「排尿のリアリズムと、“作られた命”たちの対比」ジュラシック・ワールド 復活の大地 しろふくさんさんの映画レビュー(感想・評価)
排尿のリアリズムと、“作られた命”たちの対比
今作は133分という限られた時間の中で、陸・海・空の恐竜たちを惜しみなく登場させながら、過去作へのオマージュを取り入れた、内容満載の作品である。そのため、全体としては各人物の人間的・感情的な描写や、恐竜たちの生物学的リアリティの掘り下げにはやや限界があった印象だ。
そんな中で特に印象に残ったのは、 家族チームの彼氏による排尿シーンだ。敵の接近によって尿意が抑えられ、去った瞬間に再び排尿が始まるという描写は驚くほどリアル。介助の経験がある人であれば、「恐怖や緊張によって排尿が止まる」「安心と共に再開する」といった生理的反応に深く共感できるはずだ。 加えて、この場面の音響演出にも注目したい。目を閉じていても排尿感が伝わってくるような繊細なサウンド設計。まるでASMRのように、危機と安堵の間を揺れ動く生理的なリズムを象徴している。
この一見どうでも良さそうなシーンにおいて、比較的長尺な割り当てとサウンドデザインに顕れたようなこだわりを掘り下げると、本作の根幹にある設定を担保する重要なシーンと気づかされる。 たとえば、ジュラシックパークシリーズに散見される「恐竜の糞」の描写が、今作では一切登場しない。これは、おそらく今作の恐竜たちの多くが「キメラ」であり、動物というより“人工物”として扱われていることの表れなのだろう。さらに、スカーレット・ヨハンソンをはじめとする主要キャラクターたちも、感情や理性が過度に制御されたような行動を見せることで、どこか非人間的=人工的な印象を強めている。
こうした“人工性”が全体を支配する中で、排尿という生理的な営みによって唯一“動物性”を体現してみせた彼氏の存在は、非常に重要な意味を持つ。すなわち、下手をすれば『ゴジラ対メカゴジラ』的な完全SFの領域に踏み込みかねない世界観を、この一人の「本能的な人間」がかろうじて現実に近い世界感へと引き戻しているのである。 すなわち、あの排尿シーンは、本作における「天然」と「人工」の境界線を最も明確に示した象徴的な場面であり、 生物らしさとは何か、人間らしさとは何か、そして“生きている”とはどういうことかを、排尿という生理現象を通じてジョボジョボと我々に問いかける、 極めて示唆的なメタファーである。
惜しむらくは、この“生命のリアリティ”を体現したのが一人のキャラクターに限られていた点だ。もし他の登場人物たちにも、緊張と安堵の中で揺れ動くような排尿シーンが描かれていれば、より深く彼らの人間性を感じられたかもしれないし、物語全体のリアリティもさらに厚みを増していたことだろう。
次回作に期待。
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