フランケンシュタインのレビュー・感想・評価
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「憎しみ合っている訳ではないのに、殺し合わなければならない」2人の関係性が実感できない
不死身の大男が北極探検船で大暴れするエピローグから、一気に物語に引き込まれる。
死体を継ぎ合わせて生き返らせてしまったフランケンシュタイン博士が、その怪物を、研究施設もろとも吹き飛ばそうとするまでを話す内容が第1章になっていて、船に乗り込んできた怪物が、博士に殺されそうになった後に経験したことを話す内容が第2章になっているという物語の構成も面白い。
この監督ならではの、ゴシック調のセットや衣装デザインと、それらを浮かび上がらせる陰影に富んだ美しい映像も、存分に堪能することができた。
ただし、人間関係を描くのに時間をかけている割には、博士が、人体蘇生の研究に打ち込んだ動機が今一つ理解できないし、怪物が、猟師の家に潜んでいるうちに急激に知性を身に付ける展開にも違和感を覚えざるを得なかった。
博士が、幼くして母親を亡くしたことや、父親との確執によって「命の再生」に取り憑かれたのであれば、そのことをもっと明確に描いてほしかったし、怪物が、書物を読めるまでに知能を発達させた過程では、盲目の老人が孫娘に文字を教える様子を覗き見ていた以上の説得力のある説明があってもよかったのではないだろうか?
それから、博士と怪物が北極圏までやってきたのは、てっきり、逃げる博士を怪物が追いかけてきたのだと思っていたのだが、終盤で、その逆だったことが分かって驚いてしまった。そうであるならば、どうして怪物が逃げて、博士がそれを追いかけたのかが、今一つ腑に落ちないのである。
怪物は、博士を殺そうと思えば、いつでも殺せたはずで、別に北極まで逃げる必要はなかっただろうし、そもそも、共に生きる伴侶が欲しかっただけで、博士に復讐しようとしていた訳ではないのである。博士の方も、確かに、怪物のせいで愛する人を殺してしまったという経緯があるし、怪物を創造した者の責任として、自ら終止符を打ちたかったのかもしれないが、それは、あくまでも「逆恨み」や「思い込み」であって、地の果てまでも怪物を追いかける理由にはならないだろう。むしろ、知性を身に付けた怪物は、彼にとって、もはや「失敗作」ではないはずなので、研究の成果として保護しようとしてもおかしくないのではないだろうか?
このように、「憎しみ合っている訳ではないのに、殺し合わなければならない」2人の関係性を実感することができなかったせいか、博士による謝罪と怪物による赦しのやり取りが素直に心に響かなかったのは、残念としか言いようがなかった。
こうしたラストにするのであれば、身勝手に命をもて遊ぶ博士に対する怪物の怒りや憤りがより強調されるべきだったと思うし、異形の者ゆえに、いわれのない差別や偏見を受ける怪物の悲しさや切なさが余り描かれなかったことにも、物足りなさを感じざるを得なかった。
『シェリー』に口づけ
物語り誕生の元になった「ディオダティ荘の怪奇談義」については、
〔ゴシック(1986年)〕に詳しい(笑)。
もっとも『ケン・ラッセル』による同作、
かなりエロティックではあるのだが。
本作は二部構成。
一部は「創造主/クリエーター」が
二部は「怪物/クリーチャー」が夫々主体。
尺は150分に近いかなりの長さも、
スペクタクルシーンに時間を使いすぎたためか、
登場人物の心情に分け入り切れない
何かと不満の残る一本になっている。
「Netflix」による、潤沢な製作費の保証が、
全体の構成を歪ませる要因かもしれない。
それでも、狼が羊を襲うシーンのVFXは、
動きがカクカクし、チープ感が漂うが・・・・。
『ヴィクター・フランケンシュタイン(オスカー・アイザック)』は
彼が幼い頃に不慮の事故で亡くなった母親への思慕の情がつのり、
いつしか生命の創造を試みるようになる。
が、それにより、愛する母親が甦るわけではなく、
主人公の発想の飛躍について行くのは、なかなかに難しい。
創造に熱中するあまり、
産み出した後の用意を何も考えていない迂闊さは、
子供が図体だけ大きくなった主人公の本性をうかがわせる。
「マッドサイエンティスト」らしいとの表現もあたるか。
「怪物」に対しての態度も、
自身が幼い頃に父親から受けた躾をそのまま再現しているようで、痛々しい。
産み出された方の「怪物」だが、
創造主の手を離れたのちに長足の進歩を遂げる。
言語を取得し、コミュニケーションも可能となるが、
人々は彼の外見を畏怖し、
心を開いてくれたのは盲目の老人と、
『ヴィクター』の弟の婚約者『エリザベス(ミア・ゴス)』のみ。
片や容姿に左右されないし、もう片方の審美眼は
世間的な物の見方を超越している。
彼の躰は一度死んでも再び蘇える不死。
度重なる迫害を受けたことに絶望し、
『ヴィクター』に対し(永遠の命を持つ)伴侶を造るよう要求する。
ここからの展開は相当に荒唐無稽。
追う者、追われる者の主客がくるくると逆転し、
ついには北極圏を股に掛けた追走劇に発展。
あまりの地域的な広がりに(もっとも原作通りではあるが)、
唖然とするばかりだ。
『ヴィクター』「怪物」『エリザベス』の
感情の深みや揺れが判るエピソードをもっと見たかった。
原作の表面を薄く剥ぎ取り、
映像に仕立ててしまった印象。
死ねない悲哀は、
『高橋留美子』の〔人魚シリーズ〕の通りだし、
パートナーの有無がモチベーションに直結するのも同様。
一種の気まぐれが生む混乱は
『芥川龍之介』の〔蜘蛛の糸〕でも描かれているが、
いずれも憤懣をぶつける相手はいないか、手の届かぬ場所に存在した。
翻って本作では、そのための追走劇であったハズなのに、
あっさりと怒りが氷解するのは簡単に過ぎる。
西洋的な神と人間の関係性を背景にしているのだろうが、
どうにも得心が行かぬ。
これなら原作通りに、最後には絶望と不毛を見せてくれた方が、
どれだけ良かったか。
悲しく切なく残酷で、「美しい」
マジでとっても良かった。
冒頭に赤い「N」がズズーンと登場して、初めてNetflix作品だと知り、「あら、これ配信すぐ始まるのね。」と自分の予習不足を呪ったが、なんのなんの。
ゴシックホラーの恐ろしさはそのままに、物語はあくまで悲しく、切なく、残酷。
しかし、そこに表現された世界はとてつもなく「美しい」。
まずはビジュアル。
美術・衣装の細部までこだわった豪華さ、有名役者陣の華やかさはもちろん、どのシーンを切り取ってもトレイラーやサムネイルに利用できる様な画面作り。
そして物語の美しさ。
キリスト教世界においての「創造主」という禁忌に、真正面から挑む主人公とその「エゴ」と「暴走」。
生まれてしまった「いのち」と「不死という地獄」。
そして、「赦し」と「救済」。
不死の孤独に耐えられず「伴侶が欲しいんだ」と願う「彼」を、父であり創造主であるヴィクターは「モンスターめ」と罵る。
「彼」にとって「ヴィクター」という存在とその名前は、まさに生まれた当時のすべてであったのに。
最後まで「彼」に名前は与えられない。しかし、それまで何者でもなく、ヴィクターの手によって作られたただの物であった「彼」が、ついにその存在を受け入れられて終わる。
帰るところのある乗組員と、これから終わることのない孤独な旅が始まる「彼」の対比もまた、切なさを誘う。
原作を読んでいないので、是非パンフレットで監督が描きたかった宗教観や死生観、登場人物たちのインタビューなど読みたかったけど、Netflix配信ということでその手の商品は発売が無いっぽいのはとっても残念。
是非多くの方に観て頂きたいな。
死ねない苦痛に考えさせられた
ギレルモデルトロ監督が彼独自の視点で捉えた25年ネトフリ製作作品。...
「愛」を会得したクリーチャーの行く末
149分間の力作
生と死の境界を哲学的に味わう怪奇譚
1994年版の衝撃が強く記憶に残っていたため、どうしても比較しながら鑑賞する形に。
ケネス・ブラナー版のヴィクターは、もっと苦労しながら色んな実験を試みる“苦闘の科学者”だったが、今回のヴィクターは怪物を創造するモチベーションがややあっさり。キャラ的にも魅力薄め。
デニーロ版の怪物は追跡の執念がめちゃくちゃ怖かったけど、今回のジェイコブ・エロルディ版はイケメンすぎて恐怖感がなく、あっという間に感情移入してしまった。
良かったのは怪物のピュアさの描き方。盲目の老人とのやり取りのシーンは言葉の一つひとつが美しすぎて心を洗われた。オレオレ詐欺をやってる人に観てほしい。
エリザベス役のミア・ゴスの魅力にも圧倒された。ヴィクターとの知的な会話、怪物との心の触れ合い…、もっと観ていたかった。衣装の美しさも溜め息もの。
前作のヘレナ・ボナムカーターも良かったけど…(彼女は怪物にされて、絶望感は圧倒的でしたね)。
残念なのは、怪物を創る動機や過程が薄いこと。せっかく頑張って創ったのにもう要らないの⁈って。
あとヴィクターと父親の確執などのドラマが端折られ、怪物がヴィクターを追う道のりもあっさり。
怪物は「絶対に死ねない苦しみ」を抱え、やっと人間としての想いを持つ。現代の延命措置のような死にゆくことのない存在として、死生観を深く問う作品。
ゴシックホラーの映像美に浸りながらも、死と生の境界を哲学的に味わえる幻想的な怪奇譚と言える。
ネトフリで配信されるとのことだけど、映画館で是非!
壮麗な美術と堅実な映像
終わり方ズルい。感動!
フランケンシュタイン。
映画でもドラマでもアニメでも、いろんな作品にされてきてるので、どんなだろうと期待と不安の半分で鑑賞。
さすがギルレモ。
ダークでありながら憎悪だけだはない文学的なファンタジー。言葉の丁寧さ。ビジュアルの美しさ。音楽の崇高さ。間の取り方、配役。服装。細部にわたるまで完璧。
誰が怪物か。
どうして怪物になったのか。「父親」の愛が悪いのか、受け取り方が悪いのか。成長した男は命を生み出すが、ソレはなんなのか。
ソレは、悲しいのか憎いのか。ほぼ正当防衛?で人間に危害を加えてしまう。
ソレは自分を造った「父親」を恨み、出会った「父親」に育てられ、人間になれるのか。
ふたりの最後。アレはズルいよ。白い大地、光、怪物か人間か。
どこへ行くのか、、、、
彼のその先が知りたい。
言葉と人格
聖者となった彼が邪悪を許して魂を自己犠牲的に救済する、といういかにもキリスト教文化圏テイストがやや鼻につくが、まあ展開上仕方ないか。
言葉で意思表示出来ないからとヴィクターは彼の人格を認めず“it”呼ばわりして切り捨てようとする訳だが、こういう態度は、映画にもなった知的障害者施設の大量殺人事件を思い出させる。また、死ねない事の苦しみが本作の重要な題材なのだが、これは例えば医療現場で、口のきけない末期患者に何が何でも延命治療を続けようとする医療者と何が何でもそれを望む患者家族が、病苦から逃れる最後の手段としての死を本人が望んでいるかも知れないのを一顧だにしない事と繋がる。つまり、蛇足になるが、意思なき者は語らないが、語らないからといって意思がない訳じゃないのだ。
作中では彼が言葉を獲得する事で自我に目覚め、人間として認められていくのだが、では語れない者の意思を確かめる方法は?などと考え始めたらちょっと眩暈に似た感覚に襲われてしまった。
まあ、監督の意図からは外れてるんだろうな。
クリストフ・ワルツはタランティーノ作品中の人を食ったような役を見慣れているので何だか新鮮、ミア・ゴスはこういう役できるのかとちょっとびっくり(声がハスキー過ぎるかも知れんが)。
いやー御大ご健在喜ばしい
デルトロ監督で興味持ちましたが、
おー、クリストフ御大もいらっしゃる❗️
絶対観ないかんてっ!
しかも、口髭無いから気づかなかったが、
主演オスカー兄貴かい!
御大は最近悪者役が名人芸。
それで偶に見せる笑みが堪らない💞
その末路もヨシ👍
オスカーは別人に見えましたが、
狂気の化学者を見事に完遂してます👍
この2人で満足しました😆
話はみんな知ってるやつですよ。
「フンガーフンガーフランケン」
でもそこに濃厚なドラマが含まれて、
ラストまでの推進力は圧巻。
敢えて章立てで見せる必要はない気もするが、
章立てのお陰で見やすくなってますね。
ベタな話ですが、
哀愁が終始通底している、
胸に迫る怪物の話。
フランケンの第1形態は、
「ドラゴンボール」のアレに似てますね😁
他の世界的に有名な怪物も、
デルトロ監督にリメイクして欲しい。
元祖・SFゴシックホラー
名もなき不死身の怪物の孤独と苦悩
文字や知識を教えてくれた盲目の老人との別れを経験してから、怪物は自分が死な(ね)ないことに気付きます。痛みは感じるが再生してしまう。と同時に取り残される孤独を感じ始めるのです。
不老不死は過去から人間の夢ですが、一旦手に入ると実は辛いものなのです。バンパイアものでも時々でてきます。孤独を癒すため、怪物はヴィクターに伴侶を作るよう求めますが、叶いませんでした。
従来のフランケンシュタインもので云われる「神の領域の侵害」や「親子関係の業」に加え、今回新たなテーマとして描かれたのではないでしょうか。
ミア・ゴスは今回も魅力的です。二役とは言え79歳のチャールズ・ダンスと夫婦役とは!エリザベス役の方は登場シーンのミステリアスな感じが良かった。両役とも衣装が素晴らしかったです。
科学の落とし子に救いはあるか
フランケンシュタインの映画は、いっさい観たことがない。
なんたってホラーは苦手なので。
その代わりと言っちゃぁなんだが、
メアリ・シェリーによる原作小説は読んだ。
作者二十歳の時の作品なので、
完成度という点からは突っ込みどころはあるけれど、
メアリが北斎の娘お栄とほぼ同い年で、
書かれたのが「南総里見八犬伝」刊行開始とほぼ同時期、ということを考えると、
感嘆あるのみ。
* * *
で、久々のギルモア・デル・トロ監督。
かなり原作リスペクトらしい、と聞いていたんだが、
全体の構成――北極海+博士の回想+博士がつくった「それ(it)」の回想――と、
「それ」が、1931年の映画で確立したイメージとは違い、美しさを指向して作られたことは、
原作どおりと言っていい。
でも、それ以外は、
ヴィクター・フランケンシュタインの家族
――父も母も「きょうだい」エリザベスもウィリアムも、
まったく違う設定で戸惑った。
なぜあんなものを創り出したかという説明に必要だと、
監督は思ったんだろう。
同時に「それ」を創り出すまでの時間が、ちと迂遠。
だが「それ」の回想は、かなり原作のイメージに近かった。
とくに、隠れ家とした小屋の隣の農家の
盲目の老人から、言葉と心を教わった話は、
原作の核心でもあるけど、この映画でも、そのままだったのがよかった。
* * *
映画では、さらに踏み込んで、
「それ」に不死身の身体を与えた。
そして「死」もある意味救済であって、
死ねないということは救われないことだ
という主張がなされる。
それはたしかに、そうかもしれない。
死とは、救いなのかも。
だから、ヴィクターは最後、救われた。
だが、「それ」に、救いはあるのか?
「それ」は、
後先考えずにつくられた科学の落とし子である。
科学の落とし子に、救いはあるのか?
監督の問いかけは、そこにあるのかもしれない。
ゴシック小説の古典「フランケンシュタイン」を基にしたダーク•ファンタジー ギレルモ•デル•トロ風味たっぷりでそこそこ楽しめるが 新鮮味はない
場内が明るくなって劇場の椅子から立ち上がり、家路へと歩を進めかけたときに脳内に「訓詁学」という単語が浮かびました。半世紀ほど前、私がまだ大学生だったころ、ゼミでどんなテキストを使うかを議論していたときに、学友のひとりがある古典的テキストを評して「ゼミでこれを読み進めてゆくと訓詁学のゼミになってしまう」とか言っておりました。調べてみたら、訓詁学とは元々は儒教の経典にある難解な語句を解釈したり、説明したりする学問だそうです。この映画もメアリー•シェリーが今から200年以上前に書いたゴシック小説の古典「フランケンシュタイン」の古典的解釈に基づいているということで、私の脳内に訓詁学なんて言葉が浮かんできたのでしょうか。
この「フランケンシュタイン」、私、実は原作を読んだことがないのですが、未読なのに読んだ気になっている小説のひとつです(同様にして、観たことがないのに観た気になってる映画なんてのもありますが)。この作品が紹介されるたびに出てくる耳タコ話題ですが、フランケンシュタインというのはあの怪物を造った科学者の名前で、怪物自体は名無しなんですよね。「フランケンシュタイン•コンプレックス」という言葉があります。科学技術によって人工的な生命体を生み出すことへの憧れと、その生命体が自分たち人間を滅ぼすのではないかという恐怖、その二律背反するふたつの感情が混ざり合った複雑な心理状態を言います。この部分が、今でも AI の開発時に当てはまりそうな感があり、この小説が発表から200年以上もたった今もなかなか賞味期限が切れない要因だと思います。
上記のフランケンシュタイン•コンプレックスがいわば造物主側のキーポイントだとすると、造られた側の名もなき怪物のキーポイントは永遠かとも思われる生命を授かった者の悲哀と孤独ということになるのでしょうか。この映画内では「無慈悲な生」とかの言葉が出てきました。おまけにあの醜い姿です。出会った人々のほとんどがその姿に恐怖を感じ、逃げまどったり、攻撃をしてきたりします。でも、心を通い合わせることのできた人もいたんですよね。エリザベス、山小屋の爺さん…… 愛に飢えた怪物の究極の選択が永遠に続く孤独のように思われたのには涙を禁じ得ませんでした。
最果ての地、北極には今もあの人工生命の最果て、怪物の咆哮が轟いているのでしょうか。
時間と空間を超越するギリシャ悲劇のよう
ギリシャ悲劇は見たことないし知識もありません。それなのにそう思うほど、壮大な文学で、詩で、戯曲で、運命で、哲学でした。美しい映像と言葉と音楽に全身包まれ、客席が明るくなっても茫然としてました。シェリー原作の「フランケンシュタイン」、ケン・ラッセル監督の映画「ゴシック」、カンバーバッチがヴィクターとクリーチャーの両役を演じたナショナル・シアター・ライブ(映画2本)「フランケンシュタイン」のそれぞれが脳内に現れては消え、絵一枚一枚、言葉ひとつひとつに胸が躍りました。
自分も相手もただそのように生まれて存在しているだけで、双方が憎み合っている訳ではないことをクリーチャーは学ぶ。誰しも生まれたくて生まれた訳でないことも学ぶが、自分だけは死にたくても死ねないことを知ることになった彼は、共に生きて行ける伴侶を自分と同様のやり方で作って欲しかっただけだった。クリーチャー演じるジェイコブ・エロルディ、表情もセリフも体の動きも目の輝きも素晴らしかった。ミア・ゴス演じるエリザベートから、世界のどこにも居場所の無い疎外感と虚無が強烈に伝わってきた。
コスチューム、美術、ヘアメイク、セット、バックドラフト、厳しい優しい自然、地平線の映像が美しく迫力あった。映画館で見られる期間が長くなるといいなと思いました。
長いのには訳がある🤔
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