陪審員2番のレビュー・感想・評価
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配信あるだけ御の字。
クリント・イーストウッド。
監督としては、1992年の「許されざる者」から2016年の「ハドソン川の奇跡」まではまさしく黄金期で、オレ個人としては、「アメリカン・スナイパー」(’15)のようにあまり好きではない作品があるにはあるが、素晴らしい作品ばかり。
ただし
前作「クライ・マッチョ」('21)という、あきれるほどの駄作を放ってしまったことで晩節を汚すことになってしまうのではと。スライの名作「オーバー・ザ・トップ」(’87)、そして蛇足の「ランボー ラスト・ブラッド」(’20)を彷彿させるが、それすらよく見えるほど。
もともとイーストウッドはそれほど政治的なテーマを全面に描き、自らの答えを出すほうではないが、少年がアメリカ人の父とメキシコ人の母の子だという設定が全然活きていないなど、「クライ・マッチョ」は言うなれば、商業作品としても「自覚」の足らない作品だった。
最新作は、アメリカでほんの一部の限定公開の末、配信に移り、日本では配信のみ、ということ。この流れで本作の「価値」はある程度想像はできる。
「陪審員2番」
・
・
・
そりゃそうだ。
とにかく、プロットだけで進み、イーストウッドの、「いつもの結末」で終わる。絵的な驚きがないのはいつものことで、よく言われる彼の「手堅い演出」というのは、現場や役者陣の力量に依存している、とさえ思うほど目を見張るものがない。
そもそも論として、現代ではこの状況はほぼほぼあり得ないのだが、その「雑さ」を百歩譲ってみたとしても、真実と正義は必ずも一致しない、とは凡百の法廷サスペンスでも見かけるテーマ。
この映画で語るべき、最も確かな「正義」はある。
主人公側でいうなれば、飲酒運転をしないこと。精神的に不安定な時に、車を運転しないこと。土砂降りの中、わき目を振らずゆっくり運転すること。容疑者側でいうなれば、パートナーと公の場で喧嘩しないこと、土砂降りの中、パートナーを一人で帰らせないこと。(これは容疑者が最大の後悔といってたが、まさにその通り。)
良心の呵責と保身とか以前に「確固たる正義」を描けよと。つまりこれはイーストウッド自身の「自覚」にかかわる部分とも思えるほど、そこは一切触れていない。
作品がそうなのだから、実はイーストウッド自身もそうなんじゃないか、と見えてしまうわけだ。もちろん、その人となりについては、作品の評価とは関係はない。だが、名前でありがたがる人もいるわけで、「イーストウッド」の名前で目くらましを食らう。
イーストウッドは、後年しばらく「一般アメリカン人の正義、勇気」をいろいろな形で描いてきたわけで、本作の主人公もいわば「一般アメリカ人」。イーストウッド自身こそがその主人公(そして容疑者も)であったとするならば、と観ると、自身のやんちゃな人生の「自覚」や「自省」はあるのかもしれないが。
ワーナーはそれはもう「正しい」処置をしたと思う。
追記
コレット演じる検事もよくある役どころで、いつもの、最後に揺れる検事役。
サザーランドの役もひどいもの。シモンズもあり得ないキャラクター設定。
追記2
と同時に、主人公のニコラス・ホルトは頑張ってはいるが、この顔をみると、本作30年前のクルーズだったら、と思ったりしたのだが、意外とクルーズを意識した演技に見えた。
シビアな展開で描く人間の良心の脆さ
良心と保身の相克、偏見、人が人を裁くことの難しさ、そんな重い問いかけを孕んだ作品だが、イーストウッドは決して話をまとめるため、あるいは観客をひとつの結論に導くために美辞麗句を弄したりしない。
物語の終わらせ方は作り手の腕の見せどころのひとつだが、本作ではイーストウッドのセンスが炸裂している。彼が投げたボールにこちらの体が思わず反応する瞬間に終わる、そして複雑な余韻が尾を引く。
妊婦の妻を持つ主人公のジャスティンは、陪審員に召集され裁判に出席する。それはバーでの諍いの末夜道でパートナーを殺したとされる男性を裁くものだったが、詳細を聞くにつれ、その女性をひき逃げによって殺したのは自分だという確信を彼は抱き始める。
その夜、ジャスティンもまた現場のバーにいて、車で帰る途中に何かに衝突した。だが、酷い雷雨で状況を視認出来ないままその場を後にしてしまっていた。
ジャスティンは、彼の知る「真実」を告白することが被告のサイスを救う一番の近道と知りながら、そうすることが出来ない。アルコール依存の経歴を持つジャスティンがバーに立ち寄った後に起こした事故となると、重い罰を課される可能性が大きい。そして彼には妻と生まれくる我が子という、守らねばならない存在がいる。
しかし、だからといって法廷に立つ無実の被告をさっさと有罪にして、自らが疑われる可能性を確実に潰すことも彼には出来ない。「真実」を知っているからこそ良心の呵責が生じ、ほとんどの陪審員が有罪を主張する中、安直な決定を拒みさらなる議論を提案する。
だが、そうして議論を長引かせたことで、第三者による轢き逃げの線を探り出した元刑事チコウスキに車の修理記録を掘り出されたり、別の陪審員には「自分たちを操ろうとしている」と態度を疑われたりして、自分の首を絞めることになってしまう。
陪審員たちの議論のシーンも見応えがある。映画の冒頭、サプライズ演出のために目隠しされた妻のアリソンが大写しになり、その後裁判所のテミス像がいくたびも映される。テミスの目隠しは偏見を持たず法のみに基づいて審判を下すという理念の象徴だが、有罪を支持する陪審員たちの主張はその理念からは程遠いもので、サイスの属性や過去の素行と事件の嫌疑を切り離せないでいる。ただこれは、誰もが陥りがちな思考なのだろうとも我が身を振り返りつつ思った。
私たちは映画の主人公が、最後には倫理的に正しい答えに行き着くことを無意識に期待する。この映画で言えば、ジャスティンが最後には「真実」を告白し、冤罪であろう被告には無罪評決が下されてほしいと思う。
だが、イーストウッドの描写はどこまでも現実的だ。おそらくジャスティンが無罪の論調を翻したために(また、チコウスキを放逐したことも奏功して)陪審員は有罪で一致し、被告は仮釈放なしの終身刑に処される。良心を捨て家族を選んだ彼は、妻と生まれた子供との幸せを手にする。
一方、当初被告の有罪を頑なに信じていた検事のフェイスの心は、チコウスキとのやり取りを通じてジャスティンとは対照的な方向に傾いてゆく。陪審員を解任されたチコウスキと会話を交わす時に、自分の心に芽生えた疑念を自覚するフェイス。トニ・コレットが、わずかな表情の変化だけでフェイスの心の揺れを表現していて素晴らしい。
判決の日には、ジャスティンとフェイスの「真実」に対するスタンスは逆転している。裁判所前のベンチでの2人のやり取りは本作の静かなクライマックスだ。互いに事件の真犯人を三人称で呼びながら彼について言葉を交わすが、内心ではそれがジャスティンのことであり、相手もそう認識していると分かっている。
だが、疑惑の判決のもとに得たジャスティンの幸福もフェイスの名誉も、彼らの心に良心が残っている限りかりそめのものだ。ジャスティンはパトカーのサイレンに怯え、フェイスは検事長の椅子に居心地の悪さを覚える。
人は、自分の良心や罪悪感からは逃れられない。ラストでジャスティン宅のドアを叩いたフェイスの姿に、そんな思いが湧いた。
アルコール依存患者の互助会で唱えられたニーバーの祈り。変えるべきものを変える勇気を、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを。サイスの無罪を主張していた時のジャスティンは「人は変われる」と力説したが、果たして彼は変えるべきものを賢く選択したのだろうか。
これは個人的な解釈だが、事件の客観的な真相の描写は巧みに避けられているように見えた。ジャスティンがケンダルを轢いたことについて直接的な映像は出てこない。サイスが冤罪であることも、彼が証言する時の印象でしか描かれていない。「ジャスティンが犯人」はあくまで鉤括弧付きの真実のようにも見えた。
イーストウッドの真意はわからないが、その方が作品としての深みは増す気がする。本作は謎解きミステリーではなく、人間の良心の脆さを描く物語なのだから。
余談
良作なだけになおさら映画館で観たかったという思いはあるのだが、イーストウッドの近作の興行成績からして贅沢は言えない時代なのだろうと諦めている。製作も配給も映画館も商売。配信のメリットを生かして、住む地域を問わず多くの人に観られることを願う。
陪審員の中に事件の容疑者がいたとしたら。。。
嵐の夜、1組のカップルがバーで言い合いになり、女性は外に飛び出し、その後、橋の下で惨たらしい姿で発見される。容疑者として浮かび上がったのはバーにいた被害者の恋人で、招集された陪審員の多くは事件の目撃証言や状況証拠から有罪を主張する。しかし、それは正しい評決なのか?
これまでも、人々の大多数が信じる正義というものに疑問符を付けてきたクリント・イーストウッドは、事件の真相を究明するのではなく、あろうことか、異なる容疑者を陪審員の1人に加えることで事の成り行きを複雑にする。知られざる新たな容疑者は保身のために評決をミスリードし、そこに次期検事長の座を狙う敏腕検事や、多忙なために早く裁判を終わらせたい弁護士や、陪審員の中に捜査好きの元刑事を潜ませたりして、この物語の行方を曖昧にしていく。観客からすると、目が離せなくなる。
陪審員制度の問題点を突くことで、真実=正義という構図を一旦壊し、そこから、正義を諦めない人間の可能性へと繋げる語り口は、まさに、イーストウッドならでは。無駄のない演出は年齢を重ねても変わらぬ抑制力の賜物ではないだろうか。
怖いことだが実際どうなのか
重い。けれど、事の成行から目が離せない。
いきなり陪審員の数人が、有罪で良い、早く終えようと言う。さらに、議論しようと言う人に無駄だと言って食ってかかる。瞬間的に小学校でのグループ活動を思い出した。どうでも良いから早く終わって帰ろうとする。残念ながら大人になっても、目的や結果を考えない人がいる。だが、事は裁判、冤罪を生むかもしれない。嘆かわしい。
最終的に主人公は有罪としてしまった。真実を隠して罪を免れた。家族のために、純粋な正義感や罪悪感を押し殺して。全くの自己都合で考え方を変更した。でも、この結果、後々心が蝕まれるかもしれない。最後の検事長の訪問が何のためなのかは明確にされずに終わったが、真実を明らかにした方が、主人公の心の健康のためには良いかもしれない。
この物語は、陪審員制度には問題があることを提示している気がするが、その意図があるかは定かではない。ただ、問題があることは、よく示されていたと思う。日本の裁判員制度で同様の事が起きていないことを望む。
愛の観念
愛はその内側に善意と悪意の競争を孕んでいる。善意と悪意が競い合って勝ったほうの観念を愛と呼ぶ。善意の愛が〝慧眼〟であるなら、悪意の愛は〝盲目〟である。
オープニングの目隠しをされた妻のシーンにそんなことを考えながら鑑賞。
真実はわからない。犯人はいるのか、そもそも事故だったのかもしれない。重要なのは有罪が無罪かというよりも、主人公があの日の夜をどう捉えるかだ。
主人公は、被害者とサイスへの罪悪感から懊悩を繰り返すが、最終的には有罪に〝決める〟。
確かに、被害者が死に至った原因はサイスにある。雷雨の中を酔って歩いて帰る彼女を迎えに行かなかったのは、サイスの愛が自分本位で薄情であることを語っている。
しかし、検事が面会したときのサイスの〝目〟はよく見えているようだった。彼女に死なれて初めて、善意の愛が勝ったようだ。
一方、善意の愛の力で人生をやり直している主人公。彼が妻に秘密にしたいことは、何かにぶつかったことよりも、バーに寄って少し酒を飲んで(と私は解釈)近道をして帰ったことだ。
こうなると当然、保身のため悪意の愛が勝つ。妻も察しが付いているが、敢えて見ずに目隠しをしたまま歩むことになる。
どちらも〝愛〟であることを射抜きつつ、「では検事の愛は?」と余韻を残すあたり、さすがのクリント・イーストウッドだった。
映画を知り尽くした映画人間、元祖アウトローの素晴らしい作品だった。
正義!
事件当夜のフラッシュバックでもラストまで飲酒したかははっきりと見せない。最後に主人公は禁酒を守った事が明らかになり、家族のために頑張ってる事が明らかになる。観客は立ち直った主人公を許したくなるが、イーストウッドは許さない。
容疑者を無罪にしようとするも、自分が納得出来る言い訳が見つかると、容疑者を見捨てる事も厭わなくなる。 判事もラスト直前まで同じ。(私も含め、皆さんも一緒?)
家族がいなかったら、最初からただの自己保身のストーリーだよね?
物語る量の丁度良さ。
面白いんだけど
死因に対する捜査が雑過ぎて・・・・。陪審員の中に居た元刑事が裁判のやり取りだけで真相に迫ってるのに。
陪審員だけでの話し合い・・・・いや、いきなり評決取ろうかって、それで良いんかい!
と言うか、主人公は何がしたかったんだろう?(やべぇ、あの時、自分が撥ねたのは鹿じゃなくって人だった)と思ったら、それを言うor被告になすりつけるかのどちらかだろうに、話し合いを誘導してもっと調べようって方向に持っていく・・・でっ、最後は結局被告になすりつけ・・・・・うーん。
と言うか、実は最後にどんでん返しが有って、他の陪審員が犯人とかって思ってた。
【”確証バイアスに囚われた陪審員、検察官。だが・・。”今作は”十二人の怒れる男”クリント・イーストウッドヴァージョンであり、真の良心、正義とは何かを描いた重いヒューマンドラマなのである。】
<Caution!内容に触れています。>
■ジャスティン・ケンプ(ニコラス・ホルト)は、身重のパートナー、アリソン・クルーソン(ゾーイ・ドゥイッチ)と暮らす物静な男である。
ある日、彼の元に陪審員の召喚状が届く。彼は辞退しようとするが、裁判長から”仕事と同じ時間には返すから。”と言われ引き受ける。
被告は、ケンドル・カーター(フランチェスカ・イーストウッド)の恋人で、旧道沿いのバー”ハイド・アウェイ”で喧嘩していたジェームズ・サイス(ガブリエル・バッソ)という全身刺青の入った大男である。
多数の人がその喧嘩を目撃しており、大雨の中、彼女を追って行った彼の仕業であると、多くの人が疑わない。
そして、第一回目の陪審員裁判でジャスティン・ケンプは、一人ジェームズ・サイスの無罪を主張するが、被害者ケンドル・カーターの旧道脇の小川に墜死している写真を見て、トイレで激しく嘔吐するのである・・。
<感想>
・今作は非常に重厚で、見応えがあるヒューマンドラマである。12人の陪審員同士の協議の間に、事件当時の光景が何度も映し出される。
そこには、ケンドルとサイスの姿の奥に、ウイスキーの入ったグラスをテーブルに置いて彼の人生の中でも素晴らしき日になる筈だった日に、ある哀しき出来事が起きてしまったために沈痛な表情をしながらも、飲むことを逡巡しているジャスティン・ケンプの姿が映し出されるのである。だが、彼がグラスに口を付けている姿は、最後まで映し出されない。
■陪審員同士の協議中に明らかになる、数名の陪審員の真実の姿。
1.ハロルド・チコウスキー(J・K・シモンズ)・・22年間、殺人課の刑事をしていて、リタイア後は自適生活。だが、彼は刑事の経歴から”サイスは無罪ではないか、実はケンドルは何者かにひき逃げされたのではないか”と疑い始める。
2.マーカス・キング(セドリック・ヤーブロー)・・17歳の弟がサイスと同じ刺青をしていて、抗争中に流れ弾に当たって死んだ辛い過去を持つ。故にサイスの有罪を固く信じている。
3.ジャスティン・ケンプ・・4年前に急性アルコール中毒で死んでもおかしくない程、酒を飲み運転し、木に激突するもその後は断酒会に通って酒を断っている。
そして、ハロルドと独自に調査を始めるが、その事がきっかけでハロルドは陪審員を外される。
ご存じのように陪審員が独自に捜査する事は禁じられており、更に元刑事と言う事もありハロルドは居なくなる。ここが大きなポイントになってしまうのである。
・この作品の脚本が上手いのは、ジャスティン・ケンプが酒を飲んでいる所を映さずに、只彼が自分の車である緑のSUVのハンドルに凭れて泣いている姿を映している所である。
そして、彼がバーに寄った後に、激しい雷雨の中、旧道を、運転している際に何かにぶつかったシーンで、何とぶつかったかは映されずに”鹿に注意”という標識が映される所である。
解釈は観る側に委ねられるが、矢張りケンプが哀しみを紛らわすために、少しだけ酒を飲んでしまい、”何か”を撥ねたのだろうという事がキチンと観ていれば分かるのである。
■ここからの、ケンプを演じたニコラス・ホルトの良心と、身重の妻を想う気持ちとの間で揺らぐ心を演じる様が、抜群である。
又、それまで直ぐに裁判が終わると思っていた検察官フェイス・キルブルーを演じたトニ・コレットが、徐々に独自に捜査していく過程で、ケンプが緑のSUVでケンドルを撥ねたのではないかと言う疑念が膨らむ中で、自身が裁判に勝てば検事正に昇進するという思いの狭間で悩む姿も抜群である。
<そして、陪審員達が出した判決。それは、サイスは有罪であるというモノであった。サイスは無期懲役、しかも減刑なしと裁判長から言い渡される。その際に、検察官フェイス・キルブルーに笑顔はない。
その後、彼女はケンプと会い、二人は夫々の正義について短く語り合うのである。
ケンプには娘が生まれ、妻と幸せを分かち合っている時に、家の玄関のドアがノックされ、ケンプがドアを開けるとそこには真剣な表情のフェイス・キルブルーが立っており、画面は暗転するのである。
今作は、”十二人の怒れる男”クリント・イーストウッドヴァージョンであり、真の正義とは何かを描いた重いヒューマンドラマなのである。>
■もう”MALPASO”という文字を、新作で観る事は出来ないのだろうか・・。
配信ではもったいないくらいの良作
ないよりマシだ
ゾクっとするエンディング
こんなことあるのか。
いや、ありえるか。
すごいなこれを考えたイーストウッドさん。
法廷ものは難しくて苦手なのだが、本作品は飽きずに観ることができた。
裁判、陪審員制度、課外学習のようにみんなで出掛けて現場を見るなど、知らないことがいろいろあって興味深かった。
土砂降りの中の故意ではない不運な事故。
主人公がぶつかったのが本当に鹿で、他の誰かが女性を撥ねたとか。
なんてことはないか。
アル中から立ち直った主人公。
奥さんにもらったセカンドチャンス。
なんとか無駄にしないで…と願わずにいられない。
それと痴話喧嘩もほどほどに、だね。
ラストのシーンまで完璧だった。
裁判制度の違い
長文でごめんなさい。
静岡のラジオ番組wasabiで24/12/31に紹介されて、早速鑑賞しました。この1年、裁判傍聴に毎月通っています。陪審員2のタイトルを聴いて、すぐに興味が湧いた次第でした。
米国では開かれた裁判として、陪審員が参加して評決を下す事は正しいかもしれません。本編のように思惑が、検察・陪審員に含まれることによって、正しくない可能性が有り得るとの示唆しています。死因となる物証も無くても、黒判決になるものか。検視官の力量不足がそもそもの原因。
日本では陪審員になった事はありませんが裁判傍聴で流れは理解しています。状況証拠、自白証拠を検察・弁護側と集めて、公開の場で審議する。グレーは、白判決も有るかも知れませんが、日本の裁判制度で良かったと思った次第です。
最後に、劇場公開されなかったのでしょうか。一定の人気があるクリストファー・イーストウッドさんの作品が鑑賞できなかった事は非常に残念です。何かの忖度か。
一人のブレない男
クリント・イーストウッド。御年94歳。
100歳を超えても生涯現役を宣言していたが、本作で引退の噂が…。
最後になるかもしれない作品なのに、アメリカではノープロモーション小規模限定公開の後、配信。日本ではU-NEXTの独占配信のみ。
イーストウッド作品であるにも拘わらず劇場公開が見送られた事は、後々映画界の大いなる過ちとして語られるかもしれない。
だって本作は、『運び屋』『リチャード・ジュエル』以来、近年出色の出来。確かに『ミスティック・リバー』『ミリオンダラー・ベイビー』『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』『チェンジリング』『グラン・トリノ』『アメリカン・スナイパー』『ハドソン川の奇跡』…外れナシの傑作揃いの頃と比べると精彩に欠けるかもしれないが、今一つだった『15時17分、パリ行き』『クライ・マッチョ』などよりずっと。これならキネ旬でベストテンに選出されても異論ナシ。
本作が劇場公開されていたら、イーストウッド崇拝のキネ旬では間違いなく洋画今年の1位になっていただろうに(キネ旬ベストテンでは配信映画は選考外)。残念だったね、キネ旬。
まあ、そんなひねくれ意見はさておき、映画界の生き神様が“最後の作品”で描きたかった事は…
イーストウッド初の本格法廷サスペンス。
有罪がほぼ確実視される殺人事件。その裁判の行方。
評決を託された陪審員たち。イーストウッド版『十二人の怒れる男』と言っていい白熱議論。
正統派と思いきや、一捻り。
もし、真犯人が“その場”に居たら…?
タウン誌で働くジャスティン・ケンプは妻が出産間近。平凡な幸せを送っている。
ある日、陪審員の召喚状を受ける。辞退しようとしたが、陪審員に選ばれる。
務める事になったのは、世間で注目の裁判…。
ある雨の夜。バーで飲んでいたカップル。サイスとケンドル。
口論となり、店の外に出ても続く。多くの客の目撃証言あり。
ケンドルは雨の夜の中を歩いて帰る。
程なくサイスも車に乗って帰る。彼女の後を追ったかのように。
翌日、ケンドルが橋の下で無惨な死体となって発見される。
容疑者として逮捕されたサイス。彼女の後を追い、殺害に至ったか…?
場所はよく鹿との衝突も多く、雨の夜だと見渡しも悪い橋の上の道。そこで車を停めた男の姿を見たと言う近くの家に住む老人の証言もあり。
サイスは否認。そのまま家に帰ったと。
しょっちゅう口論はしていたが、自分は恋人を愛していた。誓って、殺したりなどしていない。
なら、口論したとは言え、何故雨の夜を一人で帰らした…?
サイスには麻薬の売人だった過去もあり。目撃証言や状況から、犯人である可能性が濃厚。
いや、犯人だ。それが世間や検察や陪審員のほとんどの見方。
そんな中、ケンプは激しく動揺する。
犯人を知っている。その犯人とは、自分だ…。
あの雨の夜、ケンプは同じバーにいた。
口論も目撃し…どころではなかった。悲しい事があり、周囲の事になど気にも留めず。
憂さ晴らしに酒でも飲もうとしたが、結局手を付けず、そのまま帰った。
その帰り道…。見渡しの悪い雨の夜のあの橋の道。
何かをはねた。
一旦車を停めて確認したが、何も見つからず。
鹿か…? 橋の下にでも落ちたか…?
ろくに確認せず、そのまま立ち去ったのだが…、
今この場ではっきり分かった。被告とされている男の恋人を轢いてしまったのだ、と…。
陪審員の一人が裁判中に自分が真犯人かもしれないと気付くトリッキーな展開。
だけど、本当にそんな事があり得るのか…?
陪審員って厳正な選考の上で選ばれる筈。
本作、微妙な矛盾点も多い。
警察は殴打などでサイスが恋人を殺したと断定したが、もし轢き逃げが本当だったら、現場検証の時そういう証拠が出てくるのでは…?
陪審員は裁判中、事件に関わる事に見聞してはならない。気が気ではないケンプは事件について調べ始めたり、J・K・シモンズ演じる陪審員の一人も事件について調べ始め、尚且つ自分が元刑事である事を漏らしたり…。その後陪審員から外されるが…。
疑念を持ち始めたトニ・コレット演じる検事も自分のフィールドを超えた行動したり…。
よく分からないが、実際にあり得る事なのか…?
本作は徹底的なリアルさ追求より、エンタメであると同時に、ストレートに訴える。
人が人を裁く難しさ。
善悪を迫られた時、人は…?
本作での“疑い”ははっきりとしたものではなく、“グレー”な部分が多い。
例えば、サイス。家に帰ったと言うが、その描写はない。かといって、彼が恋人を殺した描写もない。
ケンプも同様。彼がケンドルをはねた描写もない。そうかもしれないと確信はしているが…。
もし、サイスの言う事が偽りで、本当に恋人を殺していたら…?
もし、ケンプの確信が見当違いで、はねてなどいなかったら…?
どっちに傾いてもおかしくないし、だからこそ危うい。
真実とは…? 天秤に掛ける責任や事の重大さ。
だけど人は、重圧逃れや世の流れや思い込みで、時に見誤り、間違えてしまう。
そして冤罪が起きてしまう。
冤罪とは、人一人の人生を変えてしまう大罪。
今年国内でも再び大きく注目された冤罪。
司法が完全じゃない事の証し。
しかし法に携わる者たちは、出世や面目からそれを軽く見てしまう。
今一度問う。クロ間違いナシと思えても、ほんの一点でもグレーな点があったら、見直せ。疑え。考えろ。
それを怠り判断を間違ってしまったら、取り返しが付かないのだから。
サイスに関してもそうだ。
私はどうも男の姿を見たと言う近くの家の老人の証言が引っ掛かって仕方なかった。
“男の姿を見た”と言ってるだけで、“男の顔を見た”という事ではない。それは即ち、サイスの顔を見た訳でもない。
警察にサイスの顔写真を見せられて、そうかもしれないと思い込み。容疑者をサイスしか挙げなかった警察の怠慢でもある。
陪審員の中で唯一、サイスは犯人じゃないかもしれないと説いたケンプ。
自分が犯人かもしれないとの確信があったからではあるが、真犯人だとしても、大多数の意見が固まった中で勇気ある発言。自分が真犯人と知られるかもしれないのに…。
実際ケンプは、悪人ではない。自分の罪を激しく後悔し、名乗り出るべきかどうするべきかを知人に相談。
サイスを庇ったのは、彼なりの罪悪。もし彼が有罪となったら、彼の人生を奪う事になる。自分はのうのうと幸せに生きていいのか…?
だけど結局、名乗り出る事は出来ず。彼にも欲はある。守りたいものがある。
妻と間もなく産まれてくる子。
待望の子供なのだ。妻は以前も妊娠していたが、流産。その悲しみは両者にとって大きかった。ケンプがバーで悲しみに暮れていたのも、これ。それを乗り越え、ようやく生命を授かろうとしている…。
あの時バーでお酒を飲もうとして、飲まなかった。実はケンプは、アルコールで問題を起こした過去あり。その時出会い、支えになってくれたのが…。人は変われるとも教えてくれた。
ケンプも過去や悲しみから今の幸せを失いたくないのだ。
自分の幸せばかり考えて、相手の無罪を訴えるのは偽善ではないのか…?
本当に相手の事や人生を考えたら、真実を…。
それを隠し、罪を背負ったまま生きるのは幸せと言えるのか…?
自分は変わったのではないのか…?
陪審員の中には、人は変わらないと言う者もいる。サイスの麻薬の売人の過去と訳あり。
今一度、秤に掛ける。真実か、保身か…?
ケンプたった一人の無罪から、6対6に。
割れに割れ、評決は決まらず、異例の陪審員たちの現場検証。
納得いくまで自分たちの目で見、自分たちで話し合い、遂に至った。
評決は…。
これで良かったのだ。
これで良かったのだと信じたい。
裁判を終え、剣と天秤を持つ女神像の前で、ケンプと検事が話し合う。
お互い、サイスや事件に関して疑念を持った身。
これで良かったのか…?
これで良かったのだ。
各々通した“正義”でもある。
真実や真犯人は明かされないままか…?
それはフィクションの中だけでしかないのか…?
常に弱者の立場に立って正義を訴えてきたイーストウッド作品に於いて、意外な結末…かと思った。
子供も産まれ、自分の幸せの“正義”を選んだケンプの前に、思わぬ訪問者。
それはその訪問者にとって、やはり納得いかなかった事を正す“正義”である。
ケンプにとっては、あのラストシーンの後。彼の今後の人生や妻子の事を思うとバッドエンドのようにも思えるが、ただ後味が悪いだけではない。
真実と正義。今一度、人は変われると証明するチャンス。
今度こそ、真に秤に掛けて。
難しい役所に挑み、見事応えた、ニコラス・ホルトの複雑内面演技。
トニ・コレットもさすがの巧助演。
J・K・シモンズとキーファー・サザーランドはちょっと勿体なかったかな…。
派手な作風ではないが、2時間コンパクトに纏め、終始見る者を引き付け、離さない。
キャリア集大成は言い過ぎかもしれないが、じっくりと社会派とエンタメを融合させた円熟の手腕は一つの頂の域。
最後かもしれない作品でも、正義を訴え、人間を正面から真っ直ぐ見据える。
クリント・イーストウッドはブレない男であり続けた。
配信になったらすぐ見ようと思っていたが、今年のトリのお楽しみに。仕事が忙しくて見る時間も無かったけど。
やっと短い年末年始休み。今年のベスト級…とまではいかないが、締め括りに良し。
それでは皆様、良いお年を!
2024年ベスト級の法廷ドラマ
スクリーンで観たかった・・・。
基本的に映画館で観た作品しかレビューしないと決めてたんだけど、これは仕方ない。
「なんで?」という思いでいっぱいになりつつ、U-NEXTに加入した。
結局加入したんだから、映画会社の狙い通りってことなんだとは思うけど。
それにしても、イーストウッドが監督で、ニコラス・ホルトが主役で、トニ・コレット、JKシモンズ、キーファー・サザーランドが脇を固めてる作品をスクリーンで観ることができないのは、かなり悲しい。
名作「12人の怒れる男」をたどりながら、それを2ひねりくらいしたストーリーで、単なる法廷モノよりは、もう少し踏み込んで正義と裁きの問題を提示している。
ニコラス・ホルトは小心無垢な男を演じるのがホントに素晴らしい。
トニ・コレットは、シックスセンス、リトルミスサンシャイン、ヘリディタリーで「母さん」のイメージがついちゃってるので、ひっつめ髪の上昇志向検事ってのはちょっと違和感。
JK・シモンズの声を持っていればみんな説得できそうだとか、キーファーも年取ったなとか思いながら小さな画面に食いついてました。
このパターンが増えないことを祈ります。
映画は映画館で!
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