないと絵が持たない映画は良くないですよ。
舞台ではそんなことしないでしょ。猫に頼るのは許します。
それではハバナイスムービー!
結局、何を描きたかったのかが、よく分からない
いつまでたっても、何を描きたいのかがよく分からなかったのだが、終盤になって、男と、その姪の少女が、心を通わす物語だったのだということが分かってくる。
確かに、幼い息子を亡くし、妻とは別居して、職も失った男と、母親に捨てられ、バイト先の人間関係に馴染めず、彼氏ともうまくいかない姪とでは、不器用で、人付き合いが苦手なところがよく似ており、お互いに自分と同じ「匂い」を感じていたのだろうと思わせる。
ただ、それでも、姪が、男の妻に向かって「伯父さんの面倒は私が見る」と言い放ったり、久しぶりに雨が降って、2人で、たらいに溜めた雨水を飲み合ったりといった場面では、唐突感と脈略のなさを感じざるを得ないし、「どうしてそうなるの?」といった疑問も湧いてくる。(雨水を飲むのは、衛生面でも、よろしくないのではないか?)
もし、男と姪の絆のようなものを描きたかったのであれば、2人が、互いの心の距離を縮めていくようなエピソードを、もっときめ細かく、丁寧に描くべきだったと思えてならない。
むしろ、心に残ったのは、葬式の場で、男の後輩の妻が、男の妻と自分の夫が浮気をしているのを黙認している男を責める場面で、後輩の妻が徐々に感情を激化させていく様子を長回しで捉えたシーンは、篠原ゆき子の熱演もあって、見応えがあったと思う。
ただ、その後、男の妻が、葬式の手伝いに行こうとしている場面で、普通だったら、男は、彼女が、浮気相手の妻と鉢合わせしないように、葬式に行くのを止めようとすると思うのだが、彼女を押し倒して乱暴しようとしたことには、「いったい何を考えているのか」という疑問を抱かざるを得なかった。
男と姪が心を通わせたと思ったところで、姪が、母親と一緒にバンクーバーに旅立つというラストにも、「面倒を見るんじゃなかったいかい」と突っ込みを入れたくなる。
そうでなくても、左手の指を欠損した男には、身の回りの世話をしてくれる人が必要なはずなので、ここは、どう考えても、姪は、男と共に長崎に残るという展開にするべきだったのではないだろうか?
ようやくと作品のテーマが分かりかけたところで、最後の最後で、また、何を描きたかったのかが、分からなくなってしまった。
ローテーション
シーン変わりで人物の感情が変わる事が多く、え?と思う事がある?基本暗い話。というか最後もなんとも言えない終わり方。ただ、一つの物語として、映画としてはそこそこ面白かった。
髙石あかりはやっぱ狂人的なキャラの方が合ってるね。
⭐︎3.6 / 5.0
全138件中、101~120件目を表示
映画チケットがいつでも1,500円!
詳細は遷移先をご確認ください。