リー・ミラー 彼女の瞳が映す世界のレビュー・感想・評価
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魂を込めた撮影だったと思います
実話をベースにしているので、怪しい演出もありません。落ち着いて、じっくりと映画を観たい方にお勧めです。
当時の詳しい状況はもちろん分かりませんが、女性が戦場に行くことだけではなく、報道カメラマンとはいえ、有力な新聞や報道機関ではなく、彼女がVOGUEという雑誌のカメラマンという立場であったことも、大変だったと思います。
では、なぜ、彼女は戦場、しかももっとも悲惨な状況を撮り、伝えることに固執したのか? 映画は、若いインタビュアーの質問に答える形で始まりますが、彼女はあまり語りません。その理由は、映画の最後に明かされます。
戦争の真っただ中ですので、映画の尺では足りないぐらい、本当に、大変な苦労があったと思います。しかも、彼女が使っていたカメラはローライフレックスの中判カメラ。たぶん、12枚撮る毎に、フィルム交換が必要です。戦場にそれほどたくさんのフィルムを持っていけないことを考えると、1枚1枚、本当に彼女の撮りたいもの、伝えたいものを、魂を込めて撮影していたんだろうなと思います。
ヒトラーとしてのわたし
不謹慎な表題だが、業界人にはこのポスターがパロディに映る。セルフポートレート作家のシンディー•シャーマンや森村泰昌なら、さしずめ『ヒトラーとしてのわたし』のタイトルがつけられるであろう絵に見えて仕方がない。。
冒頭、酒色に耽る高等遊民どものなか、相変わらず脱ぎっぷりの良いケイト・ウィンスレット。トップモデルから戦場カメラマンに転身するプロセスは、“地の彼女“とも相まって、丹念に描かれ、かなりの熱演なのだが、惜しむらくはその体型。まるまると肥えた体躯で、ドタドタと戦場を駆け廻り、いかにも重そうな尻が強調され、食事もままならない戦時にこんな人間居るのか?と訝られる。まあ、わざとらしく”ガレ”てみせるのも本意ではないでしょうね。
パリ解放時に、路地裏で兵士に襲われそうになった女性を助けたリー。護身用にとナイフを渡すときの台詞が良い!『次はコレで切り落として!』その手の輩は震え上がるだろう。
それは後に語られる彼女のトラウマで、幼少時に受けた性被害。それを実の母親に”恥“であると言われたことがリーの心の傷である。だから、被写体(モデル)としてより、撮る側に拘った理由は、自分よりもっと酷い、もっと残酷な目に遭った人々が居る!として多くの被害者をさがし続け、それを発表することで自身の安寧を得ようとする、専ら個人的な動機であり、悲惨な戦争を記録するという崇高な”使命感“などではない。そう思わせるのは彼女の生き様だ。自由奔放、傍若無人。周囲の人間にぶちギレる。思いやりを見せたのは友人にだけ。
勇躍、駆けつけたアウシュビッツ、累々たる屍の腐臭をものともせずシャッターを切り続けるリー。しかし、いちばん感動させられたのは、リーという女傑に対してではなく相棒のディビッドがヒトラーの部屋で嗚咽するシーン。コイツのために何万人も殺されてと男泣き、リーと抱擁する場面だ。
ほどなく、リーは帰還して、わくわくしながらヴォーグ誌のページをめくるが、自分の写真が一枚も掲載されていないのに、怒り心頭、編集部に殴り込む。編集長は『人々を不安にさせないために載せなかった』と言い訳するも、リーは激高し収まらない。ただ、落ち着いてみれば、写真云々より、要は自分の存在を訴えたいエゴなのだと認める賢明さもあったリー。
結局、後のアメリカ版には発表される事になるのだが……
インタビュアーが実は息子だったというひねりをきかせる演出。あるいはすべてが妄想?のようにも見える。
リーの死後発見された膨大な数の写真やヒトラーのイニシャルAH入りの銀製トレー等は息子達によって世間に紹介され、女性報道写真家リー・ミラーの数奇な生涯は、はっきりと歴史に刻まれた。
「翻訳 松浦美奈」
私にとって「信頼のおける映画字幕翻訳者」のお一人である松浦美奈さん。劇場鑑賞の際には、余程の理由がない限りエンドロールが終わるまで席を立つことをしないようにしていますが、字幕映画の場合、最後にクレジットされるのが字幕翻訳者。そこに「翻訳 松浦美奈」とあれば、いい映画だったと感じた気持ちに更なる「確信」くれます。(ちなみに字幕も当然に権利が伴うため、配信など別の形態では訳者が異なることが多いためご留意ください。)
本作はアメリカ合衆国の写真家・リー・ミラーの伝記映画。(いつものことながら)不勉強な私はこの方を全く存じ上げないままの鑑賞でしたが、映画は一人のジャーナリスト(ジョシュ・オコナー)によるインタビューに始まり、リー(ケイト・ウィンスレット)の回想で語られる1938年(南フランス)以降の「リーの人生」。戦争に伴う悲劇を簡潔に表現するストーリーと、演出としてのカメラワークの巧みさによって強く印象に残るシーンの数々。本作が長編映画初監督となるエレン・クラスですが、これまでの撮影監督としての実績を振り返ればなるほど、本作の撮影監督を務めるパベウ・エデルマンとの相乗効果で、そのアイディアや的確さを感じるカメラワークはさもありなんと頷けます。
そして、何と言ってもケイト・ウィンスレット。本作では製作にも名を連ねており、またその本気度が否応なしに伝わる演技は、リー・ミラーの偉業、そしてリーその人を「伝説」にする気概を強く感じます。エンドロールでは劇中のスナップショットと実際の写真の比較も見られ、リーの命を賭けたチャレンジ、そして自ら背負った使命を全うした事実を顧みることが出来、改めてその偉大さを感じて反芻します。
さらに、脇を固める面々も皆素晴らしい。まず一人挙げるならリーのバディとなり、時に精神的な支柱にもなるデイヴィッド・E・シャーマンを演じるアンディ・サムバーグ。自身ユダヤ人としてナチスの所業、そして列車や収容所に打ち捨てられたままの数えきれないほどの死体にも最後まで我を失うことなく、全てを世界に伝えるため立ち向かうジャーナリスト・デイヴィッド。「出来るやつ」であり且つ「こんないいやついないだろ」と思わせる人物像に、アンディの何とも言えない表情が相まって、彼の存在にリーはもとより、観ている私も壊れそうになる心を度々救われます。
そしてもう一人はリーの友人の一人、ソランジュ・ダヤンを演じるマリオン・コティヤール。大戦前の南フランスでのソランジュは大変に明るく前向きな印象。リーを良く解っていて愛しているのが真っ直ぐに伝わる裏表のない感じは、演じるマリオン自身と重なって大変に素敵なのですが、、その後リーとの「再会」シーンが正に両極で唖然。ナチス・ドイツに全てを奪われ、絶望の淵にいるソランジュ。やせ細り、心身ともに消耗しきっている姿を演じるマリオンに強い衝撃を受けます。
今までも少なからず戦場カメラマン・ジャーナリストが題材になる作品観てきましたが、本作はとても理解しやすく、そして大変に感情を揺さぶられる作品でした。リー・ミラー、そしてジャーナリストという仕事と役割に改めてリスペクトを捧げたい一作です。
戦争写真家・記者のリーを語る映画
ケイト・ウィンスレットは出演したどんな映画でも強靭な挑戦をしているように思う。この映画でも同様だ。リーとウィンスレットは重なって見える。モデル時代のリー、錚々たるアーティスト達のミューズとしてのリー、この煌びやかな二つの時代をバッサリと切り捨て報道写真家のリーのみ!としたウィンスレットプロデューサーの決断が潔い。同じくリーもテキパキと意見を言う、人を見る目があり賢く知的、社交的で親友を大事にし、自分の体型に無頓着。自分は一体何者か、何をしたらいいのか常に考えていた20代から30代。悩んで決めたら一直線、戦後は別の道を歩む自由と前を見る生き方に共感し憧れる。
戦場カメラマンになってからの前半は、女性ゆえの枷があり撮影対象は女性パイロットや女性の宿舎や病院内などに限られてしまう。でも彼女の視線と被写体への共感は彼女自身の痛みと優しさから来ることが撮影するときの表情と写真から伝わる。下着を手で洗い室内に干すしかない宿舎。病院では手術中に停電し持っていた手持ちランプでドクターの手元を灯し、顔中が包帯の若い傷病兵の目を美しいと誉め頼まれて撮影する。市内では兵士が女性をレイプしようとしている。ナイフを突きつけ男を追い出し女性にナイフを渡す。恐ろしいがまだ目に見える戦争の現実。それがやつれきった親友のソランジュ(マリオン・コティヤール)に彼女のパリの邸宅(見るも無残な状態)で再会して話を聞き、リーは変わった。「みんなが消えてしまう」「列車はどこかへ行くが戻ってこない」「そんなに沢山の人間が行方不明とはどういうことか」見えない、報道されない、知らされていないことがある、これがリーをまた動かす。
カメラマン同士として知り合ったLIFE誌のディヴィッド・シャーマンと共に戦場で多くの写真をものにした彼女はドイツへ向かう。ミュンヒェン近郊のダッハウ強制収容所や線路に止まったままの列車の中で彼らが見たもの。それは暴力そのもの、見えなくされていた、ないものとされていた暴力の事実。リーは自分が蓋をしてきた過去と同一のことを感じたに違いない。ミュンヒェン市内一等地のプリンツレゲンテン通りに車で来た二人はヒトラーのアパートに入る。ヒトラーは愛人のエヴァ・ブラウンと共に「本部」のベルリンに居る。名前の頭文字A.H.を彫らせたトレーなどが置いてある客間を通り奥のバスルームへ。そこでバスタブに入った自分をディヴィッドに撮らせた写真がかの有名な写真だ。
戦争終結、連合軍勝利に終わった戦争。ほっとして浮かれた空気の中だからこそ、見えなくされていた暴力の記録を雑誌に載せて見てもらわなければ意味がない、自分が受けた傷と同じことになる。過去に受けた暴力に沈黙を強いられてきた自分が、戦争の暴力を写真で明らかにしなければ自分は一体何をしてきたのか?
リーにインタビューするジャーナリスト(ジョシュ・オコナー)とのシーンを最初、途中で何度か、そして最後と置いた構成と脚本は非常に良かった。個人的にジョシュが大好きなので嬉しかったし、ラストはショックと驚きと共に愛と赦しを感じた。
今も世界中で戦争が続いている。壁を作り土地を奪い昔からその地に住んでいた人々を追い出し殺すことしか頭にない。力あると見える側が実は常に負けてきた歴史を私たちはなぜ忘れるのだろう?
二眼レフ•カメラの長所と被写体に対するリスペクト
本篇が始まってすぐに10年ほど前に亡くなった自分の父親のことを思い出しました。
「あーっ、二眼レフ、使ってる!」そう、戦場の報道写真家 リー•ミラーさんは二眼レフ•タイプのカメラを使っていたのです(ローライフレックス? カメラがアップになったシーンがあったので目を凝らして見てたのですが、ブランドは確認できませんでした)。そして、私の父の愛機がヤシカの二眼レフだったのです。もうどこに行ったか分かりませんが、黒い台紙で布の表紙のついた分厚い武骨なアルバムに貼ってあった私の赤ん坊からの成長を記録した写真の数々は、そのヤシカの二眼レフを使って撮影されたものでした。
二眼レフ•カメラの構造はわりと単純です。まったく同じ光学性能を持った二つのレンズを上下に並べて使います。上のほうのレンズはこれから撮影する景色を見るためのファインダー用です。下のほうのレンズは実際の撮影用でシャッターを切るとレンズ後方にある扉が開いて更に後方にあるフィルムを露光させることになります。さて、ここから重要なのですが、ファインダー機能を持つ上のレンズを通った光はミラーによって90度角度を変えられます。よって撮影者はカメラを上から覗き込んでこれから撮るべき景色を確認し、構図を決めることになります。それに対して一眼レフを始めとする現在の一般的なカメラはレンズを向ける方向と撮影者の視線の向きは一致しており、手持ち撮影の際には撮影者は顔の前でカメラを構えることになります。
一般的なカメラの場合、手持ち撮影時にはカメラは撮影者の顔と被写体の間に厳然として存在するのですが、二眼レフ•カメラの場合は手持ち撮影時でも撮影者の顔からみると下斜め前方ぐらいにカメラは位置し、撮影者の視線を妨げません。視線を下に落として構図を決めた後、そのまま顔を上げて視線を前にして肉眼で被写体を確認、そして、視線をまた下に落としてファインダー内の景色を再確認……と、肉眼、レンズ越しを交互に確認することができます。この長所がもっとも発揮できるのが被写体が人だった場合で、撮る側、撮られる側の視線をさえぎる位置にカメラは存在しないわけで、撮影しながらのアイコンタクトが可能です。もし、先述した黒い台紙のアルバムに貼ってある幼い私の写真の数々がリラックスした表情で撮れているなら、それは撮影者たる私の父がカメラの向こう側にいる人ではなく、絶えず、顔全体が私に見える状態でアイコンタクトしながら撮影してくれた賜物だと思います。
ということで、直感を大切にし、肉眼で見ることにこだわったリー•ミラーさんは二眼レフ•カメラを生涯に渡って愛用し続けたのではないでしょうか。そうは言っても、私が上に挙げた長所というのは極めて人間臭い部分に関するもので、スペックとかの数字で表せるものでもありませんし、何かと使い勝手が悪いこともあって二眼レフは1950年代半ばあたりから衰退の一途をたどります(私の父のように後生大事にずっと70年代あたりまで使い続けた人もいますが)。フィルムも一般的なカメラのそれと違って若干大きめで1コマがほぼ正方形でフィルム一巻で12枚撮りだった記憶があります。今では二眼レフ•カメラもブローニー判と呼ばれたそれ用のフィルムも入手不可能と思ったら、少なくともブローニー•フィルムは富士フィルムやコダックのものが入手可能のようです。バカ高いですが。フィルム•カメラおたくがいるのかな?
なんだか映画のレビューとは思えない内容になってしまいましたが、映画に登場する特定アイテムに関して蘊蓄を傾けるのも一興ということで。
リー•ミラーさんの魂が安らかでありますように。あ、父の墓参りにも行かなきゃ。
傷にはいろいろある。見える傷だけじゃない
ケイト・ウィンスレット
本作が投げかける問い
試写会にて。
第二次大戦に従軍したおそらく世界初の女性戦場カメラマンであり、「シビルウォー」の主人公リーのインスパイア元ともいわれる、元々モデルで後に写真家となったリー・ミラーをケイト・ウィンスレットが演じる。
これはねぇ…素晴らしい映画でしたけど、食らいますから覚悟が必要です。劇中でリーは「ある日気付いたら戦争になってた。でも何故だか分からないが行かなくちゃいけない気がする」的なことを言ってヨーロッパに向かう。かなり無理して向かう。戦場は女性を閉めだしているから。
そしてそこでリーが体験するのはまさに「地獄の黙示録」もかくや、という地獄巡り。ただ、最後に目撃するのはカーツ大佐ではなく強制収容所でありそこへ向かう列車に満載された死体でありヒトラーのバスタブである。そして彼女は常に女性の視点を忘れない。
そこから導かれる本作のテーマ。
目撃すること。報道すること。目撃し続けること。報道し続けること。伝えること。伝え続けること。被写体に想いを馳せること。被写体への想いを忘れないこと。
アウシュビッツ、ダッハウ。ガザ、ウクライナ、南京。
文化大革命、ポル・ポト、光州。全部繋がってんじゃん。
リーがこれほど明らかに伝えてくれてるのに、何故我々は同じ過ちを繰り返すのか?何故我々は学べないのか?
トランプとヒトラーがいかほど違うというのか?
本作が投げかける問いは重く、辛い。しかし我々は向き合う義務があるのだと思う、同時代人として。
やっとの二回目で追加。
リーが何故自身で戦地に行かなくてはならないと思ったのか、について。
戦前から開戦後にはより強くなった男性優位の理屈。つまり、力による勝利に基づく正義。そしてそれに引きずられざるを得ない弱い存在(女性や子供)に対する違和感がそこにはあったのではないか。
そして彼女はもっと絶対的な正義を求めていたのではないか、と思った。
力による正義というロジックが今まさにガザを殲滅しようとしているからこそリーの物語が必要なのだと思った…
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