岸辺露伴は動かない 懺悔室のレビュー・感想・評価
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原作からの続きを補完できるとは。
原作は全て拝読。
ドラマ全て拝見。
原作で初めて拝見したのがこの『懺悔室』、
本来、身代わりさんが亡くなって呪いが
続くまでが本編でした。
それ以降が描かれるとあり楽しみ半分、
不安半分でしたが個人的にキャラクターや
ストーリーの流れもよく楽しめました。
岸辺露伴じゃなかったらもしかしたら
物足りなさはあったかもしれませんが、
それぞれの俳優陣、スタッフさんの
荒木作品の愛情が感じられて
拝見していて楽しかったです。
ルーヴルへ行くより懺悔室が好みです、
マリエ君の魅力もいつも通り物語へ
しっかり影響してます。
田宮は
原作では哀れな呪われし者と言う印象
でしたが、今回井浦新さんの怪演で
呪いの影響か本質がサイコパスなのか
裏にある気持ち悪さも垣間見えて
魅力的なキャラクターになってましたね。
所々の台詞いいまわしがほどよくて
ジョジョ愛を感じて好印象でした。
難点をいえは呪いの影響のルールが
わかりにくいので岸辺露伴を特に好き
じゃない方が見たときに
微妙な反応になるかもしれません。
あくまで死んだ者たちの呪い。
というだけで、ものすごく綿密な
ルール化されたものがないので
私はあまり気にせず楽しめましたが
人によるのかな、と。
あそこまで行くともう田宮の
スタンド能力じゃないかなと
勘繰ってしまいます。
私に絶望と敗北と呪いをプレゼントして‼️❓不運はいらんけど‼️❓
ストーリーと脚本はかなりのポンコツだけど、夫婦共演と井浦新の怪演は見応えがある、ホームレス役のミスター残念もなりきりですごい、井浦新の整形前の役者は小栗旬のモノマネ芸人かと勘違いした。逆恨みに近い呪いは漫画なら面白いが、映画のパターンだとしらけるかな、生きてる人の呪いだと怖いが。ところで昔、受験の前日のおみくじが大凶でしたが、実力でいけると思い気にならなかった、主人公と同じ思い、好運なんて要らない。でも、逆走の車とかに出会う不運は要らない。関係無いけど、夫婦共演といえば、岡田将生、高畑充希夫婦と、松坂桃李、戸田恵梨香夫婦のダブル夫婦共演が見たいな、ダブル不倫のクロスカウンターみたいな映画が観たいな。話は逸れたが、それなりにまとまりがあり、演技も見応えがある、暇ならどうぞ。
やはり映画は物語を紡いでこそ
ヴェネツィアにじっとりと蠢いている「異端さ」
※5/12のジャパンプレミアにて初見。
※今後数回鑑賞予定なので、完全版レビューを公開します。
取り急ぎ、初見時に強く印象に残った点について。
◯画の美しさ
オールヴェネツィアロケ、とは予告や宣伝で沢山聞いていたけれど、映画を観てその意味がちゃんとわかってなかったな…と思うくらいに凄かった。
とにかく、どのシーンを切り取っても、画の美しさが格別に違う。
言葉にうまくできない。もうそこに佇み、存在しているだけで美しい。
スクリーンを介して、暴力的なくらいにその美しさで圧倒してくるし、無言のうちに雄弁に都市って語るのだなと初めて感じた。
また、都市の風景に関わらず、特に美しいと思ったシーンは…
・懺悔室での懺悔の核心部分を聞いてしまった後の露伴
まなざしはフレームアウトし、口元のみが大映しになるショット、最早美しさ端正な顔の輪郭すら怖すぎると感じて、ゾクゾクしてしまうくらいだったなんと美しいことか…
・ラストシーン。言うこと無いですね。
一生さんも舞台挨拶でこのシーンについて言及していたくらいには、貴重な一瞬の空の移ろい、海の輝きを閉じ込めたようだった。
個人的には、『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』の時の、パリパートのラスト(ルーヴル前で露伴と泉の会話、曇り空が映るシーン)をヴェネツィア版にするとこうなります!という感じかなと思ったり。
パリとヴェネツィアの都市性の違い、みたいなことも感じたので、今後掘り下げていきたいかも。
◯脚本、原作からの追加パート
原作パートを本当に前半1時間でテンポよく描ききり、後半1時間をオリジナルで更に展開した点について、
原作がドラマサイズくらいなので、どんな感じになるのかなと思っていたところ、
原作では名前も出て来なかった娘=マリアを膨らせることで、更に「呪いの連鎖」の構図になっていて、構成の更なる深み・面白さを感じた。
さすが靖子にゃん(脚本の小林靖子先生)と思わずにはいられなかった。
◯井浦新さんが凄い
本当に凄かった。キャストの皆さんとても良かったし、ファンとしては一生さんやっぱり凄い露伴先生はこの人だけだよ…とは思っているが、今回のMVPは間違いなく井浦新さん。
とにかく、「井浦新に背負わせたい業・難役」をてんこ盛りにしていたし、
舞台挨拶からも田宮の芝居からも、井浦さんご本人が原作ファンとしての気合いで満ち満ちていて圧倒されたし、
何より、人間の持つ様々なしんどさ・どうしようもなさ・みっともなさ・残酷さ等、人間の負の部分(という表現は適切で無い気がしますが、適切な表現がわからない…)の見本市みたいなことをお一人でやられていて、芝居のパターンの幅広さに本当に感動した。
◯音楽
こちらについては2点。
・少しニッチな話ではあるが、田宮の懺悔が佳境に入った時、テレビシリーズの『六壁坂』でやはり佳境のシーンで使われていた『愛のテーマ』という楽曲が使われている。
私が本シリーズのサウンドトラックで最も好きな楽曲なので、映画館で本当に驚いたし、菊地成孔さん!新音楽制作工房さん!ありがとう!!!という気持ちでいっぱいである。
それでは、何故この曲が再度"引用"されたのかと考えると、単純な考えではあるがやはり両エピソードとも親から子への呪いの連鎖の物語であり、「血脈」の濃さ・怖さ・断ち切れなさを描く象徴的なエピソードという相似が見られるからではないだろうか。
・お馴染み『大空位時代』は、テレビシリーズから『ルーヴル』でスケールアップしていたので、今回は更に変化があるのか?どうなるのか?と気になっていたら、きちんとヴェネツィアバージョンになっていた。街全体に響き渡る印象的な鐘、そして呪いの瞬間に打ち鳴らされる鐘が加わっていた。
この鐘の音色は幸福がもたらす祝福なのか、絶望へのカウントダウンなのか、どちらにも捉えられるようで印象的だった。
◯岸辺露伴は「血脈」の物語なのか?
これに関しては、ジョジョファンの方はきっとお詳しいと思う(私は露伴シリーズのみ原作を読んでいて、ジョジョ全体は読んでいないため)ので、私が言及しきれないところも感じてはいるが…
少なくとも岸辺露伴シリーズ全体を貫く軸なんだろうなということを、改めて強く感じた。
『ルーヴル』のレビュー(プロフィールよりブログにて完全版アリ)でも言及したが、『ルーヴル』は黒い絵を巡る血脈の呪いの物語で、それが最後に映画オリジナルパートである岸辺家(露伴と奈々瀬)の血脈の物語に帰結する。
また、先ほど音楽で触れた『六壁坂』も奇妙な「子孫だけを残す妖怪」のエピソードである。血脈の象徴である子孫を(しかも本人は不在であるというのに)残すことで、相手にいつまでも「忘れさせない」という永遠の束縛を果たす物語だと私は捉えている。
以上の点からもやはりこのシリーズは、血の繋がりが齎すものの光と闇について、形や場所を変えながら変奏し続け考え続けさせるような作品のように思えてならない。
※いろいろ書きましたが、当方高橋一生さんのファンです。今回も抜群にビジュアル良し、芝居良しなので、とにかくスクリーンで!ご覧ください!!!
劇場鑑賞おすすめです!
うーん蛇足多し
役者の顔より絵作り
画面の奥に佇む岸辺露伴やその露伴の前に壁や草花を添えて撮る「なめ」の映像で幕開けする本作。
露伴演じる高橋さんの顔が映る5カット目ですら、植物越しに撮影して顔をまともに映そうとはしていません。
勿論、斜めに傾いたアングル、極端なローアングル、被写体が影となってしまう逆光撮影など「役者の顔が潰れようともお構いなし」と言わんばかりの映像が次々に映し出されていきます。
絵作りに拘った映像の数々がスクリーン一杯に広がってました。
鑑賞前、オーバーツーリズムで問題を抱えているヴェネツィアで全編ロケをすると聞いた時は「絵作り」に期待できそうもないと諦めていましたが、大いなる誤解でした。
人気のない街での撮影まで成功させており、ヴェネツィアを舞台にしながらも、異空間で撮影したかの様な雰囲気まで漂わせておりました。
前作同様、作品自体を観て楽しむものと割り切れると良品となる代物はありますが、物語のテンポはこれまた全編同様に誉められたものではなく、ちょっと間を取り過ぎている感じが否めない作品になってもいます。
その点に、「もう少し短くても良いのでは」と感じてしまう人が出てくる気もします。
それから、通訳なしで会話を成立させてしまう飯豊さんにも不満を抱く人がでちゃいそうですが、ラストでの高橋さんとの会話で「会話できたのはまぐれ」とも取れる話に待っていたのは強引ではありますが巧い処理だったと思います。
何より、飯豊さんが放つ「ノーテンキ・キャラ」の雰囲気が何でもありに変えてしまうのが1番の強味かもしれませんね。
かっこいい高橋さんとのバランスが絶妙ですし、今後もシリーズ化して欲しいものです。
ロケーションの映像美と寓話性が魅力的
幸せとは、ふと訪れる安堵が充満した感情のことだと思った
2025.5.23 一部字幕 イオンシネマ久御山
2025年の日本映画(111分、 G)
原作は荒木飛呂彦の同名漫画
ヴェネツィアにてある男の告白を受けた露伴を描くミステリー映画
監督は渡辺一貴
脚本は小林靖子
物語の舞台は、イタリアのヴェネツィア
交際文化交流のためにイタリアを訪れた岸辺露伴(高橋一生)は、予定を前倒しにして、ヴェネツィアを訪れていた
次作のための取材を兼ねてヴェネツィアを散策していた露伴は、そこで自身のファンを名乗るスリ(Nicò Sordo & Moreno Corà)に絡まれてしまう
盗難を無事に交わした露伴は、二人を能力にかけ、彼らの記憶を読み取っていく
そこには、マスクについて描かれたページがあり、彼らが持っていたものが盗難品であることがわかった
その後、露伴が散歩を続けていると、本物の仮面を売っている店を見つけた
中に入ると、そこには若い仮面職人のマリア(玉城ティナ)がいて、盗まれた仮面を返すことになった
一方その頃、イタリアで合流するはずだった編集者の泉京香(飯豊まりえ)は、予定の会場にて、主催者のロレンツォ(アンドレア・ベッラチッコ)と打ち合わせに入っていた
露伴がヴェネツィアにいると聞いて怒り出した京香は、その足で露伴を置くことになったのである
映画は、その後散策を続けていた露伴が、ある教会の中にある懺悔室に足を踏み入れる様子が描かれていく
その部屋が懺悔室と知らなかった露伴だったが、仕切り越しに座っていた男(井浦新)は、露伴を神父だと思い込んで告解を初めてしまう
男の名は水尾と言い、彼はかつて旅行でこの地を訪れていたが、窃盗に遭って、現地で働かざるを得なかったと言う
そして、そこでソトバ(戸次重幸)と言う浮浪者に遭遇し、食べ物を恵んでほしいと言われてしまう
水尾の言葉を受けた浮浪者は荷物運びをするものの、よろけて階段下へと転落死してしまう
そして浮浪者は、水尾に対して「幸せの絶頂の瞬間に、お前を絶望に落としてやる」と言う呪いをかけた
それ以降、浮浪者の怨念は水尾を陰で支えながら、彼が幸福の絶頂に至る瞬間を待ち望んでいくのである
映画では、告白する男はマスク姿であり、露伴の再現映像は別の人物にて再現されていた
実のところ、水尾は浮浪者の呪いから逃れるためにあるシナリオを描いていて、その際に起こったことを後悔していた
懺悔室で語られるのは、呪いを回避するために代役を立てたことだったが、浮浪者はそれを看過していた
姿も名前も変えた水尾は田宮と名乗り、次々と成功を収めていく
そして、娘(マリア・M)を授かり、幸せの絶頂を迎えてしまう
物語は、その娘が成長し、仮面職人のマリアとなっていることが暴露され、彼女にはロレンツォと言う婚約者がいることが判明する
そして、その結婚が実の父親の手によって失敗へと導かれようとしていたのだが、そこで露伴の能力が役に立っていく
露伴は、独自に結婚を阻もうとする輩を特定し、ヘヴンズ・ドアの能力にて、そうならないように書き込んでいた
それらが結実するのがラストの教会での顛末であり、物語は幕を下ろすのである
本作では、オペラの「リゴレット」が引用され、劇中でもそれを演じるシーンが登場する
ものすごく有名なオペラなので知っている人もいると思うが、それを知っていたらラストのネタバレは読めてしまったりする
かと言って「リゴレット何?」では厳しいと思うので、気になる人は「結末部分」だけ指で隠して、起承ぐらいまで読めば良いのではないだろうか
いずれにせよ、全編ヴェネツィアロケが行われていて、多くのイタリア人俳優たちが参加している
基本的に短編にオリジナル要素を加味してボリュームアップしているのだが、個人的にはそこまで改悪とは思えなかった
それよりも、高橋一生演じる露伴を受け入れられるかが鍵となっていて、やっぱり実写でやると変だよなあと思ってしまう
個人的に好きなのは、露伴と京香のズレた掛け合いなのだが、それがあまり多くなかったのは残念だったなあ、と思った
ベネチアの映像美と世界観
原作に対する冒涜
残念の一言に尽きる。
ベネツィアは美しい。構図もいい。役者の演技もいい。ロレンツォの愛嬌のあるキャラクターは癒しだった。脚本に若干の破綻はあったがそれをカバーして有り余る。だというのに、生成AIで出力した音楽を使ってしまった。魅力的なBGMならまだ多少マシな出来になったことだろうが、不協和音寸前な上に耳に残るものが何一つない。生成AIだと知らない状態で聞いてもだ。最悪である。
公開初日と舞台挨拶回の2回鑑賞し、音楽は微妙だったが今回も良い出来栄えだと思っていたところに全て生成AI作曲だと知り、パンフレットを見ながら反芻して楽しもうと思っていたものは全て吹き飛んだ。音楽に関しては素人なので違和感があるのは好みの問題だろうと思っていたのに、生成AIだったとは。まさか原作者の荒木飛呂彦氏が生成AIに懐疑的どころか全面的に否定の姿勢なのを知らなかったのだろうか。よりによって荒木飛呂彦の、よりによって岸辺露伴の作品に生成AIを全面的に使うとは失望もいいところだ。
作中で岸辺露伴は幸運に襲われ出版部数がどんどん伸びていくのだが、喜ぶどころか「ここまでナメられたのは初めてだッ」と憤りを見せた。更に冒頭では「芸術と言ったか?」と自分の漫画を芸術と称されたことに腹を立てている。岸辺露伴にとって漫画は読者に読ませる漫画であり鑑賞する芸術などではなく、そしてそれは運などには頼らず自分の手で生み出すものなのだ。そこまで描いておきながら生成AI作曲である。パンフレットのインタビューでも菊池氏本人が「なるべく内容は知らず、情報は最小限に抑えて、そこから使用できそうな楽曲を選び、渡辺監督にお渡ししました」「私自身は一切作曲を行っていません」と明言しているが、こんなものは岸辺露伴というキャラクターへの侮辱に他ならない。ツギハギの音をそれっぽく繋いだものが出力されるのを運に任せていただけなのだから。そもそも映画音楽とは観客の没入感を支えるもの。それがノイズとして浮いてしまっている時点で致命的なのである。「細かいイメージを伝えなくてもある程度の状態のものは生成されますし、むしろある程度のミスマッチ感はあった方がいいんです(引用:パンフレットインタビュー記事)」と語った音楽担当は一体どういうつもりで映画音楽に手を出したのだろうか。
一応音楽担当のXアカウントを確認したが、支離滅裂かつ品のない煽りを繰り返しており、一見すると社会人のアカウントではない。原作へのリスペクトは窺えなかった。至極残念である。
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