「“爆発”だけがリアルだった──『爆弾』が見落とした現実」爆弾 ビンさんの映画レビュー(感想・評価)
“爆発”だけがリアルだった──『爆弾』が見落とした現実
俳優陣の芝居量、演出のテンポ、映像の緊張感。
そのいずれもが日本映画としては高水準であり、見応えはある。
しかし、“物語の芯”が伴っていない。
ミステリ/サスペンスの構造としては、観客の思考に耐えうる強度を欠いている。
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■ 長谷部の「不祥事」が起点として弱い
事件の始まりとなる長谷部の不祥事――この要素が、物語を動かす“核”として設置されている。
だがその内容は、現実のスキャンダルや不正事件に比べればはるかに軽微で、社会的衝撃を伴うような題材とは言い難い。
現代日本では、より奇異で理不尽な事件が日常的にニュースを賑わす中で、この“起点”を持ち出しても観客の現実感は揺さぶれない。
結果として、物語の導火線が点火される瞬間にすでに火薬が湿っており、
爆弾事件そのものへの必然性――つまり「なぜこの人物が爆弾を仕掛けねばならなかったのか」が薄い。
脚本上の因果が“形式的な理由づけ”に留まり、人物と事件の接続が空回りしている。
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■ スズキタゴサクという“凡人の神格化”
スズキタゴサクは、凡庸な風貌のまま、爆弾事件の中心人物として描かれる。
しかし、その技能・動機・経歴はいずれも説得力に欠ける。
元ホームレスがプログラムを書き換え、映像を操作し、爆弾を仕掛け、謎解きゲームを設計する――
この設定には、物理的にも社会的にも根拠がない。
「凡人が天才を演じる」というアイロニーを狙ったのかもしれないが、
結果的には観客に「そんなことができるわけがない」という違和感しか残らない。
物語の重心が現実から乖離している。
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■ 類家の推理――もはや“神のひらめき”の域
類家刑事の推理は、もはや論理ではなく啓示である。
提示されたヒントから飛躍的な結論に至る過程が描かれず、
「夜が二つで“よよ”、木を足して“代々木”」といった語呂合わせ推理に象徴されるように、
彼の洞察は“演出都合の奇跡”にすぎない。
観客にとってそれは快感よりもむしろ、脚本の強引さを露呈する瞬間だ。
推理劇としてのリアリティを放棄した時点で、映画はジャンル的支柱を自ら折っている。
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■ 社会的テーマの希薄さ――語るべき「今」がない
格差、孤独、報道不信といった現代的要素が散見されるものの、
いずれも背景として消費されるだけで、社会的文脈に肉薄していない。
「なぜ今この物語を描くのか」という問いに対する答えが、作品の内部から一切聞こえてこない。
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■ 皮肉にも、“爆発”だけがリアルだった
驚くべきことに、爆発シーンそのものは良く出来ている。
CGの質感、衝撃波の描写、崩壊する街並みのリアリティ――
そこには明確な臨場感があり、技術的完成度は高い。
だが、皮肉なことにその“爆発のリアルさ”が、観客に想起させるのはフィクションではなく現実――
つまり、ガザで続くイスラエルの無差別爆撃の映像である。
監督の意図ではないだろう。だが、結果的にこの映画は、
「暴力とは何か」「無差別とは何か」というテーマを、脚本ではなく映像だけで訴えてしまった。
意図しない皮肉として、爆弾の炸裂だけがこの映画で最も真実に近い瞬間である。
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■ 総評
演じ手と映像は見事、だが脚本と構成は凡庸。
観客の記憶に残るのは、俳優の熱量と爆発の迫力――
それだけである。
“語れる映画”ではなく、“語れない虚構”として終わっている。
体験として観るなら良いが、思考する映画としてはあまりに空洞だ。
結論:
『爆弾』は、火薬量は十分だが、導火線が繋がっていない映画である。
俳優を観に行く映画であり、思想を求めるなら――原作を読むべきだ。
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