劇場公開日 2025年6月20日

「80年代回顧の少女映画。「ちょっと変わった社交的な子」の半自叙伝的な成長譚。」ルノワール じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

3.580年代回顧の少女映画。「ちょっと変わった社交的な子」の半自叙伝的な成長譚。

2025年7月6日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

あまりに仕事が忙しすぎて、
観てから大分経ってしまったので、
細かいことはもううろ覚えなのだが、
個人的に嫌いな映画ではなかった。

昔はこんな感じの映画、よくあったよね。
80年代後半という時代感を醸し出すために、
時代考証に異様にこだわった作りも含め、
今ではなんとなく時代のはざまに捨て置かれ、
忘れられている「80年代少女映画」への
比較的まっすぐな追慕と憧憬(承継?)の
映画であるような気はする。

あと、カンヌで上映されて評判を呼んだってのは、
なんか、すごくよく分かる気がするんだよね。
だって、『ルノワール』って、フランス少女映画の
そのまま80年代日本への移植みたいな映画だから。

●考えていることがわかりにくいヒロイン
●親、学校、社会をひたすら観察する視点
●おまじないや呪術的な儀式にハマる
●少女が自ら積極的に性的冒険に乗り出す
●歳の差の離れた相手との危ない関係
●父母もしくは祖父母の大病もしくは死
●お父さんとの微妙な距離感と交情
●お母さんとのリアルな軋轢と衝突
●父、もしくは母親のアヴァンチュール
●学校での奇矯な行動とすれ違い
●シスターフッドの濃密な描写
●暴走の爆発と鎮火、日常への回帰

このあたりの要素は、80年代以降のフランス少女映画で、それこそお腹いっぱいになるほど繰り返し繰り返し描き込まれてきた「思春期性を表現する必須アイテム」だといえる。
それを早川監督は巧みに日本の80年代へと移設し、鈴木唯という優秀な女優を得て、「昔観たことのあるような懐かしさと既視感のある、少女映画らしい少女映画」に仕上げて見せた。
ここでは、エリック・ロメールやクロード・ピノトー、ジャック・ドワイヨン、クロード・ミレールといった面々の築き上げてきたフランス少女映画の伝統が、相米慎二と大林宣彦に代表される80年代日本少女映画の空気感にそのまま連結され、一体化している。
だから観ていて、単純に80年代回顧&懐古だからという以上に、やたらとむずがゆく、なつかしい感覚が押し寄せてくる。そういや、こういう映画をかつての僕は「なんとなく日本映画らしい」「なんとなく80年代らしい」と認識していたもんだなあ、と。

80年代の少女映画に大抵あって、
ここで欠けているのは、それこそ、
少女が自転車で疾走するシーン(代わりに母親がこいでるw)と、
口実を設けたヌードくらいではないでしょうか?

― ― ― ―

ということで、カンヌのフランス人たちも、なんだかけっこう懐かしい気持ちでこの映画を観ていたのではないかと思うわけだ。
ただし80年代の少女映画は、日仏とも男性監督が担い手であったこともあって、ずっとセクシャルで、ロリータ的で、いかがわしい匂いもあった。
たとえ女性が思春期映画を撮っても『ジャンヌ・モローの思春期』(79)みたいに、男性から見てさえかなり性的でどきどきするような内容に仕上がっていた時代だ。

『ルノワール』では、現代に生きる女性監督ならではの(性的に)きわめて抑制された語り口と撮影術で、「少女映画」が21世紀の女性映画のテイスト&ポリコレのラインに収まるようにリファインされているのを確認することができる。
ずぶ濡れにしたり、風呂に入れたり、脱がしたりしないのは、いまや当たり前。
それだけではない。
胸のふくらみや脇やひざやうなじや絶対領域を強調しない。
体形のわかる服や汗や吐息や口元や上気した頬を強調しない。
そういったフェティシズムから、ヒロインを徹底的に守っている。

かわりに強調されるのが、鈴木唯の眼差しだ。
世の善も悪もおしなべてまっすぐ見つめる、透徹した視線。
黒々とした瞳と、真っ白な白目。
その感情のこもらない、ただただ真っすぐ凝視する眼差しが、もうすぐ死ぬ父親を、いろいろと無理をしている母親を、靴下をビニルに詰める金満マダムを、実は見下している友人を、薄幸だけど語りだすと止まらない未亡人を、変質者のマザコン大学生を、詐欺師風のカウンセラーを、TVから語り掛けてくる超能力者を、容赦なく射貫いていく。

― ― ― ―

この映画が観ていてイマイチわかりにくいのは、
端的に言ってヒロインのキャラクターがつかみづらいからだろう。

たとえば「こちらあみ子」のヒロインはド直球のASD&ADHDで、それはそれでわかりやすい映画だった。
ロリータ時代のシャルロット・ゲンズブールは、常に子供であることへの焦燥と苛立ちにさいなまれていた。
多動や、不良や、背伸びや、反抗期や、
おしゃまさんは、わかりやすい。
思春期映画として、客が期待しているものだから。
拗らせ方が、理解の範囲内にあるから。

だが、本作で鈴木唯が演じるフキちゃんは、
ちょっと毛色が違う。
想像力豊かで、ダークなものやオカルトが好き。
両親を含む大人とは一定の距離感を保っていて、
何事も冷静に観察し、本質を見つめている。
危ないもの、傷つけるもの、死にまつわるものに
強く惹かれていて、コミットしようとする。

ただポイントとして、だからといってこの子は、
荒れたり、反抗したり、騒いだりは一切しない。
いつもスンとしていて、感情の揺れを見せず、
大人に何か指摘されたら、素直にいうことをきく。
返事は丁寧で、声はかわいく、挙動は愛らしい。
ちょっと変な子だけど、この子は社交性が異様に高いのだ。

思春期映画というのは「軋轢」を描く映画だとつい思いたくなるが、この映画でのフキちゃんは、誰とでもうまく交流できるし、うまく相手に対応ができる。
でも、彼女は同時にいちばん仲良くしてくれている友人を平気で罠にかけるし、自分から伝言ダイヤルを介したアヴァンチュールにのめり込んでいくし、得体の知れない人間の闇の深奥へとわくわくしながら分け入っていく。

社会性をあわせもった「どこか変な子」が、
次々と好奇心の対象を標的にとらえては、
ソフトに「蹂躙」していくというのが、
『ルノワール』という映画の本質ではないか。

というわけで、なかなかに感情移入しにくいヒロインではあるのだが(笑)、僕自身は実のところ、まあまあの親近感をもってフキちゃんを観ていたのだった。
なぜなら自分も、かなり「社交的だけど」「変な子」だったからだ。

カウンセラーを生業とする妻には、あんたは純度100%のADHDだよと断じられているが、自分はとにかく昔から忘れ物と立ち歩きの多い問題児童だった。
けじめがつけられない。授業中のおしゃべりがとめられない。
鞄を電車に置き去りにして、手ぶらで家に帰る。
そんなことがしょっちゅうだった。
そのわりに誰とでもたいてい仲良くできて、諍いごとを一切起こさないので(たぶん人生で喧嘩したことも人に文句をいったことも一回もない)、小学校で入った塾で半年ほどいじめられた以外は、学校は小中高大と、とにかく居心地のよい場所で、仲間とつるんでは遊んでばかりいた。ついでにいうと、成績も悪くなかったので、教師から見たらまあまあむかつくガキだったはずだ(笑)。
とはいえ、
3歳のときに電柱の貼り広告をたどってひとりで書道教室に出向いて、先生に頼み込んでノート一冊分「魔」という漢字をびっしり書きとりして帰ってきたという(もはや自分では覚えていないけど親から教えられた)エピソードなんかを訊くと、やはり自分はまともな子供ではなかったんだろうなあ、と我ながら痛感する。
とにかく小さい頃は昆虫をたくさん殺したし、小学生のときから首が飛んだり串刺しにされたりする映画が好きで好きでたまらなかった。
小学校低学年のときは『鬼太郎』に異常にのめりこんで、ノートにびっしり「自分で考えた妖怪」を描きまくっていたし、高学年になると今度は『必殺』にのめりこんで、毎日前を行く人の首の急所を貫くことばかり夢想しながら歩いているぶっそうな子供だった。
性的にも明らかに暴走していて、幼稚園の頃から近所の子供たちを組織して、山狩りをしてはビニ本を収集していたし、他にもここでは書けないようなろくでもない悪戯をいっぱいやった。

でも、少なくとも中学以降はずいぶんと「良い子」になった、と自分では思っている。
少なくとも悪いことはしなくなったし、誰かに危害を加えたこともない。
今ではこんなに穏やかで無害な初老のおっさんに収まりました……。

でも、まかり間違えば、僕は自分がサイコキラーや性犯罪者に落ちぶれていても全然おかしくなかった人間だと、本気で思っている。
僕を救ってくれたのは、人殺しや妖怪変化の出てくる映画や本格ミステリや時代劇やコミックといった「代替物」であり、現実世界で良い子でいるかわりに、暴走する妄想を無限に解き放てる脳内の空想世界だった。
まさに江戸川乱歩いうところの、
「うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと」だ。

そんな僕にとって、フキちゃんのダークサイドは、
なんとなく理解できるし、共感の持てるものだ。
ヤバいもの、普通じゃないもの、妖しい連中。
「闇の引力」に常に無抵抗に引き寄せられる様は、
当時の自分を観ているようで、何だか空恐ろしい。

もちろん共感できない部分もある。
自分には、友人の負の反応が観たくて
ひどい罠を仕掛けるようなフキちゃんの
「サイコパス」的な側面はなかったし、
あれだけ妖怪や必殺の虜になっても、
なぜかオカルトには全くはまらなかった。
それでも、フキちゃんの底暗い感性や、
醒めた世界認識と死生観には親近感を抱く。

徹底した80年代後半の文物に対するこだわりぶりから見ても、フキちゃんはまさに早川監督の「分身」のようなものなのだろう。
監督は48歳というから僕よりはある程度年下で、80年代後半にはちょうど小学校高学年くらいだったはずだ。
早川監督は多感だった小学校高学年の時期に、いかがわしくも魅惑的だった80年代を体験した。彼女にとって80年代は、強烈なノスタルジーを呼ぶ時代であると同時に、「どちらに転ぶかわからなかった危ない少女時代」を思い出すよすがでもある。
彼女は結局「闇の引力」に引きずり込まれることなく成長し、大人になって、ヤバい人間になる代わりにクリエイティヴな職業を選択し、遅咲きでそこにたどり着くことができた。

そんな彼女の人生は、僕の人生とも被る部分がある。
闇に引き付けられながらも、それをフィクションの世界で消化し、クリエイティヴな生業へと反映させていく。そうやって「バランス」を保ってきた生き方には、共感を寄せざるを得ない。

― ― ― ―

●お、さだまさしか、と思ったら、リリー・フランキーだった(笑)。
腹水の表現が生々しくて怖い。そういやリリー・フランキーは、いとうせいこうやみうらじゅんと並ぶ「90年代サブカル」のまさにアイコンだったんだよね。今は俳優になっちゃったけど。ちなみに、石田ひかりもまた「90年代」は、姉の石田ゆり子の10倍は有名なアイドル女優だった。

●中島歩の挙動や声が竹野内豊すぎて痺れる。

●この映画って、実は一筋縄ではいかないつくりになっていて、アヴァンに出てくる「フキちゃんの考えた虚構」であるはずの「子供が泣いているヴィデオ」が、時系列では「後」であるはずの河合優実の独白のなかで、旦那が性的関心を持って観ていたと思しきスナッフフィルムとして登場する。要するに、想像が現実に侵蝕してきて彼我の境界が融解していくような構造を、わざと「違和」として仕掛けてきてるんだよね。
ほかにも、終盤出てくる虚実の曖昧な、死にかけている父との散歩や身体を拭くシーン(ここだけは「いかにも少女映画」と言いたくなるようなセクシャルな描写になっている)や、最後の船上でのダンスシーンなど、現実と夢想のあわいをぼかしていく描写が散見される。

●そういや、なんでタイトルが『ルノワール』なんだろうね?
パンフ買いそびれたからわかんないや。
フキちゃんが気に入ってルノワールの「イレーヌ嬢」の複製画を飾ってたのは覚えてるけど。
そこがわかっていない以上、もしかすると僕はこの映画のキモの部分を、本当に何もわかってないのかもしれない……(笑)

じゃい
ゆきさんのコメント
2025年7月6日

こんばんは。
じゃいさん、良いレビューですねぇ〜!!
何回も拝読!
本作の見方が良い意味で変わりました。
チビっ子じゃいさんを通してフキちゃんの事も前より分かった気分♪
私もかなり変な子だったと自覚あり。
幼少期から女子特有の群れやキャッキャしたノリに付いていけずに冷めた子供でした。
そして私も妄想の中で消化していたあんな事こんな事を思い出しました。
私が本作に⭐︎を付けられなかったのは、もしかしたらフキちゃんと似ていたからなのかもと今となっては思います。
封印していた記憶の扉がちょっと開いた感じ。。
じゃいさんのレビューを拝読し、そんな事を思いました。
魔魔魔魔魔魔♾️
笑っちゃったよo(≧▽≦)o ww
お仕事大変ですね。あまり無理をなさらぬように。。
お忙しいのに長文すみません。
返信は大丈夫ですよ!

ゆき
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