陪審員2番のレビュー・感想・評価
全86件中、1~20件目を表示
配信あるだけ御の字。
クリント・イーストウッド。
監督としては、1992年の「許されざる者」から2016年の「ハドソン川の奇跡」まではまさしく黄金期で、オレ個人としては、「アメリカン・スナイパー」(’15)のようにあまり好きではない作品があるにはあるが、素晴らしい作品ばかり。
ただし
前作「クライ・マッチョ」('21)という、あきれるほどの駄作を放ってしまったことで晩節を汚すことになってしまうのではと。スライの名作「オーバー・ザ・トップ」(’87)、そして蛇足の「ランボー ラスト・ブラッド」(’20)を彷彿させるが、それすらよく見えるほど。
もともとイーストウッドはそれほど政治的なテーマを全面に描き、自らの答えを出すほうではないが、少年がアメリカ人の父とメキシコ人の母の子だという設定が全然活きていないなど、「クライ・マッチョ」は言うなれば、商業作品としても「自覚」の足らない作品だった。
最新作は、アメリカでほんの一部の限定公開の末、配信に移り、日本では配信のみ、ということ。この流れで本作の「価値」はある程度想像はできる。
「陪審員2番」
・
・
・
そりゃそうだ。
とにかく、プロットだけで進み、イーストウッドの、「いつもの結末」で終わる。絵的な驚きがないのはいつものことで、よく言われる彼の「手堅い演出」というのは、現場や役者陣の力量に依存している、とさえ思うほど目を見張るものがない。
そもそも論として、現代ではこの状況はほぼほぼあり得ないのだが、その「雑さ」を百歩譲ってみたとしても、真実と正義は必ずも一致しない、とは凡百の法廷サスペンスでも見かけるテーマ。
この映画で語るべき、最も確かな「正義」はある。
主人公側でいうなれば、飲酒運転をしないこと。精神的に不安定な時に、車を運転しないこと。土砂降りの中、わき目を振らずゆっくり運転すること。容疑者側でいうなれば、パートナーと公の場で喧嘩しないこと、土砂降りの中、パートナーを一人で帰らせないこと。(これは容疑者が最大の後悔といってたが、まさにその通り。)
良心の呵責と保身とか以前に「確固たる正義」を描けよと。つまりこれはイーストウッド自身の「自覚」にかかわる部分とも思えるほど、そこは一切触れていない。
作品がそうなのだから、実はイーストウッド自身もそうなんじゃないか、と見えてしまうわけだ。もちろん、その人となりについては、作品の評価とは関係はない。だが、名前でありがたがる人もいるわけで、「イーストウッド」の名前で目くらましを食らう。
イーストウッドは、後年しばらく「一般アメリカン人の正義、勇気」をいろいろな形で描いてきたわけで、本作の主人公もいわば「一般アメリカ人」。イーストウッド自身こそがその主人公(そして容疑者も)であったとするならば、と観ると、自身のやんちゃな人生の「自覚」や「自省」はあるのかもしれないが。
ワーナーはそれはもう「正しい」処置をしたと思う。
追記
コレット演じる検事もよくある役どころで、いつもの、最後に揺れる検事役。
サザーランドの役もひどいもの。シモンズもあり得ないキャラクター設定。
追記2
と同時に、主人公のニコラス・ホルトは頑張ってはいるが、この顔をみると、本作30年前のクルーズだったら、と思ったりしたのだが、意外とクルーズを意識した演技に見えた。
シビアな展開で描く人間の良心の脆さ
良心と保身の相克、偏見、人が人を裁くことの難しさ、そんな重い問いかけを孕んだ作品だが、イーストウッドは決して話をまとめるため、あるいは観客をひとつの結論に導くために美辞麗句を弄したりしない。
物語の終わらせ方は作り手の腕の見せどころのひとつだが、本作ではイーストウッドのセンスが炸裂している。彼が投げたボールにこちらの体が思わず反応する瞬間に終わる、そして複雑な余韻が尾を引く。
妊婦の妻を持つ主人公のジャスティンは、陪審員に召集され裁判に出席する。それはバーでの諍いの末夜道でパートナーを殺したとされる男性を裁くものだったが、詳細を聞くにつれ、その女性をひき逃げによって殺したのは自分だという確信を彼は抱き始める。
その夜、ジャスティンもまた現場のバーにいて、車で帰る途中に何かに衝突した。だが、酷い雷雨で状況を視認出来ないままその場を後にしてしまっていた。
ジャスティンは、彼の知る「真実」を告白することが被告のサイスを救う一番の近道と知りながら、そうすることが出来ない。アルコール依存の経歴を持つジャスティンがバーに立ち寄った後に起こした事故となると、重い罰を課される可能性が大きい。そして彼には妻と生まれくる我が子という、守らねばならない存在がいる。
しかし、だからといって法廷に立つ無実の被告をさっさと有罪にして、自らが疑われる可能性を確実に潰すことも彼には出来ない。「真実」を知っているからこそ良心の呵責が生じ、ほとんどの陪審員が有罪を主張する中、安直な決定を拒みさらなる議論を提案する。
だが、そうして議論を長引かせたことで、第三者による轢き逃げの線を探り出した元刑事チコウスキに車の修理記録を掘り出されたり、別の陪審員には「自分たちを操ろうとしている」と態度を疑われたりして、自分の首を絞めることになってしまう。
陪審員たちの議論のシーンも見応えがある。映画の冒頭、サプライズ演出のために目隠しされた妻のアリソンが大写しになり、その後裁判所のテミス像がいくたびも映される。テミスの目隠しは偏見を持たず法のみに基づいて審判を下すという理念の象徴だが、有罪を支持する陪審員たちの主張はその理念からは程遠いもので、サイスの属性や過去の素行と事件の嫌疑を切り離せないでいる。ただこれは、誰もが陥りがちな思考なのだろうとも我が身を振り返りつつ思った。
私たちは映画の主人公が、最後には倫理的に正しい答えに行き着くことを無意識に期待する。この映画で言えば、ジャスティンが最後には「真実」を告白し、冤罪であろう被告には無罪評決が下されてほしいと思う。
だが、イーストウッドの描写はどこまでも現実的だ。おそらくジャスティンが無罪の論調を翻したために(また、チコウスキを放逐したことも奏功して)陪審員は有罪で一致し、被告は仮釈放なしの終身刑に処される。良心を捨て家族を選んだ彼は、妻と生まれた子供との幸せを手にする。
一方、当初被告の有罪を頑なに信じていた検事のフェイスの心は、チコウスキとのやり取りを通じてジャスティンとは対照的な方向に傾いてゆく。陪審員を解任されたチコウスキと会話を交わす時に、自分の心に芽生えた疑念を自覚するフェイス。トニ・コレットが、わずかな表情の変化だけでフェイスの心の揺れを表現していて素晴らしい。
判決の日には、ジャスティンとフェイスの「真実」に対するスタンスは逆転している。裁判所前のベンチでの2人のやり取りは本作の静かなクライマックスだ。互いに事件の真犯人を三人称で呼びながら彼について言葉を交わすが、内心ではそれがジャスティンのことであり、相手もそう認識していると分かっている。
だが、疑惑の判決のもとに得たジャスティンの幸福もフェイスの名誉も、彼らの心に良心が残っている限りかりそめのものだ。ジャスティンはパトカーのサイレンに怯え、フェイスは検事長の椅子に居心地の悪さを覚える。
人は、自分の良心や罪悪感からは逃れられない。ラストでジャスティン宅のドアを叩いたフェイスの姿に、そんな思いが湧いた。
アルコール依存患者の互助会で唱えられたニーバーの祈り。変えるべきものを変える勇気を、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを。サイスの無罪を主張していた時のジャスティンは「人は変われる」と力説したが、果たして彼は変えるべきものを賢く選択したのだろうか。
これは個人的な解釈だが、事件の客観的な真相の描写は巧みに避けられているように見えた。ジャスティンがケンダルを轢いたことについて直接的な映像は出てこない。サイスが冤罪であることも、彼が証言する時の印象でしか描かれていない。「ジャスティンが犯人」はあくまで鉤括弧付きの真実のようにも見えた。
イーストウッドの真意はわからないが、その方が作品としての深みは増す気がする。本作は謎解きミステリーではなく、人間の良心の脆さを描く物語なのだから。
余談
良作なだけになおさら映画館で観たかったという思いはあるのだが、イーストウッドの近作の興行成績からして贅沢は言えない時代なのだろうと諦めている。製作も配給も映画館も商売。配信のメリットを生かして、住む地域を問わず多くの人に観られることを願う。
良作ではあるが、日本で配信スルーもわかる
イーストウッド監督の引退作とも言われるこの「陪審員2番」、ようやく鑑賞。丁寧で整った描写とよどみのない語り口は健在ながら、いかんせん法廷劇が米国ほど人気ジャンルでない日本の観客の多くにとって地味な話かなとは思う。ひき逃げを隠している陪審員役ニコラス・ホルト、被害者の恋人の男が殺人犯だと信じて疑わない検事役のトニ・コレット、元刑事の陪審員役J・K・シモンズらの演技もしっかりキャラクターを表現しているものの、シリアスかつサスペンスの基調ゆえ、登場人物らの人間味が物足りなく、親近感や共感を誘うようなエピソードも少ない。
脚本のジョナサン・エイブラムズは、「十二人の怒れる男」への賛歌として書いたとインタビューで語っている。ただし着想の一部と思われるのは、日本でも放送された「ヒッチコック劇場」の中の1編「償い(原題:The Star Juror)」。中年男の主人公ジョージは言い寄った女性に拒まれ、誤って殺害してしまう。だが素行の悪い青年が容疑者として逮捕され、その裁判の陪審員にジョージが選ばれる。陪審員の大多数は有罪に傾くが、良心の呵責からジョージは異議を唱え、被告をなんとか無罪にしようと試みる……というあたりまでの筋が似ている。
イーストウッド監督がエイブラムズの脚本を選んだのは、“真犯人が陪審員に選ばれる”という現実にはおよそあり得そうにない、いわば大人の寓話として良心と保身がせめぎ合う究極の状況を描きたかったからだろう。
トニ・コレットの検事や目撃証言をする地元の老人など、容疑者が犯人に間違いないと確信してしまうことで判断が偏る「確証バイアス」も、サブテーマとして提起される。こちらのテーマは、刑事裁判で起訴されたら有罪率99%以上で、冤罪事件が後を立たない日本に暮らす私たちにとって、寓話どころか現実すぎて気が滅入るポイントになっている。まあ、劇場公開が見送られるのも仕方ないか。
圧巻の傑作
映画館で観られる機会は訪れそうにないので、仕方ないので配信で観た。近年のイーストウッド作品の中でもかなりよくできた部類に入る作品ではないかと思った。特殊な見せ方は何一つしていない、しっかりした本を用意して、しっかりとキャスティングをして、しっかりと撮影する。揺れる天秤などメタファーも実にシンプルで奇をてらったものではないわけだが、出てくるタイミングが絶妙なので、すごい効果的だ。話の運びのテンポもいいので、全然ダレることがなく最後まで緊張感を持って見れてしまう。
真実は藪の中、ならぬ真実は雨の中、という作品なのだけど、目隠しされた女神の天秤像はアイロニーにも見えてくる。「見かけにとらわれずに偏見を持たず、お金や権力にも左右されずに公平に真実をジャッジするということを象徴」するのが目隠しされた正義の女神像なんだが、目が見えない=視界不良の激しい雨の中、という意味にも思えてくる。
ニコラス・ホルトの終始不安そうな眼つきがすごく良い。一方のトニ・コレットの目力は力強くて、自分に間違いはないといい自信に溢れているように見える。このイメージが最後まで映画を緊張感を与えていて、キャスティングって本当に重要だよなと改めて思った。
陪審員の中に事件の容疑者がいたとしたら。。。
嵐の夜、1組のカップルがバーで言い合いになり、女性は外に飛び出し、その後、橋の下で惨たらしい姿で発見される。容疑者として浮かび上がったのはバーにいた被害者の恋人で、招集された陪審員の多くは事件の目撃証言や状況証拠から有罪を主張する。しかし、それは正しい評決なのか?
これまでも、人々の大多数が信じる正義というものに疑問符を付けてきたクリント・イーストウッドは、事件の真相を究明するのではなく、あろうことか、異なる容疑者を陪審員の1人に加えることで事の成り行きを複雑にする。知られざる新たな容疑者は保身のために評決をミスリードし、そこに次期検事長の座を狙う敏腕検事や、多忙なために早く裁判を終わらせたい弁護士や、陪審員の中に捜査好きの元刑事を潜ませたりして、この物語の行方を曖昧にしていく。観客からすると、目が離せなくなる。
陪審員制度の問題点を突くことで、真実=正義という構図を一旦壊し、そこから、正義を諦めない人間の可能性へと繋げる語り口は、まさに、イーストウッドならでは。無駄のない演出は年齢を重ねても変わらぬ抑制力の賜物ではないだろうか。
一人の悩める男
法廷ものの金字塔ともいえるシドニー・ルメット監督作「十二人の怒れる男」(57)を頭の片隅に思い出しながら、程よい緊張感に包まれた緻密な物語に固唾を呑んで見入ってしまいました。物語そのものは至って平凡な、日々のニュースでも出てきそうな題材でありながら、よく練られた脚本、俳優の自然な演技、そして何よりもストーリーテリングの妙によって、ぐいぐい引き込まれました。例えば、見せていく順序によっても全く違った作品になったと思いますが、事件当時の回想シーンをバラバラにして、どこで誰が何を回想するのかが絶妙なタイミングになっているので、登場人物らの心理状態の細やかな変化がしっかりと伝わってきました。主人公ジャスティン・ケルプ(ニコラス・ホルト)と妻アリソン・クルーソン(ゾーイ・ドゥイッチ)の過去の経緯をどこで観客に伝えるのか、それによっても印象は全く違ったものになったように感じます。印象といえば、本作の大部分を占める陪審員のやりとりの中で、各陪審員が様々な立場や経験に基づく犯人に対する印象によって有罪、無罪の判断をしていることを丁寧にフォーカスしていくところも見所でした。本人が「事実」と信じて疑ってないがゆえに、様々なバイアスによって見方を誤ることや、強い正義感による思い込みや、無意識下の自己都合が影響してしまう人間の身勝手さをじわじわとあぶりだしていく演出は非常に見応えがありました。J・K・シモンズやキーファー・サザーランドがしっかり脇を固める中、ニコラス・ホルトとトニ・コレットの演技は本当に素晴らしかったと思います。あのラスト・シーンもいいですね。誰が監督なんだろうとエンドロールを観ていて、クリント・イーストウッドの名前を観た瞬間、膝を打ってしまいました。94歳でこんな仕事をしているなんて、本当に感嘆いたしました。
気が滅入る
深い懐疑と「それでも」の論理
2024年。クリント・イーストウッド監督。妻の出産が近づいている青年は、ある殺人事件の陪審員になると、審議中にその事件の渦中にいたことに思い至る。実質的に自身の行為が被害者の死を招いたこと(過失致死)を疑いながら、相談した弁護士から申し出るのはやめた方がいいといわれて身動きができない主人公。無実の被告人が処罰されることに罪悪感を抱きながら、真実との間で行う決断とは。
まず、真実を求める法制度への深い懐疑がある。同期らしき検察官と弁護士は夜な夜なバーで「ないよりまし」な法制度をめぐって酒を酌み交わすし、ほかの陪審員たちの関心も真実の追求自体は断念したうえでの、被告人のふるまいに集中している。しつこいほど描かれる「真実への断念」は昨今のアメリカ社会を映す鏡のようでもある。ただし、イーストウッドの映画史のなかでは珍しいことではないが。それは。裁判所前の「正義の女神像」の天秤が常に揺れていることで映像的にわかりやすく示されている。
そして、その深い懐疑のなかで、それでも真実を目指して動く一人一人の人間の正義感がある。選挙で決まる検事総長になろうとする検事も、その同僚の真摯な弁護士も、陪審員たちも、「それでも」の論理で動いている。主人公の青年が最終的な告白によって真実に振り切れるのではないのが今作の特徴だが、この青年には「真実」を言い出せない状況が積み重ねられている。①アルコール障害からの立ち直り過程②かつての出産の失敗による心の痛み③妻への愛。かつてのイーストウッド映画とはことなって、青年はこれらの状況に打ち勝って真実を告白するのではないし、検事総長も自らの地位をなげうって真実を求めるわけではない。そうした行為の後、真実の蔓延ではなく状況による追求が延々と続くことがわかっており、それに辟易しているからだ。「それでも」やはりラストシーンで検事総長は青年の家の玄関に立つ。ここがイーストウッドのかっこいいところだ。しびれます。
2025 40本目
言い出せない悪
イーストウッド監督は物事を両面から考えさせる作品ばかりで好きだ。
本作もそう。
1年前の10月、前が見えないほどの豪雨の日に運転していて何かに当たった衝撃はあったが鹿に注意の標識もあり、何も見えないので鹿かも?と思った男が翌夏、陪審員に選ばれる。
タウン誌記者をしているが事件については何も知らずに参加した男。
家にはハイリスク妊婦の妻が待っていて本当はそばにいたい。
裁判について聞いてみると、それはもしや1年前、妻が双子出産予定日に流産したあの日、1人でバーに入った帰りに鹿に当たったかもしれないあの時か?と気づく。
被害者は鎖骨両方折れて頭蓋骨陥没するほどの現場写真に狼狽えて吐く男。
でも、男には飲酒運転の前歴と、妻の体調を最優先にしたい今と、子供が産まれ父親になる未来がある。
しかし、被害者の交際相手の元ヤンの人生がかかっている。第1級殺人なので、陪審員が有罪で一致すれば、おそらく死刑か終身刑。
裁判が進むたびに名乗り出るべきか揺れるが、妻子を守らねばならない未来を思うと、前歴の身でバーに入れば飲んでなくても飲酒運転轢き逃げとみなされ終身刑だろう。それはできない。
せめて陪審員によく考えさせようとする。
陪審員の中には、蓋を開けてみれば元シカゴ刑事の生花店おじいちゃんや一刻も早く帰りたい子持ちのおばちゃん、医師の卵など色々揃っていて、みんな検証にその気になり出すと、ひき逃げではという真実に迫ってきて、自分が追い詰められていく。
一方担当検事も、検事長になるため確実に有罪にする事に最初は躍起になっていたが、凶器も証拠もなく、勾留されている被害者の交際男性が本当に真犯人か確証が持てなくなっていく。
そこで、元シカゴ警察の陪審員が独自に調査したため陪審員から外された際に残した、修理歴がある車のリストをあたっていくと、男の妻に辿り着く。
家を訪ねて、夫婦の写真も後ろに飾ってある中で妊婦の妻と会話をするが、鹿をはねたのは違う道だと妻が答えるので、納得して家をあとにする。
いよいよ真犯人に気付くかと思ったが間一髪気付かず、判決は結局冤罪の交際男性が無期懲役。
判決直後、検事は車の持ち主の夫が陪審員2番だった事に漸く気付くが既に被告人は勾留されに連れ去られた後だった。
後味の悪い判決だが、無事検事長に上がり事なきを得たかに思えたものの。
出世祝いに届いた花に刺さる、宛名プレートには、検事の名前が。FAITH KILLBLUE。
アメリカの青は、民主党、憂鬱、陰湿、忠実などの意味を持つ。組織に忠実にのし上がったが事実を知りながら裁判結果に反映させずなんか晴れない心と真実を影に潜める陰湿をやっつけなければ!信頼という名前なんだから!という封印されそうだった正義感が飛び出してきたと一瞬でわかる、すごい名付けセンス。
ハイリスク妊婦な妻にも、1年前のような流産にならずに無事出産が訪れ、事実は伏せたまま子供との家族の人生が続くかに思われたが、ピンポーンと検事がやってきたところで映画は終わる。
実に後味悪く、クリントイーストウッド監督らしさ満載。
ただ、このあと、鹿をはねたと話していた別の場所にはいなかったという証拠が取れないと有罪にはできないのではと感じた。SUVの売却は決まった直後だが、現物があれば修理済でも何かわかるのか?
あの日あのバーに居合わせた証言はスタッフから取れても、立証は難しい気がした。
果たして男の人生はどうなってしまうのだろう?
モヤモヤするが、交際男性が大雨の中帰宅する被害者を放置したのと同じかそれ以上に、事実に気付きながら名乗り出ず、あの日あのバーにいたと気付かれたり再審にならないように最後の陪審員投票の日に欠席した故意の操作は罪深いだろう。陪審員の他のメンバーも違和感を感じていた。
世の中些細なことでも、真実とは違う内容で説明されていることなどごまんとある。
でもその結果、損する立場、得する立場がいるのかいないのか、よく考えることが、真実に気付く大事な習慣だったりする。
最近の選挙同様、誰かがよく考えようと言い出さないとなんとなく決まる流れは、日本人には多い。
アメリカでもそういうのあるんだなぁと見た。
真実、良心、正義、保身・・・人間の心の奥深さに問いかける作品。 クリント、引退しないで
いつ公開かと気になっていた映画でしたが、まさか配信とは。このような上質な映画が劇場公開されないのは残念で仕方ありませんが、観ることができたことに感謝。
よくある恋人同士の殺人事件。犯人は定石通り交際相手、そんな事件に絡む人々、陪審員・検察官・弁護士・その家族を本当に丁寧に分かりやすく描いています。序盤、弁護士と検察官の真っ向対立は「アラバマ物語」中盤の陪審員の有罪か無罪かは、まさに「12人の怒れる男」的展開。クリント・イーストウッド渾身の名作「硫黄島からの手紙」「父親たちの星条旗」を一本にまとめたような双方からの視点、本当に嬉しくなります。アメリカの良心、イーストウッドは、信じていますね。様々な問題を抱える国ですが、希望を感じさせてくれる、余韻に浸れる素晴らしい作品です。94歳、イーストウッド、凄すぎますが、まだまだ彼の作品は観たいですね。
法廷バトルモノかと思ってた
役者や演出のクオリティは高いので飽きずに観られるのだが、結構ベタな設定・展開で終わったので、淡白な印象。
冤罪を扱った作品なので、検事や弁護士、陪審員も少しおバカなのは仕方ないのだが、状況証拠だけで物語が進むのが違和感有り。
アメリカの法廷バトルモノ(ザ・プラクティスとか)で育ったので少し物足りない、、
もし自分が主人公と同じ境遇なら、とっとと陪審員から降りるだろう。
あるいは無罪を固辞しつつ、口を噤むか。
饒舌に「人は変われる」だの、「正義」だのを語り出すのは、ちょっとサイコパスすぎて理解できない。
そういう役割は元警察官のおじさんに任せればいいのにと思ったら途中脱落、再登場なしでしょんぼり。
ベタだが重く考えさせられるテーマ
規模は小さいながら人一人の苦悩、葛藤は辛くて面白かった。どんな善人とはいえ過去に一つくらいは過ちは犯しているし、その過ちに足は引っ張られる。そんな身につまされるような気持ちもありつつも映画的「そうなるか!?」もあってエンタメとしても面白さを発揮しているあたり流石監督!伊達にドキュメンタリー、暗い映画を撮ってきただけある。
結局最後まで"主人公がやっちまった"という実際のシーン(被害者と一緒に映ったシーン)が映していないため、鑑賞者も「これ本当にそうだったと思う?」というほんの少しのモヤモヤを残していて考えながら観ることができる。もちろん主人公がやってるんだが、そんな些細な演出があることで右往左往する主人公はとても他人事のようには思えない。
バッドエンドしか見えないまま始まったこの映画、ラストの判決には納得しつつもスッキリすることなんかなかったが本当のラストシーンには一言、「やっぱりな!見事!」
真実が正義とは限らない
クリントン・イーストウッドが自身の遺作として発表した本作がアメリカで物議を醸した。配給元のワーナーブラザーズが「まだ商業的魅力を持つ映画製作者にとっては奇妙なアプローチ」と称して、本作を一部限定的上映にとどめ一般公開を見送ったのである。映画自体はすでに2023年に出来上がっていたものの、時はバイデン民主党政権の真っ只中、司法の正義を世に問いただす映画などもってのほかとばかりワーナー側が忖度したのか、はたまた民主党陣営から圧力がかかったのかはわからない。その限定公開もトランプ政権が正式に発足してからというのだから、胡散臭いことこの上ないのである。日本の配給会社も当然ハリウッドの動きには逆らえないわけで、残念ながら劇場公開は見送られ配信のみの上映となってしまった1本だ。
ジャスティン・ケンプは雨の夜に車を運転中、何かをひいてしまうが、車から出て確認しても周囲には何もなかった。その後、ジャスティンは、恋人を殺害した容疑で殺人罪に問われた男の裁判で陪審員を務めることになる。しかし、やがて思いがけないかたちで彼自身が事件の当事者となり、被告を有罪にするか釈放するか、深刻なジレンマに陥ることになる。 映画.comより
陪審員の中で唯一容疑者が無罪であることを知っているジャスティン(ニコラス・ホルト)は、おそらく良心の呵責に耐えかねたのだろうか、ほとんどの陪審員が“有罪”に傾くなか、「もうちょっと審議を続けてみよう」と態度を保留する。やがて、医大に通っている日本人女性陪審員から“ひき逃げ”の可能性について指摘があると、なんと有罪:無罪が6:6のイーブンに。ここまでの展開はシドニー・ルメット監督の傑作法廷劇『12人の怒れる男』とそっくりだ。
すんなり犯人が無罪になってTHE ENDと思いきや、最近はすっかりなりを潜めておとなしめの映画ばかり作っていたイーストウッドは、最後の最後にして伝家の宝刀を再び抜いて、その切っ先を観客に突きつけるのである。『ダーティハリー・シリーズ』や『ミリオンダラー・ベイビー』、そして『アメリカン・スナイパー』でも見せていた、“法”と“良心”を禁断の秤にかける悪魔的演出を見せているのである。結論をあえて観客の手にゆだねるイーストウッド流の問いかけはいつも以上にキレがあり、リベラルの終わりの始まりが見えてきたちょうどその時期にぶつけてきたあたり、完全な確信犯と言えるだろう。身体はヨレヨレに見えるけれど、おそらくまったくボケていなかったのだ。
大学同期生の国選弁護人に「今のあなたは政治家だ」と指摘され、心の中に眠っていた良心がグラグラと揺れ出す遣り手女性検事フェイス・ブルーキラー(民主党殺し?)をトニ・コレットが好演している。直近の出演作の中でも出色の存在感と言えるだろう。事件をもう一度洗い直してみると、捜査線上になんと陪審員の一人ジャスティンが浮かび上がる。「僕は家族を守り、あなたは州民を守ればいい」すっかり人が変わってしまったジャスティンの言葉に、フェイスは自問自答を繰り返すのである。何かがおかしいのに、このままでいいの?
『ダーティハリー』では正義の鉄拳を弾劾される刑事、『ミリオンダラー・ベイビー』では再起不能ボクサーの自殺幇助に手を貸す老トレーナー、『アメリカン・スナイパー』では戦争中毒にかかった英雄を通して、イーストウッドは“法による正義”と“人としての良心”のどちらが人間にとって心地よい秩序をもたらすのかを問い掛け続けてきた。今作では“些細な殺人事件”を検事長になるためのステップとしか思っていなかった女性検事が、人としての良心に目覚め行動するまでを描いている。本作を観る限りこのイーストウッド、やっぱり“隠れトランピアン”だったような気がするのだがはたしてどうだろう。
そりゃね
疑いの時点でも自首しないとか。。。
ましてやもうすぐパパになる人なのにね。
奥さんも隠し通そうとしてた感じだよね。
罪もない人が終身刑になったってのにサイテー、、、
、、て思ってたら
ラストはやっぱり正義の真実を求めて弁護士がやってきたね。
そこでエンドだったけど、
あの後はもうね、そうだよね。
捕まる、弁護士は昇格したてだったけど降格、終身刑の彼は勿論無罪で釈放、警察は冤罪容疑、
て展開をあえて見せないラストにしたんだね。
一番厄介にしたのは、、
橋の近くに住んでる家のオジサンじゃない?
あのオヤジが犯人の顔を見たとかいって確かでもないのにコイツだ、とかいうから警察も確信持って信じてしまったんじゃん。
傑作です!感動しました
陪審員2番
21世紀の「12人の怒れる男たち」です
ことによるとイーストウッド監督によるリメイクだったかも知れません
陪審員達の言動に似たようなものがあります
かといって密室劇ではありません
真っ正面から司法制度の根幹は民主主義にあり、民主主義の根幹は国民の心の中にあるということを結論にした映画です
国民の心が腐敗したとき、民主主義も司法制度も社会自体が崩壊し、正義はなされなくなるのだというイーストウッド監督からのメッセージです
1950年代の「12人の怒れる男たち」のアメリカ国民だったら
本作でも同じように評決は一致して無罪で映画は終わった
21世紀はどうだ?
本作のようになったとしても、まだマシなぐらいだ
アメリカが病んでしまったのは私達国民が劣化したからだとの悲しい反省です
それ故に新しい大統領がああいう人になるのはあたり前だ
私達国民が正義の実現に目覚めないかぎりまだまだこういう世の中は続くのだろう
自分たちの世代がそうしてしまったんだ
そういう諦めに似た悲観的なトーンです
それが揺れる天秤です
それでもラストのノックで現れた人物はまだ諦めるなとの現役世代へのエールと期待でした
正義は必ず成されなけばならない
この映画もそう終わらなければならないのだという意味に受け止めました
劇的な絵作りはない映画ですが、蝉の声が急に大きく残響を持って聞こえてきて映画は終わります
その蝉の声が私達の心のなかでいつまでも消えることなく残るならばアメリカに正義は戻るのだという演出だったと思います
今時、こんな青臭い事を主張する映画を撮るなんて浮き世離れしていると言われても仕方無いのかも知れません
イーストウッド監督だからできることなのかも知れません
何も派手なことは何一つ起こりません
美男美女もです、有名俳優もひとりだけチョイ役ででるだけ
それでも素晴らしい脚本と演出に、あっという間に引き込まれて集中して目を離せなくなってしまうことでしょう
クリントイーストウッド監督94歳ながら衰えは一切感じません
むしろ、はしばしのこんな小さな所まで神経を行き届かせているのかと驚嘆するばかりです
たとえば、序盤でパーティーに集まった近隣の住民に主人公がスピーチをするシーン
「なんていい旦那さんでしょう!」というオバサンは横の自分の旦那に冷たい目を向けて言っています
日本では配信のみだそうです
残念です
逆に日本だけで劇場公開でヒットしていたなら誇らしいことにだったのに
せめてU-NEXTさんが見放題配信してくださって感謝するしかありません
本作の言っていることは日本国民にも当てはまります
今年の日本は選挙の夏になりそうです
JAL国際便でみれます
御大、まだまだいけますよ!!
久々に観ていて胃がチクチク痛む様な思いをしました。
私なら初審を最後に何かしら言い訳して陪審員を辞退するでしょう。
主人公ケンプも何故に最後まで付き合ったのか。
しかしながらケンプがひき逃げしたという確証も無く
時間差でケンドルが転落した後に本当に鹿を跳ね飛ばしたしれません。
そこを落とし所にするしかケンプの人生は救われませんが、、、
ラストシーンの展開の続きは?
しかし状況証拠と目撃証言だけで終身刑になってしまうのは怖すぎる。
全86件中、1~20件目を表示