陪審員2番のレビュー・感想・評価
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配信あるだけ御の字。
クリント・イーストウッド。
監督としては、1992年の「許されざる者」から2016年の「ハドソン川の奇跡」まではまさしく黄金期で、オレ個人としては、「アメリカン・スナイパー」(’15)のようにあまり好きではない作品があるにはあるが、素晴らしい作品ばかり。
ただし
前作「クライ・マッチョ」('21)という、あきれるほどの駄作を放ってしまったことで晩節を汚すことになってしまうのではと。スライの名作「オーバー・ザ・トップ」(’87)、そして蛇足の「ランボー ラスト・ブラッド」(’20)を彷彿させるが、それすらよく見えるほど。
もともとイーストウッドはそれほど政治的なテーマを全面に描き、自らの答えを出すほうではないが、少年がアメリカ人の父とメキシコ人の母の子だという設定が全然活きていないなど、「クライ・マッチョ」は言うなれば、商業作品としても「自覚」の足らない作品だった。
最新作は、アメリカでほんの一部の限定公開の末、配信に移り、日本では配信のみ、ということ。この流れで本作の「価値」はある程度想像はできる。
「陪審員2番」
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そりゃそうだ。
とにかく、プロットだけで進み、イーストウッドの、「いつもの結末」で終わる。絵的な驚きがないのはいつものことで、よく言われる彼の「手堅い演出」というのは、現場や役者陣の力量に依存している、とさえ思うほど目を見張るものがない。
そもそも論として、現代ではこの状況はほぼほぼあり得ないのだが、その「雑さ」を百歩譲ってみたとしても、真実と正義は必ずも一致しない、とは凡百の法廷サスペンスでも見かけるテーマ。
この映画で語るべき、最も確かな「正義」はある。
主人公側でいうなれば、飲酒運転をしないこと。精神的に不安定な時に、車を運転しないこと。土砂降りの中、わき目を振らずゆっくり運転すること。容疑者側でいうなれば、パートナーと公の場で喧嘩しないこと、土砂降りの中、パートナーを一人で帰らせないこと。(これは容疑者が最大の後悔といってたが、まさにその通り。)
良心の呵責と保身とか以前に「確固たる正義」を描けよと。つまりこれはイーストウッド自身の「自覚」にかかわる部分とも思えるほど、そこは一切触れていない。
作品がそうなのだから、実はイーストウッド自身もそうなんじゃないか、と見えてしまうわけだ。もちろん、その人となりについては、作品の評価とは関係はない。だが、名前でありがたがる人もいるわけで、「イーストウッド」の名前で目くらましを食らう。
イーストウッドは、後年しばらく「一般アメリカン人の正義、勇気」をいろいろな形で描いてきたわけで、本作の主人公もいわば「一般アメリカ人」。イーストウッド自身こそがその主人公(そして容疑者も)であったとするならば、と観ると、自身のやんちゃな人生の「自覚」や「自省」はあるのかもしれないが。
ワーナーはそれはもう「正しい」処置をしたと思う。
追記
コレット演じる検事もよくある役どころで、いつもの、最後に揺れる検事役。
サザーランドの役もひどいもの。シモンズもあり得ないキャラクター設定。
追記2
と同時に、主人公のニコラス・ホルトは頑張ってはいるが、この顔をみると、本作30年前のクルーズだったら、と思ったりしたのだが、意外とクルーズを意識した演技に見えた。
シビアな展開で描く人間の良心の脆さ
良心と保身の相克、偏見、人が人を裁くことの難しさ、そんな重い問いかけを孕んだ作品だが、イーストウッドは決して話をまとめるため、あるいは観客をひとつの結論に導くために美辞麗句を弄したりしない。
物語の終わらせ方は作り手の腕の見せどころのひとつだが、本作ではイーストウッドのセンスが炸裂している。彼が投げたボールにこちらの体が思わず反応する瞬間に終わる、そして複雑な余韻が尾を引く。
妊婦の妻を持つ主人公のジャスティンは、陪審員に召集され裁判に出席する。それはバーでの諍いの末夜道でパートナーを殺したとされる男性を裁くものだったが、詳細を聞くにつれ、その女性をひき逃げによって殺したのは自分だという確信を彼は抱き始める。
その夜、ジャスティンもまた現場のバーにいて、車で帰る途中に何かに衝突した。だが、酷い雷雨で状況を視認出来ないままその場を後にしてしまっていた。
ジャスティンは、彼の知る「真実」を告白することが被告のサイスを救う一番の近道と知りながら、そうすることが出来ない。アルコール依存の経歴を持つジャスティンがバーに立ち寄った後に起こした事故となると、重い罰を課される可能性が大きい。そして彼には妻と生まれくる我が子という、守らねばならない存在がいる。
しかし、だからといって法廷に立つ無実の被告をさっさと有罪にして、自らが疑われる可能性を確実に潰すことも彼には出来ない。「真実」を知っているからこそ良心の呵責が生じ、ほとんどの陪審員が有罪を主張する中、安直な決定を拒みさらなる議論を提案する。
だが、そうして議論を長引かせたことで、第三者による轢き逃げの線を探り出した元刑事チコウスキに車の修理記録を掘り出されたり、別の陪審員には「自分たちを操ろうとしている」と態度を疑われたりして、自分の首を絞めることになってしまう。
陪審員たちの議論のシーンも見応えがある。映画の冒頭、サプライズ演出のために目隠しされた妻のアリソンが大写しになり、その後裁判所のテミス像がいくたびも映される。テミスの目隠しは偏見を持たず法のみに基づいて審判を下すという理念の象徴だが、有罪を支持する陪審員たちの主張はその理念からは程遠いもので、サイスの属性や過去の素行と事件の嫌疑を切り離せないでいる。ただこれは、誰もが陥りがちな思考なのだろうとも我が身を振り返りつつ思った。
私たちは映画の主人公が、最後には倫理的に正しい答えに行き着くことを無意識に期待する。この映画で言えば、ジャスティンが最後には「真実」を告白し、冤罪であろう被告には無罪評決が下されてほしいと思う。
だが、イーストウッドの描写はどこまでも現実的だ。おそらくジャスティンが無罪の論調を翻したために(また、チコウスキを放逐したことも奏功して)陪審員は有罪で一致し、被告は仮釈放なしの終身刑に処される。良心を捨て家族を選んだ彼は、妻と生まれた子供との幸せを手にする。
一方、当初被告の有罪を頑なに信じていた検事のフェイスの心は、チコウスキとのやり取りを通じてジャスティンとは対照的な方向に傾いてゆく。陪審員を解任されたチコウスキと会話を交わす時に、自分の心に芽生えた疑念を自覚するフェイス。トニ・コレットが、わずかな表情の変化だけでフェイスの心の揺れを表現していて素晴らしい。
判決の日には、ジャスティンとフェイスの「真実」に対するスタンスは逆転している。裁判所前のベンチでの2人のやり取りは本作の静かなクライマックスだ。互いに事件の真犯人を三人称で呼びながら彼について言葉を交わすが、内心ではそれがジャスティンのことであり、相手もそう認識していると分かっている。
だが、疑惑の判決のもとに得たジャスティンの幸福もフェイスの名誉も、彼らの心に良心が残っている限りかりそめのものだ。ジャスティンはパトカーのサイレンに怯え、フェイスは検事長の椅子に居心地の悪さを覚える。
人は、自分の良心や罪悪感からは逃れられない。ラストでジャスティン宅のドアを叩いたフェイスの姿に、そんな思いが湧いた。
アルコール依存患者の互助会で唱えられたニーバーの祈り。変えるべきものを変える勇気を、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを。サイスの無罪を主張していた時のジャスティンは「人は変われる」と力説したが、果たして彼は変えるべきものを賢く選択したのだろうか。
これは個人的な解釈だが、事件の客観的な真相の描写は巧みに避けられているように見えた。ジャスティンがケンダルを轢いたことについて直接的な映像は出てこない。サイスが冤罪であることも、彼が証言する時の印象でしか描かれていない。「ジャスティンが犯人」はあくまで鉤括弧付きの真実のようにも見えた。
イーストウッドの真意はわからないが、その方が作品としての深みは増す気がする。本作は謎解きミステリーではなく、人間の良心の脆さを描く物語なのだから。
余談
良作なだけになおさら映画館で観たかったという思いはあるのだが、イーストウッドの近作の興行成績からして贅沢は言えない時代なのだろうと諦めている。製作も配給も映画館も商売。配信のメリットを生かして、住む地域を問わず多くの人に観られることを願う。
良作ではあるが、日本で配信スルーもわかる
イーストウッド監督の引退作とも言われるこの「陪審員2番」、ようやく鑑賞。丁寧で整った描写とよどみのない語り口は健在ながら、いかんせん法廷劇が米国ほど人気ジャンルでない日本の観客の多くにとって地味な話かなとは思う。ひき逃げを隠している陪審員役ニコラス・ホルト、被害者の恋人の男が殺人犯だと信じて疑わない検事役のトニ・コレット、元刑事の陪審員役J・K・シモンズらの演技もしっかりキャラクターを表現しているものの、シリアスかつサスペンスの基調ゆえ、登場人物らの人間味が物足りなく、親近感や共感を誘うようなエピソードも少ない。
脚本のジョナサン・エイブラムズは、「十二人の怒れる男」への賛歌として書いたとインタビューで語っている。ただし着想の一部と思われるのは、日本でも放送された「ヒッチコック劇場」の中の1編「償い(原題:The Star Juror)」。中年男の主人公ジョージは言い寄った女性に拒まれ、誤って殺害してしまう。だが素行の悪い青年が容疑者として逮捕され、その裁判の陪審員にジョージが選ばれる。陪審員の大多数は有罪に傾くが、良心の呵責からジョージは異議を唱え、被告をなんとか無罪にしようと試みる……というあたりまでの筋が似ている。
イーストウッド監督がエイブラムズの脚本を選んだのは、“真犯人が陪審員に選ばれる”という現実にはおよそあり得そうにない、いわば大人の寓話として良心と保身がせめぎ合う究極の状況を描きたかったからだろう。
トニ・コレットの検事や目撃証言をする地元の老人など、容疑者が犯人に間違いないと確信してしまうことで判断が偏る「確証バイアス」も、サブテーマとして提起される。こちらのテーマは、刑事裁判で起訴されたら有罪率99%以上で、冤罪事件が後を立たない日本に暮らす私たちにとって、寓話どころか現実すぎて気が滅入るポイントになっている。まあ、劇場公開が見送られるのも仕方ないか。
圧巻の傑作
映画館で観られる機会は訪れそうにないので、仕方ないので配信で観た。近年のイーストウッド作品の中でもかなりよくできた部類に入る作品ではないかと思った。特殊な見せ方は何一つしていない、しっかりした本を用意して、しっかりとキャスティングをして、しっかりと撮影する。揺れる天秤などメタファーも実にシンプルで奇をてらったものではないわけだが、出てくるタイミングが絶妙なので、すごい効果的だ。話の運びのテンポもいいので、全然ダレることがなく最後まで緊張感を持って見れてしまう。
真実は藪の中、ならぬ真実は雨の中、という作品なのだけど、目隠しされた女神の天秤像はアイロニーにも見えてくる。「見かけにとらわれずに偏見を持たず、お金や権力にも左右されずに公平に真実をジャッジするということを象徴」するのが目隠しされた正義の女神像なんだが、目が見えない=視界不良の激しい雨の中、という意味にも思えてくる。
ニコラス・ホルトの終始不安そうな眼つきがすごく良い。一方のトニ・コレットの目力は力強くて、自分に間違いはないといい自信に溢れているように見える。このイメージが最後まで映画を緊張感を与えていて、キャスティングって本当に重要だよなと改めて思った。
陪審員の中に事件の容疑者がいたとしたら。。。
嵐の夜、1組のカップルがバーで言い合いになり、女性は外に飛び出し、その後、橋の下で惨たらしい姿で発見される。容疑者として浮かび上がったのはバーにいた被害者の恋人で、招集された陪審員の多くは事件の目撃証言や状況証拠から有罪を主張する。しかし、それは正しい評決なのか?
これまでも、人々の大多数が信じる正義というものに疑問符を付けてきたクリント・イーストウッドは、事件の真相を究明するのではなく、あろうことか、異なる容疑者を陪審員の1人に加えることで事の成り行きを複雑にする。知られざる新たな容疑者は保身のために評決をミスリードし、そこに次期検事長の座を狙う敏腕検事や、多忙なために早く裁判を終わらせたい弁護士や、陪審員の中に捜査好きの元刑事を潜ませたりして、この物語の行方を曖昧にしていく。観客からすると、目が離せなくなる。
陪審員制度の問題点を突くことで、真実=正義という構図を一旦壊し、そこから、正義を諦めない人間の可能性へと繋げる語り口は、まさに、イーストウッドならでは。無駄のない演出は年齢を重ねても変わらぬ抑制力の賜物ではないだろうか。
法廷バトルモノかと思ってた
役者や演出のクオリティは高いので飽きずに観られるのだが、結構ベタな設定・展開で終わったので、淡白な印象。
冤罪を扱った作品なので、検事や弁護士、陪審員も少しおバカなのは仕方ないのだが、状況証拠だけで物語が進むのが違和感有り。
アメリカの法廷バトルモノ(ザ・プラクティスとか)で育ったので少し物足りない、、
もし自分が主人公と同じ境遇なら、とっとと陪審員から降りるだろう。
あるいは無罪を固辞しつつ、口を噤むか。
饒舌に「人は変われる」だの、「正義」だのを語り出すのは、ちょっとサイコパスすぎて理解できない。
そういう役割は元警察官のおじさんに任せればいいのにと思ったら途中脱落、再登場なしでしょんぼり。
ベタだが重く考えさせられるテーマ
規模は小さいながら人一人の苦悩、葛藤は辛くて面白かった。どんな善人とはいえ過去に一つくらいは過ちは犯しているし、その過ちに足は引っ張られる。そんな身につまされるような気持ちもありつつも映画的「そうなるか!?」もあってエンタメとしても面白さを発揮しているあたり流石監督!伊達にドキュメンタリー、暗い映画を撮ってきただけある。
結局最後まで"主人公がやっちまった"という実際のシーン(被害者と一緒に映ったシーン)が映していないため、鑑賞者も「これ本当にそうだったと思う?」というほんの少しのモヤモヤを残していて考えながら観ることができる。もちろん主人公がやってるんだが、そんな些細な演出があることで右往左往する主人公はとても他人事のようには思えない。
バッドエンドしか見えないまま始まったこの映画、ラストの判決には納得しつつもスッキリすることなんかなかったが本当のラストシーンには一言、「やっぱりな!見事!」
真実が正義とは限らない
クリントン・イーストウッドが自身の遺作として発表した本作がアメリカで物議を醸した。配給元のワーナーブラザーズが「まだ商業的魅力を持つ映画製作者にとっては奇妙なアプローチ」と称して、本作を一部限定的上映にとどめ一般公開を見送ったのである。映画自体はすでに2023年に出来上がっていたものの、時はバイデン民主党政権の真っ只中、司法の正義を世に問いただす映画などもってのほかとばかりワーナー側が忖度したのか、はたまた民主党陣営から圧力がかかったのかはわからない。その限定公開もトランプ政権が正式に発足してからというのだから、胡散臭いことこの上ないのである。日本の配給会社も当然ハリウッドの動きには逆らえないわけで、残念ながら劇場公開は見送られ配信のみの上映となってしまった1本だ。
ジャスティン・ケンプは雨の夜に車を運転中、何かをひいてしまうが、車から出て確認しても周囲には何もなかった。その後、ジャスティンは、恋人を殺害した容疑で殺人罪に問われた男の裁判で陪審員を務めることになる。しかし、やがて思いがけないかたちで彼自身が事件の当事者となり、被告を有罪にするか釈放するか、深刻なジレンマに陥ることになる。 映画.comより
陪審員の中で唯一容疑者が無罪であることを知っているジャスティン(ニコラス・ホルト)は、おそらく良心の呵責に耐えかねたのだろうか、ほとんどの陪審員が“有罪”に傾くなか、「もうちょっと審議を続けてみよう」と態度を保留する。やがて、医大に通っている日本人女性陪審員から“ひき逃げ”の可能性について指摘があると、なんと有罪:無罪が6:6のイーブンに。ここまでの展開はシドニー・ルメット監督の傑作法廷劇『12人の怒れる男』とそっくりだ。
すんなり犯人が無罪になってTHE ENDと思いきや、最近はすっかりなりを潜めておとなしめの映画ばかり作っていたイーストウッドは、最後の最後にして伝家の宝刀を再び抜いて、その切っ先を観客に突きつけるのである。『ダーティハリー・シリーズ』や『ミリオンダラー・ベイビー』、そして『アメリカン・スナイパー』でも見せていた、“法”と“良心”を禁断の秤にかける悪魔的演出を見せているのである。結論をあえて観客の手にゆだねるイーストウッド流の問いかけはいつも以上にキレがあり、リベラルの終わりの始まりが見えてきたちょうどその時期にぶつけてきたあたり、完全な確信犯と言えるだろう。身体はヨレヨレに見えるけれど、おそらくまったくボケていなかったのだ。
大学同期生の国選弁護人に「今のあなたは政治家だ」と指摘され、心の中に眠っていた良心がグラグラと揺れ出す遣り手女性検事フェイス・ブルーキラー(民主党殺し?)をトニ・コレットが好演している。直近の出演作の中でも出色の存在感と言えるだろう。事件をもう一度洗い直してみると、捜査線上になんと陪審員の一人ジャスティンが浮かび上がる。「僕は家族を守り、あなたは州民を守ればいい」すっかり人が変わってしまったジャスティンの言葉に、フェイスは自問自答を繰り返すのである。何かがおかしいのに、このままでいいの?
『ダーティハリー』では正義の鉄拳を弾劾される刑事、『ミリオンダラー・ベイビー』では再起不能ボクサーの自殺幇助に手を貸す老トレーナー、『アメリカン・スナイパー』では戦争中毒にかかった英雄を通して、イーストウッドは“法による正義”と“人としての良心”のどちらが人間にとって心地よい秩序をもたらすのかを問い掛け続けてきた。今作では“些細な殺人事件”を検事長になるためのステップとしか思っていなかった女性検事が、人としての良心に目覚め行動するまでを描いている。本作を観る限りこのイーストウッド、やっぱり“隠れトランピアン”だったような気がするのだがはたしてどうだろう。
そりゃね
疑いの時点でも自首しないとか。。。
ましてやもうすぐパパになる人なのにね。
奥さんも隠し通そうとしてた感じだよね。
罪もない人が終身刑になったってのにサイテー、、、
、、て思ってたら
ラストはやっぱり正義の真実を求めて弁護士がやってきたね。
そこでエンドだったけど、
あの後はもうね、そうだよね。
捕まる、弁護士は昇格したてだったけど降格、終身刑の彼は勿論無罪で釈放、警察は冤罪容疑、
て展開をあえて見せないラストにしたんだね。
一番厄介にしたのは、、
橋の近くに住んでる家のオジサンじゃない?
あのオヤジが犯人の顔を見たとかいって確かでもないのにコイツだ、とかいうから警察も確信持って信じてしまったんじゃん。
傑作です!感動しました
陪審員2番
21世紀の「12人の怒れる男たち」です
ことによるとイーストウッド監督によるリメイクだったかも知れません
陪審員達の言動に似たようなものがあります
かといって密室劇ではありません
真っ正面から司法制度の根幹は民主主義にあり、民主主義の根幹は国民の心の中にあるということを結論にした映画です
国民の心が腐敗したとき、民主主義も司法制度も社会自体が崩壊し、正義はなされなくなるのだというイーストウッド監督からのメッセージです
1950年代の「12人の怒れる男たち」のアメリカ国民だったら
本作でも同じように評決は一致して無罪で映画は終わった
21世紀はどうだ?
本作のようになったとしても、まだマシなぐらいだ
アメリカが病んでしまったのは私達国民が劣化したからだとの悲しい反省です
それ故に新しい大統領がああいう人になるのはあたり前だ
私達国民が正義の実現に目覚めないかぎりまだまだこういう世の中は続くのだろう
自分たちの世代がそうしてしまったんだ
そういう諦めに似た悲観的なトーンです
それが揺れる天秤です
それでもラストのノックで現れた人物はまだ諦めるなとの現役世代へのエールと期待でした
正義は必ず成されなけばならない
この映画もそう終わらなければならないのだという意味に受け止めました
劇的な絵作りはない映画ですが、蝉の声が急に大きく残響を持って聞こえてきて映画は終わります
その蝉の声が私達の心のなかでいつまでも消えることなく残るならばアメリカに正義は戻るのだという演出だったと思います
今時、こんな青臭い事を主張する映画を撮るなんて浮き世離れしていると言われても仕方無いのかも知れません
イーストウッド監督だからできることなのかも知れません
何も派手なことは何一つ起こりません
美男美女もです、有名俳優もひとりだけチョイ役ででるだけ
それでも素晴らしい脚本と演出に、あっという間に引き込まれて集中して目を離せなくなってしまうことでしょう
クリントイーストウッド監督94歳ながら衰えは一切感じません
むしろ、はしばしのこんな小さな所まで神経を行き届かせているのかと驚嘆するばかりです
たとえば、序盤でパーティーに集まった近隣の住民に主人公がスピーチをするシーン
「なんていい旦那さんでしょう!」というオバサンは横の自分の旦那に冷たい目を向けて言っています
日本では配信のみだそうです
残念です
逆に日本だけで劇場公開でヒットしていたなら誇らしいことにだったのに
せめてU-NEXTさんが見放題配信してくださって感謝するしかありません
本作の言っていることは日本国民にも当てはまります
今年の日本は選挙の夏になりそうです
JAL国際便でみれます
御大、まだまだいけますよ!!
久々に観ていて胃がチクチク痛む様な思いをしました。
私なら初審を最後に何かしら言い訳して陪審員を辞退するでしょう。
主人公ケンプも何故に最後まで付き合ったのか。
しかしながらケンプがひき逃げしたという確証も無く
時間差でケンドルが転落した後に本当に鹿を跳ね飛ばしたしれません。
そこを落とし所にするしかケンプの人生は救われませんが、、、
ラストシーンの展開の続きは?
しかし状況証拠と目撃証言だけで終身刑になってしまうのは怖すぎる。
こんなの見たことない&ネタバレ厳禁!
法廷物って、映画も小説も好きなので、結構見てます。
だけど、このストーリー展開は初めてかも。
実はチラッと映画.comの感想を見ちゃったんだよねー、しまったー。
というのも。
事件の犯人が最初に明かされるんです。コロンボ的な感じで。
それが誰かはすぐわかるけど、見ちゃったので驚きが・・・。
陪審員の事前評決、ほぼ「有罪」。
それが審議される話に、本当の犯人の心の中の話が挿入されていて。
いつバレるのか、被告はどうなるのか。
嫌な汗かきまくりでした。
渋い作品ではあるけど、劇場で見たかったよ(マジ)。
トニ・コレット、JKシモンズ、キファー・サザーランドの助演も、光りました。
⭐️今日のマーカーワード
「真実が正義とは限らない」
神様だぞ 粗末にするなよ!
このように劇場公開から配信に変わっていくのか
なぜか劇場公開されないイーストウッド監督の本作。国際線の飛行機の中で見たが大傑作だった。
「12人の怒れる男」ベースに陪審員自身が当時者になり困惑する展開は先行きどうなるか気になる作品だ。元警官JKシモンズの着眼点からの詮索からの発覚の退場あたりもかなりの盛り上がり。
そこからの展開も素晴らしく十分満足した。
司法のバグ
「正義(正しいこと)とは何か?」を観客に突きつけ、非常に丁寧に作られた、イーストウッド監督らしい見応えたっぷりのシリアスな法廷劇。
正義が不確かなこの時代。
思い付きで政治も経済も破壊しまくる大統領がいる時代には刺さる内容。
奇をてらってない。
天秤の傾きのイメージシーンなど、オーソドックスな演出。
ああ古臭いかもな、とさんざん油断させておいて、ラストには驚かされました。
そして司法って「事実」を基に「善意」と「誠実さ」で成り立つもので、「悪意」に弱く、また事実というのも「恣意的誘導」「不確かな記憶でも断言してしまう人」「信じたいことだけ信じる人間」によって歪められやすい、そんなシステム的なバグを抱えているんだ!
という指摘と、批判の精神が込められているようにも思えました。
これって、日本の冤罪事件などにも通じるなぁとしみじみ。
配信&ビデオ(Blu-ray)スルーになって、劇場で観られなかったのがもったいない作品でした。
ゾワゾワする。
タイトルなし(ネタバレ)
ある殺人事件の陪審員に選ばれたジャスティン・ケンプ(ニコラス・ホルト)。
初公判の日、事件のあらましを説明された際に、いやな思いが湧き上がってくる。
それは、事件が起きた同じ雨の夜、車を運転中、事件現場で何かを轢いてしまったこと。
確認したが何もなく、鹿が頻出する場所であることから、ぶつかった鹿がそのまま逃げたと思ってそのまま立ち去ったこと。
よもやあれが被害者女性だったのか・・・
といったところからはじまる物語で、2時間サスペンスだと「アホくさ・・・」と馬鹿にするような設定。
が、映画はそういうふうにならない。
というか、事件の真相は明確には描かれていない。
(まぁ、彼が轢いたと思うひとが大半かもしれないが、やっぱり鹿かもしれない)
主題は、クリント・イーストウッドがマルパソ設立当初からこだわってきたこと。
「ひとは人を裁けるのか。そして、裁きに正義があるのか」
(マルパソ第1作が『奴らを高く吊るせ』)
なので、裁きも正義も(事件の真相も)観る側に委ねられる。
演出的には丁寧で、事件そのものの描写は「目撃する者」と「事件当事者」とでは異なるため、同じシーンでも微妙に異なって撮られていますね。
近年のイーストウッド監督作品でも上位に位置する作品と感じました。
以下、余談。
わたしが主人公だったら、事件のあらまし聞いた時点で、事件の発端となったバーに居たんだから、「関係者です」と名乗り出ちゃうなぁ。
轢いたのは、やっぱり鹿で、事件には関係ない、と思い続けるかなぁ。
なにせ、ひき逃げ説が浮上するのは、評決審議の中。
公判では、ひき逃げ説は出ていないので、深く考えなければ、やっぱり鹿だなぁ、と。
まぁ、卑怯といえば卑怯だが、本作の主人公の心情よりは安心できるからね。
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