「「後戻り」することは〝先に進む〟こと」8番出口 ユートさんの映画レビュー(感想・評価)
「後戻り」することは〝先に進む〟こと
書きながら考えたいと想う。
俺は最近、「後戻り」することは、とても大事なことなのではないか、と考えた。
というのは、「後戻り」の中に「駄」があると想ったからだ。
「駄」とは何か。
駄菓子、の駄であり、駄々の駄であり、駄目の駄であり、その他様々な「駄」である。
俺は、この「駄」が近頃、人々の生活の中で、意識しなければ、手に入らないものになってしまったように想う。
それはコンピューター社会だったり、グローバルなインターネットやAI、それからアルゴリズム等、人々の生活は常に「新(あたらしい)」ということで更新され続けている。
よって人々の手に入れる日常の中では、「新(あたらしい)」ということに左右され続け、追い求める人々も意識的にも無意識的にも、そうしたことの流れに乗ることが、今の生き方の維持に繋がると思っているように想う。
こうしたことから、「後戻り」することは日常から特別〝無い〟行為なのではないだろうか。
けれども、そうした「後戻り」すること無しに、人は優しさだったり、情緒だったり、そうしたものを、ゆとりを持って大切に出来るのだろうか。
〝異変〟に気づいたら来た道を戻ること。
映画「8番出口」のルールはシンプルだ。
およそ一通路の中で〝異変〟が無ければ前に進み、〝異変〟があったら来た道を戻ること。
この作品の元となったゲームは知っていたが、映画化にあたり不思議と「8番出口」内部の意思のようなものを感じた。
それはタルコフスキーが監督した「惑星ソラリス」を彷彿ともさせる。
まるで迷わせながら、主人公に何かの意志を伝えようとしているのか、または地獄、煉獄へ誘おうとしているのか、謎めいたものの胎内にいるかのようだ。
では〝異変〟とは何だったのだろう。
子供が現れる。
子供も初めは〝異変〟と捉えられる。
それは俺の言葉で言えば「駄」ということと重なる。
けれども、子供は次から次に〝異変〟に気づく。
その〝異変〟に気付けない大人は間違いに飲まれる。
そう考えれば、この主人公は〝異変〟を受け入れる存在になることが、物語として示されている。
日々更新される「新(あたらしい)」ことの中で、効率を重んじるだけではなく、その中で〝異変〟を受け入れて、「後戻り」すること。
それは決して〝前に進まなかった〟ことでは無い。
そのことが〝前に進む〟ことに繋がるということを、想う。
「8番出口」は考えながら、感想を書きたいと想った。
そうしたことが自分が先に進める何かになれば良いなと想う。
