陪審員2番のレビュー・感想・評価
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配信あるだけ御の字。
クリント・イーストウッド。
監督としては、1992年の「許されざる者」から2016年の「ハドソン川の奇跡」まではまさしく黄金期で、オレ個人としては、「アメリカン・スナイパー」(’15)のようにあまり好きではない作品があるにはあるが、素晴らしい作品ばかり。
ただし
前作「クライ・マッチョ」('21)という、あきれるほどの駄作を放ってしまったことで晩節を汚すことになってしまうのではと。スライの名作「オーバー・ザ・トップ」(’87)、そして蛇足の「ランボー ラスト・ブラッド」(’20)を彷彿させるが、それすらよく見えるほど。
もともとイーストウッドはそれほど政治的なテーマを全面に描き、自らの答えを出すほうではないが、少年がアメリカ人の父とメキシコ人の母の子だという設定が全然活きていないなど、「クライ・マッチョ」は言うなれば、商業作品としても「自覚」の足らない作品だった。
最新作は、アメリカでほんの一部の限定公開の末、配信に移り、日本では配信のみ、ということ。この流れで本作の「価値」はある程度想像はできる。
「陪審員2番」
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そりゃそうだ。
とにかく、プロットだけで進み、イーストウッドの、「いつもの結末」で終わる。絵的な驚きがないのはいつものことで、よく言われる彼の「手堅い演出」というのは、現場や役者陣の力量に依存している、とさえ思うほど目を見張るものがない。
そもそも論として、現代ではこの状況はほぼほぼあり得ないのだが、その「雑さ」を百歩譲ってみたとしても、真実と正義は必ずも一致しない、とは凡百の法廷サスペンスでも見かけるテーマ。
この映画で語るべき、最も確かな「正義」はある。
主人公側でいうなれば、飲酒運転をしないこと。精神的に不安定な時に、車を運転しないこと。土砂降りの中、わき目を振らずゆっくり運転すること。容疑者側でいうなれば、パートナーと公の場で喧嘩しないこと、土砂降りの中、パートナーを一人で帰らせないこと。(これは容疑者が最大の後悔といってたが、まさにその通り。)
良心の呵責と保身とか以前に「確固たる正義」を描けよと。つまりこれはイーストウッド自身の「自覚」にかかわる部分とも思えるほど、そこは一切触れていない。
作品がそうなのだから、実はイーストウッド自身もそうなんじゃないか、と見えてしまうわけだ。もちろん、その人となりについては、作品の評価とは関係はない。だが、名前でありがたがる人もいるわけで、「イーストウッド」の名前で目くらましを食らう。
イーストウッドは、後年しばらく「一般アメリカン人の正義、勇気」をいろいろな形で描いてきたわけで、本作の主人公もいわば「一般アメリカ人」。イーストウッド自身こそがその主人公(そして容疑者も)であったとするならば、と観ると、自身のやんちゃな人生の「自覚」や「自省」はあるのかもしれないが。
ワーナーはそれはもう「正しい」処置をしたと思う。
追記
コレット演じる検事もよくある役どころで、いつもの、最後に揺れる検事役。
サザーランドの役もひどいもの。シモンズもあり得ないキャラクター設定。
追記2
と同時に、主人公のニコラス・ホルトは頑張ってはいるが、この顔をみると、本作30年前のクルーズだったら、と思ったりしたのだが、意外とクルーズを意識した演技に見えた。
シビアな展開で描く人間の良心の脆さ
良心と保身の相克、偏見、人が人を裁くことの難しさ、そんな重い問いかけを孕んだ作品だが、イーストウッドは決して話をまとめるため、あるいは観客をひとつの結論に導くために美辞麗句を弄したりしない。
物語の終わらせ方は作り手の腕の見せどころのひとつだが、本作ではイーストウッドのセンスが炸裂している。彼が投げたボールにこちらの体が思わず反応する瞬間に終わる、そして複雑な余韻が尾を引く。
妊婦の妻を持つ主人公のジャスティンは、陪審員に召集され裁判に出席する。それはバーでの諍いの末夜道でパートナーを殺したとされる男性を裁くものだったが、詳細を聞くにつれ、その女性をひき逃げによって殺したのは自分だという確信を彼は抱き始める。
その夜、ジャスティンもまた現場のバーにいて、車で帰る途中に何かに衝突した。だが、酷い雷雨で状況を視認出来ないままその場を後にしてしまっていた。
ジャスティンは、彼の知る「真実」を告白することが被告のサイスを救う一番の近道と知りながら、そうすることが出来ない。アルコール依存の経歴を持つジャスティンがバーに立ち寄った後に起こした事故となると、重い罰を課される可能性が大きい。そして彼には妻と生まれくる我が子という、守らねばならない存在がいる。
しかし、だからといって法廷に立つ無実の被告をさっさと有罪にして、自らが疑われる可能性を確実に潰すことも彼には出来ない。「真実」を知っているからこそ良心の呵責が生じ、ほとんどの陪審員が有罪を主張する中、安直な決定を拒みさらなる議論を提案する。
だが、そうして議論を長引かせたことで、第三者による轢き逃げの線を探り出した元刑事チコウスキに車の修理記録を掘り出されたり、別の陪審員には「自分たちを操ろうとしている」と態度を疑われたりして、自分の首を絞めることになってしまう。
陪審員たちの議論のシーンも見応えがある。映画の冒頭、サプライズ演出のために目隠しされた妻のアリソンが大写しになり、その後裁判所のテミス像がいくたびも映される。テミスの目隠しは偏見を持たず法のみに基づいて審判を下すという理念の象徴だが、有罪を支持する陪審員たちの主張はその理念からは程遠いもので、サイスの属性や過去の素行と事件の嫌疑を切り離せないでいる。ただこれは、誰もが陥りがちな思考なのだろうとも我が身を振り返りつつ思った。
私たちは映画の主人公が、最後には倫理的に正しい答えに行き着くことを無意識に期待する。この映画で言えば、ジャスティンが最後には「真実」を告白し、冤罪であろう被告には無罪評決が下されてほしいと思う。
だが、イーストウッドの描写はどこまでも現実的だ。おそらくジャスティンが無罪の論調を翻したために(また、チコウスキを放逐したことも奏功して)陪審員は有罪で一致し、被告は仮釈放なしの終身刑に処される。良心を捨て家族を選んだ彼は、妻と生まれた子供との幸せを手にする。
一方、当初被告の有罪を頑なに信じていた検事のフェイスの心は、チコウスキとのやり取りを通じてジャスティンとは対照的な方向に傾いてゆく。陪審員を解任されたチコウスキと会話を交わす時に、自分の心に芽生えた疑念を自覚するフェイス。トニ・コレットが、わずかな表情の変化だけでフェイスの心の揺れを表現していて素晴らしい。
判決の日には、ジャスティンとフェイスの「真実」に対するスタンスは逆転している。裁判所前のベンチでの2人のやり取りは本作の静かなクライマックスだ。互いに事件の真犯人を三人称で呼びながら彼について言葉を交わすが、内心ではそれがジャスティンのことであり、相手もそう認識していると分かっている。
だが、疑惑の判決のもとに得たジャスティンの幸福もフェイスの名誉も、彼らの心に良心が残っている限りかりそめのものだ。ジャスティンはパトカーのサイレンに怯え、フェイスは検事長の椅子に居心地の悪さを覚える。
人は、自分の良心や罪悪感からは逃れられない。ラストでジャスティン宅のドアを叩いたフェイスの姿に、そんな思いが湧いた。
アルコール依存患者の互助会で唱えられたニーバーの祈り。変えるべきものを変える勇気を、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを。サイスの無罪を主張していた時のジャスティンは「人は変われる」と力説したが、果たして彼は変えるべきものを賢く選択したのだろうか。
これは個人的な解釈だが、事件の客観的な真相の描写は巧みに避けられているように見えた。ジャスティンがケンダルを轢いたことについて直接的な映像は出てこない。サイスが冤罪であることも、彼が証言する時の印象でしか描かれていない。「ジャスティンが犯人」はあくまで鉤括弧付きの真実のようにも見えた。
イーストウッドの真意はわからないが、その方が作品としての深みは増す気がする。本作は謎解きミステリーではなく、人間の良心の脆さを描く物語なのだから。
余談
良作なだけになおさら映画館で観たかったという思いはあるのだが、イーストウッドの近作の興行成績からして贅沢は言えない時代なのだろうと諦めている。製作も配給も映画館も商売。配信のメリットを生かして、住む地域を問わず多くの人に観られることを願う。
良作ではあるが、日本で配信スルーもわかる
イーストウッド監督の引退作とも言われるこの「陪審員2番」、ようやく鑑賞。丁寧で整った描写とよどみのない語り口は健在ながら、いかんせん法廷劇が米国ほど人気ジャンルでない日本の観客の多くにとって地味な話かなとは思う。ひき逃げを隠している陪審員役ニコラス・ホルト、被害者の恋人の男が殺人犯だと信じて疑わない検事役のトニ・コレット、元刑事の陪審員役J・K・シモンズらの演技もしっかりキャラクターを表現しているものの、シリアスかつサスペンスの基調ゆえ、登場人物らの人間味が物足りなく、親近感や共感を誘うようなエピソードも少ない。
脚本のジョナサン・エイブラムズは、「十二人の怒れる男」への賛歌として書いたとインタビューで語っている。ただし着想の一部と思われるのは、日本でも放送された「ヒッチコック劇場」の中の1編「償い(原題:The Star Juror)」。中年男の主人公ジョージは言い寄った女性に拒まれ、誤って殺害してしまう。だが素行の悪い青年が容疑者として逮捕され、その裁判の陪審員にジョージが選ばれる。陪審員の大多数は有罪に傾くが、良心の呵責からジョージは異議を唱え、被告をなんとか無罪にしようと試みる……というあたりまでの筋が似ている。
イーストウッド監督がエイブラムズの脚本を選んだのは、“真犯人が陪審員に選ばれる”という現実にはおよそあり得そうにない、いわば大人の寓話として良心と保身がせめぎ合う究極の状況を描きたかったからだろう。
トニ・コレットの検事や目撃証言をする地元の老人など、容疑者が犯人に間違いないと確信してしまうことで判断が偏る「確証バイアス」も、サブテーマとして提起される。こちらのテーマは、刑事裁判で起訴されたら有罪率99%以上で、冤罪事件が後を立たない日本に暮らす私たちにとって、寓話どころか現実すぎて気が滅入るポイントになっている。まあ、劇場公開が見送られるのも仕方ないか。
圧巻の傑作
映画館で観られる機会は訪れそうにないので、仕方ないので配信で観た。近年のイーストウッド作品の中でもかなりよくできた部類に入る作品ではないかと思った。特殊な見せ方は何一つしていない、しっかりした本を用意して、しっかりとキャスティングをして、しっかりと撮影する。揺れる天秤などメタファーも実にシンプルで奇をてらったものではないわけだが、出てくるタイミングが絶妙なので、すごい効果的だ。話の運びのテンポもいいので、全然ダレることがなく最後まで緊張感を持って見れてしまう。
真実は藪の中、ならぬ真実は雨の中、という作品なのだけど、目隠しされた女神の天秤像はアイロニーにも見えてくる。「見かけにとらわれずに偏見を持たず、お金や権力にも左右されずに公平に真実をジャッジするということを象徴」するのが目隠しされた正義の女神像なんだが、目が見えない=視界不良の激しい雨の中、という意味にも思えてくる。
ニコラス・ホルトの終始不安そうな眼つきがすごく良い。一方のトニ・コレットの目力は力強くて、自分に間違いはないといい自信に溢れているように見える。このイメージが最後まで映画を緊張感を与えていて、キャスティングって本当に重要だよなと改めて思った。
陪審員の中に事件の容疑者がいたとしたら。。。
嵐の夜、1組のカップルがバーで言い合いになり、女性は外に飛び出し、その後、橋の下で惨たらしい姿で発見される。容疑者として浮かび上がったのはバーにいた被害者の恋人で、招集された陪審員の多くは事件の目撃証言や状況証拠から有罪を主張する。しかし、それは正しい評決なのか?
これまでも、人々の大多数が信じる正義というものに疑問符を付けてきたクリント・イーストウッドは、事件の真相を究明するのではなく、あろうことか、異なる容疑者を陪審員の1人に加えることで事の成り行きを複雑にする。知られざる新たな容疑者は保身のために評決をミスリードし、そこに次期検事長の座を狙う敏腕検事や、多忙なために早く裁判を終わらせたい弁護士や、陪審員の中に捜査好きの元刑事を潜ませたりして、この物語の行方を曖昧にしていく。観客からすると、目が離せなくなる。
陪審員制度の問題点を突くことで、真実=正義という構図を一旦壊し、そこから、正義を諦めない人間の可能性へと繋げる語り口は、まさに、イーストウッドならでは。無駄のない演出は年齢を重ねても変わらぬ抑制力の賜物ではないだろうか。
ジャスティンとフェイス検事の、それぞれの良心と正義
着想がスゴイ。
94歳のクリント・イーストウッド、このテーマをチョイスした、監督としての「眼」がスゴイ。
ジャスティンが陪審員に選ばれなかったら事件と自分を結びつけることもなく、何も知らずに平穏無事な生活を続けていただろうに。不運な事故だったのに。
そして被告人は、人々が服役を望むような素行の悪い元悪党。
だからと言って、無実の男に罪を被せていいのだろうか。
良心と、自身と家族の未来(だけでなく現在も)の二択、弁護士にも勧められ保身を選択するが、常に良心とのせめぎあい。それでつい、矛盾する発言をしてしまう。だが矛先が自分に向かないように立ち回らなければならない。葛藤と真実が露見するかもなスリルが生々しく、見ている自分はドキドキして吐きそう。私がジャスティンなら真犯人は自分では、と思った時点で「私かも」とゲロってしまうと思う。こんなストレス耐えられません。
やがてジャスティンはサイスが無実である決定的なことを思い出す。
二択を迫られるのは、ジャスティンだけでない。キルブルー検事もだ。
陪審員ひとりひとりの背景を、印象的な一言や一場面で説明(大変上手い)、その発言をするに至る人となりに説得力を持たせる。
ジャスティンの1年前のあの夜の記憶が、審議の進行とともに「そういえば」と蘇る
無駄が全くなくスリリングで、人の心にぐいぐい迫ってくる脚本。
2時間スクリーンにくぎ付けでした、素晴らしい。
「クライ・マッチョ」で、クリント・イーストウッドも自己陶酔老人監督になっちゃったのかと思っていましたが、そうではなかった。汚名挽回、面目躍如。
あれは1本くらいご褒美映画作ってもいいじゃん、ということだったと考えます。
そして、ご自身が出演しない映画が良いようです。
地味な映画なので大規模な公開には向かないですが、ミニシアター等で公開したらいいのに。または、
ワーナー作品なんだからシネコンの朝一の回とかに入れられるんじゃないかと思うんですけどね。
配信だけではほんとうにもったいない映画です。
ラストシーン、キルブルー検事長は、ジャスティンに司法取引を持ち掛けに来たと思う。
自首前提。さもなくばサイスに控訴させて再捜査になりますが。さあ、どっちを選ぶ?
キルブルー検事のファーストネーム、faith には、信仰とか、信頼、信用、誠実、という意味があります。
劇場上映ありがとうございます
- TAMA映画祭にて劇場鑑賞 -
クリント・イーストウッドの映画は全て映画館で観ると決めて長年追って来た僕には、彼の最終作とも言われる本作が配信限定となったのは文字通りの死刑宣告でした。それを、映画祭でよくぞ劇場上映して下さいました。陪審員として裁判に臨んだところ、被告の男が殺したとされる女性というのはどうやら自分が鹿だと思って車で轢いた人物だったのではと気付き始めるお話です。
確かにもう少し振り幅を持たせた方がお金の稼げる派手な映画にはなったでしょう。お金は確かに大切だし、巨費が動く映画業界では興収という結果を出さねばなりません。でも、こんなにも重厚で観る者の胸に刃を直接突き付ける作品をなぜ劇場上映しなかったのでしょう。お金ばっかり食って中身の無いヒーロー映画なんて幾らでもあるのに。
一観客の勝手な言い分ですが、この作品を観た上で配信限定を決定した映画会社は映画を愛してはいないし、これまで珠玉の名作を生み続けて来たイーストウッドを尊敬もしていないんだと思います。
法廷ものにハズレなし
日本では最近はあまり取り上げられない陪審員制度。米国は日常的な事。しかし、陪審員になりたがらないのは同じようです。主人公は妻の近く出産を向かえる男。陪審員候補となりでれば回避したいと思っていました。願いはむなしく陪審員となります。事件は殺人事件、カップルがバーで口論となり女性は歩いて帰ります。それを追った男は怒りに任せて女性を殴り谷底に突き落としたという事でした。男性はDVであり、評判の良くない素行でした。誰もが犯人と思います。しかし主人公は気づきます。事件現場は、自分も通った場所でした。しかもそこで事故を起こしていました。真犯人は自分?鹿と思っていたが人をはねていた。男性は犯人ではない。陪審員としてどうすべきか。苦悩となります。この緊張感がテンポ良く展開されます。さすがクリント・イーストウッド監督。手慣れた手腕です。主人公に過去の過ちからのやり直しというバックボーンわ加えたり物語に深みがあります。なぜ劇場上映しなかったのでしょう。配信で眠らせてしまうのは惜しい。
物語の設定が絶妙でぐいっと引き込まれる!
どうやら引き込まれるこの設定部分がネタバレのようで、作品紹介のあらすじには曖昧な表現しかされていない模様。これはもったいない。
鑑賞開始から15分ほどで開示されるので、U-NEXTの方でまだ鑑賞を見送っていた人は、ぜひ試してみて。
陪審員裁判モノの法廷ミステリーとして、物語の流れはオーソドックスな印象。被告は有罪か無罪かを10人の陪審員で決めていく構成なのだが、肝となる特殊設定が効いていて、なかなかに面白い。
正義とは何か? そしてその代償は? 綺麗事で片付けられない難しさを突きつけられていく。これ、本当難しいわ。
脇役にも実力俳優陣が連なっていて、小粒ながら厚みもある作品でした!
ドキドキ
話題になっているのは知っててずっと気になっていた映画。
陪審員に選ばれた主人公が、実は犯人(轢き逃げ)の可能性が高いっていうストーリー。
着眼点(?)が素晴らしい。ありそうでなかった映画。
大半が法廷シーンだった記憶だが飽きなかった。
ずっとドキドキしてた。
「九条の大罪」という漫画にハマっているのもあって弁護士の心情も気になる。
原告側の弁護人の「やらかした、、」っていう気持ちが伝わってくる。元々正義感強いだろうし最悪な気分だろうなぁ。
最後は正義を貫いて、主人公を告発しそうな雰囲気で終わった。
主人公は主人公で、なんであんなに話しちゃったんだろう。
もったいない、、!
真面目で赤ちゃんも生まれて幸せ絶頂、ただ事故で轢き殺してしまった男性
VS
素行は元々悪いが無実の男性
どっちが捕まった方が世のためか、、
考えさせられる映画だった。
故意で犯罪犯して捕まることは無いが、事故で犯罪者になってしまう可能性は誰にでもあるため怖いなぁと思った。
こういう終わり方好きです。
94歳でこれ作ったの⁉︎
衝撃
法廷劇は好きなジャンルなもので
一人の悩める男
法廷ものの金字塔ともいえるシドニー・ルメット監督作「十二人の怒れる男」(57)を頭の片隅に思い出しながら、程よい緊張感に包まれた緻密な物語に固唾を呑んで見入ってしまいました。物語そのものは至って平凡な、日々のニュースでも出てきそうな題材でありながら、よく練られた脚本、俳優の自然な演技、そして何よりもストーリーテリングの妙によって、ぐいぐい引き込まれました。例えば、見せていく順序によっても全く違った作品になったと思いますが、事件当時の回想シーンをバラバラにして、どこで誰が何を回想するのかが絶妙なタイミングになっているので、登場人物らの心理状態の細やかな変化がしっかりと伝わってきました。主人公ジャスティン・ケルプ(ニコラス・ホルト)と妻アリソン・クルーソン(ゾーイ・ドゥイッチ)の過去の経緯をどこで観客に伝えるのか、それによっても印象は全く違ったものになったように感じます。印象といえば、本作の大部分を占める陪審員のやりとりの中で、各陪審員が様々な立場や経験に基づく犯人に対する印象によって有罪、無罪の判断をしていることを丁寧にフォーカスしていくところも見所でした。本人が「事実」と信じて疑ってないがゆえに、様々なバイアスによって見方を誤ることや、強い正義感による思い込みや、無意識下の自己都合が影響してしまう人間の身勝手さをじわじわとあぶりだしていく演出は非常に見応えがありました。J・K・シモンズやキーファー・サザーランドがしっかり脇を固める中、ニコラス・ホルトとトニ・コレットの演技は本当に素晴らしかったと思います。あのラスト・シーンもいいですね。誰が監督なんだろうとエンドロールを観ていて、クリント・イーストウッドの名前を観た瞬間、膝を打ってしまいました。94歳でこんな仕事をしているなんて、本当に感嘆いたしました。
気が滅入る
深い懐疑と「それでも」の論理
2024年。クリント・イーストウッド監督。妻の出産が近づいている青年は、ある殺人事件の陪審員になると、審議中にその事件の渦中にいたことに思い至る。実質的に自身の行為が被害者の死を招いたこと(過失致死)を疑いながら、相談した弁護士から申し出るのはやめた方がいいといわれて身動きができない主人公。無実の被告人が処罰されることに罪悪感を抱きながら、真実との間で行う決断とは。
まず、真実を求める法制度への深い懐疑がある。同期らしき検察官と弁護士は夜な夜なバーで「ないよりまし」な法制度をめぐって酒を酌み交わすし、ほかの陪審員たちの関心も真実の追求自体は断念したうえでの、被告人のふるまいに集中している。しつこいほど描かれる「真実への断念」は昨今のアメリカ社会を映す鏡のようでもある。ただし、イーストウッドの映画史のなかでは珍しいことではないが。それは。裁判所前の「正義の女神像」の天秤が常に揺れていることで映像的にわかりやすく示されている。
そして、その深い懐疑のなかで、それでも真実を目指して動く一人一人の人間の正義感がある。選挙で決まる検事総長になろうとする検事も、その同僚の真摯な弁護士も、陪審員たちも、「それでも」の論理で動いている。主人公の青年が最終的な告白によって真実に振り切れるのではないのが今作の特徴だが、この青年には「真実」を言い出せない状況が積み重ねられている。①アルコール障害からの立ち直り過程②かつての出産の失敗による心の痛み③妻への愛。かつてのイーストウッド映画とはことなって、青年はこれらの状況に打ち勝って真実を告白するのではないし、検事総長も自らの地位をなげうって真実を求めるわけではない。そうした行為の後、真実の蔓延ではなく状況による追求が延々と続くことがわかっており、それに辟易しているからだ。「それでも」やはりラストシーンで検事総長は青年の家の玄関に立つ。ここがイーストウッドのかっこいいところだ。しびれます。
2025 40本目
全98件中、1~20件目を表示












