「正義(動機)の否定、平等な暴力と憎しみ」爆弾 PJLBNさんの映画レビュー(感想・評価)
正義(動機)の否定、平等な暴力と憎しみ
佐藤二朗の怪演とまわりの役者陣の見事な相乗効果による緊張感あふれたサスペンスエンタメ作品。2時間があっという間だった。
だが、よく見ると単純な犯罪劇や知能戦でない仕掛けにモヤモヤした人も多いだろう。特にスズキタゴサクの動機や意図がよく分からないからだ。ただこれは作品の欠陥ではなく、意図的に映画のなかで位置付けられてる。それが一筋縄ではいかない。
序盤はスズキが単に酔っ払いの馬鹿を装った知的な爆弾魔のように見える。それがどうやら警察に対する復讐のようにも感じられる。スズキの子供じみた挑発に対する優秀な警察官と知的な心理戦。ヒントを読み解いて爆弾のありかを探り事件を解決に導く正義の警察。
しかしこれが単純な正義の警察と悪の復讐鬼スズキとの対決ではなかった。彼はすべてを握っているようだが、飽くまで自分は記憶を消されて催眠術で動かされており、第三者や被害者のような態度を貫く。これは警察をはぐらかしているように見えるが、実はそうではない。この態度には意味がある。
スズキタゴサクという佐藤二朗の演技がコミカルでもあるので、何が本気かどうかよくわからなくなってくるのは、警察だけでなく観客も同様だ。どうやらすでにスズキの術中にハマってしまったらしい。
尋問中にスズキは正義である警察に疑問を投げつける。命は平等ではないではないか?それに警察は、平等は法で約束されると答えるが、最終的にスズキの術中で彼に憎しみをぶつけることになり、犯罪者の命は低く見られていることを暴露してしまう。
スズキが主張する平等さは、無差別な暴力、つまり爆弾のことだ。映画のなかで単に市民が傷つくだけで、彼らは無名のまま死ぬ。スズキは犯行声明の動画で爆弾魔としての目的を読み上げるが、全く共感できないし、他人事のようである。だって催眠術で言わされてるから。ただ一つ明らかなのは、爆弾は突然何処でも起こり、それは誰であろうと関係なく巻き込まれる。それは無差別なので平等なのだ。
また、スズキは尋問した警察官に指を折られ、別の警官から脅され、また警官の倖田から殺されそうになるほど憎まれる。スズキはよく蔑まれてはいるが、憎しみはそういうマウンティングとは違い、スズキ個人でしか意味のない個人的感情だ。ここは命の平等と同じく、スズキのような人物は愛されることはないかもしれないが、憎しみは簡単に抱くことが出来る。それは愛に比べて差別がない、平等な感情だ。だから彼は警官を誰一人個人的に恨んでもないのに、憎しみを自分に一方的に向かわせることに成功するのだ。
モヤモヤの正体はここにある。スズキタゴサクは、個人では何も信念も復讐心もない。ただ警察が言う正義は自分のような人間は含まれていないことを彼らの前で曝け出すだけだ。アンタたちの言う平等なんてない。爆弾のような暴力と憎しみだけが平等だ。人は爆弾がなくても死ぬ。ホントはアンタたちもそう思ってるはずだ。だから爆発しても問題ない。自分を殺したいほど憎いくせに、アンタたちの正義では自分を守るしかない。
結局、スズキタゴサクとは、この映画に出てくるすべての登場人物の「媒介」でしかない。イシカワ家の家族たちの恨みつらみ、シェアハウスの若者たちの暗い欲望、野方署にいる刑事たち、類家でさえも、心の底にいだいている悪意や苛立ちをそのまま反映するかのような態度と行動を取っているだけだ。スズキに対する推理はそのまま自分に返ってきて空振りするだけ。
こんな意地悪な映画の登場人物はなかなかいない。彼は悪か?と警察に問うが、清宮が悪と答えても類家は答えない。それが自分に返ってくることを知っているからだ。勝負は引き分けかもしれないが、警察は完全に敗北している。そして爆弾は残されたままだ。
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