フランケンシュタインのレビュー・感想・評価
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狂気と犠牲と孤独、そして愛の物語‼️
多分、今回のデル・トロ監督版がメアリー・シェリー女史の原作に一番近いんじゃないでしょうか⁉️ピーター・ジャクソンが「キング・コング」を作りたかったのと同じように、ギレルモ・デル・トロにとっても「フランケンシュタイン」は念願の企画だったと思います‼️ビクター・フランケンシュタインにしろ、そのフランケンシュタインが創造した怪物にしろ、ここまでキャラ描写、そして感情が表現された事は今までなかったハズ‼️ジェームズ・ホエール版でさえも‼️ただおなじみフランケンシュタインと、その怪物の物語も、深ーい物語ではありますが、決して何回も楽しめるモノではないので、150分かけて語られると体力をかなり消耗しますね‼️そしてツギハギだらけの怪力モンスターなので、その創造の過程や、暴れるシーンがグロかったりして生々しいのもやや減点‼️そして私にとってフランケンシュタインの怪物はボリス・カーロフであり、世間のイメージもボリス・カーロフが作り上げていると思うので、もうちょっとオマージュして欲しかった‼️今回のジェイコブ・エロルディはハンサムすぎます‼️しかしラスト、ビクターと怪物が和解し、父と息子になる展開は救いがあって素晴らしかったと思います‼️未読だけど原作はどうなんだろう⁉️
ちなみに私が考える最高のフランケンシュタイン映画はメル・ブルックス監督の「ヤング・フランケンシュタイン」です‼️ホントに大好き‼️
原作はあまりにも有名だが、読んだ事がない。
11月4日(火)
「ハウス・オブ・ダイナマイト」に続くNetflix配信前劇場公開、同じくキャパ333のシネマート新宿で「フランケンシュタイン」を。
私が一番気になったのはカメラの動きである。FIXする事なく絶えず動いている。あまりカメラが動くと画が落ち着かなくなるのだが、編集の上手さもあり全く気にならない。というか、動いている事も判らないくらいだ。色合いも良く、カメラはこの作品を支える大きな要素である。
Netflixでこれからご覧になる方はカメラの動きに注目して頂きたい。
(映画秘宝のライターである友人SにNetflix視聴時に確認してもらったら、カメラがFIXしたのは1箇所だけだったとの事だ)
ビクターが溺愛する母親は、真っ赤な衣装で登場するが医者の父親の治療の甲斐なく亡くなる。医者として父親から厳しく仕込まれたビクターは生命に強い関心を持つ。赤い衣装は血の象徴か。
弟の婚約者エリザベス(ミア・ゴス)は青い衣装で登場し、緑の衣装から赤い衣装になり最後は真っ白なウェディングドレスを赤く染めるのである。
クリーチャーからもらった黄色の枯葉を大事に取ってあるエリザベス。
本作は色の対比もまた見事である。
クリーチャーは、不老不死になった自分を作った事に対して怒るのではなく、フランケンシュタインが自分と同様の不死不死の伴侶を作ってくれない事に怒るのである。これから終わりのない果てしない時間を一人で生きて行かなければならないのだ。
人は皆一人では生きて行けないものだから。
最後は父親たるビクター・フランケンシュタインに対する「罪の赦し」で終わる。
一つ納得がいかないのは、クリーチャーは盲目の老人から言葉は学べても文字を読む術は学べないのではないかという事。
これだけ有名なフランケンシュタインだが、原作をちゃんと読んだ事がない。新宿紀伊國屋書店で原作文庫版を購入した。原作読了後、何かあれば追記したいと思う。
(読んでからレビューを上げようと思ったのだが、まだ未読です)
造形美が素晴らしい!一方で改変が気になる・・・
本作では、造形美や世界観のルックがとても魅力的で、まずそこに心を掴まれました。
継ぎ接ぎだらけでありながら、均整の取れた美しさを備えた怪物の肉体。その制作過程で描かれる臓器や四肢の精巧なディテールも見事で、さすがギレルモ・デル・トロ監督の手腕だと頷けます。
当時の街並みを丁寧に再現した美術、そして夕暮れの光に照らされる赤を基調とした死体実験室――死から生命を生み出すというアンビバレントなテーマと呼応する、生と死の美しさが共存したセットも印象的でした。
一方で、原作からの大きな改変はどうしても気になりました。
原作では、ヴィクターは真面目な青年として描かれ、嫉妬と孤独に狂った怪物が彼を追い詰めていきます。ヴィクターにとって怪物は“悪夢の具現”であり、二人は決して和解せず、虚しい結末を迎える――そこが作品の肝だと思っています。
しかし映画版では、ヴィクターも“怪物”として描かれ、性格が逆転。物語は互いに許し合うという優しい着地を迎えます。この改変自体が悪いとは言いませんが、原作と比べるとどうしても甘さが際立ちました。また、ヴィクター・エリザベス・怪物といった彼らのキャラクター性の大幅な変更も受け入れにくく感じました。
さらに、映画版ではお互いを“家族”として認め合う方向に向かうのに、ヴィクターが怪物に名前を与えない点も気になりました。そこを踏み切ることで、より深い物語になったのではないかと感じます。
中盤までは非常に惹きつけられたのですが、それ以降は物語に入り込みづらくなり、総評としては「良い点が多いが、手放しで絶賛には至らない」という印象です。
とはいえ、映画としての完成度は高く、モンスター映画の美学を現代映像で見事に再構築していたことは間違いありません。可能であれば、吸血鬼など他のゴシックホラー作品も、この美術力で実写化してほしいと思うほどです。
感想メモ
ビクター博士、フランケンシュタイン、それぞれの語りが状況や心情を丁寧に描写し、ラストの感動を作り上げた、お手本のように綺麗な構成だと思う
監督ギレルモ・デル・トロなのね!心優しいクリーチャーを作るのに定評あり
ミア・ゴス好き、見てる作品が偏っているのかもしれないが、この人が演じるキャラと関わったらロクなことがない
母を亡くし、父に執念を抱き、愛を拒絶され生への興味を失い、死を克服することに捕らわれたビクター
知識を得て、自分が何者でもないと知り、生死の選択さえ思い通りにいかない体を作ったビクターを恨むフランケンシュタイン
「神によって生を得たのだから、それを奪うのも神であり、従うべきだ」「死を操れないのなら神は無能だ!」審問会?のシーン好き、みんなが実験を見ようと前のめりになるの好き
つくる事だけ考えていて、できた後の事は考えていないの、愚か者が概念を語るとこうなるの典型だ
ビクターがドアを開けて熱風にぶっ飛ばされて足を折るシーンの勢いが好き
ダイナマイトを持って祈るようなフランケンシュタインの姿が印象的
勝手に与えられた命、死ぬことはできなくてもどう生きるかを選択することはできる
人を赦し、自分の存在を赦すことでフランケンシュタインは人間になれたのかな、「ビクター、お前を赦す」の時の顔が好き、優しさ、慈愛に満ちた微笑み
ビクターは初めて自分に素直になり、過ちを認めて謝罪する事で人間になれたかな、狂気的なまでに死に捕らわれた人生が死を迎える時初めて死を受け入れることができたのかな
選択には魂が宿る
ビーナスとの一夜でマーキュリー
あまりの美しさに空いた口が塞がらない
神に背く堕落天使のごとく生命の輪廻から逸脱することを達成してしまった怪物と、
自然の摂理を知り、自身の存在の歪さを呪い許しを乞う聡明で美しい怪物。
この二者が人に成るまでの過程を美しく描き切った傑作だった。
劇中幾度となく繰り広げられる概念や死、命などについての哲学的な議論がどれもすごく新しくて聞き甲斐のあるものになっていて面白い。
美術がとてつもない。
映画館で観ようよ
何度も映像化されたメアリー・シェリーのホラー小説に独自の解釈を交えて挑んだギエルモ・デル・トロ監督の新作。
医学者の父から後継者として厳格に育てられたヴィクター・フランケンシュタイン。
優しかった母を亡くした幼少期のショックがトラウマとなり、不死の生命を創り出すという妄執に捕らわれたまま成長していくが…。
本作は概ね原作の筋書きを踏襲しているが、1931年に製作されたユニヴァーサル・ホラーの同名作品(以下『1931年版』)からもいくつかのアイデアを引き継いでいる。
ついでに言及すると、ボリス・カーロフの特殊メイクばかり話題になることが多い1931年版は完成度の高いれっきとした名作。ビクトル・エリセが『ミツバチのささやき』(1973)に引用したのもダテや酔狂からではない。
以後の派生作品に大きな影響を与えているが、主人公が科学者(もしくは博士)という設定も同作が編み出した新基軸で、原作のヴィクターは単なる学生(留学生)に過ぎない。
そのぶんオリジナルの弟ウィリアムの設定年齢も低くて婚約どころか年端もいかない少年だが、こいつが紛う事なきクソガキで、要らんこと言って怪物を挑発したせいでイチコロに縊り殺される。
創造物のあまりの醜さからただちに放棄する原作と異なり、当初は主人公が怪物の面倒をみる点も1931年版と同じ。
だが、怪物が自分の名前だけでなく弟の婚約者エリザベスの名前を口にしたために、自分だけの秘匿物と禁断の想いを寄せる彼女に対する二重のジェラシーと羞恥に苛まれたヴィクターは創作物の消却を決意する。
神の領域を侵す罪を厭わないヴィクターと昆虫好きのエリザベスとの噛み合わない会話は、初めのうちは進化論を巡るダーウィンとファーブルのように他愛のないやりとりに過ぎなかったが、やがて二人は怪物を挟んでユダと慈悲深き聖母ほどの乖離を見せヴィクターの未熟さを露呈していく。
本作がヴィクターのモノローグと怪物のそれとの二部構成になっているのは原作のプロットに沿っているからだが、ヴィクターのセリフが身勝手で自己弁護に終始した幼稚な主張ばかりなのに対して、怪物の独白は格調高く詩的ですらある。
彼が盲目の老人のもとで読み耽る書物は、おそらく聖書とほかは『プルターク英雄伝』にミルトンの『失楽園』(状況は異なるが原作では聖書の代わりにゲーテの『若きウェルテルの悩み』を読むことになる)。
環境が後天的な人格形成に与える影響は原作、1931年版、ともに重要なテーマとなっている。その点は本作も同じだが、外見の醜さゆえの迫害に曝され造物主ヴィクターへの復讐心を凝縮させる原作や、防衛本能から攻撃性を剥き出しにすることになる1931年版と較べると、本作の怪物は内省的な存在にも思えてくる。
作者が女性なので母性の介在を主唱する論評もあるようだが、原作には母性を体現する人物は出てこない(原作のエリザベスは弟ではなくヴィクター自身の婚約者だが、男性に追従する旧い価値観の存在に過ぎない)。
監督のデル・トロは本作のエリザベスを完璧な母性の象徴として描くことでヴィクターの幼稚さを強調するとともに、彼と怪物の歪んだ父子関係(父性)を際立たせようとしているのではという気もする。
デル・トロ監督の『シェイプ・オブ・ウォーター』(2017)はオスカー等、幾つもの賞を獲得したものの、個人的にはグロテスクなだけで後味の悪い印象しか残らなかったし、メッセージ性も未熟で未消化に感じた。
監督の作品をそんなに多くは観ていないが、『パンズ・ラビリンス』(2006)はスペイン内戦を背景にしているし、アニメーション作品『ピノッキオ』(2022)は第二次大戦が舞台。
本作も直接の戦闘シーンこそ登場しないものの、己れの願望と名誉欲を満たすために食屍鬼のように戦場で死体をあさるヴィクターの姿を通して戦争の愚かさを訴えかけている。
怪物が今後関わりを持たないことを交換条件に伴侶(つまり女の怪物)を創るようヴィクターに迫る設定は原作どおり。
ただし、原作のヴィクターは増殖した怪物の子供がやがて人類に取って代わるのではという現代の移民排斥問題を先取りしたような根拠のない妄想に駆られ、完成間近の「伴侶」を破壊し、激怒した怪物をさらなる凶行に奔らせる。
グロテスクな残酷趣味の映画を撮りたいだけなら、こんなもってこいの場面を避ける必要はなかっただろう。にも関わらずデル・トロはこのエピソードの映像化を回避している。
敢えて描かなかったのは、もっと大切な主題がほかにあったからだろう。
原作の怪物は安易に自分を生み出し無責任に遺棄したヴィクターをとことん追い詰めた結果、彼の死によって己れの存在意義までも失い、いずこともなく消えていくが、本作の怪物はヴィクターの請いを受け容れて彼を赦し和解を遂げる。
創造主(父親)であるヴィクターが原作ではクソガキだった弟からさえ“You are the monster(兄さんこそ怪物).”と吐き捨てられるほど精神的に未熟で身勝手な人物に描かれるのと対称的に、賢者のごとき老盲人と出会い名著に触れて以降の怪物(息子)を思索的な存在と捉えているからか、彼らの和解は両者の父子関係の逆転とも受け取れ不思議な印象を残す。
怪物が朝日に向って晴れやかな表情で両手を拡げるラストシーンも、1931年版へのオマージュ。
神の領域を侵犯したヴィクターは結局ただの人間として息を引き取るが、不死の生命と無限の力を手に入れ、神にも悪魔にもなれる存在と化した怪物は果たして――。
本作を見終えて彼が後者を選ぶと想定する人なんておそらくいないだろう。
今後デル・トロ監督の代表作とも、フランケンシュタイン映画の金字塔とも賞されて然るべき傑作。
Netflixが配信用に製作したそうだが映像は緻密で完成度も高く、ラストシーンは神々しいまでに美しい。
映画館で観ないのはもったいない。
やっぱデルトロ天才
怪物は創造物ではなく創造主だった。
デルトロにかかればフランケンシュタインもただのホラー映画じゃなくて壮大なテーマに。
いや、原作に忠実なんよな。
不気味で気味悪くてもどこか美しいデルトロ映画!
安心してください、はいてますよ!
なぜか、最初からパンツだけはいていました。
何を食べたら、あんな怪力になるのでしょうか?
しかし、美術が素晴らしいです。
実験室が作られたタワーのセットの造形が大好きです。
衣装デザインが美しいです。
照明が巧みです。
フランケンシュタインは愛も無いのに造った。ギレルモ・デル・トロは愛を持って作った
『ピノッキオ』に続いてギレルモ・デル・トロが名作を再映画化するのは、『フランケンシュタイン』。
『ピノッキオ』の時もそうだったが、これも製作を聞いた時から楽しみにしていた。デル・トロ×『フランケンシュタイン』。何と魅惑的な組み合わせではないか! 今年のNetflix映画と言うより、今年特に期待していた一本。やっとお目見え。
映像化は数知れず。スタンダードとなっているボリス・カーロフが怪物を演じた1931年版、ピーター・カッシング×クリストファー・リーのハマー・フィルム版、ケネス・ブラナー監督&主演×怪物デ・ニーロ×コッポラPの1994年版(私が最初にしっかり見たフランケンシュタイン映画はこれだったと思う)…。別口ではティム・バートンが犬で蘇らせたり、日本では特撮怪獣映画になったりアニメで怪物王子の子分になったり…。
多くのクリエイターを魅了し、刺激してやまないフランケンシュタインとその怪物。デル・トロもその一人。念願の企画だったという。
メアリー・シェリーの古典に忠実ながらも、プロローグから始まり、フランケンシュタインと怪物双方の視点、そしてエピローグ。2時間半の長尺で思い入れたっぷりにデル・トロが独自視点で創造したのは、ゴシック・ホラー・ロマンの域を超えた壮大な叙事詩であった。
プロローグ。
北の最果ての地で氷にハマり、立ち往生の探査船。
尚も進もうとする船長と故郷に帰りたい乗組員の間で対立。
そんな時、重傷を負った義足の男を助ける。熊に襲われたか…?
付け狙うように雄叫びと共に現れたのは、フードを被った巨体の男。いや、“人”なのか…?
フードの下から覗くおぞましい形相。銃撃でも死なず、信じられぬ怪力で船を揺さぶる。
船長の機転で“それ”の足元の氷を撃ち、海中に沈める。
だが、救助した男は言う。“それ”は死なない。必ず私の元に現れる…。
男の名は、ヴィクター・フランケンシュタイン。科学者だという。
船長は“それ”の事や何があったか聞く。
“それ”は私が造った。ヴィクターは語り出す…。
のっけからスケールのある映像、見事な船のセット、VFXとアクションを駆使した“それ”の脅威、謎めいた男…。掴みはばっちり!
ヴィクターの視点。
幼少の頃…って、オイオイ、肝心な所じゃなく子供の頃から話すんかい!…と船長も見る側も思ったに違いないが、ヴィクターの人格形成や動機の基盤となる。
高名な医師の父と優しい母の下に産まれたヴィクター。
生活は何不自由無かったが、父は天才ながら傲慢。ヴィクターは反発を抱いていた。
母の存在だけが唯一の拠り所だったが、弟ウィリアムの出産と共に死去。
母を助けられなかった父を見下すようになるヴィクター。
父は死を超越出来なかった。なら、私は死を超越してやる…!
父が亡くなり、ウィリアムは遠縁に引き取られ、名家は没落したが、研究に没頭するヴィクター。
やがて死体と死体を繋ぎ合わせ、電気ショックによって蘇生させる事に成功。
しかしそれは、一時的な反応か、ペテンか、本当に蘇らせたのか…?
聴聞会でヴィクターと保守派の間で大論争。
ほとんどがヴィクターの天才ぶりを理解出来ないでいたが、理解する者も。ウィリアムの婚約者エリザベスの叔父で商人のハーランダー。研究の費用援助を申し出る。
ウィリアムも協力。が、エリザベスは異を唱える。顔を合わす度に衝突するが、聡明なエリザベスにヴィクターは徐々に惹かれていった。
人里離れた塔を研究の場に。理想的な身体も道具も手に入れた。蘇生に充分な雷雨の夜…。
末期の病であったハーランダーが自分の身体も使って欲しいと頼む。ヴィクターは病の身体を使ったら失敗すると拒否する。揉み合いとなり、ヴィクターはハーランダーを殺してしまう…。
それでも研究は止められない。雷を捉え、ツギハギだらけの身体に流される。
身体は…、動いた。
反応とかではない。一時的なものでもない。まだ身体はおぼつかないが、生きて動いている。
うめき声しか発しないが、やっと一言、「ヴィクター」と…。
成功した。死を超越した。私は神すら超えたのだ。
歓喜するヴィクターだったが、それも束の間だった。
進展が見られない。いつまで立っても鈍い動きと「ヴィクター」とだけ。
苛立ちを隠せない。おぞましい風貌にウスノロに、怪力。私は“怪物”を造り出したのか…?
ウィリアムとエリザベスが訪ねてきて、研究結果を見せる。
エリザベスは怪物に慈愛を示す。怪物は「エリザベス」と発する…。
ヴィクターは遂に、“失敗作”を処分しようと強行に出る。
塔もろとも怪物を焼き払おうと、灯油を撒き、火を放つ…。
…以上ここまでが、ヴィクターの視点。
一見、おぞましい怪物を造り出してしまった天才博士の苦悩…のように思えるが、そうでない事は見てれば明白。
ヴィクターの傲慢さが目立つ。嫌悪していた父以上。
造ったはいいが、そこまで。怪物に愛情を示さない。あれこれ従わせたり、見下したり…嫌悪していた父と同じ。結局、血は逆らえない。
父は傲慢さの中にもシビアなほどの正しさがあったかもしれないが、ヴィクターはハーランダーの死に関して嘘を付くなど人としての卑しさが浮き彫りに。
天才ながら、傲慢で愚か。苦悩と滲む狂気を、オスカー・アイザックが熱演。
ヴィクターが船長に話している所へ、再び怪物が現れる。船長室に乱入してくる。
驚くべきは、ヴィクターの話とは別人と思うほど機知と流暢な人語を話す。
怪物は言う。この男から何を聞いた? どうせ独り善がりの話だろう。
あの後、一体何があった…? 怪物が語り出す…。
ここから怪物の視点になるのだが、同じ話を怪物視点からの羅生門スタイルではなく、続きは怪物視点で描くのが鮮やか。
塔が爆発を起こし、吹き飛ばされたヴィクターは片足を負傷。
鎖に繋がれていた怪物も鎖を切るが、爆発に巻き込まれてしまう。
が、驚異的な治癒力で回復。不死でもあった。
怪物は地をさ迷う。人目を避けて。
おぞましい風貌でも自然の動物たちだけは拒んだりしない。
ある時人に見つかり、銃撃を受ける。
寒さと恐ろしさ。怪物であっても感じるのだ。
民家の小屋に逃げ込む。
身体を休ませていると、この家の持ち主が帰って来る。
どうやら銃撃した人と同一。とその家族。
怪物は息を殺して身を潜めるが、盲目の老人は何かの気配に気付く。
彼らを見ている内に、怪物は不思議な感情を抱く。何かしてやりたい、と。
気付かれぬよう、大量の薪を揃える。狼避けの柵を造る。
きっと森の精霊のお陰に違いない。家族は森の精霊に感謝するが、老人はこの家に隠れ住む何かに感謝。
暫く、老人が家に一人に。老人は出てきなさいと声を掛ける。
恐る恐る出てくる怪物。
本作最大の優しさと温もりと癒しと言っていい怪物と老人の交流が胸に染みる。
この老人が自分を怖がらないのは目が見えないから、と怪物は思うが、本当にそうだろうか…?
老人は怪物の縫い目だらけの皮膚に触れ、人間ではない事に気付いただろうが、拒否も嫌悪も一切しなかった。
それどころか受け入れ、言葉の教えや読書も。
怪物の流暢な話し方も英知も全てここから。
教え、導いてくれる存在が必要だった。生まれたての赤子が一人で成長出来るだろうか…? ヴィクターはそれを怠った。
怪物は自分が何者であるか知りたいと言う。老人は探しに行きなさいと旅立たせる。
この時私は察した。これが今生の別れのような…。
怪物は朧気な記憶を頼りに、生まれた地、あの塔の跡地に辿り着く。
残骸の中から“答え”を見つけ出した。
自分は何者でもなかった。死体と死体を繋ぎ合わせ蘇生した“怪物”であった。
怪物の胸中を悲しみが駆け巡る。いやそもそも、感情などあるのか…? 心などあるのか…? 私は怪物だ。
ならば、この悲しみ苦しみは何だ…? 私は、何者なんだ…?
怪物は老人の元に戻る。が、狼の群れが…。
怪物は狼を追い払うが、老人はすでに瀕死。
怪物は老人に旅の答えを話す。私は何者でもなかった。怪物だった。
老人は言う。君は友人だ。
息を引き取った所へ、老人の家族が。死んだ父の傍らにおぞましい怪物。どんな修羅場になったか言うまでもない。
怪物は再び地を行く。が、今度はたださ迷うだけじゃない。明確な目的を持って。
我が創造主の元へ。ヴィクター!
その頃ヴィクターは身体も癒え、ウィリアムやエリザベスの元に。
久し振りに対す。髪が伸び、身体もしっかり動き、何より対話が出来るほどの言語能力を身に付けた“失敗作”に驚くヴィクターだが、さらに驚くべきは怪物からの申し出。
伴侶が欲しい。不死のままの孤独は嫌だ。連れ添える自分と同じ存在を造って欲しい。
断るヴィクター。また私に怪物を造れというのか…?
何処までも傲慢なヴィクターに怒りの雄叫びを上げる怪物。
その雄叫びを聞き付け、エリザベスがやって来る。生きていた“彼”に喜ぶ。
銃を構えるヴィクター。エリザベスにどけ、と。拒否するエリザベス。
そして悲劇は起きた。怪物を狙って放たれた銃弾がエリザベスを…。
そこへ、ウィリアムが。怪物がエリザベスを殺したと、ヴィクターはまたしても愚かな嘘を付く。
怪物を殺そうとするウィリアム。だが、その怪力でウィリアムは…。
その場を多くの者が目撃。この恐ろしい怪物を殺せ!
エリザベスの亡骸を抱いて怪物は逃げる。
その後を追うヴィクター。
追い付き、対する。だが、力の差は明白。形勢逆転。
怪物はヴィクターを圧する。今度はお前が私に服従しろ。
ヴィクターは逃げる。怪物は、逃げても逃げても必ずお前の前に現れてやる。
逃げて逃げて、北の最果ての地。怪物の魔の手を振り切り、探査船の近くへ。今に至る…。
ヴィクター視点と怪物視点。一見トーンは同じだが、全く違うものを感じる。
ヴィクター視点では重厚な雰囲気にヴィクター自身の傲慢。“怪物”とは誰の事か…?
怪物視点では、怪物に対する人や世界の仕打ちは残酷だが、その中にも優しさや美しさ。怪物が見た自然、陽光、雪までも美しい。
ホラーモンスターとして知られる怪物。が、本作の怪物は恐ろしくないのだ。
怪物史上最も複雑な感情を持ち、感受性も豊かで、怪物史上最もイケメン。
オスカーノミネートも噂されるほど、ジェイコブ・エロルディが怪物を体現。
映像美。確かにこれは配信の小さい画面では勿体ない。劇場先行上映で見た方は大正解!
『クリムゾン・ピーク』でも魅了したゴシック調の美術・衣装。その衣装やゴシック世界に映えるミア・ゴス。
役者陣の熱演。ドラマ面やキャラの内面を意識した語り口。
ギレルモ・デル・トロの溢れんばかりの愛があって造った事が、作品全てから伝わってくる。
エピローグ。
過去の作品では怪物はヴィクターに父や愛を求める。
本作ではちょっと違う解釈で、赦し。
愛も無いのに造られた。拒絶され、見捨てられ、世の残酷に見舞われた。それでも、あなたを赦す。
与えられた生命。
創造主から感情と生命を持った“彼”へ。
生きろ。それは遺言でもあった。
最期にもう一度呼んで欲しい。初めて発した時、怒号の時とは違う、感情を込めて。
ヴィクター。
死から生。
どんなに蔑まされても、赦す。
そこから見える世界は、きっと美しい。
ここがギレルモ・デル・トロが伝えたかった所だろう。
恐ろしさ、悲しさ、苦しさからの優しさ、温もり、美しさ。
不死の彼。今、彼は何処にいるだろう…?
期待通りの良さと見応えとデル・トロのクリーチャーLOVE。
『ブレイド2』ではヴァンパイア、『シェイプ・オブ・ウォーター』では半魚人、そしてフランケンシュタイン…。
ギレルモ・デル・トロにはレジェンド・モンスターたちを極めていって欲しい。
自分とは異なるヒトに対するヒトの寛容
集めた死体を繋ぎ合わせて形作られたフランケンシュタイン。人間と違う人間のような異物への不審と拒絶。この苦しいモチーフを活かしたまま作品はクライマックスへ。
ラストの生に対するカタルシスは、この世に産み出された時の陽光を浴びるシーンとは意味が異なる象徴的なシーン。創造主ベクターの死を看取りながらも自らには死が訪れないことへの苦悩は解決されない。地平線を走る日の出の太陽の温もりを、顔を上げ一身に浴びるその表情に、全てが表現されていた。
外見の醜さ、内面の醜さ、醜さにこだわったデルトロの集大成!
怪物は人間社会から差別された事で、自分の生い立ちにその理由を探した。でももし差別されずに人間社会から受け入れられていたら、彼は自分の生い立ちなど知る必要はなかった。
その心の美しさを愛され、たくさん友達を作り幸せに生きていけただろう。
だがこの映画ではそうはならない。
この映画で監督のデルトロは、繰り返し根源的な差別の構造を観客に突きつけてくる。
冒頭の北極船の船員や森の狩人は怪物の姿を見ただけで問答無用で銃撃する。
そこに言葉による交渉の余地はなく、怪物が喋れないことは全く問題になっていない。見た目が異形であるというだけで恐れ攻撃する。
つまり、差別の根源的な構造とは、言葉の違いではなく見た目の違いとルーツ(文化)の違い。
船員たちには船が、狩人には森の小屋が、そしてヴィクターら白人貴族には屋敷と社交界がある。それが彼らの拠り所でありルーツ。
(例えば狩人の小屋にはおじいちゃんがいて父母がいて幼い娘がいる。代々狩人の文化を受け継いできたことが描かれている。ヴィクターも医者である父親からスパルタ教育を受け、それが彼の人格を形成し、成人後の職業に結びついている)
また見た目に関しても、船員は船員の格好、狩人は狩人の格好、貴族は貴族の格好をしてるからすぐに判別がつく。
でも怪物にはそれがない。死体から生まれた怪物には自分のルーツがない。見た目も異形で服装も汚いからどこの何者か判別がつかない。
だから人々は恐れて攻撃する。そこに憎しみはない。集団としての防衛本能だけ。
そこに差別の根深さがある。単に一個人の問題ではなく、人間を階級と職業の枠にはめ込んでそこから外れた者を排除しようとする社会構造そのものに問題がある。
デルトロは物語の中でこの問題を繰り返し提示する。
結婚式会場でエリザベスが傷を負った時、駆けつけた人々はヴィクターの嘘を鵜呑みにし、怪物に問いただすこともなく一斉に攻撃する。
誰か一人でも公平に判断するものがいればヴィクターの嘘をあばけただろう。だが見た目が何者か分からないという恐れが正常な判断力を奪う。
結局怪物は追われ続け、人間が住まない北極まで逃亡することになる。
この物語の中で怪物を恐れなかったのはエリザベスと盲目の老人だけ。
エリザベスに関しては地位や名誉に執着する人間社会に絶望しきっていて(特に欲深い叔父が確実に反面教師になっているせいで)その純粋な心が大分病んでいる。だから現実逃避の手段としてシンプルな昆虫の生態を愛でている。
また普段から昆虫のグロテスクな見た目に慣れているエリザベスは醜さを客観視出来る。
だから初めて怪物に会った時、その外見にとらわれず心の美しさをすぐに見抜いた。そしてそれはエリザベス自身が世の中に求め続けてきたものでもあった。
心の醜い人間ばかりの世の中で、生まれて初めて心の美しい人間を見つけたエリザベス。その感動の大きさは、ミアゴスのセリフのない芝居で見事に表現されている。
ただ勘違いしてはならないのは、エリザベスの怪物に対する愛は決して男女の恋愛感情ではない。
この世には存在しないと思っていたものが目の前に現れた喜び。世の中に絶望しきっていたエリザベスにとって、怪物の存在は生きる希望に繋がる。
だから死んだと思っていた怪物が結婚式会場に現れた時、エリザベスはただ生きていてくれて良かったとその喜びを伝えたかっただけ。
一方怪物の方も、この世で唯一自分の存在を肯定してくれるエリザベスに会えることは喜び以外の何物でもない。
少なくともエリザベスは劇中一言も怪物に対して好きだとは言っていない。怪物の方にも全くそういう言動はない。またラブシーンもない。だからこの2人の間に恋愛感情があったとは考えにくい。
この2人は多分、エリザベスが生き続けていれば友達になれたかもしれない。だがそうならないのは社会がそれを許さないから。だからエリザベスは死ぬ。そしてエリザベスはそれを運命と受け入れる。
そして自分が唯一心を通わせられる怪物の腕に抱かれて、幸せのうちに人生を終える。純白のドレスが血で真紅に染まるのは、傷の痛みとは裏腹に心が幸福で満たされていることのメタファー。
言い換えると世の中に絶望していたエリザベスは死ぬことによって幸福を得る。だが同様に世の中に居場所のない怪物は、死ぬことすら出来ないのでひたすら不幸のまま生き続けなければならない。
(デルトロはこのシーンで、エリザベスと怪物を対比させることによって、より怪物の孤独と不幸を強調し印象づけている)
そしてたどり着いた北極の地。
ここで怪物は自分を生み出したヴィクターに許しを与える。誰からも愛されない自分をなぜ生み出したのかと、ヴィクターに対する怒りと復讐心に燃えていたのになぜ許したのか?
それはヴィクターと父親の関係を比較対象にすると分かりやすい。
ヴィクターは愛する母親を死なせた虚栄心だけの無力な父親を許せず、父親に対する復讐心から死者復活の研究にのめり込むようになった。だがその結果は不幸しか生まなかった。
エリザベスがヴィクターの事を「あなたこそ怪物」と言ったように、復讐心に支配され続けると心が醜くなってしまう。
だから怪物は、ヴィクターを許すことで自分の人間性を肯定し、心の平穏を保とうとしたのだと解釈出来る。
そしてラストシーンで怪物は、氷漬けになっていて身動き出来ない北極船を、氷床から引き剥がして沖へ押し出し救出する。だがそれは北極船とその船員を助けるためにしたことではない。
怪物は人間社会にいるとひたすら差別され攻撃される。そしてそれに対する復讐心から心が歪んでいく。
だから怪物は、北極から北極船を遠ざけることで、完全に北極で独りになって生きていくことを選択したのだ。
これは怪物が過酷な状況の中で唯一取りえた選択肢であり、怪物なりの孤独なハッピーエンドだったと言える。
しかしそうは言っても、この物語の中で怪物に対する差別の問題は全く解決せずに終わってしまう。後には悲愴感しか残らない。
興行的な事を考えるなら、ラストシーンで怪物と北極船の船員たちが和解して交流し、分かりやすいハッピーエンドにすることも出来たはず。でもデルトロはそうはしなかった。
現実世界で差別の問題は解決するどころか深刻さを増している。なのに物語の中で安易に差別が解決されてしまえばリアリティを失う。デルトロはそう考えたのではないか。
だからこの物語の中でどうすれば怪物に対する差別が解消されるのか、その方法や可能性については一切提示されていない。おそらくデルトロは、この映画を観た一人一人がそれぞれ考えるべき問題だと言いたかったのではないか。そんな風に感じた。
2025/11/01 ヒューマントラストシネマ渋谷にて鑑賞
孤独のつらさ…
不老不死は誰もが望むものかも知れないが、それは愛する人々と共にいれるから。周りは死んでいくが自分は一人孤独に生き残る。姿形は醜く、人々から恐れられるが心は優しい悲しき怪物を描かせたら得意のギレルモ・デル・トロ。新たなフランケンシュタインだった。
化物はどっち?
今夜(2025/11/08)観ました。
ギレルモデルトロらしさが溢れる良作です。『シェイプオブウォーター』や『クリムゾンピーク』を思い出させるシチュエーションやコスチュームやセットを見られます。
『フランケンシュタインの怪物』は、なんと1818年にメアリーシェリーという18歳の女の子が書いた物語だそうです。なんと革新的なSFストーリーでしょう😳
テレビシリーズの『テラー』を思い出させる極地で、氷に閉ざされて立ち往生した船の元に得体の知れない咆哮が聞こえるところから本作は始まります。
怪物の姿は、持っていたイメージより痩せぎすで背が高く、序盤は少し戸惑いましたが、すぐに慣れました。悲しげな彼の姿に心が痛みます。
作り物とはいえ、人の死体や、動物を銃殺する場面があり、かなりリアリティがあってゾッとします。
自己満足で死体を寄せ集め、蘇らせ、その癖地下に鎖で拘束する“創造主”ヴィクターの姿に怒りを覚えます。生まれたばかりの怪物は、言語は介せないながらも、力を振り回す様なことはせず、相手を傷つける様な振る舞いをしません。なんで初めから優しいのかが気になりますね🤔
本作は150分超えの長編なので、分割してみるのがお勧めです。ヴィクター編と怪物編で分かれているので、ちょうど良いと思います。
悲しいストーリーながらも、要所要所で安らぐシーンもあり、緊張を適度に緩めてくれます。
悲しいストーリーですが、『ダンサーインザダーク』や『ミリオンダラーベイビー』の様な二度と観たくない作品とは違う、“また観たい悲しい物語”が、本作の印象です。
「命を追い求め、私は死を生み出した」
「もしかしたら、あの傷ついた肉体に私達の神の息吹が宿ったのかも。」
「全く、君には驚きだよ。そんな事、信じる事が出来たら、私は心から君に夢中になるだろうなぁ」
「思いやりがあった。あの目には痛みがある。それは知性がある証拠じゃない?」
「私の痛みは?君に拒絶された。心から求めたのに」
「あなたの心?それは人体の中で、あなたが最も理解出来ない器官でしょ。神のふりをするのが怪物よ」
兎も角、かなり原作に忠実な話。
傑作。
テーマはメメント・モリ。
追記
バビロンの塔は「聖書」の中では倒れていない。
ネタバレ
あり
エリザベスを殺したのは
クリーチャー
だった
と記憶するが。
追記追記
狼は集団であっても部屋に入り込んで人を噛み殺すってなかったと記憶する。
長いよ、なぜ今フランケンシュタインなの🧟
ケネス・ブラナーや伊藤潤二で触れた事がある原作版フランケンシュタイン。クリーチャー誕生まで1時間かかって只管長く感じます。その上クリーチャーの制作シーンや、ヒロインの悲劇的な展開等はかなり省略ぎみで、尺が長い割に薄く個性の無い内容に感じました。年を取って死を思う事はあれど、主人公はまあドSのクソ野郎で共感できず、婚約者ですら無いヒロインにも相手にされていない為に物語上の喪失感も無く、何故2020年代にフランケンシュタインを改めて作ったのかなと思いました。デル・トロ監督、本気のパシフィック・リム2をいつまでも待っています。
本当の怪物とは何なのか?
私の中での「フランケンシュタイン」は、1994年に公開されたケネス・ブラナー監督(兼ビクター・フランケンシュタイン役 )、ロバート・デ・ニーロ(怪物役)、ヘレナ・ボナム・カーター(エリザベス役)の作品が印象深かったですが、今作品もなかなかの出来だと思いました。2部構成になっていて、判り易いストーリーでした。
怪物は恐ろしいイメージがありますが、ケネス版も今作品も、怪物の淋しさや哀しさを描いていたと感じました。特に盲目の老人とのやり取りは良かったです。
反面 怪物が銃で撃たれても死なないのが不思議でしたし、いつの間にか文字が読めるようになっているのが??でした。
ラスト近くで、怪物がフランケンシュタインに向かって「赦す」という言葉を発したのは、彼が人を赦すということを学習したということなのでしょうか?
クリーチャーの名前ではなくクリエイターの名前だったのか
なんていうか子育ての話だった。
「痛めつけないと話をきかない」やりかたは確実に受け継がれていき、愛されることへの飢えが怪物をうみだす。
出会ったばかりの船長さんにこれまでのことを語るだけであっさり理解しあってしまって、え、そんなにかんたんに・・・?あなたたちの確執にまきこまれてけっこう人死んでましたけど・・・とちょっと短絡的すぎやしないかと思うところもあったけれど、お互いただただ初期の愛情がたりなかっただけなのかと思うとやるせなくもある。
あんなに寒さや冷たさに敏感そうだったのに、あんなにさむざむしいところにひとり残って彼はこれからどうやって生きていくのだろうか。
ゴシック衣裳がめちゃくちゃ似合うミア・ゴスさんが最高の存在感でしたけれども、ギレルモ・デル・トロさんは、問答無用になぜかクリーチャーに惹かれるエキセントリックガール好きなんだなあと思いました。
あと初期の怪物さんの姿がちょっと呪怨の俊雄くんに似ていました。
我々は人間になった
こないだ鑑賞してきました🎬
ヴィクター・フランケンシュタイン博士にはオスカー・アイザック🙂
彼は己の欲に取り憑かれ、ついには本当に命を創ってしまう。
しかし、そこから運命は狂い出す。
彼の欲望と抱える葛藤、そして自分の行いに対する複雑な心情。
それらが目に宿ったアイザックの演技は秀逸でした。
ヴィクターが生み出した怪物にはジェイコブ・エロルディ🙂
つくられた存在でありながら、少しずつ学習していく。
そして人と世界を知っていく様は、見ていて感慨深かったです。
エロルディの演技は抑えていながらも味があり、怪物の心情をちゃんと表現していました。
ヴィクターの弟ウィリアの婚約者エリザベスにはミア・ゴス🙂
「マキシーン」
での暴れっぷりはどこへやら、今回は深窓の令嬢に😳
どこか無機質さを感じる雰囲気と、かと思えば人間らしさが溢れるようにも見える独特の魅力は健在でした👍
これは結構有名な話だと思うので、結末も予測できるという中での映画化。
しかしながら怪物の心理描写は丁寧でわかりやすく、共感できる部分も🤔
俳優さん達の演技もそれぞれ個性が光っている印象で、完成度は高いです。
原作小説を読んだ方なら、この世界をより楽しめるでしょう🫡
数々の悲劇の行くさきに
やはりデルトロ監督は登場人物の内面の美しさを描くことに長けている。心なしか、なんだか怪物も徐々にイケメンになっていくし。
ゴシック色の強い世界観を作るのもとっても上手だ。バイオリンの壮大なメロディが溶け込んでいる。
フランケンシュタインの物語、怪物の物語、そして二人の邂逅の物語。出生から語るのでその分長くなるのも仕方ない。そしてその分感情移入もしてしまう。
父を嫌っていたフランケンシュタインも血は争えないか。生まれて怪物と言われ虐げられた彼の気持ちは計り知れないだろう。何者でもない自分に生まれた感情はなんなのか、何のために生きるのか。
それでも数々の良き隣人に出会い、前を向くことになるラストのカタルシスが心地よかった。
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