リー・ミラー 彼女の瞳が映す世界のレビュー・感想・評価
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リリーの瞳から見る世界の残酷さ
見えない傷をつけられた彼女、彼らはこれからどうやって前に進んでいけばいいのか。
サブタイトルの通り、リーを通して見た世界から、人間の残酷さや非道さが否応なく突きつけられた。彼女が気付き、写しだす世界の多くは搾取され傷つけられた弱者たち。特に女性や子供が多いのが印象的だった。
最初は彼女の行動を見て、なんて正義感溢れる強い女性なんだろうと思ったけれど、見ていくうちに、ただの正義感や使命感での行動ではないんだろうなと感じられた。きっと彼女自身も搾取されてきた側で、前に進みたかったんだと気づいた。
よく実在の人物を描いた作品だと、生まれから晩年まで描いている作品が多いけれど、この作品では意図してリーのモデル時代や、戦後は描かず、彼女が従軍記者兼写真家をしていた次期のみに焦点を当てて描かれている。個人的には焦点を絞ったからこそ、彼女が伝えたかった想いを感じ取りやすく、始終心打たれた。
ひとつネガティブな意見を言うとしたら、レビューでもちらほら見かけたが、リーを演じたケイト・ウェンスレットの体型について。
確かに実在のリーを見たらもう少し細身だし、従軍記者にはリアリティに欠ける体型に思えた。華やかなモデル時代と切り離して見てもらえるように、という意図とかがあったのかもしれないけれど、もう少し絞った方が作品のノイズにならなかったように思う。
ただ、魂がこもったケイト・ウェンスレットの演技は本当に素晴らしかった!!!!まさに熱演だった。
個人的には大満足な作品で、ホロコースト・戦争映画として見応えがあったし、女性としての生き方としても考えさせられた。
多くの方にオススメしたい作品。
WWII through the Lens of a Fashion Photographer
The film Lee presents Lee Miller as a woman ahead of the curve. The city slicker Vogue photographer was one of the first women in Western society to walk into the battlefield in uniform. She faces resistance from fellow soldiers but also some unanticipated support. I wasn't aware of her famous photo in Hitler's bathtub on the day of his downfall, but is an interesting story. A historically accurate pairing to last year's war photographer doc, Civil War.
ウィンスレットだから描けたこと、描けなかったこと
本作を観ながら、共通点のある比較的最近の伝記(的)映画を2本思い浮かべていた。1本目は、浅野忠信主演で写真家・深瀬昌久の生涯を描いた「レイブンズ」。写真が人物や出来事などの一瞬を切り取って提示する作品形式だからこそ、作品から切り離された前後の文脈を補ってストーリーを構成する伝記映画と写真家の人生は相性がよいと改めて感じる。
もう1本はティモシー・シャラメが若き日のボブ・ディランに扮した「名もなき者 A COMPLETE UNKNOWN」。長年にわたり活躍した才人の人生を要約して丸ごと見せるのではなく、(作り手にとって)最も重要と思われる一時代に焦点を絞って映画のストーリーを構成した点が共通する。
「リー・ミラー――ファッションモデル、写真家、従軍記者、雑誌記者、クラシックミュージック愛好家、一流料理家、旅行家。さまざまな世界を常に自由に生きた女。さまざまな顔を持ちながら常に自分自身であり続けた女」。リーの息子アントニー・ペンローズが著した伝記「リー・ミラー 自分を愛したヴィーナス」(松本淳訳・パルコ刊)の冒頭でそう紹介されている。リーが撮影した写真、そしてリー自身をとらえた写真を多数含むこの伝記本を原作としつつも、映画「リー・ミラー 彼女の瞳が映す世界」が描くのは、1937年にリー(当時30歳頃)がフランスでローランド・ペンローズと出会ってからの約10年間。2人で移住したイギリスでヴォーグ英国版の写真家兼記者となり、第二次世界大戦が始まるとドイツ軍空襲下の英国人を撮影、さらに1941年の米国参戦後は米軍の従軍ジャーナリストとして欧州戦線を取材して終戦を迎えるまでの年月にほぼ絞られている。
この時代設定は、ケイト・ウィンスレットがプロデューサーとして本作の成立に大きな役割を担ったことも関係していると思われる。過去にもリー・ミラーの人生を映画化する企画は、息子で伝記著者でもあるアントニーに何度か持ち込まれたが、いずれも合意に至らず流れていたという。だがウィンスレット主演作の「エターナル・サンシャイン」で撮影監督を務めたエレン・クラスがウィンスレットに企画を提案し、ウィンスレットが製作兼主演、クラスが監督の座組でアントニー側に交渉した結果了承され、リーが遺した資料すべてにアクセスすることを許可されるほどの信頼を得た。ウィンスレットの知名度に加え、彼女が「タイタニック」や「愛を読むひと」など歴史大作で演じてきた女性像の印象もプラスに働いたろう。
そしてもう1つ重要なのが、リー・ミラーの容姿、特に後半生の外見が近年のウィンスレットにかなり似ていること。映画のキービジュアルでも使われている、ヒトラーのアパートの浴室で自身を同僚に撮影させた代表的な1枚などは、驚くほどの再現度だ。リーがファッションモデルから写真家にキャリアを移していった20代の頃は、残っている写真を見ると比較的痩身で顔もよりシャープな印象だが、30代以降は加齢のせいもあってか肉付きがよくなったように見える。
その点もおそらくは、ウィンスレットら製作チームがリーの30代以降をメインにした大きな理由の1つだったはずだ。もしも19歳でモデルとしてキャリアをスタートさせ22歳のときにアート写真家マン・レイの弟子兼恋人になり写真術を身につけていった時期も映画に含めるとしたら、撮影時46歳のウィンスレットが自ら演じるのは無理があっただろう。また、2時間程度の本編で若い時期まで描くなら、波乱万丈の数十年を駆け足で紹介するだけで深みに欠ける映画になりかねない。そうしたもろもろの判断から、従軍ジャーナリストとしての活躍をメインとする30代の約10年間を描くことに決めたのだと思われる。
カメラマンに限らずさまざまな職業で男女格差、女性差別が根強い時代、自らの才能とバイタリティで活路を見出し、男性ジャーナリストにも引けを取らない勇気と機動力で前線に赴きスクープを連発したリー。彼女の生き様を描くことは、今の時代にも女性をエンパワーするという点で、大いに意義と価値が認められる。また、「シビル・ウォー アメリカ最後の日」(2024年10月日本公開)でキルステン・ダンストが演じた戦場カメラマンのモデルとなった人物として紹介されることも多いリー・ミラーだが、この「リー・ミラー」が2023年秋に北米の映画祭で上映、24年9月には英米を含む主要国で劇場公開されていたことを考え合わせると、「シビル・ウォー」が日本でも公開週1位の大ヒットを記録したことが「リー・ミラー」の日本公開を後押しした可能性がある(逆に「シビル・ウォー」が不入りだったら、「リー・ミラー」も配信スルーになっていたかも)。
だが一方で、ウィンスレットら製作陣の判断で割愛されたリーの若き日々も、できることなら映像で描いてほしかったというのも偽らざる本音だ。リーが幼少期に経験しトラウマとなった出来事は映画の後半で触れられているが、アマチュア写真家だった父親から10代の頃にヌードモデルとして撮影されるなど、持って生まれた美しさゆえに性的搾取や性的虐待にさらされる理不尽さも経験した。だが彼女は自らの美貌を呪うことなく逆に武器として使い、モデルになって自分の世界を広げ、さらには写真家になって見られる側から見る側へと立場を変える。マン・レイに師事し、その頃にピカソやマックス・エルンスト、ジャン・コクトーといった芸術家らとの交流を通じて、芸術とは何か、美しさとは何かについて考えを深め、自らの表現を確立すべく励んだ。そうして培ったアーティストとしてのセンスがあるからこそ、彼女の報道写真がドラマやストーリーを感じさせ、現代の私たちが見ても心を動かされるのだろう。つまりは若き日々もまた描かれるべき魅力的な要素に満ちた年月だったはずで、ウィンスレット主演作であるがゆえに描かれなかった時期のリーも、将来のいつか、配信ドラマでもドキュメンタリーでも映像化されるといいなと、望み薄と思いつつ気長に待つことにする。
彼女が観たもの、感じたことを追体験する
ミラーという人物について伝記的、網羅的に描くという選択肢もあったはず。だが、企画を長年、大切に温めてきたケイト・ウィンスレットら製作陣は、ミラーが多くの芸術家たちを魅了したモデル時代を潔く切り捨て、その後、戦場写真家となって直面する言い知れぬ試練や心の動きにこそ肉薄する。意を決して乗り込んだ戦場で、彼女はどう駆け巡り、何を感じ、何を見たのか。それは同時に、我々が未曾有の世界大戦を「女性の視点」で目撃する、貴重な映像体験をもたらしてくれる。何より役柄に魂を注いだウィンスレットの「この人物について世界に伝えねば」という使命感が伝わるし、主人公が降伏後のドイツへ踏み入ってからの光景には息を呑むばかり。そこで撮影される歴史的な一枚。ミラーが何を思い、どんな意図があったのかをセリフではなく、ただ我々に”衝動”として突きつける。観賞後、彼女についてより深く知りたくなる、大きなきっかけをもたらす作品だ。
ケイト・ウィンスレット、その意気や良し。ただ…。
シビル・ウォーの記憶が鮮烈で、キルステン・ダンストのイメージがどうしても離れなかったせいもあるが、ケイト・ウィンスレットのリー・ミラーはやっぱり辛かった。
本当は大好きな女優の一人なんだけど…。
まず、申し訳ないが太り過ぎ。次に、これは致し方ないとしてもやっぱり歳を取り過ぎ。
実際のリーが第二次大戦の戦場を駆け回った頃の写真を見ると、痩せている訳ではないが、逞しさと精悍さがみなぎっていて、まさに戦場カメラマンのそれだけれども、ケイトの場合は、長年の怠惰がたたってどうしようもなく太っている風で、動作も同年代の標準よりずっとモッサリした感じ。これでリアリティを感じろと言われても難しい。
また、リーが大戦下のヨーロッパを駆け回った時期は、彼女がまだ三十代だった頃なのに、劇中のケイトはとてもそんな年には見えない。どうみても実年齢と同じ五十近くのおばはんだ。
こんな様子でどうやって感情移入すればいいというのか…。私には無理だった。
勿論、実際のリーに似ていなければダメだという訳ではないが、ここまで違うと、そもそも女性で行軍を許されたいきさつも、ロマンスも、ストーリーの骨格部分についての説得力が無くなってしまう。
脚本は中々だし、大事なメッセージを持った映画だと思うだけに、残念。
観終わってすぐに考えたことは、主演女優が誰だったらよかったか、ということだった。
本当は星三つがせいぜいかと思ったけれど、ケイトが製作まだ買って出た熱意や、晩年のリーが〇〇に向かって語るという設定の意外さで少し加点しました。
それにしても、そこまで意気込んで主役を張るんだったら、ケイトさん、もうちょっとアプローチしてほしかったなぁ。
でもまあ、そこがケイト・ウィンスレットの良いところかもしれないけど。
悪いことはみんな女の身に降りかかる。 (二回目鑑賞)
戦場カメラマンの、しかも女性の視点で描かれたあの時代と戦争。
プロデューサーも兼ねたケイト・ウィンスレットの本気、凄味。回想シーンへと移っていく前の眼差し。戦場での息づかい。女であるが故の差別への怒り、苛立ち。
戦地と遠く離れたロンドンとの意識の違い。
長く続いた戦争がようやく終わり、戦勝ムードに湧く中で犠牲者の写真を掲載しなかったのも理解できる。今でこそ、ホロコースト・何が行われていたのかが知られているが、あの時点では何も分からなかったのだから。(ただ、連れ去られ消えていく) 逆に掲載したアメリカ版の方が勇断だったろう。
リー・ミラーをはじめとする戦場カメラマンたちの功績は大きい。命をかけて、その後の人生をもかけて残してくれたものから、我々は何も学んでいないのではないか。
重く苦しい内容だけに、アンドレア・ライズポロウの美貌と軽み、アンディ・サムバーグの軽みが良いアクセントに。
最後の、、。
もう一度はじめから観直したくなる。
(二回目鑑賞)
最後の仕掛けで、もう一度見直したくなり2度目の鑑賞。
初回は、リー・ミラーについて解説以上の知識がなかったが、2度目にあたり少し調べて(検索すると、モデル時代の写真から、撮る側になってからの作品、この映画にも使われている写真をはじめ経歴等いろいろ知ることができる)鑑賞。
リー・ミラーについて知識を入れてから観ると、インタビューのところだけでなく、演出も編集も撮影も脚本も音楽も演技も、すべてが実にうまく作られていると思う。
リーが女性兵士?に、「あなたの写真が世の中のことを教えてくれる」と言われるシーンがあるが、この映画はたくさんの知るべきことを教えてくれた。
ケイト・ウィンスレットが、今までリー・ミラーの映画が作られていないのが不思議だ、みたいなことを語っているが、ケイト・ウィンスレットによって作られるのを待っていたんだと思う。
時代は、戦場は、女性を必要としていなかった
彼女の進んだ道、見たもの、心折れたもの、伝えたかったもの、本当の戦場カメラマンの、ジャーナリストの職責が心に滲みた。同時に、ケイト・ウィンスレットの存在が全てに重なっていた。
あの頃の有名な女性カメラマンはゲルダ・タローと数人しか知らなかった。映画を通じてリー・ミラーの事を少し知ったわけだが、カメラレンズを向ける感はゲルダよりも、アイディアに満ちソフトなのかな?と感じた。きっとファッション業界に居たことと、知り合った仲間たちとの文化的な関係があったからと想像する。
無関心でいれたはずなのに
リー自身が興味を持ち進んだ道は
女性が一段低く見られていた時代
夢中になった伝えるべきこと
時代が彼女を無の存在にしたのか
それとも自ら無の存在にしたのか
映画ははっきりと語らないが
脚色を混ぜながら事実を伝えた。
真実は”写真”のなかにある。
※
豪華な女優陣!
どこまでも個別的な、エゴイスティックな目的達成の行動原理
1938年フランス、リー・ミラー(ケイト・ウィンスレット)は、芸術家や詩人の親友たち──ソランジュ・ダヤン(マリオン・コティヤール)やヌーシュ・エリュアール(ノエミ・メルラン)らと休暇を過ごしている時に芸術家でアートディーラーのローランド・ペンローズ(アレクサンダー・スカルスガルド)と出会い、瞬く間に恋に落ちる。だが、ほどなく第二次世界大戦の脅威が迫り、一夜にして日常生活のすべてが一変する。写真家としての仕事を得たリーは、アメリカ「LIFE」誌のフォトジャーナリスト兼編集者のデイヴィッド・シャーマン(アンディ・サムバーグ)と出会い、チームを組む。1945年従軍記者兼写真家としてブーヘンヴァルト強制収容所やダッハウ強制収容所など次々とスクープを掴み、ヒトラーが自死した日、ミュンヘンにあるヒトラーのアパートの浴室で戦争の終わりを伝える。だが、それらの光景は、リー自身の心にも深く焼きつき、戦後も長きに渡り彼女を苦しめることとなる(公式サイトより)。
主人公のリー・ミラーは、女性差別が常態化する世の中への怒りや、戦争への憂い、平和への希求といった社会正義を行動原理しているわけではなさそうである。少なくとも序盤では、女性性を上手に利用しながら、その時に感じた、やや刹那的というか、退廃的というか、露悪的というか、自由な衝動を大切に生きているように見える。つまり、彼女の女性差別や戦争との格闘は、女性差別や戦争そのものへの反骨ではなく、あくまで彼女自身の自由な衝動の阻害要因だから、という理由に拠るところが大きい。
女性差別や戦争はそれ自体が巨悪なので、わたしたちは普通、巨悪の消失を目的化するが、リー・ミラーは例えば、自身の「自由な衝動」、子どもたちの「未来」、女性の「純粋な恋心」といった、極めて個人的な目的のために、巨悪の消失を手段にする。二酸化炭素の排出抑制という巨大な目的のためにはがんばれないが、大好きな海水浴ができなくなるかもしれないという個人的な目的のためならがんばれる、のような手段と目的の関係である。
こうした、どこまでも個別的な、ある意味でエゴイスティックな目的達成の行動原理が、彼女の作品に力を与える。だから、日の目を見ない写真など、だれかの個別的な目的達成に貢献しない写真に価値はなく、たとえ、そこにどれだけ史料的な価値が認められようと、破り捨てるだけなのである。
一方で、エゴイスティックな行動原理の代償は大きい。もともと「約束はしない主義」のリーだが、被写体としてフィルムに収めるということは、その人の個別的な目的を達成をリーが預かるということを意味する。
ある男性とのインタビューを通じて回想するという構造が、晩年に戦場でのPTSDが原因でうつやアルコール依存症でカメラを置いたリーの苦しみを、あえてドラマチックではなく極めて仄かに表現している。悪臭漂う部屋に無造作に捨て置かれた大量の遺体の写真を前にしたリーが、瞳孔から瞬時に光を失い、言葉が一切出てこなくなった場面はとてもアイコニックだ。
現代的な示唆。
シンプルなストーリーながら大きな示唆を与える作品だと思いました。主人公の女性写真家は己の自然な感情に忠実に行動するため、混迷する社会の中で自由の保障の大切さがよく訴求されています。日本人は先の大戦でナチスと同盟を結んで連合国に対して闘った訳ですが、やはりこの種の映画にどこまで真実味があるのか、またオカルト伝説ではヒトラー生存説というのがあり、ひいてはグローバル事象における報道写真の意義とは等の批判があるとは思います。この写真家はうまく大戦シナリオに乗っかった活動家と観る事も可能なわけです。しかしそれらの諸点を考慮しても、自然な自由への抑圧には断固たる反対が必要だと云う目的意識の点は非常に現代的な意義を捕えていると思います。民主化の目的とは何か、それは生きる意味の再確認・再獲得のプロセスに他ならず、当時ではなく現代群像に目を向れば何もできない・何も撮れない私たちこそ現代政治の主役たらねばならない、そんな情趣も思わせる映画です。
タバコと酒とセックスと写真
1938年、南フランスで仲間たちと休暇を過ごしていたリー・ミラーは、芸術家ローランド・ペンローズと出会い恋に落ちた。まもなく第2次世界大戦が始まり、すべてが一変した。写真家の仕事を得たリーは、フォトジャーナリスト兼編集者デイヴィッド・シャーマンとチームを組み戦場での写真を撮影した。1945年、従軍記者兼写真家として悲惨な戦場の様子をカメラに納め、ヒトラーが自死した当日、ミュンヘンのヒトラーの別荘の浴室で自らのポートレイトを撮影し、戦争が終わった事を伝えた。戦場での光景はリーの心に深く傷として残り、戦後も長きにわたり彼女を苦しめた、そんな彼女の半生を息子に語る様な構成で紹介した話。
まーとにかく、ひっきりなしにタバコを吸い、酒を飲み、セックスし、モデルとして峠を越えたら写真家となり、人が撮らない様な写真を撮り、真実を伝えようとした、超変人(有る意味褒めてます)のリー・ミラー。
ミュンヘンのバスタブ写真が有名らしいが、その事を知っただけでも観た甲斐があった。
ナチスの蛮行はこれまでもいろんな作品で観てきたから特別どうこうは無いが、どうしても戦勝国サイドからの作品は一方的過ぎるんじゃないかと思ってしまう。
リー役のケイト・ウィンスレットの体当たりの演技は素晴らしかったし、報道写真家としての実在の女性リー・ミラーはこんな人だったのだろうと思える素晴らしい演技だった。
あのタイタニックのローズから30年弱。時が経つのは早いなぁ、という感じ。
写真に込めた想い
こんな映画が見たかった。
第二次大戦中に前線の写真を続けた、米国人女性写真家の記録。 有名な...
第二次大戦中に前線の写真を続けた、米国人女性写真家の記録。
有名なのは、ヒトラー邸宅の自殺現場や浴室の写真でしょうか。
戦地に女性が赴くことは、とても制限されていたとか。
英国だと絶対厳禁。
米国人だと、そういう"伝統"がなく、許可が出たと。
すさまじい機動力。向こう見ずが過ぎる。
そして記録力。真摯で強靭。
雑誌VOGUEの当時の内容にも驚きます。
掲載された写真、不採用の写真、さまざまですが。
映画内で紹介された写真の数々は、
とても表現できない、言葉を選ぼうにも難儀する、惨たらしい数々…
映画館なので遺体の腐乱臭を感じずに済むことが、せめてもの救いでした。
とても辛口な、諸々の映像が記憶にとどまってしまう映像体験でした。
最前線の写真が、英国では掲載されず、本人が口外もせず。
数十年も経てから、ご本人の没後に、息子さんが自宅の屋根裏で見つけたというのがまた驚きです。
語り継ぐべき時代に抗い信念を貫き通した女性の姿
20世紀初頭にVOGUE誌などでモデルをしていたリー・ミラーが第二次世界大戦中に初の女性従軍記者として欧州戦線の最前線に出向き、戦場カメラマンとして人々の姿を写し出した実話に基づく物語。
当時のイギリスでは、まだまだ女性蔑視が激しく、「銃後の守り」の役割しか与えられなかった。また、勇ましい兵士の姿は報道しても、負傷兵やナチスドイツに粛清された多くの人々(ユダヤ人に限らず、自由主義者や共産主義者、同性愛者など、お上の意にそぐわない者たちも含む)の姿、そして戦闘状態が終わった場所で繰り返される戦勝国兵士による女性たちへの乱暴などの姿は報じられない。「大本営発表」はどこかの国だけの話ではなかったことがよく分かる。
戦場での体験で心に深く傷を負ったリーは自分の仕事を封印し、子どもにすら話すことをしなかった。まだPTSDなどという言葉がなかった時代に、時代に抗い、信念を貫き通した女性の姿はきちんと後世に伝えていかなくてはならないであろう。
自分たちに都合の悪い歴史の事実を捻じ曲げ、なかったことにしようとする権力者が散見されるような時代にこそ、このような作品から大切なことを学び取るべきである。
ケイト・ウィンスレットが美しい
リー・ミラーをネットで検索し、モデル時代、芸術家からミューズと称えらた時代、戦時中の軍服姿、そしてヒトラーの浴室などの写真を見た。どれもとにかく美しい。
そして、ケイト・ウィンスレットはこの映画を作ることを熱望し制作総指揮をし主演もした。戦時中30代前半だったリー・ミラーを40代後半になるケイトが演ずるのはややふくよかな体型からして無理があるとの向きもあるが、私は全く気にならない。リーの70歳をメイクで演じたビジュアルを含め、美しい人はちょと体型が崩れようが、老いたとしても美しいのである。
「撮られるよりも、撮る方が好き」と言っていたリーは、戦火が激しくなった頃から従軍カメラマンとなりノルマンディー上陸作戦のフランスへ行った。解放されたパリだったが、占領下にドイツ人に協力した女性は髪を丸刈りにされ迫害されたり、いい気になった米兵は弱い女性を食い物にしようしていた。更に「行方不明になった人々が何万人もいる」と知ったリーは、帰ってこいよと訪ねてきたローランド(リーを理解した実に良い夫である)を振り切り、盟友となった「LIFE」のカメラマンのシャーマンと共にドイツ国境を越える。ダッハウ強制収容所では恐ろし光景が目に飛び込んできたがそれを撮り続けたし、過酷な環境で生き残った少女に優しい目線を送った。写真で告発しようと「VOGUE」に送ったが掲載されることはなかった、。
フランスにおけるホロコーストの犠牲者は8万3千人だったようだ。
欧州各国地域で行われたホロコーストはユダヤ人だけで600万人もの人々を殺害した。
リー・ミラーの死後、息子のアントニーが家の中を探したら屋根裏からミラーが戦場で撮った4万枚もの写真が出てきた。母の物語を後世に伝えようと著者を出した。そのアンソニーは「タイタニック」を見た時「ケイト・ウィンスレットならきっと素晴らしいリー・ミラーを演じるだろう」と思ったとのことである。
そして、それは長い時を経て実現した。素晴らしい映画になったと思います、。
全ての思いを込めたワン・ショット
ファッション・モデルからカメラマンに転身し、第二次世界大戦開戦後はカメラを持ってヨーロッパ戦線に向かった女性カメラマン、リー・ミラーの半生を辿る物語です。
あの戦時下に銃弾をかいくぐっていた女性カメラマンが居たなんて全く知りませんでした。そして、独軍敗戦直後のヒトラー宅のバスタブでこっそりとこんな自画像を撮っていたなんて。女性を軽んじる報道界への苛立ち・目の前の戦争への絶望・撮影への渇望、そして恐らくかなり強かったであろう売れる写真への意識、全てがこの1枚に凝縮されています。(添付の写真は実物画像)
恐らくエネルギーに溢れ、友達付き合いするにはかなり疲れる人物だったのでしょうが、それをケイト・ウィンスレットが本人が憑依したかの様な熱演でした。近年の彼女は、自身が出演する作品の社会性を明確に意識している様に思えますが、本作はその狙いが観る者の目玉を射抜く強さでした。
快楽主義の冒険家
様々な肩書を持つ彼女の一つである従軍記者という肩書。従軍記者と聞くと何を思い浮かべるだろうか。普通は戦争の悲惨さを伝える崇高な使命感を持った仕事と思いうかべるだろう。
確かに彼女にはそういう意識もあったのだろうが、それ以前に彼女はこの仕事を彼女の複数の仕事の一つとしてストイックに取り組んでいただけのように思える。従軍記者には崇高な使命感や特別な理由が必ずしもなくてはならないわけではない。たまたま彼女が生きた時代に大戦が勃発した。彼女にとって戦争は被写体の一つだった。戦場へ向かうのは彼女の人生における冒険の一つだった。
シュルレアリストの彼女は戦争を被写体にして自分の写真を撮り続けた。彼女が言うように写真はその一枚で一万文字の意味が込められるほどのもの。彼女は常に写真に様々な意味を込めて撮影した。それはシュルレアリストの彼女の作品作りに他ならなかった。
彼女は冒険家でもあった。けしてとびぬけて裕福な家庭に生まれたわけではない彼女はこの時代の女性が自分の欲望をかなえるには男性の財力に頼らねばならないことを知っており、富豪のエジプト人男性と結婚して彼の財力を利用し多くの冒険旅行を楽しんだ。
時には砂漠や遺跡を求めて冒険の限りを尽くし、また時には再びパリの社交界へ戻り有閑マダムのような暮らしを満喫し、そこで人脈を広げてはまたその人脈を頼りに冒険を繰り返す日々を送った。彼女の手にはいつも複数の紹介状がありそれは未知の土地では常に役に立った。彼女は世界中のどこにでも行ける翼を手に入れたのだ。それは彼女が人をひきつけてやまないほど魅力を持ち合わせていたからに他ならない。そんな中で起きた戦争。彼女にとって戦争も冒険の一つだった。
パリが解放されても彼女はいまだナチスの残党が戦闘を続ける場所を求めて戦場を渡り歩いた。それは砂漠や遺跡を求めての冒険旅行と変わらなかった。
戦争に対して冒険などと書くと不謹慎な印象を抱くかもしれないが、冒険の意味を人生の苦難を乗り越えて自己を磨き高める行動だと解釈すれば妥当とも思える。
彼女はその人生において常に冒険を求めた。自分がその時その時に興味を抱き、自分の好きなことをすることを何よりも大切にした。自分の思いのままに生きることを何よりも優先した。
彼女は快楽主義者である。自分の欲望のままに男性との逢瀬にふけった。彼女には貞操観念などなかった。でもふしだらとは違う。やはり彼女にとっては自分に正直に生きることが何よりも最優先されたのだ。妻の身でありながらフランスへ向かう船では愛人と楽しみパリで恋人のローランドとも逢瀬を重ねた。そんな彼女を富豪の夫はただ優しく見守り続けた。
彼女を快楽主義者にならしめた根源はその幼少期にさかのぼる。本作でも言及された性被害だ。彼女を不憫に思った両親は彼女を溺愛し思う存分甘やかして育てた。家庭では彼女の望みがかなわないことはなかった。しかし学校ではそうはいかず彼女はたちまち問題児となった。
頭を悩ませた両親は恩師とのパリ行きを許可せざるを得なかった。自由奔放な彼女にとってパリでの暮らしは水を得た魚のような暮らし。時はロストジェネレーションの時代、名だたる芸術家が活躍し、人々が享楽に明け暮れた自由な時代だった。
そこですでにファッションモデルとして活躍していた彼女はたちまち社交界の華となり、ジャン・コクトーやピカソなどの芸術家と交流を重ねた。コクトーはリーに彼の映画出演をオファーしたし、ピカソは彼女の自画像を描いた。映画冒頭のムジャンでのバカンスではピカソも訪れていてそこで描かれた肖像画をローランドが買い取りリーにプレゼントしたのだという。
そしてマン・レイも彼女に魅了された人間の一人だ。彼のモデル兼弟子となった彼女はたちまちその才能を開花させ彼とその評価を二分した。マンはリーが撮影した写真に自分の名を冠することを許すほど才能を認めていた。そしてリーの奔放すぎる性生活に嫉妬して彼女との心中を思わせるほどリーはマンを苦しめた。
カメラマンとして才能を開花させたリーはニューヨークで弟と共に写真スタジオを開設、世界恐慌の荒波にも負けず彼女はその人脈もありスタジオは軌道に乗る。その矢先に彼女はエジプトの富豪と結婚して弟は婚約者がいるにもかかわらず無職となりその後かなり苦境に立たされることとなる。
これらエピソードを並べるだけでも彼女の奔放さ、自分の好きなように生きるという姿勢はまさに快楽主義者にふさわしいと思える。
ファッションモデル、カメラマン、シュルレアリスト、従軍記者、料理研究家、旅行家、様々な肩書を持つ彼女を一言で言い表すのならやはり快楽主義の冒険家という言葉が最もふさわしいと思える。
本作は彼女の従軍記者時代のみを切り抜いてそこだけに焦点を絞っており、よくある従軍記者の物語に彼女の物語を矮小化してしまった。彼女の従軍記者としての行動原理も彼女の性被害の事実と絡めて、従軍記者としての原動力がさもそこにあるかのように描き観客を安易に納得させようとした。
確かに二時間の商業映画で彼女の人生を網羅的に描くことは困難だが、しかしそのように彼女の人生を分かったように描くのは彼女が一番我慢ならないのではないだろうか。
彼女は自分の写真には一万字もの意味が込められているという。そんな彼女の写真が雑誌に掲載される際には解説文が添えられた。その解説文に時として彼女は憤慨したという。自分の写真を理解せず貧相な想像力で解説した気になっているとして。
シュルレアリストの彼女の写真が高く評価されたのはその写真が表面的ではなく多くの意味が込められていると解釈できるからだ。彼女の作品の持つ多面的な魅力はまさにシュルレアリストの彼女のなせる芸術作品だったからに他ならない。その彼女の作品を理解できてない解説文に彼女は常に憤った。
それと同様に自分を分かったように描いた本作を彼女が見てどう思うのだろうか。少なくとも彼女はその幼少期の体験で他者を虐げることへの憤りからそれを従軍記者としての原動力にしたという観客が求めたものに対する安易な答えを押し付けるこの本作には憤ったのではないだろうか。
ただ本作は息子との語り合いという形で描かれた点は映画として高く評価されると思う。現実にはあり得なかった母と息子との心の交流を描いた点においては。
リー・ミラー、その自由奔放な生きざま。けして女性にとって自由に生きられない時代で自分の思う限りの自由を謳歌した彼女を演じたのがケイト・ウィンスレット。奇しくも彼女をスターダムに押し上げたタイタニックで演じたローズは沈没事故の後、亡き恋人ジャックのぶんまで人生を謳歌した。かの作品最後で彼女の枕元には様々な冒険の日々を体験した彼女の人生を思わせる写真が並べられていた。それはまさにリー・ミラーの人生を彷彿とさせるものだった。
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