ノスフェラトゥのレビュー・感想・評価
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とにかく映像美の作品です
美しい映画です。TVサイズよりもスクリーンで見るのが良い。
古典的な映像美、ゆったりとした`間`と伝統的な音楽でじわじわとくる恐怖感を演出。
前半は無駄な説明セリフが少なく、陰影と役者の呼吸音で観客を引き込む。
レトロな時代感をしっかり表現するための美術、衣装。美しいです。
後半フランツ教授役ウィレムデフォーが出てくると有名な個性派だけに現代感が出てきてしまう。芝居は上手いけど。
後半は明るい場面と暗黒場面のコントラストが面白い。
ストーリーはシンプルなので、展開の早い現代的なものに慣れていると若干重たく感じるかも。好みが分かれるところですね。
法令遵守な吸血鬼
エガース監督は前作もビジュアル重視でしたが、今回も衣装、メイク、美術装置、撮影は一級品でした。ただ、ストーリーや語り口が伴いません。ベタで冗長な展開で盛り上がりに欠けました。
ムルナウやヘルツォークを真似る必要はないのですが、ビジュアルのおどろおどろしさをもう少しストーリーにも反映して欲しかったです。
エレン夫妻がフリードリヒ邸から退去するくだり。「彼は病気なのよ、それでも出て行けと」「今まで献身的に世話してきたじゃないか、あまりに無礼だろ」。これって、現代のアメリカ社会にはびこる(アメリカに限らず全世界かも知れませんが)、リベラル層の分断や移民問題を暗に示しているのでしょうか。結局エレンは最後わが身を犠牲にし、一方フリードリヒ一家も悲惨な憂き目にあってしまいます。
オルロック伯爵は、あれだけ血を吸って人を殺める一方で、契約書にはえらいこだわる。規律意識が高いのはドイツ人気質なのかな(トランシルバニアだからルーマニア人か)。
ドイツなのに・・・
劇場で観てこそ没入できる
ドラキュラといえば性欲のメタファーで、それを分かる人には分かる絶妙さで描くのが80年代以降のバンパイア映画だった。
しかし本作は実にストレート。「悪鬼の狙いは少女との性交」「少女は抗いながらも、密かにそれを求める」と真正面から描いている。要するに、大人のバンパイア映画。
本作のノスフェラトゥは過去の伯爵達と異なり、スタイリッシュでも美男子でもない。男性の醜さと荒々しさを凝縮したような外見で、しかし放つ言葉には凄みがあり、どこかカリスマ的である。
美しいのは人間側で、なんと言ってもニコラス・ホルトにアーロン・テイラー・ジョンソン。「Xメン」のヒーロー2人が醜い悪に追い詰められるのも現代的だ。
しかし、どうしてこうキリスト教の悪魔というのは圧倒的なのだろう。存在するだけであらゆる厄災をもたらし、銃火器では倒せない。本作のノスフェラトゥも「こんなやつにどうやって勝つんだ」と思わせてくれる。
中盤までは正直、冗長さを感じる部分もある。
しかし終盤、最終決戦に挑む盛り上がりは半端ない。主人公の少女は憑依されて周囲を振り回すが、彼女は自らの劣情に自覚的だった。そこが本作の秀逸なところだったと思う。
ホラー映画史に燦然と輝く大傑作をロバート・エガース監督が全身全霊を込めて2度目のリメイク
オリジナルのF.W.ムルナウ監督『吸血鬼ノスフェラトゥ』(1922)に幼少の頃から惚れ込んだ監督が満を持して取り組んだだけあって、素晴らしい格調の高さと風格を備えた秀作だと思います
さすが今年の第97回アカデミー賞の美術や衣装デザイン部門など4部門でオスカーノミネーションを受けただけあって納得の映像美、隅々までこだわりを感じる画力が素晴らしく見ごたえがありました
が、元々本作のオリジナル版は ブラム・ストーカー氏の名著『ドラキュラ』(1897)をムルナウ監督が無断で映像化し著作権侵害で訴えられた曰く付きの作品、なので大筋は『ドラキュラ』と同じとのことですが、それを大昔の学生時代に読んだっきりなので記憶になく、よって本作もストーリーが分かりづらく入り込めず、やや冗長で退屈に感じる事もありました
キャスティングも実力派で有名どころが揃っているので見ごたえがありましたが、リリー=ローズ・デップさんのルックが個人的にはとても気持ち悪くて、特に魔物が憑依した様になる役には完璧にフィットしていて益々不気味だった
その憑依したりするくだりを観ていて『エクソシスト』(1973)を思い出したりもしました、あれって元ネタなのかな?
豪華キャストと美術&衣装で蘇ったゴシック・ホラーの古典的名作
【イントロダクション】
ブラム・ストーカー原作の怪奇小説『吸血鬼ドラキュラ』を非公式に映画化した、F・W・ムルナウ監督による1922年の『吸血鬼ノスフェラトゥ』のリメイク。
ノスフェラトゥことオルロック伯爵を『IT/イット “それ”が見えたら、終わり』(2017)のビル・スカルスガルドが演じる。その他キャストに、ニコラス・ホルト、リリー=ローズ・デップ、アーロン・テイラー=ジョンソン、ウィレム・デフォー。
監督・脚本は『ウィッチ』(2015)、『ライトハウス』(2019)のロバート・エガース。
【ストーリー】
ある夜、エレンという1人の少女が天使や精霊へと祈りを捧げていた。しかし、彼女の祈りに応えたのは、邪悪な悪魔の眷属である吸血鬼ノスフェラトゥであった。少女はノスフェラトゥの邪悪な力に抗えず、彼と契約を交わしてしまうのだった。
1838年、北ドイツの港町ヴィスボルグ。エレン(リリー=ローズ・デップ)は成長し、不動産屋に務める夫・トーマス(ニコラス・ホルト)と幸せな新婚生活を送っていた。トーマスに出会うまで度々襲われていた悪夢、鬱病にも似た症状は鳴りを顰め、新しい生活は順風満帆かに思われた。
トーマスは勤務している不動産屋の主人であるノック(サイモン・マクバーニー)から、ドイツへの移住を希望するトランシルヴァニアにある古城の貴族・オルロック伯爵へ契約書を渡しに行くよう命じられる。ノックはオルロックの忠実な部下であり、彼がドイツへやって来る手筈を整えていたのだ。
トーマスは旅を不安視するエレンを親友であるフリードリヒ(アーロン・テイラー=ジョンソン)とアンナ(エマ・コリン)夫妻の元へ預け、単身で伯爵への城へと向かう。長旅の道中、宿を求めて立ち寄ったジプシーの集落で、トーマスは「あの城へ行ってはならない」という不吉な忠告を受ける。夜、トーマスが目を覚ますと人々が処女を生贄に捧げに森へと赴き、墓場に埋葬された遺体に杭を刺すという夢か現実か分からない奇妙な出来事に遭遇する。
翌朝、目を覚ましたトーマスが外に出ると、集落はもぬけの殻となり、乗ってきた馬も居なくなってしまった。トーマスは疲労困憊となりながらも徒歩で野を越え山を越え、夜の森でオルロックが寄越した馬車に乗り、何とか古城へと辿り着いた。オルロック伯爵(ビル・スカルスガルド)はトーマスを迎え入れ、彼が到着するや否や深夜にも関わらず契約の手続きを進める。オルロックや城の様子に唯ならぬ雰囲気を感じながらも、トーマスは契約書にサインしてしまう。
トーマスが目を覚ますと、城には誰も居らず、首元には奇妙が噛み傷が残されていた。城の地下室へと辿り着いたトーマスは、荘厳な作りの石製の棺を発見する。棺を開けると、腐りはじめつつも殆ど人の形を留めたままのオルロックの遺体を目にする。集落での出来事を思い出し、トーマスは遺体に斧を突き立てようとするが、目覚めたオルロックに阻まれてしまう。
トーマスは崖から転落するも運良く川に流され、修道女に発見されて手当てを受ける。まだ十分に回復していないにも拘らず、トーマスはエレンの身にオルロックの魔手が伸びている事を察知し、ヴィスボルグへの帰還を急ぐ。
ドイツへ向かう帆船の貨物室にはオルロックの棺が積み込まれており、船内ではペストが蔓延し、乗組員が次々と命を落としていた。オルロックは疫病と共にドイツを目指し、エレンと交わろうとしていたのだ。
【感想】
20世紀を代表する古典的ホラーの名作を、現代技術と豪華キャスト陣で甦らせた非常に贅沢な作りのゴシック・ホラー。影の表現が秀逸だったムルナウ版を踏襲して、本作でも影による恐怖演出が随所に盛り込まれている。また、暗い画面の中で人物の顔の半分や小物の僅かなディテールが浮かび上がって画面を構成しているという、“黒”を効果的に用いた画作りもシックでオシャレ。
作中でも“吸血鬼”を指し示す呼び名は、彼の本名である“オルロック”の他に、“ノスフェラトゥ(ルーマニア語に由来するとされているが、諸説あり)”、“ヴァンパイア”と様々であるが、「悪魔の眷属であり、生き血を吸う怪物」という設定は、ムルナウ版含め多くの吸血鬼作品と共通している基本設定である。
また、吸血鬼は「家主、または住人から招き入れてもらわなければ(本作ではエレナが夜に窓を開ける)家に入れない」という設定、「朝日を浴びると死ぬ」という弱点、その為「朝には自身が埋葬された土(棺)に戻らなければならない」という吸血鬼作品によっては適応されない場合のある、しかし王道な設定も数々取り入れられている。
反面、十字架やにんにく、白木(ホワイトアッシュ)の杭、銀の弾丸(これは狼男の退治にも用いられる)といった吸血鬼退治の有効物質が本作のノスフェラトゥに対して有効かは定かではない。
ノスフェラトゥ役のビル・スカルスガルドの特殊メイクが素晴らしく、作品を鑑賞しただけではエンドクレジットを確認するまで彼と分からないほど。役作りの為に減量もしたそうで、強大で邪悪ながら細身の大男という不気味な出立ちは見る者を圧倒する。
そんなノスフェラトゥへの対抗策を知る、ウィレム・デフォー演じるフランツ教授もまた魅力的だった。錬金術や神秘主義といったオカルトに精通するがあまり、学会の異端児として追放された哲学者ながら、その特異性がエレンとオルロックの繋がりを見破り、クライマックスの対処法に至るまで様々な活躍を見せてくれる。
また、フリードリヒ役のアーロン・テイラー=ジョンソンも輝きを放っており、オカルトを否定する現実主義者としてトーマスやエレンと衝突しつつ、妻と2人の娘をノスフェラトゥに奪われるという悲劇性も見事に演じてみせた。
忘れてはならない影の主役が、ペストを蔓延させるネズミである。実際に5000匹ものネズミを用いて撮影されたという、ドイツ社会の崩壊していく様子は素晴らしい出来だった。
物語自体は基本的にムルナウ版に忠実に、ディテールを細かく描ける部分は要素を付け加えと、新しさより名作を如何に現代に甦らせるかに注力している。その為、物語としての新鮮味は薄く、またエレンの祈りが意図せずノスフェラトゥを復活させ、エレンの犠牲によって世界が救われるという本作ならではの構図は、エレンとノスフェラトゥの繋がりを強化して物語に組み込ませた手腕を理解した上でも、若干の「尻拭い感」を感じさせる。
元々が100年以上も前の作品の為、現代でそれを忠実に再び描くとどうしても無理が生じてきてしまうのだろうが、宗教的な側面やノスフェラトゥを巡る様々な設定含め、もう少し現代的なアップロードを試みても良かったのではないかと感じる。
私はロバート・エガース監督作品は初鑑賞だったのだが、どうもファンによると偉大な作品のリメイクというプレッシャーからか、監督の作家性は十分には発揮されていなかった様子で、そうしたプレッシャー抜きに自由に作家性を発揮していたらどんな作品になったのか気になるところ。
また、ホラー作品だから仕方ないが、ジャンプスケアに頼った演出は、荘厳なゴシック・ホラーには少々似つかわしくないようにも感じられた。
【総評】
古典的名作ホラーを、豪華なキャストと拘りを持って再現された19世紀ドイツの美術や衣装で荘厳な雰囲気ある一流のゴシック・ホラーとして甦らせた手腕に拍手。
物語的な新鮮味には乏しいが、アカデミー賞でも撮影賞、美術賞、衣装デザイン賞、メイクアップ&ヘアスタイリング賞にノミネート(いずれも受賞は逃したが)された本作は、劇場で味わってこそだろう。日本では上映館数が非常に少ないのは勿体ない。
ゴシックホラーの力作
残念。映像美はまあまあ
死んでもヤリたいアニマル吸血鬼によるNTR大作戦!(笑) 「美女と野獣」の行く末やいかに?
封切り週の土曜日昼に新宿Kino cinemaに行ったら、まさかの満員札止め!
まあ劇場が小さいからしょうがないんだけど、まさか観られないとは……。
翌日、改めてレイトショーに行って、なんとか鑑賞。
僕ら古めの人間から見れば、単なる『吸血鬼ノスフェラトゥ』(22)の二度目のリメイクといった印象しかないんだが、最近の若い人にとっては「あのA24で『ライトハウス』(19)を撮ったロバート・エガースの新作!」という扱いなのかもしれんね。
旧作のムルナウ版『吸血鬼ノスフェラトゥ』は一応大昔に観たことがあるが、実はたいして思い入れがない。ヘルツォークのリメイク版『ノスフェラトゥ』(79)のほうはいまだに見逃している。ただ予備知識として、一応「吸血鬼映画の元祖」でもあり、だいたいの内容は理解しているつもりだ。
今回のリメイクで最も目立つ変更点は、ラスト辺りの展開で「吸血」よりも「性交」に焦点を当てたという意味で、ノスフェラトゥのエレンへの執着がより「生々しい」ものになっている点だろう。
俯瞰して物語を見れば、本作は間違いなく「NTR(寝取られ)もの」の一典型を示している。まさに、これをNTRと呼ばずして、なにをNTRと呼ぶのか、というくらいの。
もちろん『ドラキュラ』だって旧版の『吸血鬼ノスフェラトゥ』だってNTRなのだが、今回は圧倒的にその気配が濃厚だ。
要するに本作はヴァンパイアものでありながら、「横恋慕した怪物が人間に恋するけど滅ぼされる」という、『キングコング』や『フランケンシュタイン』に近い「美女と野獣」の定型に敢えて寄せてあるのだ。「セックス」を前面に強調することによって。
明らかにデーモンを思わせる旧作の外観から、蛮族の野人に近い風貌に変更されたことによって、ロマンス小説における「ハイランダーもの」(イギリスの貴族階級の女子がスコットランド系の蛮族に誘拐されたうえに調教されて、女が蛮族の男らしさにめろめろにされる話)に近いテイストが生まれている点も、注目に値する。
「野蛮だけど雄雄しくて強壮な絶倫男」が、
「文明化されてるけどあっちの弱い男」を
差し置いて、美女をモノにするロマンス。
これは、本質的にはそういう物語だ。
さらには、エレンは昔から異様に感受性が鋭く、かつ性欲も強い、奔放で神経質な内向的タイプ。こういう女と暴力的で支配的な男の複雑な愛情と憎悪の物語としては、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』が容易に想起される。
要するに、ロバート・エガースは「ドラキュラ」の物語のなかに「ゴチック・ロマンス」としての19世紀的な要素を読み取って、それをわかりやすく拡大してみせたわけだ。
(ちなみに、オルロック伯爵の外見の変更には、昔からよく言われている旧版の『吸血鬼ノスフェラトゥ』が「ユダヤ人の外見=鉤鼻、長い爪、禿げ頭」を表わし、ドイツにおいて1920年代に荒れ狂っていた「反ユダヤ主義」を反映しているとされる話を製作陣が気にして、敢えて「避けた」可能性が高い。これは、ノスフェラトゥと呼称せずに製作された『ドラキュラ/デメテル号最期の航海』(23)ではドラキュラの風貌がまんまノスフェラトゥを踏襲していたのと対極的である。今振り返って考えると、あっちの映画の船中のシーンは、まんま『吸血鬼ノスフェラトゥ』のリメイクに近いものだったんだよね。)
同時に、先にも述べたように、これは「モンスターが美女を求めて滅びる」典型的な「美女と野獣」の物語でもある。
美女が野獣のなかに「善良さ」を見出すことができれば、それなりのハッピーエンドもありうるかもしれないが、本作のように「厄災」そのものの悪、周辺の家族を皆殺しにできるような許されざる悪が相手では、さすがに物語内で救われる余地がない。
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●ゴチック・ロマンスとしての「NTR」もの
●怪物映画としての「美女と野獣」の類型
他にも、エレンとノスフェラトゥ(オルロック伯爵)の関係性や物語の展開には、さまざまなフェイズの要素が投影されている。
●没落した貴族社会と、勃興する市民階級の対比
トーマスやエレンはドイツの新興階級の子女であり、19世紀に時代の主役へと上り詰めたブルジョワジーである。一方でオルロック伯爵はトランシルヴァニアの古城で蟄居同然の生活を送る貴族であり、階級的には過去の存在になりかけている。その「貴族」が「契約」という新たな近代的かつ法的な手段を用いて、ブルジョワジーの街に乗り込んで旧来的な闇の力で支配しようともくろむ物語でもある。
●抑圧された女性の性と、それを打破する異教の性神
19世紀は人類の歴史上で最も女性の「性」が抑圧されていた時代であり、そのなかでエレンは抑えきれない内なる情熱を抱えていて、悶々とした日々を送っている。その「はけ口」となるのが、ドイツの外からやってきてルーマニアの古語をしゃべる怪人である。エレン自身は「守護天使を召喚」したつもりというのは、「キリスト教の教えに従っていたつもりが、知らぬうちに禁忌に触れてしまった」という話で、キリスト教徒の堕落のいとぐちとして頻繁に出てくるロジックである。
●侵蝕してくる「魔」――ストーカーとしてのオルロック
予備的知識として、西欧では一般に魔は「招かれないと結界を越えられない」存在とされる。悪魔や吸血鬼が「外から呼びかける」のは、本人の意思で「呼び込まない」限り、建物のなかには「入ってこられない」からだ(本作と似たような「魔の越境」を描いたエストニア映画の『ノベンバー』(2017)でも、そういう描写があったはず)。
だからこそ、オルロックはエレンをしきりに呼び求め、エレンが「Come!」と行ったからオルロックはやって来られたわけだし、トーマスがサインをしたから街まで入って来られたわけだ。
一方で、この「合意」については、ストーカーとしてのオルロックがエレンを襲うに際して「性的合意」を取りつけている、あるいは幼少時に「守護天使」と勘違いして彼を呼び入れてしまったエレンの行為を「性的合意」と詐称している、というふうにも解釈が可能だろう。
●ペスト(疫病)の象徴としてのノスフェラトゥ
旧作でもそうだったように、ノスフェラトゥはネズミと密接に結びつけられ、街に疫病をもたらす存在として「象徴」のように描かれる。かつてペスト(黒死病)は、かかれば最後の恐ろしい伝染病であり、人口の半分が亡くなるような人類最大の恐怖の一つだった。
監督は当然ながら、19世紀の産物であるドラキュラ譚に、同じく「東から来た厄災」であるコロナのパンデミックを重ねて見ているはずだ。
●近代的な科学とオカルト的な錬金術の相克
科学が勃興してきたとはいえ、瀉血や拘束など「誤った医療」がいまだ幅を利かせていた時代を背景に、あえて「錬金術」研究に脱線して大学を追放されたフランツ教授(=「ヘルシング教授」)をヴァンパイア・ハンターとして活躍させる。ロバート・エガース監督のシンパシーがどちらにあるのかは、意外にわからない。もしかすると「女性や精神障碍者を抑圧するような科学」ならば、「太古の邪神につらなる知恵の体系」のほうがまだマシという感覚なのかもしれない。
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映画のなかでのエレンの扱いには、どこか複雑なところがある。
彼女は、決して観客が共感できるキャラクターとしては描かれていない。
とくに、自分に親切にしてくれた一家に対してよくあんな口が利けるものだというのは、観た人全員が感じることだろうし、エレン自身も、自分の感情や発言をちゃんとコントロール出来ていないような気配がある。
夢想的で、感情的で、性欲が強く、ロマンティスト。
態度がころころ変わり、発言もころころ変わる。
巫女体質で、影響を受けやすく、腺病質。
要求は多いが、他人に感謝できない。
夢遊病。てんかん。ヒステリー。
魅力的だが、面倒くさい。
いるよね? 身近にも。こういう女性。
ここまでじゃなくても。
こんな感じの人。
失礼承知で女優さんの名を挙げるなら、広田レオナとか、真木よう子とか、遠野なぎことか……。
これは、普段はあまり正ヒロインを務めないタイプのこういう「面倒くさい」女性を、敢えてヒロインに抜擢した映画なのだ。
自分自身でもヒステリー体質を抑えられなくて苦労していたなかで、セックスの出来る相手を見つけていったん落ち着くという話も、やけに生々しい。いかにも「抑圧された性衝動」のせいで異常行動に走っているといわんばかりの設定(笑)。まあ、幼少時の性的なPTSDのせいで、いろいろ身体と心の調子がくるっているという解釈なんだろうね。
彼女は19世紀の抑圧的な社会からはバリバリに浮いていて、幾多の苦難を味わうことになる。オルロックに魅入られたり、夢のなかで犯されたり。医者にしばりつけられたり、腕ぶっさされて血抜きされたり。街の人たちから白眼視されたり、言ってることを誰にも信じてもらえなかったり。で、みんなに言うことをきかされそうになる(最近はやりの「ガスライティング」ってやつですね)。あまり幸せな人生とは、到底いいがたい。
とはいえ、結局は「彼女を気にかけて、優しく庇護した一家」の経験する悲惨な末路を見れば、エレンが「本来的には関わったもの皆を不幸にする女」「近くで気になっても手を出したらえらい目に遭う女」として描かれていることも十分理解できる。
そう、これは「美女と野獣」の型に紛れて隠蔽された「ファム・ファタル(運命の女)」の物語でもあるわけだ。いわば、ホラーを偽装した「ノワール」。
若い女に執着して、身を持ち崩すのがオルロック伯爵で。
ダメだと思ってても、朝までアニマルみたいに頑張っちゃう。
で、燃え尽きちゃう。身も、心も。
ね、よくある話でしょ?(笑)
乱暴だけど結論を述べよう。
『ノスフェラトゥ』は、「腹上死」の物語である。
話の大筋自体は、地方の太客がコケの一念で上京して銀座の伝説のホステスとついに一夜をともにして、そのまま大往生して昇天、南無~というのと大差ない気もします。
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その他、寸感を。
●これ、リリー=ローズ・デップのやってるヒロインって、もともとはアニャ・テイラー=ジョイがやるはずだったんだってね。それはそれで観たかったなあ。
●オルロック伯爵役のビル・スカルスガルドの顔をパンフで見て驚愕。あんな野人メイクしちゃったら、こんな美青年にやらせる意味まるっきりないじゃん!(笑)
しかも、彼に決まるまではダニエル・デイ=ルイスやマッツ・ミケルセン、結局教授役をやったウィレム・デフォーなどもこの役で検討されたとのこと。なにそれ、ぜんぜん違うじゃん、オッサンばっかじゃん!!(笑)
いうなれば、内に魂を込めた人形のようなもので、オルロック伯爵のあの外見のなかに「繊細で細面の美青年の魂」が宿っているというのが、ロバート・エガース監督の考えなんだろうね。まさに「美女と野獣」のビーストだ。それを「表面には表れない配役」で表してる。
あと、スカルスガルドの放つ低音は、脳をゆさぶる美声だった。
●この映画で一番恐ろしいのは、実はノスフェラトゥ=オルロックではない。
当たり前のように、街の平和のためなら生贄にエレンを捧げるしかないと結論付けて、あまり逡巡したり苦悶したりする様子もなく、「オルロックにエレンを抱かせる」NTRつつもたせ計画を実行に移す、教授と医者のコンビのほうが、よほど怖い。
要するに、「正義」もまた「悪」の一形態にすぎないってことなんだろうなあ。
●ノスフェラトゥが支配しているシーンのみがモノクロ、それ以外のシーンが彩度を極端に抑えたカラーというのは、よく考えられた象徴的な演出だ。総じて美術や撮影のすみずみにまで監督の美意識が張り巡らされていて、ゴチック的な映像美を存分に堪能できる。
また、影を用いたドイツ表現主義的な演出は、旧作への限りない愛慕を込めたオマージュとしてしっかり機能していた。
決して怖くもなければ見やすい映画でもないとはいえ、少なくともとても美しい映画ではあったと思う。
素晴らしい世界観なのに凡庸
取捨選択せずに撮りたいものを撮ったという感じだが、やっぱりちょっと長いよねえ
2025.5.20 字幕 TOHOシネマズ二条
2024年のアメリカ&チェコ合作の映画(133分、PG12)
ヘンリック・ガーデン監督の映画『吸血鬼ノスフェラトゥ』のリメイク
原作はブラム・ストカー『吸血鬼ドラキュラ』
超常的な存在と繋がった女性の運命を描くホラー映画
監督&脚本はロバート・エガーズ
原題の『Nosferatu』はドイツ語で「吸血鬼」という意味
物語の舞台は、1830年代のドイツ
超常的な存在に助けを求めるエレン(リリー=ローズ・デップ)は、祈りを捧げたのちにノスフェラトゥ(声:ビル・スカルスガルド)と通じ、約束を交わすことになった
それから数年後の1838年、エレンはトーマス(ニコラス・ホルト)と結婚し、幸せな日々を過ごしていた
金銭的に裕福ではないトーマスは、友人で造船業を営んでいるフリードリヒ(アーロン・テイラー=ジョンソン)にお金を借りていたが、勤めている不動産業も徐々に慣れ、近い将来には借金を返そうと考えていた
トーマスはクノック(サイモン・マクバーニー)の経営する不動産屋で雇われていて、遅刻癖から先輩たちからは呆れられていた
ある日のこと、クノックからポーランドに住むオルロック伯爵(ビル・スカルスガルド)からヴィスブルクにあるグリューネヴァルト荘園の購入の打診があったと告げられる
伯爵は都合によりこちらに来ることができず、そこで彼の邸宅に言って契約を取り交わしてこいと言われる
往復路を含めて一週間程度はかかるとされていて、そこでトーマスはエレンをフリードリヒの家に預けて、伯爵の元へと向かうことになったのである
映画は、トーマスと伯爵のパートと、エレンのパートが行ったり来たりする内容で、時系列はいじっていないので混乱はしない
ただし、終始画面が暗く、室内のシーンがほとんどなので、かなり眼精疲労がきつい内容となっていた
ホラー的なシーンはジャンプスケアが何度かあるぐらいで、心理的な怖さとか、見た目のグロさはそこまで感じない
伯爵のところに向かうまで、到着してからの顛末、そこから伯爵が海を渡るという一連のシーンと、トーマスが伯爵のところから逃げ出して教会で助けられるところとか、エレンサイドで夢遊病が悪化していく様子が事細かに描かれていく
なので、133分という少し長めの映画になっていて、体感時間的にはもう少し長いように思えた
流石に有名すぎる話で、海のシーンだけで一本の映画になる作品なので、全部入れ込むのはちょっと無理があると思う
距離のことを考えると、1週間で往復は無理だと思うのだが、当時の設定そのままなので突っ込んでも野暮なのだろう
伯爵が海を渡って来る距離も相当で、黒海から地中海を抜けて大西洋を北進することになるのだが、それだけでも結構かかるよねとか考えてはいけないのかな、と感じた
吸血鬼という存在に懐疑的なフリードリヒは流行病だと断定するし、その論説を唱えるフォン・フランツ(ウィレム・デフォー)との間に立たされるジーファース医師(ラルフ・アイネソン)も大変だっただろうなあと思う
普通の治療をしてもうまくいかず、かと言って超常的な事象を鵜呑みにも出来ないので、結果として対処療法になってしまう
医師が超常的な現象だと理解するのが、いつの間にか(契約書のサインの時かな)忠実な僕になっていたクノックの存在認知であり、同じようなことを色んな人から言われると信じてしまうレベルなのは致し方ないところだろうか
ジプシーとか、宿屋の主人の義母とか、ロマの老女とか、ややこしそうな人たちが意味深な言葉をトーマスにぶつけていくのも面白いのだが、それぞれがドラキュラというものをどのように認知しているのかの違いだった
伝聞と目視で言えば伝聞の類だと思うので、そう言ったものを信じるのはスピリチュアルな能力の賜物なのだろう
冒頭でエレンは伯爵と交信をしているのもその典型的なシーンで、電波系をいかにして現実に落とし込むのかと命題があったが、さすがちょっと苦しいところが多いなあと感じた
いずれにせよ、もう少しコンパクトにまとめて欲しい作品で、エレンの祈りから始まるなら、エレンのパートを主軸にした方が良かったと思う
映画は、エレンの待ち人パートとトーマスのロードムービーが重なっているので、視点が移動しまくって忙しい
それでいて、それぞれのシーンはこだわりがあって撮られているので、ある意味テンポを犠牲にしてでもきちんと描くという趣旨があるのだと思う
なので、これまでのドラキュラ映画で物足りなかった人向けのマニア映画だと思うので、あんまり一般層には響かないのかな、と思った
愛の犠牲が悪を滅ぼす
『F・W・ムルナウ』の〔吸血鬼ノスフェラトゥ(1922年)〕のリメイク。
同作には『ヴェルナー・ヘルツォーク』による1979年のリメイク版があり、
自分はこれを「東京ドイツ文化センター」で1983年に観ている。
「ヴェルナー・ヘルツォーク回顧展」だが、
主演の『クラウス・キンスキー』のあまりのはまり役に加え、
ヒロインは撮影当時24歳の『イザベル・アジャーニ』。
息を飲むほどの美しさを観たい故だろう、
同イベントでは、他作品よりも真っ先にチケットが売り切れていた記憶。
直近の
やたら血しぶきが飛び散る{スプラッター}や
ありえない場所からモンスターや殺人鬼が出て来る
鬼面人を驚かす{ホラー}とは
かなり毛色の異なる{ゴシックホラー}。
原典のストーリーや雰囲気を忠実になぞることで、
懐かしくも恐ろしい気配に満ちた一本に仕上げている。
とりわけ影を使った演出が秀逸。
カーテンに「ノスフェラトゥ」の影は映っても、
風で翻った場所に実体はいない。
精神的にちりちりとした恐怖に
身が縮む感覚。
とは言え、そもそもの設定に新しさが無いことへの不満はある。
合理的な考え方で神秘を認めようとしない
『フリードリヒ(アーロン・テイラー=ジョンソン)』の存在くらいか。
〔ドラキュラ(1979年)〕での伯爵は、
陽が当たらない場所なら昼間でも平気で行動し、
信心を持たぬ者が持つ十字架など、
反対に燃やしてしまう強靭さが新機軸。
どうやって対峙するのだろうとの期待が
今までにないサスペンスを生んだ。
翻って本作での魔物は
オールドスタイルの「ノスフェラトゥ」。
退治の方法は分かり易い。
なので、カテゴリーらしい、
美醜やロマンスと怪奇をどのように盛り込むかがミソ。
チェコでロケされたと聞く、寒々しく陰鬱な景色。
1800年代半ばのドイツの街の猥雑な喧噪。
伯爵が住む、荘厳ではあるものの
廃墟のような城の佇まい。
モノクロに近い色味ながら
何れも美しい。
聖女の献身を見せる『エレン』。
最後は欲に溺れ、自分を見失ってしまう『オルロック伯爵』。
共に孤独な故に結び付いた関係性は
忌まわしくも悲しい。
とりわけ、後者で尊大さや孤高の中に、
寂寥を感じさせた『ビル・スカルスガルド』の演技は特筆もの。
前者の『リリー=ローズ・デップ』も
白眼を剥き、四肢を震わせ麻痺をする力演は遜色なし。
が、ヒロインの美しさの面では
どうしても先作の『イザベル・アジャーニ』と引き比べてしまう。
勿論、記憶が美化をしているかもだが。
映像の美しさしか良い所が...
パンフレットより抜粋↓
「ロバート・エガース監督は、当時の建物や衣装など細部まで“本物”にこだわり抜き、そのリアルさは第97回アカデミー賞®で撮影賞、美術賞、衣装デザイン賞、メイクアップ&ヘアスタイリング賞の4部門にノミネートされた。」
上記触れ込み通り、衣装や調度品、建築などのアイテムが本当に素敵で、
映像の迫力と美しさが際立っていた。
ただ、自分が見いだせた良い所はそれくらいだった。。
まず、ジャンプスケアって言うのかな?
怖い顔とともに爆音「ドーン!!」でびっくりさせるシーンが結構多くてうんざり。
鑑賞することにエネルギーを使わされた割には、
ストーリーの盛り上がりどころが分かりづらく、
ヒステリックなヒロイン(ノスフェラトゥ憑依時ではなく素の状態込みで)にも共感しづらいので、
鑑賞後に得るものがスカスカという印象。
アイテムと映像の美しさで大きく加点して、☆3という感じ。
あの方が来る
1838年ドイツにて、伯爵からの依頼との命を受け廃墟となった古城を訪れた不動産業者の男が、不穏な事態に巻き込まれる話。
若い女性と怪しい存在のプロローグに始まり数年後、新婚の妻エレンが悪夢を理由に引き止める中、夫トーマスがオルロック城へ出かけて巻き起こっていくストーリー。
道中の宿でもフリがある中、どう見ても怪しい閣下と対峙し思うツボ…そして妻の方も…。
登場人物みんな人の話しを遮って茶々入れて、引っ張ったり引っ掻き回したりするし、ノスフェラトゥ本人のみならず、あっちこっちで煽りに煽るし理屈もわからずある意味何でもありで中々本筋部分が進まず飽きてくる。
ノスフェラトゥと対峙するために何かイベントや試練がある訳でもなく、最初からちゃんと話ししてその通りにすれば終わるってことですかね?なんて思っていたら、特に何かした感じもないのにキッケレキー。
で、なんでエレンも?
こういうダークファンタジー系が好きな人にはハマるのかも知れないけれど、自分には冗長だった。
雰囲気は抜群にいいのに…
ホラーは苦手なのですが、予告の雰囲気に惹かれ、ゴシックホラーなら多少マイルドな描写なのではないかと思い、公開初日に鑑賞してきました。
ストーリーは、不動産業者トーマス・ハッターが、老朽化した城の売却をしたいという大口契約のため、遠方に暮らすオルロック伯爵のもとに商談に向かい、そこで恐ろしい目に遭う一方、残された妻エレンは不安から夫の友人宅で過ごしていたが、彼女もまた悪夢にうなされるようになるというもの。
ホラーではありますが、とりあえず思ったほど怖くなくてホッとしました。冒頭のジャンプスケアがいちばん怖かったかもしれません。ゴシックホラーとしても、雰囲気たっぷりの演出やエレンの妖しく美しい魅力が花を添えています。中でも、影の演出が印象的で、カーテンに映る実体のない影、街を飲み込むように伸びていく影など、登場人物や観客の心のざわつきを情景描写で巧みに演出しています。
こんな感じで雰囲気は抜群にいいのに、残念ながらストーリーにはいまひとつ惹きつけられません。終始絵面が暗いのは物語の性質上しかたないのですが、誰が何をしているのかがよくわからず、夢と幻覚と現実の境界線も曖昧で、少々わかりにくかったです。加えて、抽象的で説明的なセリフの多さに撃沈してしまいました。
仕事帰りに「ガール・ウィズ・ニードル」に続けてのハシゴ鑑賞であったため、集中力が持続しなかったせいもありますが、イマイチ乗れなかったのは残念です。機会があれば、きちんと覚醒しているときに改めて観たいと思います。
キャストは、ビル・スカルスガルド、ニコラス・ホルト、リリー=ローズ・デップ、アーロン・テイラー=ジョンソン、エマ・コリン、ウィレム・デフォーら。
古典のリメイクとしては上出来だが、オカルトホラーとしては物足りない
モノクロとカラーの画面を巧みに切り替えることによって作り出された陰影に富んだ映像と、怪奇映画らしい幻想的でオドロオドロしい雰囲気は存分に楽しめる。
ただし、堪能できるのは「雰囲気」だけで、まったくと言っていいほど「恐怖」を感じることができなかったのは、オカルトホラーとして致命的だろう。
そもそも、グロテスクな老人然としているノスフェラトゥには、女性を惑わす「魔人」としての魅力がないし、悪夢を見させたり、催眠術のような能力で人を操ったり、ネズミを使ってペストを流行らせたりするだけで、どうやってもコイツは倒せないと思わせるような手ごわさが感じられないのは、物足りないとしか言いようがない。
結局、ヒロインが、自ら進んでノスフェラトゥを受け入れなければならなかったのであれば、彼女の夫が、遠路はるばる契約を結びに行く必要はなかったのではないかとも思えてしまう。
ヒロインが、自己を犠牲にしてノスフェラトゥを滅ぼすラストにしても、元々、ノスフェラトゥを長い眠りから呼び覚ましたのは彼女だし、自分で蒔いた種を、自分で刈り取っただけなので、それほど評価されることのようにも思えない。
何よりも気の毒なのは、主人公の夫婦を献身的に支えてくれた友人の夫婦とその子供たちで、一家4人が全滅の憂き目に遭うというのは、余りにも救いがないし、その必要性はあったのだろうかという疑問も残る。
古典を現代に蘇らせることには、それなりの意義があるのだろうが、その上で、現代の観客を満足させることの「限界」のようなものも感じてしまった一作であった。
邪悪な吸血鬼が淫靡な世界に誘う・・・
いつもの悪い癖が出て冒頭部分を見逃してしまったため、解釈に誤りがあるかもしれませんがご了承願います。
さて本作品ですが、吸血鬼と言うとドラキュラ伯爵が頭に浮かび、紳士的なイメージがあるのですが、「ノスフェラトゥ」は、まさにモンスターでした。
ブラム・ストーカーの小説「吸血鬼ドラキュラ」を非公式に映画化した「吸血鬼ノスフェラトゥ」のリメイクということで、やっぱりちょっと趣が違うんですかね。
なにしろ生々しいと言う印象を強く感じます。
ゴシック調の雰囲気を漂わせつつも、起こる出来事はリアルで、凄惨な表現が多かったです。
【ネタバレ含みます】
容姿からしてモンスターっぽいノスフェラトゥは、邪悪な悪魔、ケモノ的な荒々しい強さを魅せつけます。
そんな事もあってか、襲われる女性もやたら艶っぽい。
ドラキュラは処女の血を好むとか、聞いた覚えがありますが、本作では人妻を略奪するようなエロっぽさがあります。
元となった「吸血鬼ノスフェラトゥ」もこんな感じだったのかな?明らかにドラキュラ伯爵とは異なりますね。
基本的な設定は変わりないみたいなんですが(先日見たデミトリ号っぽい話も盛り込まれてました)、ラストも生々しかった。
日光に当たって灰になるかと思ったら、生々しい死体がそこにありました。一晩中、ノスフェラトゥを留めるためにその身を捧げる人妻。一緒に死んじゃうなんて、え〜〜〜っ!
想像以上に楽しませてもらった一本です。ドラキュラとは違う吸血鬼映画にワクワクしちゃいました。
物語に盛り上がりも盛り下がりも無い
余り期待しないで観たが、、、正直配信かレンタルで良いであろう…。(あるいは観なくても…。)
ホラー映画(ホラーなんだよね⁈あんまり怖くはなかったんだけどイヤ全然怖く無かった)なので致し方無いが終始画面が暗く解りづらい。。 映画館でこれなので家の画面で見たらたぶん暗過ぎて訳が分からないと思う。
最初から主人公(エレン)の精神状態について行けないので感情移入出来ないまま物語りは進む。
衣装やセット・美術は良かったが、ストーリーに盛り上がりも盛り下がりも無く、この作品を撮った意図や意義を全く感じられずに終わる。特にラストシーンの終わり方が解らない…なぜ日が登るまでエレンの血を吸い続けたのであろうか⁈それがエレンの魔力であったからなのであろうか⁈もしや二人は愛し合っていたからなのであろうか⁈全く解らない…。致命的なのは、もっと"エロス"を表現すれば良かったもののそれも中途半端であったし、と言うか「エロチックにしてますよ」と独りよがりの映像となっていて肝心な"エロス"がこちら側に伝わって来ない。
この消化不良状態を何処に持って行けばよいのだろうか…⁉︎
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