リー・ミラー 彼女の瞳が映す世界のレビュー・感想・評価
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悪いことはみんな女の身に降りかかる。 (二回目鑑賞)
戦場カメラマンの、しかも女性の視点で描かれたあの時代と戦争。
プロデューサーも兼ねたケイト・ウィンスレットの本気、凄味。回想シーンへと移っていく前の眼差し。戦場での息づかい。女であるが故の差別への怒り、苛立ち。
戦地と遠く離れたロンドンとの意識の違い。
長く続いた戦争がようやく終わり、戦勝ムードに湧く中で犠牲者の写真を掲載しなかったのも理解できる。今でこそ、ホロコースト・何が行われていたのかが知られているが、あの時点では何も分からなかったのだから。(ただ、連れ去られ消えていく) 逆に掲載したアメリカ版の方が勇断だったろう。
リー・ミラーをはじめとする戦場カメラマンたちの功績は大きい。命をかけて、その後の人生をもかけて残してくれたものから、我々は何も学んでいないのではないか。
重く苦しい内容だけに、アンドレア・ライズポロウの美貌と軽み、アンディ・サムバーグの軽みが良いアクセントに。
最後の、、。
もう一度はじめから観直したくなる。
(二回目鑑賞)
最後の仕掛けで、もう一度見直したくなり2度目の鑑賞。
初回は、リー・ミラーについて解説以上の知識がなかったが、2度目にあたり少し調べて(検索すると、モデル時代の写真から、撮る側になってからの作品、この映画にも使われている写真をはじめ経歴等いろいろ知ることができる)鑑賞。
リー・ミラーについて知識を入れてから観ると、インタビューのところだけでなく、演出も編集も撮影も脚本も音楽も演技も、すべてが実にうまく作られていると思う。
リーが女性兵士?に、「あなたの写真が世の中のことを教えてくれる」と言われるシーンがあるが、この映画はたくさんの知るべきことを教えてくれた。
ケイト・ウィンスレットが、今までリー・ミラーの映画が作られていないのが不思議だ、みたいなことを語っているが、ケイト・ウィンスレットによって作られるのを待っていたんだと思う。
時代は、戦場は、女性を必要としていなかった
彼女の進んだ道、見たもの、心折れたもの、伝えたかったもの、本当の戦場カメラマンの、ジャーナリストの職責が心に滲みた。同時に、ケイト・ウィンスレットの存在が全てに重なっていた。
あの頃の有名な女性カメラマンはゲルダ・タローと数人しか知らなかった。映画を通じてリー・ミラーの事を少し知ったわけだが、カメラレンズを向ける感はゲルダよりも、アイディアに満ちソフトなのかな?と感じた。きっとファッション業界に居たことと、知り合った仲間たちとの文化的な関係があったからと想像する。
無関心でいれたはずなのに
リー自身が興味を持ち進んだ道は
女性が一段低く見られていた時代
夢中になった伝えるべきこと
時代が彼女を無の存在にしたのか
それとも自ら無の存在にしたのか
映画ははっきりと語らないが
脚色を混ぜながら事実を伝えた。
真実は”写真”のなかにある。
※
豪華な女優陣!
どこまでも個別的な、エゴイスティックな目的達成の行動原理
1938年フランス、リー・ミラー(ケイト・ウィンスレット)は、芸術家や詩人の親友たち──ソランジュ・ダヤン(マリオン・コティヤール)やヌーシュ・エリュアール(ノエミ・メルラン)らと休暇を過ごしている時に芸術家でアートディーラーのローランド・ペンローズ(アレクサンダー・スカルスガルド)と出会い、瞬く間に恋に落ちる。だが、ほどなく第二次世界大戦の脅威が迫り、一夜にして日常生活のすべてが一変する。写真家としての仕事を得たリーは、アメリカ「LIFE」誌のフォトジャーナリスト兼編集者のデイヴィッド・シャーマン(アンディ・サムバーグ)と出会い、チームを組む。1945年従軍記者兼写真家としてブーヘンヴァルト強制収容所やダッハウ強制収容所など次々とスクープを掴み、ヒトラーが自死した日、ミュンヘンにあるヒトラーのアパートの浴室で戦争の終わりを伝える。だが、それらの光景は、リー自身の心にも深く焼きつき、戦後も長きに渡り彼女を苦しめることとなる(公式サイトより)。
主人公のリー・ミラーは、女性差別が常態化する世の中への怒りや、戦争への憂い、平和への希求といった社会正義を行動原理しているわけではなさそうである。少なくとも序盤では、女性性を上手に利用しながら、その時に感じた、やや刹那的というか、退廃的というか、露悪的というか、自由な衝動を大切に生きているように見える。つまり、彼女の女性差別や戦争との格闘は、女性差別や戦争そのものへの反骨ではなく、あくまで彼女自身の自由な衝動の阻害要因だから、という理由に拠るところが大きい。
女性差別や戦争はそれ自体が巨悪なので、わたしたちは普通、巨悪の消失を目的化するが、リー・ミラーは例えば、自身の「自由な衝動」、子どもたちの「未来」、女性の「純粋な恋心」といった、極めて個人的な目的のために、巨悪の消失を手段にする。二酸化炭素の排出抑制という巨大な目的のためにはがんばれないが、大好きな海水浴ができなくなるかもしれないという個人的な目的のためならがんばれる、のような手段と目的の関係である。
こうした、どこまでも個別的な、ある意味でエゴイスティックな目的達成の行動原理が、彼女の作品に力を与える。だから、日の目を見ない写真など、だれかの個別的な目的達成に貢献しない写真に価値はなく、たとえ、そこにどれだけ史料的な価値が認められようと、破り捨てるだけなのである。
一方で、エゴイスティックな行動原理の代償は大きい。もともと「約束はしない主義」のリーだが、被写体としてフィルムに収めるということは、その人の個別的な目的を達成をリーが預かるということを意味する。
ある男性とのインタビューを通じて回想するという構造が、晩年に戦場でのPTSDが原因でうつやアルコール依存症でカメラを置いたリーの苦しみを、あえてドラマチックではなく極めて仄かに表現している。悪臭漂う部屋に無造作に捨て置かれた大量の遺体の写真を前にしたリーが、瞳孔から瞬時に光を失い、言葉が一切出てこなくなった場面はとてもアイコニックだ。
現代的な示唆。
シンプルなストーリーながら大きな示唆を与える作品だと思いました。主人公の女性写真家は己の自然な感情に忠実に行動するため、混迷する社会の中で自由の保障の大切さがよく訴求されています。日本人は先の大戦でナチスと同盟を結んで連合国に対して闘った訳ですが、やはりこの種の映画にどこまで真実味があるのか、またオカルト伝説ではヒトラー生存説というのがあり、ひいてはグローバル事象における報道写真の意義とは等の批判があるとは思います。この写真家はうまく大戦シナリオに乗っかった活動家と観る事も可能なわけです。しかしそれらの諸点を考慮しても、自然な自由への抑圧には断固たる反対が必要だと云う目的意識の点は非常に現代的な意義を捕えていると思います。民主化の目的とは何か、それは生きる意味の再確認・再獲得のプロセスに他ならず、当時ではなく現代群像に目を向れば何もできない・何も撮れない私たちこそ現代政治の主役たらねばならない、そんな情趣も思わせる映画です。
タバコと酒とセックスと写真
1938年、南フランスで仲間たちと休暇を過ごしていたリー・ミラーは、芸術家ローランド・ペンローズと出会い恋に落ちた。まもなく第2次世界大戦が始まり、すべてが一変した。写真家の仕事を得たリーは、フォトジャーナリスト兼編集者デイヴィッド・シャーマンとチームを組み戦場での写真を撮影した。1945年、従軍記者兼写真家として悲惨な戦場の様子をカメラに納め、ヒトラーが自死した当日、ミュンヘンのヒトラーの別荘の浴室で自らのポートレイトを撮影し、戦争が終わった事を伝えた。戦場での光景はリーの心に深く傷として残り、戦後も長きにわたり彼女を苦しめた、そんな彼女の半生を息子に語る様な構成で紹介した話。
まーとにかく、ひっきりなしにタバコを吸い、酒を飲み、セックスし、モデルとして峠を越えたら写真家となり、人が撮らない様な写真を撮り、真実を伝えようとした、超変人(有る意味褒めてます)のリー・ミラー。
ミュンヘンのバスタブ写真が有名らしいが、その事を知っただけでも観た甲斐があった。
ナチスの蛮行はこれまでもいろんな作品で観てきたから特別どうこうは無いが、どうしても戦勝国サイドからの作品は一方的過ぎるんじゃないかと思ってしまう。
リー役のケイト・ウィンスレットの体当たりの演技は素晴らしかったし、報道写真家としての実在の女性リー・ミラーはこんな人だったのだろうと思える素晴らしい演技だった。
あのタイタニックのローズから30年弱。時が経つのは早いなぁ、という感じ。
写真に込めた想い
こんな映画が見たかった。
第二次大戦中に前線の写真を続けた、米国人女性写真家の記録。 有名な...
第二次大戦中に前線の写真を続けた、米国人女性写真家の記録。
有名なのは、ヒトラー邸宅の自殺現場や浴室の写真でしょうか。
戦地に女性が赴くことは、とても制限されていたとか。
英国だと絶対厳禁。
米国人だと、そういう"伝統"がなく、許可が出たと。
すさまじい機動力。向こう見ずが過ぎる。
そして記録力。真摯で強靭。
雑誌VOGUEの当時の内容にも驚きます。
掲載された写真、不採用の写真、さまざまですが。
映画内で紹介された写真の数々は、
とても表現できない、言葉を選ぼうにも難儀する、惨たらしい数々…
映画館なので遺体の腐乱臭を感じずに済むことが、せめてもの救いでした。
とても辛口な、諸々の映像が記憶にとどまってしまう映像体験でした。
最前線の写真が、英国では掲載されず、本人が口外もせず。
数十年も経てから、ご本人の没後に、息子さんが自宅の屋根裏で見つけたというのがまた驚きです。
語り継ぐべき時代に抗い信念を貫き通した女性の姿
20世紀初頭にVOGUE誌などでモデルをしていたリー・ミラーが第二次世界大戦中に初の女性従軍記者として欧州戦線の最前線に出向き、戦場カメラマンとして人々の姿を写し出した実話に基づく物語。
当時のイギリスでは、まだまだ女性蔑視が激しく、「銃後の守り」の役割しか与えられなかった。また、勇ましい兵士の姿は報道しても、負傷兵やナチスドイツに粛清された多くの人々(ユダヤ人に限らず、自由主義者や共産主義者、同性愛者など、お上の意にそぐわない者たちも含む)の姿、そして戦闘状態が終わった場所で繰り返される戦勝国兵士による女性たちへの乱暴などの姿は報じられない。「大本営発表」はどこかの国だけの話ではなかったことがよく分かる。
戦場での体験で心に深く傷を負ったリーは自分の仕事を封印し、子どもにすら話すことをしなかった。まだPTSDなどという言葉がなかった時代に、時代に抗い、信念を貫き通した女性の姿はきちんと後世に伝えていかなくてはならないであろう。
自分たちに都合の悪い歴史の事実を捻じ曲げ、なかったことにしようとする権力者が散見されるような時代にこそ、このような作品から大切なことを学び取るべきである。
ケイト・ウィンスレットが美しい
リー・ミラーをネットで検索し、モデル時代、芸術家からミューズと称えらた時代、戦時中の軍服姿、そしてヒトラーの浴室などの写真を見た。どれもとにかく美しい。
そして、ケイト・ウィンスレットはこの映画を作ることを熱望し制作総指揮をし主演もした。戦時中30代前半だったリー・ミラーを40代後半になるケイトが演ずるのはややふくよかな体型からして無理があるとの向きもあるが、私は全く気にならない。リーの70歳をメイクで演じたビジュアルを含め、美しい人はちょと体型が崩れようが、老いたとしても美しいのである。
「撮られるよりも、撮る方が好き」と言っていたリーは、戦火が激しくなった頃から従軍カメラマンとなりノルマンディー上陸作戦のフランスへ行った。解放されたパリだったが、占領下にドイツ人に協力した女性は髪を丸刈りにされ迫害されたり、いい気になった米兵は弱い女性を食い物にしようしていた。更に「行方不明になった人々が何万人もいる」と知ったリーは、帰ってこいよと訪ねてきたローランド(リーを理解した実に良い夫である)を振り切り、盟友となった「LIFE」のカメラマンのシャーマンと共にドイツ国境を越える。ダッハウ強制収容所では恐ろし光景が目に飛び込んできたがそれを撮り続けたし、過酷な環境で生き残った少女に優しい目線を送った。写真で告発しようと「VOGUE」に送ったが掲載されることはなかった、。
フランスにおけるホロコーストの犠牲者は8万3千人だったようだ。
欧州各国地域で行われたホロコーストはユダヤ人だけで600万人もの人々を殺害した。
リー・ミラーの死後、息子のアントニーが家の中を探したら屋根裏からミラーが戦場で撮った4万枚もの写真が出てきた。母の物語を後世に伝えようと著者を出した。そのアンソニーは「タイタニック」を見た時「ケイト・ウィンスレットならきっと素晴らしいリー・ミラーを演じるだろう」と思ったとのことである。
そして、それは長い時を経て実現した。素晴らしい映画になったと思います、。
全ての思いを込めたワン・ショット
ファッション・モデルからカメラマンに転身し、第二次世界大戦開戦後はカメラを持ってヨーロッパ戦線に向かった女性カメラマン、リー・ミラーの半生を辿る物語です。
あの戦時下に銃弾をかいくぐっていた女性カメラマンが居たなんて全く知りませんでした。そして、独軍敗戦直後のヒトラー宅のバスタブでこっそりとこんな自画像を撮っていたなんて。女性を軽んじる報道界への苛立ち・目の前の戦争への絶望・撮影への渇望、そして恐らくかなり強かったであろう売れる写真への意識、全てがこの1枚に凝縮されています。(添付の写真は実物画像)
恐らくエネルギーに溢れ、友達付き合いするにはかなり疲れる人物だったのでしょうが、それをケイト・ウィンスレットが本人が憑依したかの様な熱演でした。近年の彼女は、自身が出演する作品の社会性を明確に意識している様に思えますが、本作はその狙いが観る者の目玉を射抜く強さでした。
快楽主義の冒険家
様々な肩書を持つ彼女の一つである従軍記者という肩書。従軍記者と聞くと何を思い浮かべるだろうか。普通は戦争の悲惨さを伝える崇高な使命感を持った仕事と思いうかべるだろう。
確かに彼女にはそういう意識もあったのだろうが、それ以前に彼女はこの仕事を彼女の複数の仕事の一つとしてストイックに取り組んでいただけのように思える。従軍記者には崇高な使命感や特別な理由が必ずしもなくてはならないわけではない。たまたま彼女が生きた時代に大戦が勃発した。彼女にとって戦争は被写体の一つだった。戦場へ向かうのは彼女の人生における冒険の一つだった。
シュルレアリストの彼女は戦争を被写体にして自分の写真を撮り続けた。彼女が言うように写真はその一枚で一万文字の意味が込められるほどのもの。彼女は常に写真に様々な意味を込めて撮影した。それはシュルレアリストの彼女の作品作りに他ならなかった。
彼女は冒険家でもあった。けしてとびぬけて裕福な家庭に生まれたわけではない彼女はこの時代の女性が自分の欲望をかなえるには男性の財力に頼らねばならないことを知っており、富豪のエジプト人男性と結婚して彼の財力を利用し多くの冒険旅行を楽しんだ。
時には砂漠や遺跡を求めて冒険の限りを尽くし、また時には再びパリの社交界へ戻り有閑マダムのような暮らしを満喫し、そこで人脈を広げてはまたその人脈を頼りに冒険を繰り返す日々を送った。彼女の手にはいつも複数の紹介状がありそれは未知の土地では常に役に立った。彼女は世界中のどこにでも行ける翼を手に入れたのだ。それは彼女が人をひきつけてやまないほど魅力を持ち合わせていたからに他ならない。そんな中で起きた戦争。彼女にとって戦争も冒険の一つだった。
パリが解放されても彼女はいまだナチスの残党が戦闘を続ける場所を求めて戦場を渡り歩いた。それは砂漠や遺跡を求めての冒険旅行と変わらなかった。
戦争に対して冒険などと書くと不謹慎な印象を抱くかもしれないが、冒険の意味を人生の苦難を乗り越えて自己を磨き高める行動だと解釈すれば妥当とも思える。
彼女はその人生において常に冒険を求めた。自分がその時その時に興味を抱き、自分の好きなことをすることを何よりも大切にした。自分の思いのままに生きることを何よりも優先した。
彼女は快楽主義者である。自分の欲望のままに男性との逢瀬にふけった。彼女には貞操観念などなかった。でもふしだらとは違う。やはり彼女にとっては自分に正直に生きることが何よりも最優先されたのだ。妻の身でありながらフランスへ向かう船では愛人と楽しみパリで恋人のローランドとも逢瀬を重ねた。そんな彼女を富豪の夫はただ優しく見守り続けた。
彼女を快楽主義者にならしめた根源はその幼少期にさかのぼる。本作でも言及された性被害だ。彼女を不憫に思った両親は彼女を溺愛し思う存分甘やかして育てた。家庭では彼女の望みがかなわないことはなかった。しかし学校ではそうはいかず彼女はたちまち問題児となった。
頭を悩ませた両親は恩師とのパリ行きを許可せざるを得なかった。自由奔放な彼女にとってパリでの暮らしは水を得た魚のような暮らし。時はロストジェネレーションの時代、名だたる芸術家が活躍し、人々が享楽に明け暮れた自由な時代だった。
そこですでにファッションモデルとして活躍していた彼女はたちまち社交界の華となり、ジャン・コクトーやピカソなどの芸術家と交流を重ねた。コクトーはリーに彼の映画出演をオファーしたし、ピカソは彼女の自画像を描いた。映画冒頭のムジャンでのバカンスではピカソも訪れていてそこで描かれた肖像画をローランドが買い取りリーにプレゼントしたのだという。
そしてマン・レイも彼女に魅了された人間の一人だ。彼のモデル兼弟子となった彼女はたちまちその才能を開花させ彼とその評価を二分した。マンはリーが撮影した写真に自分の名を冠することを許すほど才能を認めていた。そしてリーの奔放すぎる性生活に嫉妬して彼女との心中を思わせるほどリーはマンを苦しめた。
カメラマンとして才能を開花させたリーはニューヨークで弟と共に写真スタジオを開設、世界恐慌の荒波にも負けず彼女はその人脈もありスタジオは軌道に乗る。その矢先に彼女はエジプトの富豪と結婚して弟は婚約者がいるにもかかわらず無職となりその後かなり苦境に立たされることとなる。
これらエピソードを並べるだけでも彼女の奔放さ、自分の好きなように生きるという姿勢はまさに快楽主義者にふさわしいと思える。
ファッションモデル、カメラマン、シュルレアリスト、従軍記者、料理研究家、旅行家、様々な肩書を持つ彼女を一言で言い表すのならやはり快楽主義の冒険家という言葉が最もふさわしいと思える。
本作は彼女の従軍記者時代のみを切り抜いてそこだけに焦点を絞っており、よくある従軍記者の物語に彼女の物語を矮小化してしまった。彼女の従軍記者としての行動原理も彼女の性被害の事実と絡めて、従軍記者としての原動力がさもそこにあるかのように描き観客を安易に納得させようとした。
確かに二時間の商業映画で彼女の人生を網羅的に描くことは困難だが、しかしそのように彼女の人生を分かったように描くのは彼女が一番我慢ならないのではないだろうか。
彼女は自分の写真には一万字もの意味が込められているという。そんな彼女の写真が雑誌に掲載される際には解説文が添えられた。その解説文に時として彼女は憤慨したという。自分の写真を理解せず貧相な想像力で解説した気になっているとして。
シュルレアリストの彼女の写真が高く評価されたのはその写真が表面的ではなく多くの意味が込められていると解釈できるからだ。彼女の作品の持つ多面的な魅力はまさにシュルレアリストの彼女のなせる芸術作品だったからに他ならない。その彼女の作品を理解できてない解説文に彼女は常に憤った。
それと同様に自分を分かったように描いた本作を彼女が見てどう思うのだろうか。少なくとも彼女はその幼少期の体験で他者を虐げることへの憤りからそれを従軍記者としての原動力にしたという観客が求めたものに対する安易な答えを押し付けるこの本作には憤ったのではないだろうか。
ただ本作は息子との語り合いという形で描かれた点は映画として高く評価されると思う。現実にはあり得なかった母と息子との心の交流を描いた点においては。
リー・ミラー、その自由奔放な生きざま。けして女性にとって自由に生きられない時代で自分の思う限りの自由を謳歌した彼女を演じたのがケイト・ウィンスレット。奇しくも彼女をスターダムに押し上げたタイタニックで演じたローズは沈没事故の後、亡き恋人ジャックのぶんまで人生を謳歌した。かの作品最後で彼女の枕元には様々な冒険の日々を体験した彼女の人生を思わせる写真が並べられていた。それはまさにリー・ミラーの人生を彷彿とさせるものだった。
ファッション誌の記者を戦場に?
丁寧につくられた上品な伝記映画でした。
期待していたドラマチック展開はなく、淡々としてたので、個人的には史実の一場面の空気を学ぶ感じにならざるを。
1番の違和感はヴォーグの記者が戦場にいることかも。
さすが欧米はファッション誌であろうとジャーナリズムなのか⁉️ と
…日本も戦争になったら文春記者が戦場に赴くのだろうか
ともあれ、映画としては息子だったりも分かりにくく過去のトラウマがジャーナリズムに傾倒したロジックも???
ただ女優魂は眩しく素晴らしかったです
彼女の瞳に映っていたもの
作品自体はやや平板だが、制作・主演のケイト•ウィンスレットの熱意を強く実感
ヴォーグ誌に戦争被害者や収容所の写真が載らなかった時、リーは激しく怒ります。「これは現実に起こっていることなのよ」
80年前の遠い出来事だけの話ではありません。今も戦争は起こり、多くの人々が犠牲になっています。不安になるから、可哀想だからと目を逸らしがちですが、ガザやウクライナの惨状は「現実に起こっていること」なのです。リーの言葉で目が覚めた思いです。
ケイト・ウィンスレットが自ら制作し並々ならぬ熱意で作り上げた、その心意気がとてもよく伝わってきます。
彼女は子供時代肥満体型でいじめにあい、「タ
イタニック」のヒット以降も度々体型批判を受けてきました。今回リー・ミラーを演じるにあたり「リーはありのままの自分で生きていました。私も自分自身の見た目を隠すのはもうやめたんです」とコメントしています。反ルッキズムを意図して実践し、彼女ぐらいのスターになれば、多少のリアリティを犠牲にしてもそれがやれてしまうのです。
まさに、アル中気味で後にいい母親にはなれなかったけれど、従軍を強行し弱き者たちに目を向け続けたリーに通じる部分ではないでしょうか。
そんな彼女たちに敬意を表したいと私は思います。
蛇足ですが、ヴォーグ誌のアシスタント役のカミラ・アイコが少し気になります。今回はごく小さな役でしたが、次回広瀬すず主演の「遠い山なみの光」(カズオ・イシグロ原作)に出演するようで、個人的には注目していきたいです。
全98件中、21~40件目を表示











