「「死」は穢れていない」終わりの鳥 SP_Hitoshiさんの映画レビュー(感想・評価)
「死」は穢れていない
「鳥」は「死(Death)」の擬人化(擬鳥化)。Deathという単語には「終わり」「死神」の意味もあるから、鳥は「死」「終わり」「死神」のすべてを表していると考えるのが適切なのかもしれない。
超現実的な世界観。死ぬ運命にある娘の死を受け入れることができない母親が、「死」を飲み込んでしまい、「死」と一体化し、母親自身が「死」として、娘を背負いながら世界中を巡る。
シーンのディティールはリアルだがストーリーは神話的。母親の子に執着する思いが世界の法則をもねじまげてしまう、というところは、なんだかインド神話や北欧神話にありそうな壮大さであった。
場面の1つ1つが美しく、この映画そのものが現代芸術作品のようだと思った。
いろいろと考えさせられる要素がある。「死」そのものは、自分がなぜ存在するのかを知らない無知な存在であること、「死」はすべてのものに終わりをもたらす恐ろしいものであると同時に、「救い」でもあること。そして「死」は宇宙の自然法則にとって不可欠なものであり、「死」がなければ世界の循環は断たれてしまう。その意味で「死」は「生」と同じくらい尊く、重要なものだ。
「死」の大きさが微小にも巨大にもなるのは、妖怪の見上げ入道のよう。人間のとらえ方によって、小さくも大きくもなる(とるに足らないことにも、深刻なことにもなる)、ということを表しているのだろうか。母親が「死」と一体化したとき、微小な世界にも行ったところでは、「死」は世界の大きなところにも小さなところにも偏在している、というメッセージを感じた。
主人公の少女に出会ったころの「死」は、すすで黒く汚れていた。すすは、「死」を厭う人々の負の感情を表しているのだろう。人々が「死」を穢れたものと考える想いによって、鳥は汚らわしい姿になってしまう。しかし「死」は自然現象であるが故に、本来穢れてはいない。
少女は、「死」に対して悪感情をもっていなかったから、「死」を洗うことができたし、「死」も少女によっていっときの安らぎを得ることができた。
この映画の裏テーマは、「延命治療」や「安楽死」ではないか、と思った。母親が娘の生に執着するのは、実は娘のためではなく、自分自身が娘の喪失に耐えられないためである。「延命治療」の目的が患者のためではなく、自分のエゴのためになっていないか、ということを批判しているように思える。
「死」は自然なことであり、憎むものや穢れたものではない。避けられない「死」であれば、看取る側は看取られる側が最大限安らかに死を迎えられるように配慮しなければならない。
すごく良かったのだけど、母親が「死」と一体化していろいろなところに行くところは、短かすぎたように思った。ここをもっとちゃんと描くことで、映画全体の面白さがずいぶん変わるように思う。