メイデンのレビュー・感想・評価
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未来がキャンセルされた時代の『スタンド・バイ・ミー』
2022年に世界公開され、日本では今年2025年に公開されたカナダの映画だ。現在39歳のグラハム・フォイ監督が、自身の生まれ故郷カナダ・アルバータ州のカルガリーで撮影した青春映画である。
宣伝では「現代のスタンド・バイ・ミー」という言葉も使われていた。しかし、そのコピーから想像するような映画ではなかった。誰が見ても誤解なく分かりやすい「スタンド・バイ・ミー」と比較すると、セリフも物語上の説明も少なく、分かりにくい。
ただ、その分想像の余地が大きい。少ないセリフが大きな意味を持って響いてきて、後を引く。現代的な生きにくさを見事にドラマに昇華した素晴らしい映画でもある。
見終わった後に、知らず知らず自分の人生に影響を与えるような神話的なパワーのある映画であると、一日経って感じている。
この映画から、考えさせられたことを整理してみたい。
まず、この映画の物語について。
ハリウッド式のわかりやすい物語ではない。主人公はティモシー・シャラメを思わせる繊細なイケメン、マルセル・ヒメネス演じるコルトン君だろう。しかし、そう思ってみていくと、中盤に差し掛かるあたりから、このコルトンの出番が激減する。それで「?」となってしまう。
しかし観終わってみれば、やはり主人公はコルトン君だった。
ネタバレ含みで物語を考察してみたい。
この映画は3部構成だ。
第1部は、親友同士の高校生、カイルとコルトンがカルガリー郊外の新興住宅地とその外に広がる渓谷(メイデン)で、スケボーを片手に、やんちゃに退屈を紛らわしながら日々を過ごす青春物語。カイルは無謀で危険を顧みないところがあり、その結果、事故で亡くなってしまう(「スタンド・バイ・ミー」のリバー・フェニックスに当たるのがカイル君だ)。
第2部は、一転して同じ高校の同級生の少女ホイットニーの物語となる。カイルとコルトンと同級生だが、ほぼ交流がない。ホイットニーにも親友はいるが、本音で話すことはできない。だから日記を手放さず、そこに自分の思いを書き込んでいる。繊細で、周囲からみれば病的に神経質な〝イケてない少女〟のホイットニーが親友から縁を切られて、渓谷をさまよううちに行方不明となる。彼女の日記帳を、同じく親友を亡くして鬱々として渓谷を歩き回るコルトンが見つけ出す。
第3部は、この世界からいなくなったホイットニーとカイルの物語である。高校では関係のなかった2人が、向こう側の世界で友情を結ぶ。第3部にもコルトンはほとんど出てこないが、コルトンの空想の世界の物語ということだろう。友人たちが救われていたらいいなという、コルトンの「祈りの世界」と言ってもいいかもしれない。
キリスト教世界の民間伝承でバッドデス(良くない死)という概念がある。予期せぬ突然の死、不自然な死のことで、そうすると魂が現世に残ってさまよってしまう。そんな世界を描いて、本作は終わる。
現代の若者は、周囲から評価され承認されることが大事になっていて、それは生死を分けるほどの大問題である。イケてるグループに入れれば最高だが、そうでなければ、イケてないもの同士でグループを作る。最悪なのは誰にも見向きもされないこと。こうしたスクールカーストの世界を描いた映画でもある。
友人ゼロという最悪の状態になったホイットニーが、魂の世界で友人を得て救済されるというスピリチュアルな希望の物語だが、「魂の世界にしか希望がない」ことが、「スタンド・バイ・ミー」よりさらに深い、喪失感と絶望感を伴った切なさを残すと思う。
もう一つ、気になったのは舞台であるカナダ・カルガリーという土地柄との関連だ。
第1部では、特にカイル君があまりに無謀で、危険への感度がマヒしているように感じさせられる。こんな生き方では未来がないよと、ハラハラさせられるし、正直イライラする。
この蛮勇的な無謀さ、それとカルガリーという土地柄を結びつけたのは、タイガーマスク登場でブームとなった、80年代の日本のプロレスの記憶だ。
タイガーマスクのライバル、ダイナマイト・キッドはカナダ・カルガリーでブレイクしたレスラーだった(出身はイギリス。史上最高のプロレスラーを1人上げるとき、僕は彼を挙げている)。
彼はまさに「未来がないように戦う」レスラーだ。相手の危険な技を全て受け、得意技はトップロープからジャンプして頭から落ちる(ダイビング・ヘッドバッド)という危険な技だった。この技を出す時、彼は受け身など取らず本当に頭から落ちていく。170センチほどの小柄な体格で、アメリカで活躍するために、ステロイドで巨大な体を作り上げ、晩年は長らく車椅子生活を送った。
他にも、ビッグマッチでのスタントに失敗し即死したオーエン・ハートや、脳震盪の後遺症と薬物の影響から、家族を殺害し自殺してしまったクリス・ベノワもカルガリーで鍛えられてブレイクしたレスラーだった。
彼らに共通するのは、安全を度外視するメンタリティだ。未来を計算することなく、今に全てをかけるという男らしさと心意気にファンは熱狂した。しかし、それは自分自身の未来を犠牲にする行為ともなってしまった。
カルガリーは「カナダのテキサス」とも呼ばれて、世界最大規模のロデオ大会「カルガリー・スタンピード」でも知られている。そこでは、怪我を恐れ「未来のためにリスクを回避する」のはダサいのだ。そうした文化も、カイル君の無謀さに影響しているのかもしれない。そして、そうした文化の中では「ヘマをした奴が悪い」となりがちで、それが映画の中では「自業自得」という自己責任の言葉として、出てきたのだと思う。
この「未来を考えない感覚」は、土地柄だけではなく、現在の社会環境とも非常に結びついていると思う。
この物語中でもコルトンがカイルに「10年後どうしてる?」と質問する場面がある。そして、その答えはなんだか曖昧だった。また、コルトンが質問したのは、自分の未来が想像できないからのはずだろう。
自分の高校生時代を考えても、10年後の未来なんて、永遠に未来くらいの感覚ではあった。それでもバブルに向かう時代でもあったから、未来はもっと良くなるし、努力すれば、親よりいい学歴といい仕事を手にして、もっと稼いで、いい生活ができるかもしれない、どこかの世界で何かを成し遂げられるかもーーそういう希望は当たり前にあった。
しかし近年の西側社会、特にアメリカやカナダでも、「未来がキャンセルされている」というような論考がされている。低成長と格差が固定した現代では「10年後は現在より良くなっている」という想像力が働きにくい。そして「10年後は若さと自由を失って、親のような疲弊した労働者になるしかない…」そんな感覚がある。その中に、カイルやコルトンはいるのではないだろうか。
そんな時代でも、「自律と自己責任」は宗教のようなものだ。例えば「GRIT やり抜く力」という「自制心こそが成功の鍵である」というビジネス書がベストセラーになったりする。
確かに自制心なくして、達成はないのだけれど、それは成功者バイアスだ。成功した人は「私は自制心を持って努力した」と語り、それは真実でもある。しかし、成功は上位10%程度の限られたイスで、残りは自制と努力を持ってしても、親よりも苦しい生活を送らざるを得ない。
本音では、自分は成功できないと思いつつ、しかしそれを自分の責任として考えざるを得ないのはどれほど苦しいだろうか。マッチョな自己責任文化が強いカナダ・カルガリーでは、その行き詰まり感、葛藤と不安が日本からは想像できないほど強いのかもしれない。
そう考えることで、この物語の切実さは増してくる。それに、日本社会もこれから同様の変質を経験する可能性は高く、他人事ではないのである。
カイルとコルトンが長い時間を一緒に過ごす場所に、渓谷とともに、郊外の建築途中で放置された空き家があった。この空き家は、カイルの親の家のようだ。
カナダでは、ここ数年、金利上昇とインフレで建設コストが高騰し、ローン返済ができなくなって「夢のマイホーム」を放棄されるケースが増えているそうだ。カイルの親も、経済的に行き詰まってしまったのではないだろうか。
現在のカナダ・カルガリーの石油産業の状況を調べてみると、その可能性は高そうだ。
一言で言えば、産業としては好調で、企業は利益が出ている。しかし、その利益は株主と、自動化へのシステム投資に使われて、労働者には回っていない。雇用される労働者は減っていて、レイオフも盛んだ。
かつては「高校中退でも、油田で働けば年収1000万円」という希望があったのが、すっかりその希望は消えてしまっている。資本家だけが稼ぎ、労働者は落ちぶれるという努力ではどうにもならないカルガリーの社会構造があって、それがこの映画の背景になっている。
未来への希望をどう立て直していくのか…。これは監督が意図したメッセージではないかもしれないけれど、本作が提起する課題であることは間違いないと思う。
「未来がキャンセルされている=未来に希望はない」若者は、未来の価値が激減する。だから、より良い未来のために目標を持って、現在はある程度犠牲にして努力するということができなくなる。それよりも、人生で最も美しい青春時代を楽しんで、燃え尽きる方がいい・・・。
昔からロックスターたちは、そんなことを言ったりしてきたけれど、彼らの多くは生き延びるどころか、かつての名声でシニアになっても稼ぎ続ける。
成功者にならなければ幸せになれない、しかし、その道はあまりにも険しいどころか、道は閉鎖されている…そうした感覚が少しでも持てるなら、この映画と若者への共感を取り戻すとともに、ではどうすれば…ということも少しは考えられるようになるかもしれない…と感じている。
この映画の前半で死亡してしまうカイルはさまざまなスプレーアートでMaidenと落書きをしていた。現代社会的には破壊行為だけれど、未来を持たないカイルにとっての「自分がここにいた」という存在証明を残す行為だ。そのグラフィティだけが、ずっと風景の中に残り続けることが、コルトンにとっての救いでもあるし、いつまで経っても過去に引き戻される呪いにもなっていて、切なさを増幅させる。
最後に、本作は16ミリフィルムで撮影されたのだそうだ。フィルム時代の通常は35ミリだから、かなり質感としてはざらざらしているし、コントラストも弱く、影の世界に何があるのかがクッキリ見えてこない。それが現実と幻想の世界を曖昧にしている。
デジタルのクリアな映像では、第3部の亡霊たちの物語のような気配を出すことは難しかっただろう。
現実と向こう側の世界を行ったりきたりする…そんな体験のできる物語と映像を兼ね備えた佳作である。
人生から逃げたらアカンよ
上半期、みなさま高評価だけど見逃してた作品。阿佐ヶ谷のお初のミニシアターで観てきました。
うわー、阿佐ヶ谷久しぶり!ちょうど神明宮のお神輿出てるわ。ひとり暮らしなのに馴染みすぎてお神輿担いでました。お神輿が重すぎてあんまり揺れないのは昔と変わらない😛
懐かしいので上京してすぐに住んだ風呂無しアパートの方までブラブラ。友だちが同じアパートの別部屋に越してきたらお化けがでる部屋で、夜中に「お化けでたから今日泊めて」ってよく泊まらせてたな。
阿佐ヶ谷で友だちになったあの人この人、飲み屋のマスター、常連仲間たち、お世話になった銭湯のおじさん、いろんな人の顔を思い出した。みんな生きてるかなあ?
映画の話をします。
舞台は高校、どこ行くのもスケボーで仲良しのトンパチくんと、まゆげアフロくん。この2人の男の子の友情の話が展開。ちょっとまゆげアフロくんの方が弟分で優しいキャラ。
で、トンパチくんがいなくなり、まゆげアフロくんの喪失感が描かれる。まあ、友だち死んだらショックよね。おじさんも中高大学とそれぞれの時代で仲よくしてもらった友だち、みんな死んだからな。これからの方がキツいぞ。うん。
で、お話は友だちは大切ってパートから、同じクラスのメタリカTシャツきた、ちょっと浮いてる女の子の話に。なるほど、ここが群像劇っぽくてちょっと面白い。
まあ、学校ってほとんどの場合、たまたま近所にいた同い年ってことで集められるから、人間関係が大変だったりしますよね。学校出たら気にしなくてよくなることいっぱいありますんでね。
と思ってたらオチは「怪物」的なヤツかーい。
学校からは逃げてもいいけど、人生から逃げたらアカンよ。
【”黒猫の死骸と生きた黒猫。そして響き合う孤独な魂。”今作は、美しい自然の中、孤独な心を抱えた少年少女たちの姿を描いた、切なくも儚いゴーストストーリーである。】
■高校生の刺青を入れたカイル(ジャクソン・スルイター:リバー・フェニックスを彷彿とさせる。途中までは作品の風合も・・。)とコルト(マルセル・T・ヒメネス)は悪友同士。街中の道路をスケボーで飛ばしたりしているが、ある日カイルは立ち入り禁止区域に入り込み、列車に撥ねられてしまう。
その事で、深く傷ついたコルトは彼と良く過ごした川沿いを歩くうちに、同じ高校に通っていながら行方不明になったホイットニー(ヘイリー・ネス)の日記を拾う。そこには、彼女の友人と上手く交流出来ない、切実な思いが綴られていた・・。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・今作は様々な解釈を観る側に容認させる作品である。だが、明らかなのはカイルもコルトもホイットニーも、青春期独特の孤独を背負っていた点である。
・冒頭、カイルとコルトは家の建築現場で、地下室になるであろうところで黒猫の死骸を拾う。非常に印象的なシーンである。
その後、カイルは列車に撥ねられるのであるから。
・美しい自然が背景に描かれるが、トーンは暗い。学校のシーンでは先生も時折登場するが、存在感は薄い。生徒達に必要以上に介入してこないのである。
・コルトがカイルの死を中傷したカウボーイハットの少年と諍いになるも、コルトから謝罪し、二人で拳銃を撃つシーンも、どこか象徴的である。
■死んだ筈のカイルと行方不明になったホイットニーが、河原で出会い、二人で石投げをして笑顔で遊ぶシーンは、彼らの孤独な魂の交流のシーンではなかったか。
・そして、独り彷徨うコルトは冒頭で黒猫の死骸を見つけた場所で”生きた”黒猫を見つけ優しくあやすのである。
<今作は、美しい自然の中、孤独な心を抱えた少年少女たちの姿を描いた切なくも儚いゴーストストーリーである。>
<2025年7月20日 刈谷日劇にて鑑賞>
やるせない青春
先週(7/19)観た映画は「メイデン」。カナダの若い監督が16mmで撮ったインディーズ作品で、田舎町(カルガリー)のブルーな青春と死と孤独とASDとリレーションシップアナーキーな友情をクリス(リバー・フェニックス)そっくり高校生カイル(ジャクソン・スルイター)で描いたちょっと退屈な「スタンド・バイミー」オマージュ。後半ホイットニーを誘うかのように森の中へと消えていくシーンの繰り返しオーバーラップがその企てを明確にしており、不可解な時系列は置いといて「ファイナル・カウントダウン」を熱唱する幸せなデートシーンは黄泉の国でこそ可能になった感情の発露で、残念ながら現実世界ではちょっと困難だったのだろう。友人に誘われなければ観ることのなかった映画で、全て「友情」という表現で良いじゃないかと教えてもらった。それにしてもフィルム制作はワンカットが長くなる所以で「映画っぽい」のが嫌いではないが辛抱が足りなくなっている老害の身である。それにしてもあり得ないほど猫がなつき過ぎで気持ち悪かった、アーメン。
来世と現世をオーバーラップさせた思春期の友情、孤独、喪失を描いてはいるが・・・・・・・
カイルとコルトンの友情と喪失、ホイットニーとジュンの別離と孤独、そしてカイルとホイットニーの遭遇と安堵、これが主要なストーリーの縦糸であるが、何故カイルやホイットニーは死を迎えなければならないのか?
あまりにもストーリーが唐突過ぎて正直理解に苦しむ事多数!!
二つのストーリーを強引に紡ぎ合わせなくてもよかったのではないか?と言うのが率直な感想!!
カイルを演じたJ・スルイターはどこかR・フェニックスの面影が感じられ、一層の事 「スタンド・バイ・ミー」のような青春ストーリーにした方が却ってよかったのでは?とも思いました。
序盤から夢中でそんな序盤から欲求不満で
自業自得
という言葉があったが、そこまでのシーンを見ている限りには「その通り」と言いたくなった。
なのに、その後の喪失感には胸がしめつけられるような思いを感じた。大切なものをなくしたことがある人にはよくわかるのではないだろうか。
ストーリーはよく理解できず、現実のことなのかそうでないのか、時系列がどうなっているのかもわからないまま、それでも心を奪われる作品でした。
少しだけ「アフターサン」を思い出す。
思春期時代特有 地元と外の間の大きな壁
16mm正解。
カナダの若い監督、長編初作品。
なかなか良いぞ次作も見たい。
16mmフィルムのザラ付きが懐かしく、空気感ビンビン感じて見れちゃう私ですが、若い子達にはどう見えているのだろうな? これ昔の映画?なんか汚くね?じゃなくて、あの不確かさに空間や時間を感じて欲しいと思う。そう感じる若い監督がいて嬉しいし、楽しみだ。音楽もかっこよかった、フィルムの質感のようなジョンハッセルとかマンシーニの古い曲、渋いチョイス。
前半は男子の友情と強力な喪失感。
後半は皆に馴染めない女子が居場所失って消えていく様と、そこにあらわれるあっち側の男子との繋がり。
タイトルバックのシーンはあの子が日記書いてるシーンだったのか、、、終わってしばらくしてから気がついたわ。タイトルのMAIDENと言えばIRONMAIDEN、、あいや、、処女とか乙女とかお初的な意味しか日本では見つけられないが、欧米ではもっと複雑なニュアンスがある様に思う。だってタイトルがいまひとつピンとこないんだもん。
スッキリしない話だし、ファンタジー要素もありだけど、、非常にリアルを感じる。私も昔日曜夜中向かい合わせの机に座ってた会社の先輩が月曜の朝に逝ってしまった事があり、あの時の頭真っ白喪失感思い出した。
予告編からあふれる圧倒的な詩情! カナダの俊英が贈る「おいらのスタンド・バイ・ミー」。
珍しく、予告編を観て、ぜひ観たいと思った。
そこには、昔から僕が「映画」とはこういうものだと
思ってきた映像が映っていたから。
この画質。この画角。この動き。
監督の考えている「映画」に共感できる。
好きな割に、あまり自分では足を運ばないタイプの映画。
よくありそうで、その実、意外にないタイプの映画。
純粋で、まっすぐで、映画への愛にあふれた、
抒情的でけれんのない、青春映画。
久しぶりにこの手の映画を観て、やっぱり良いな、と思った。
よくいえば、ピュアでストレートな映画。
悪くいえば、ちょっと幼稚でありきたりな映画。
あまりにも真っ正直に、青春映画らしい青春映画を撮ろうとしているがゆえに、「よくある」ギミックとクリシェのオンパレードになっているし、えらく気恥ずかしいようなストーリーになっている感もある。主人公ふたりの悪戯や破壊衝動も、だいぶと偽悪的な感じで痛々しい。
とはいえ、それでいいのでないか?
僕はそう思うのだ。
撮っているのも、出ているのも、若者だ。
若者が、気恥ずかしいものを撮って何が悪い?
むしろ才走った老成した作品を撮る方が、
よほどこざかしい話なのではないか?
若い才能が、まっすぐフィルムの力を信じて、
受け止める観客を信じて、映画を撮る。
素晴らしいことじゃないか。
― ― ― ―
前半のお話は、とてもシンプルなものだ。
コルトンはカイルと毎日遊んで暮らしている。
ある日、カイルがひょんなことで命を落とす。
それからはカイルの死をひたすら悼む日が続く。
ただ、それだけだ。
それだけだけど、描写は実に丁寧といえる。
●映画の基調を成すのは、横スクロールだ。
画面の向かって左から右方向に、
カイルとコルトンが、歩く。スケボーをこぐ。
川を泳いで下る。車に乗せてもらって走る。
たとえ躍動感と疾走感はあっても、
彼らは常にスクリーンの平面上に囚われて、
そこから逃れることはできない。
いつも、横に流れるカメラのフレームに、
閉じ込められている。
ときには客に背中を向けて、
画面奥へと歩いていくが、
やはりカメラはその背中を一緒に
追いかけていくので、距離は変わらない。
とある平面に囚われたまま、
彼らの息苦しく閉塞した青春は続いていく。
作中で、このルールから外れるのが、
丘を下る、夕陽の見える土手の坂道だ。
この道を、カイルはスケボーでおりられる。
コルトンはおりられない。
ここだけは「解放感」が画面から漂う。
それは少年たちが、ここでだけは、
カメラのルールから解き放たれるからだ。
●カイルはとにかく、やんちゃで破壊的で、衝動的な青年だ。
一方のコルトンもやんちゃはするが、穏やかで、どちらかというと追随的な性格といえる。
いつもろくでもないことをやりだすのはカイルで、コルトンは相方につられて付き合わされているだけだ。
こういう親密でバディ的な関係性があるなかで、「主導的なほうが突然命を落とす」というのは、この手の作品では比較的よく見かける展開かもしれない。
●カイルの死の描写は、できる限り遠まわしに描かれている。
あれだけ、線路から川に飛び込みとかしてたんだし、実際コルトンだってすぐ避けられてるんだし、音と振動で察知すれば脇のどこにでも逃げられるんじゃないのとかつい思ってしまうのは、作り手の仕掛けた思考の罠なのか。
これが予期せぬ「事故」だというなら、「ここからしばらくの区間は陸橋になっていて逃げ場がない」みたいな描写くらいは欲しかったところだけど。
一方、「あれは実は自死だ」という考え方もあるのだろうが、二人で探検に出かけたあのタイミングで、敢えて衝動的に自死を実行に移すというのはかなり無理のある解釈のような気がする。
まあ、監督としては「自死」の可能性を考える余地を観客に与えたかったのは確かだろう。少なくとも、カイルが「危うくて」「破壊衝動に常に捕らわれていて」「衝動的な行動に出るタイプ」の青年であることは間違いないのだから。
ともあれ、「え? マジで死んだの? なんで?」と観客に思わせた時点で、製作者の意図自体はすでに成功しているともいえる。
電車のシルエットが「貨物列車」というのは、臨時運行も多いと思うので「不意に来る列車」として納得のいきやすいところ。何両も何両も連なって延々と途切れない描写は、コルトンの絶望をいや増しにする。
カイルの死をブラッディ・ムーンで表現するのも品があって良い。
●カイルに死なれてみると、彼がしきりに町中で描き倒していた「MAIDEN」のグラフィティが、あたかも「自分の生きた証を必死で町中に遺している」ようにも思えてきて、ふたたび「自死」説の気配が漂い、なんとも印象深い。彼の死がどういう要因で招かれたものであったにせよ、彼のなかで漠然とした「自分は早逝するのではないか」という予感が常にあったのは確かな気がする。コルトンから将来について訊かれたときも、「音楽をやっていられたらいいんだけどな」と、妙に自信のなさそうな口ぶりで返答していたし。
そういえば、彼は「MAIDEN」と書いた後、いつもそれに「頭」と「足」を描き入れているが、見ようによっては横に羽を広げた「天使」のように見えなくもない。
(ちなみにエンド・クレジットをぼんやり見ていたら、タイトルロゴデザインにジャクソン・スルイターの名前が! これ俳優が自分で書いたものを使ってるんだな。多才!)
●コルトンは、カイルへの依存度が高かった分、カイルの死からなかなか立ち直れない。
最初は引きこもって泣き暮らし、そのあと登校できるようになってからも、毎日カイルとの思い出の場所を巡り歩きながら、追憶に身を任せている。
回りの人間にかなり気を遣わせながらも、いつまでも立ち直れない感じは、ちょっと『エースをねらえ!』の岡ひろみみたいで面倒くさいが、それだけカイルと自分を同化させていた(ベルイマンの『ペルソナ』のように)ということで、喪失感がハンパないのだろう。
巡礼の旅のようにコルトンが、カイルとの思い出とカイルのいた気配とカイルのグラフィティを巡りつづける中盤の展開は、ただただ抒情と余韻に満ちて、美しい。
とくに、コルトンが川に向かって最初は小石を投げていたのが、だんだんと「より大きく」「より角ばった」石を選んで投げるようになり、ついには大きな「岩」を抱え上げて川の中まで入って落とすところまでエスカレートするあたり、彼の鬱屈と破壊衝動が出ていて、とても良いシーンだったと思う(ちなみにこの後出てくるカイルとホイットニーの川遊びでは、投げる石は重力を喪い、水面を何回も飛び跳ねて水切りをしながら、キラキラキランとアホっぽい効果音を鳴らす。なんという対比!)。
●終盤、最初の方で「行方不明」の張り紙を出されていた少女ホイットニー(実はコルトンたちの同級生)が登場し、後半の物語の「新たなヒロイン」として、コルトンとカイルの「喪失の物語」に不思議な絡み方をしてくる。
ここの時系列だとか、現実と非現実の境というのはちょっとわかりにくくて、パンフの高橋諭治さんは「生者と死者が黄昏時に出逢う」といった解釈をされていた。ここの感想でも「生きているホイットニーが死んだカイルと出逢う」と読んでいる方が結構いらっしゃる。
ホイットニーが出逢ったカイルは、間違いなく死者であり、亡霊としてのカイルだ。だが、カイルが死んだ直後の段階で、すでにホイットニーは行方不明だったはずではないか?(山狩り、ポスター)
だとすれば、お話としては後半のストーリーは多少時間軸を巻き戻してスタートしていて、二人は似たような時期にそれぞれ死を迎えていると考えるほうが自然なのでは?(カイルが自死なのか不慮の死なのか判然としないように、ホイットニーも森で最初から死ぬつもりだったのか、彷徨っているうちに思いがけず命を落としたのかは曖昧だ)
ホイットニーが夜の林下を歩いているシークエンスで、「花から液体が垂れる」ようなショットがあって(そういうふうにしか見えなかった)、僕はあれがホイットニーが「死んでいる」ことを暗示するショットだと思ったのだが、いかがだろうか。
よしんば、二人が死んだタイミングがだいぶ「ずれていた」としても、それこそ黄昏時のトワイライトゾーン(死者の待合室)では、時間のズレなどは些細なことだろう。二人は時間を超克して、孤独な魂どうしで惹かれ合い、出逢った。
死後の世界に旅立つ前のひととき、ふたつの魂が邂逅し、お互いの孤独を癒し合う、その二人の道行の間近で過ごしながら、コルトンのほうからは、もはや二人を見ることができない。そういう話だと少なくとも僕は判断しながら、この映画を観ていた。
●ホイットニーは、わかりやすい感じで発達障碍、それも自閉症スペクトラムのかなり重い傾向を示すキャラクターとして描かれている。ASD特有の生きづらさ、他者とのコミュニケーション不全、特定の友人への執着、行動パターンへのこだわりと融通の利かなさ、感情の急な爆発と思い込みの強さなど、ほぼ典型的な症例を示しているように思う。
芸術面・文芸面での突出した能力もまた、ASDでよく見られる傾向だ。
●一方、死後のカイルが、迷えるホイットニーの導き手として取る行動が、そのまんま、コルトンと過ごしていたときに取っていた行動とまるで同じというのも面白い。
地縛霊は、基本的に「生前の行動を模倣し、繰り返す」存在なのだ(笑)。
彼は、愉しかったコルトンとの思い出を「なぞる」かのように、新たな相方であるホイットニーを連れて、「かつての二人にとってのとっておき/秘密の場所」を巡礼する。その行動は、「生きている」コルトンが平行して繰り返している「聖地巡礼」と軌を一にするものだ。
たしかに、カイルの亡霊は「生きているかのように」ホイットニーに接している。だが、もしかするとこのカイルは、「コルトンとの楽しかった思い出の残滓」であり「土地に沁みついた二人の行動パターンの残影」に過ぎないのかもしれない。
●結局、この物語がどう終わったかと言われても、それにちゃんと答えるのは難しい。冒頭に出てきた死んだ猫とラストに出てきた生きた猫が同じ猫だとは限らないし、単純に監督が「映画をそれらしく終わらせるために仕掛けたギミック」に過ぎないのかもしれない。
とはいえ、歌に乗せて放たれたメッセージは、どこまでも堅固でストレートだった。
― ― ― ―
その他、雑感。
●カイル役のジャクソン・スルイターは、「リバー・フェニックスの再来」というより、単純に髪型と顔立ちが、『スタンド・バイ・ミー』出演当時のリバー・フェニックスに激似である(笑)。この子を主役に選んで、鉄道を重要な要素として出している時点で、監督が『スタンド・バイ・ミー』を強く意識し、かつ、強く影響を受けているのは間違いない。
あれもまさに「青春と冒険と死」の関係を描いた小説であり、映画だった。
●コルトン役のマルセル・T・ヒメネスは、なんとなく見た顔だなあと思ったら、パゾリーニの超お気に入りだったニネット・ダヴォリと微妙に似た感じがするんだな(笑)。
●監督自身もまた学生時代は「はみ出し者」だったはずで、カイルとコルトンとホイットニーに対しては、およそ全幅の共感を寄せた作りとなっている。
一方で、スクールカースト上位の連中に対しては、かなり子供っぽい戯画化をもって愚弄せんと試みており、「グルーピー」「テンガロンハット」「拳銃試し撃ち」「大金持ちの別荘持ち」「ピアノ(オルガン)が弾ける」など、思いつく限りの下品な属性を付与して、笑いものにしようとしている。よほどつらい思い出があるんだろう(笑)。
●今の時代に若い監督が「16mmフィルムで撮ろう」と思いつくこと自体、十分に「ロマンティック」な発想であり、映画全体のテイストや演出がやけに情緒的で「青春映画のクリシェ重視」のつくりであるのも、うなずける部分がある。
で、最初に述べたとおり、僕はこういう映画が嫌いじゃない。
また監督が新作を作ってくれたとすれば、ぜひ観に行きたいと思う。
シュレディンガーの猫?
10代の儚さ脆さ描くムービー?
友達に無理して合わせたり、とかく行動が危うい、映像も女の子の肌質も粗い ホームビデオか?と思った そして若者のお話しの割には、スマホの出番が最後チョロっとだけ 二部構成みたいでノートと靴にはあぁやっぱりとなったけど あの2人はどの世界線で彷徨っているんだ?
時系列が逆?でも黒猫ちゃんが謎 摩訶不思議なお話いろいろ解釈出来そうですが、意外とホラー ファルコンレイク☓クロースみたいな印象受けた
メメントモリ
列車が夢を見るとしたら、運んでいる人たちの笑顔ある未来なのかもしれません
2025.4.30 字幕 アップリンク京都
2022年のカナダ映画(117分、G)
親友を亡くした青年が失踪少女の日記の中に癒しを見つける青春映画
監督&脚本はグラハム・フォイ
物語の舞台は、カナダのカルガリー郊外
そこに住む高校生のカイル(ジャクソン・スルイター)と親友のコルトン(マルセル・T・ヒメネス)は、一緒にボードで遊んだり、秘密基地に行ったりと仲睦まじく暮らしていた
カイルはいろんな壁に「Maiden」と描いていたが、コルトンにはその意味がわかっていなかった
ある夜のこと、いつも通りに遊び呆けていた二人は、日が暮れてから列車の鉄橋へと向かった
カイルはそこで線路を歩き出し、近づいてきた列車に撥ねられて亡くなってしまう
その日から、コルトンには喪失感が付き纏い、彼と一緒に出かけた先をうろうろする日々が続いていた
ある日のこと、コルトンが森に出かけると、どこからともなく「ホイットニー」を呼ぶ声が近づいてきた
どうやら、同級生のホイットニー(ヘンリー・ネス)が失踪したようで、町の人がこぞって探しに回っていたようだった
映画は、カイルの事故後が前半となり、ホイットニーの日記を読むコルトンの脳内想像が後半となっている
カイルの死後、コルトンは喪失と向き合いながら、自分自身がカイルになりたいと思っていたことを知らされる
だが、彼のことは何一つわかっておらず、「Maiden」と書き殴っていく理由もわからない
彼の真似をして描いてみても上手く描けず、何かを得ることもない
そんな時に見つけたのがホイットニーの日記で、そこには友人のジューン(シエナ・イー)と上手く行っていないことなどが記されていた
ジューンはアメフト選手のタッカー(カレブ・ブラウ)の彼女で、彼の友人たちとつるむことが多かった
だが、ホイットニーは人見知りであるのと、タッカーの友人たちのノリについていけない
ジューンはそれを察したのかホイットニーにメールを送り、それがきっかけで彼女は家出をすることになった
後半のシーンはコルトンが彼女の日記を脳内で再現している内容で、彼女は死んだはずのカイルと会っている映像が映し出される
おそらくは、その日記に遺書のようなものがあって、それを読んだコルトンがカイルと会っているのでは?と妄想したのだと思う
明確にホイットニーが亡くなったという描写はないのだが、「列車はどんな夢を見るのか?」という日記から想像すると、その場所に行ったのではないかと思った
映画は、カイルになりたいコルトンと、ジューンにはなりたくないホイットニーが対比軸になっていて、カイルとコルトンはほとんど名前を呼び合わないが、ホイットニーはしきりにジューンの名前を呼んでいた
この関係性からすれば、カイルとコルトンは意思疎通ができていて、ホイットニーとジューンはできていないように見える
だが、実際には、コルトンはカイルのことを何も理解できていないし、ホイットニーはジューンを勝手に決めつけて突き放している部分がある
コルトンにとってのカイルは「ただそこにいるだけで癒しを与える猫」のようなもので、それが最後に現れたということは、癒しをもたらすためには「何かしらの代用が必要である」という意味に近い
ホイットニーにもジューンに代わる何かが必要で、それがカイルのような奔放に見えて影のある人間のように思える
カイルはホイットニーの日記を見て、彼女の前にカイルがいればという妄想をしているのだと思うが、それが正解なのかはわからない
だが、彼の前に猫が現れたことは、死と死を結びつけたことによって、生への道に舞い戻ることができたという意味に捉えても良いのかもしれない
一歩間違えばカイルの後を追いそうなコルトンだが、ホイットニーの日記を見て、その道に行くほど自分は強くないと悟ったのではないだろうか
いずれにせよ、かなり観念的な部分があって、「Maiden」にもいろんな含みがあるのだと思う
「Maiden」には「処女」「乙女」という意味があり、これは大人になる前の女性という意味になる
映画だとホイットニーがそのように見えるのだが、別の意味として「勝っていない馬」というのもあった
これは実に男性的な意味で、「何かをまだ為し得ていない」という意味になる
カイルがグラフィティアートで何かを成し得ようとしているのかはわからないが、それを書き殴っていることには彼なりの焦燥感があるのかもしれない
このあたりは想像の範囲でしかないのだが、コルトンが思っているよりもカイルはもっと繊細で、自分に自信のない人間なのかなあと思った
タイトルなし(ネタバレ)
カナダの田舎町。
高校生カイル(ジャクソン・スルイター)とコルトン(マルセル・T・ヒメネス)は親友。
スケボーでどこへでも出掛けて1日を過ごす。
行く先々でふたりは「MAIDEN」の落書きを残す。
ある夕、カイルは鉄橋で長い長い貨物列車に轢かれてしまう・・・
というところからはじまる映画で、カイルを喪ったコルトンが心に痛みを感じ続ける喪失の青春を描くのが前半。
後半は、
同じ高校に通う少女ホイットニー(ヘイリー・ネス)にはジューン(シエナ・イー)という友人がいるが、人付き合いが苦手(というか困難)な彼女は、ジューンにとっていつしか邪魔な存在になっていく。
些細なことがきっかけでジューンから一方的に友だち解消されたホイットニーの孤独が深まる・・・
という物語。
この前半と後半が奇妙な形で交わっていく。
ある種、幻想譚めいたところがあり、映像的にも秀逸。
テイストが似ている作品としては、昨年公開のアンドリュー・ヘイ監督作品『異人たち』を挙げておきます。
監督・脚本はグラハム・フォイ。
もう一本、作品を観たくなりました。
猫と靴
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