劇場公開日 2025年4月11日

「1人の老人が立たされる、人生の岐路」プロフェッショナル 緋里阿 純さんの映画レビュー(感想・評価)

3.01人の老人が立たされる、人生の岐路

2025年4月13日
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鑑賞方法:映画館

楽しい

単純

【イントロダクション】
『96時間』シリーズのリーアム・ニーソン主演。1974年、紛争只中のアイルランドの田舎町を舞台に、殺し屋家業を引退した老人が、爆弾テロ集団との戦いに挑む。
監督は、ロバート・ローレンツ。脚本は、テリー・ローン、マーク・マイケル・マクナリー。

【ストーリー】
1974年、北アイルランド。紛争の只中、ベルファストのとあるパブで爆弾テロが発生。アイルランド共和軍(IRA)の過激派グループのリーダー、デラン(ケリー・コンドン)は、テロの際に民間人の子供たちを巻き込むまいと顔を晒して警告した事で顔を目撃されてしまう。身を潜めるため、デランは仲間達とアイルランドの海岸沿いの田舎町、ドニゴール州グレンコルムシルへと逃げ込む。

グレンコルムシルで殺し屋家業を営んでいたフィンバー・マーフィー(リーアム・ニーソン)は、本の売買で生計を立てていると周囲に話し、射撃仲間の保安官・ビンセント(キアラン・ハインズ)らと日々を過ごしていた。しかし、彼の正体は長年田舎町で暗殺業を行っていた殺し屋だった。

ある日、とある殺しを契機に自身の血塗られた過去に疑問を抱き、雇い主のロバート(コルム・ミーニイ)に引退を申し出る。殺し屋家業を若手のケビン(ジャック・グリーソン)に譲り、フィンバーは引退する。静かにガーデニングの趣味でも始めようと思い立ったフィンバーは、隣人のリタ(ニーヴ・キューザック)からガーデニングの基礎を教わる。

ある夜、フィンバーは行きつけのバーの女主人シネイド(セーラ・グリーン)の娘であるマヤ(ミッチェル・グリーソン)が川で夜釣りをしているところを目撃し、声を掛ける。その際、誤って釣り道具を川に落としてしまい、ただらなぬ様子で去って行くマヤを不審に思う。

後日、マヤの肌に虐待による青痣を見つけたフィンバーは、彼女の住むトレーラーハウスにIRA過激派グループのメンバーの1人で、デランの弟・カーティス(デズモンド・イーストウッド)が頻繁に出入りしている事を知る。家には1発の銃弾があり、カーティスがマヤを脅すために持ってきたのだと悟る。

殺し屋家業を引退したフィンバーだったが、マヤを助けたい一心でロバートに相談する。しかし、ロバートは協力出来ないとフィンバーを返し、仕方なくフィンバーは1人でカーティスを騙して拉致する。窮地をケビンに救われつつ、フィンバーはカーティスを葬る。

弟が帰還しない事を不審に思ったデランは、IRAの仲間からロバートの情報を聞き出し、彼を訪ねる。フィンバーが訪ねた際、カーティスが持ち出した銃弾を置いていっており、その銃弾からロバートが弟殺害の犯人を知っていると確信したデランは、フィンバーの情報を聞き出して殺害する。

友人の死を前に、フィンバーはデラン一味との対決を決意し、最後の仕事を開始する。

【感想】
邦題やポスタービジュアルから受けた事前の印象とはかけ離れた、アイルランドの広大な自然をバックに、殺し屋として生きてきた1人の老人が人生の岐路に立たされる様子を粛々と描く、良く言えば「渋い」、悪く言えば「地味」な一作であった。
これは恐らく、日本の配給会社がリーアム・ニーソンのキャリアによるイメージと、本作と同日に公開される韓国映画の『ベテラン 凶悪犯罪捜査班』や、ハリウッド映画の『アマチュア』と共に、本作がアクション映画として目立つよう強引な邦題を付けたからだと思われる(本作の原題は、“In the Land of Saints and Sinners《聖人と罪人の国で》”)。
実際には、邦題にあるプロフェッショナル感は薄く、ポスタービジュアルのような力強さを見せつけるシーンはほぼ皆無。

舞台が1970年代という事もあって、作品を流れるトーンやストーリーテリングのテンポ感は70年代作品を思わせ、そうした作風は嫌いではない。しかし、矢継ぎ早に展開される昨今のアクション映画の数々に慣れてしまった身としては、あまりにもゆったりとし過ぎており、少々眠くなってくる。

主演のリーアム・ニーソンが、本作の主人公フィンバー・マーフィーと同じく、キャリアの一つの転換期に差し掛かっているという状況が面白い。これまで、特に『96時間』シリーズの影響力の強さから、“戦うオヤジ”としてのイメージを確立してきた。しかし、年齢的(本作の公開当時、既に70歳)にも過酷なアクション映画からはもう離れなければならないのだと思うと、我々観客がフィンバーを見つめる姿勢に違った意味が生じてくる。フィンバーが殺し屋家業から引退したように、リーアム・ニーソンもまたアクション俳優の看板を下ろす時期なのだろう。

そんな彼の演じる、フィンバー・マーフィーのキャラクター設定が面白い。第二次世界大戦の帰還兵であり、戦時中に妻を亡くした事から人生の目的を見失い、ロバートに拾われて殺し屋家業を営んでいる。ターゲットを拉致しては、仕事場である森に連れて行き、ターゲット自身に自らの遺体を埋める穴を掘らせて、ショットガンで射殺する。遺体を埋めた場所に木の苗を植え、ターゲットの遺体を養分として木は育ってゆく。既に何十人もの人間を手に掛けており、フィンバーの仕事場に植えられた木は映像を確認するだけでも10数本に上る(この一連のシーンだけは、邦題にあるプロフェッショナル感が出ていた)。

しかし、爆弾で吹き飛ばされたシネイドの店や、デランに撃たれた客、「暴力はもうたくさんだ」として故郷を離れたにも拘らず、フィンバーの争いに巻き込まれて怯えるハサン等、彼が迷惑を掛けた人々のその後の姿が全く描写されず、1人自由を手に町を離れていく姿には身勝手さを抱いた。せめて、ケビンに渡した貯金の入ったバッグを、彼が亡くなってしまった以上は店の修繕費としてシネイドに渡すor置いていく展開でもあれば、まだ印象は変わったのだが。

“銃も金も持たず、唯一手元にあるのは、隣人リタから受け取ったガーデニング本と「また始められる」という言葉のみ。それでも、老人は新しい人生に向けて旅立つ”という姿を映した方が、より印象的で素晴らしいラストになったのだと思うが。

【タイトルに見る、1人の男が立たされる人生の岐路】
先述した通り、本作の原題は“In the Land of Saints and Sinners(聖人と罪人の国で)”である。
フィンバーは、最後に殺害したターゲットに「善きことをしろ」と忠告を受けた事で、自らの行い、果ては人生そのものに疑問を抱き始め、引退を決意する。

マヤに自身の飼い猫を贈る際の台詞が印象的。「何かを愛せば、人間らしくなれる」
しかし、フィンバーは猫に名前を付けてはいない。彼は、ペットを飼う(動物を愛す)事では、人間らしくはなれなかった人なのだ。
結局、フィンバーは殺し屋家業を引退しても、誰かを守る為に銃を取らざるを得なくなる。それは、殺しによって人生を構築してきた彼の持つ宿命なのだろうか。

しかし、町を去る当日、フィンバーは隣人のリタに励まされる。ガーデニングも上手く行かず仕舞いのフィンバーは、彼女から借りたガーデニングの本を返そうとするが、リタはそのまま持っていて良いとして、「また始められるわ」と告げる。

ラスト、フィンバーはビンセントにドストエフスキーの『罪と罰』を贈り、カリフォルニアで歌手になる夢を抱えていたケビンの車に乗り、フィンバーは静かに去って行く。人間性の回復を描いた名著を贈った意図は、果たして希望か皮肉か。

フィンバーが何処に向かうかは誰にも分からない。ケビンの遺志を継いでカリフォルニアに向かうとは限らないのだから。しかし、アイルランドの広大な大自然と、そこに差し込む朝日は、新しい始まりとしての“希望”を示していたように思う。

【総評】
リーアム・ニーソンのアクション俳優引退作などとも囁かれている本作は、1人の老人が人生の岐路に立たされ、新たな旅立ちを迎えるという渋い一作として確かな魅力を放つ。

しかし、日本の広報戦略に乗せられて鑑賞した身としては、あまり楽しめる一作とは言えなかった。作品としても、106分という上映時間は少々長い。このストーリーなら、90分で上手く纏め上げてほしかったところ。

ところで、リーアム・ニーソンは結局またアクションやるの?宿命だね。

緋里阿 純