「「俺は悪くない」の連鎖が生む地獄絵図」俺ではない炎上 こひくきさんの映画レビュー(感想・評価)
「俺は悪くない」の連鎖が生む地獄絵図
最初から最後まで「俺は悪くない」という言い訳の応酬。主人公の山縣泰介(阿部寛)は、SNSで殺人犯に仕立て上げられ、「俺は悪くない」と必死に逃げ回る。しかしその叫びは冤罪の抗弁であると同時に、家族に対する小さな不誠実から目を逸らす言い訳でもある。この作品の巧みさは、「俺は悪くない」という言葉を、登場人物すべての口から吐かせ、それぞれに異なる意味を背負わせている点。
とりわけ象徴的なのが、最初にデマをリツイートした住吉初羽馬(藤原大祐)。彼は「僕は悪くない」と平然と言い放ち、罪の意識もなければ自省もない。彼のキャラクターは普段から「社会が悪い」「自分にはチャンスがない」と停滞の言い訳ばかりを繰り返す若者として描かれる。要は、彼は無自覚に他人を傷つける加害者であると同時に、被害者の衣をまとって停滞を正当化する世代の化身。炎上に群がる匿名の大衆心理の縮図が、彼一人の口から露骨に語られる。
この映画は構造自体も「誤認」を観客に体験させる仕掛けになっている。夏実の小学生時代のシーンと、現在の“サクラ”の描写を交互に見せることで、観客は無意識に同じ時間軸の話と信じ込んでしまう。これは、SNS炎上が断片的な情報を勝手に繋ぎ合わせ、都合の良い「真実」を捏造していくプロセスそのものだ。まさに「俺は悪くない」と言い張る社会の縮図を、観客自身に追体験させる構造である。
また、本作で注目すべきは、炎上の恐怖そのものよりも、泰介が「他人が自分をどう見ているのか」を土壇場になって初めて突きつけられた瞬間。彼自身は「家族のために必死に働く、普通の中年男」と思い込んでいた。しかし周囲の評価はまるで違った──。自己評価と他者評価の乖離に直面したとき、彼は初めて自分が信じてきた“俺は悪くない”の脆さに気づき、愕然とする。
なお、作品としての粗さが気になる点もあった。
3人目の被害者「砂倉紗枝」と娘の山縣夏実/サクラ(芦田愛菜)の関係について、「からにえなくさの家」の死体描写で具体的な映像や台詞はなく、臭いのリアクションだけで“察せ”という不親切な演出に留まったこともあり、山縣夏実をマッチングアプリで美人局をしていた1人と誤認したままエンドロールを迎えた観客も少なくないのではないだろうか?
また、山縣泰介が弁護士に相談する合理的なルートが存在しないのも、寓話性を優先した結果だろうが不自然さは残る。SNS描写に関しても、その程度のリツイート数で社会現象化するか?とやや誇張が大きいのも、リテラシーの高い観客ほど冷めてしまう。寓話としての社会批評性は強いが、ミステリーやサスペンスとしての完成度は甘い。
『俺ではない炎上』は、サスペンスや叙述トリックの技巧を楽しむ作品というよりも、「俺は悪くない」と言い張り続ける人間たちの不毛さを突きつける寓話である。ラストに責任を分かち合う山縣家の姿は例外的な救済に過ぎず、大半の“住吉”は責任を認めないまま去って行く。観客に突きつけられる問いは、「お前は本当に大丈夫か。お前も“俺は悪くない”で他人を追い込んでいないか」という不快な自省。スクリーンを観終えた後に残るのは、炎上の恐怖よりも、自分が社会の中でどう評価されているかを知らないことへの戦慄である。
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SNSの拡散は指数関数的に爆速で広まっていくので、あとから気付いて止めようとしてもジェット機を自転車で追いかけるようなもので、結局本作の阿部寛のように「逃げる」のが得策という事になっちゃいますね。
この家族は最終的に自分の非を認めあって大団円になりましたが、藤原大祐みたいに誤った拡散をして反省する人は稀有な存在でしょうね。
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こちらからもフォローバックさせていただきますね。
ワカモノは住吉みたいな無責任・責任転嫁系、高齢者(特にじいさん)は自分が王様な「俺は悪くない」が多いような気がします。
こういう人は周囲はそれなりの扱いをするので、反省できるかどうかで、その後が全然違ってきますね。山縣家の人たちには反省のチャンスがあって良かったと思います。



