セプテンバー5のレビュー・感想・評価
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前代未聞の報道で浮き彫りになる情報拡散のリスク
現場で起きていることを世界に伝えるという使命感と、スクープをものにしたいという欲求のもと、テレビマンたちは前代未聞のテロ中継映像を全世界に発信した。情報の拡散に潜むリスキーな側面に気づかないまま……
1972年のこの事件がはらむ報道のあり方への痛烈な教訓、国家間の対立にかかる問題は、2025年の今も全く色褪せていない。そのことに暗澹たる気持ちになる。
冒頭、オリンピック競技を中継するカメラのスピーディーなスイッチングがライブ感を印象付ける。特別な祭典を中継するABCクルーたちの晴れやかな緊張感が伝わってくる。しかしそれは、朝まだき選手村に響いた銃声によって一変する。
最前線の采配を任されたジェフリー・メイソンは、居合わせたクルーでの役割の割り付け、現場近くへのスタジオ機材の運び出し、放送枠の確保や警察無線の傍受など、未経験の状況ながらも的確に対応してゆく。メイソンは当時32歳(現在84歳で存命であり、本作についてのインタビューに答えている)。他のクルーも、20代から30代が中心だったという。
テロリストの不穏な動きと刻々と変わりゆく状況が、オープニングの競技中継のようなハイテンポで描き出され、最後まで緊張感が途切れない。
事件の前からその緊張感のそこかしこに、観客の気持ちを波立たせる要素が織り込まれる。ドイツ人通訳のマリアンネに見てとれる、第二次大戦でのドイツの罪とトラウマ。さりげなく言及されるアメリカとキューバの関係。時折他のクルーとは異なるスタンスが垣間見えるアラブ系クルーの言動。
描かれる事件はパレスチナとイスラエルの間の火種によるものだが、国家間の争いは最終的に悲劇を生むだけという点ではどこも同じなのだと言われているような気持ちになった。
そして、この物語が投げかけるもうひとつの重い問いは、やはりメディアのあり方だ。
テレビ放送の歴史自体がまだ浅い当時、報道部門のクルーでさえ経験がないであろうテロの生中継をスポーツ部門の若手クルーたちがやる。彼らには目の前の出来事を伝えるというテレビマンとしての使命があり、現場を任されたメイソンはその使命に対して最善の行動を取った。
クルーが選手の扮装をして選手村に潜り込んだり、犠牲者が出たのに人質解放のスクープ(結果的に誤りだったが)をものにして乾杯したりと、現代の感覚で見れば違和感を覚える場面もあったが、未来人の視点で事後諸葛亮のような批判をする気にはとてもなれない。今と比べると技術的にかなり限られた当時の情報収集手段、彼らが唐突に放り込まれた前代未聞の状況。現代のような細やかな(ある意味神経質なまでの)人権意識が醸成されていない半世紀前の時代の空気。同じ時代の同じ立場にもし私が立たされたなら、と考えただけで足がすくむ。
だが、中継によりテロリストに警察の動きが筒抜けになっていた点については、前例のない事態にぶっつけで臨んだ結果の痛恨の失態と言える。
報道の自由や知る権利はしばしば行き過ぎと見なされて批判を受けるが、本質的には守られるべきものだ。それらと背中合わせになったリスクを回避することの難しさをミュンヘンの悲劇は示し、その後の報道のあり方を考える上での貴重な礎になっているのではないだろうか。
90分続く緊張感に晒された後に最悪の結末を突きつけられ、エンドロールを見ながら言いようのない無力感に襲われた。だがそれは、良作を観たという手応えでもあった。ほとんどスタジオ内のみで完結する物語だが、単調さを微塵も感じないまま駆け抜けた実感があった。
本作のメッセージはそのまま、現代のメディアにも鋭く刺さる。加えて、50年前とは違いSNSというツールの魔力に振り回される市井の人間ひとりひとりも(もちろん私自身を含めて)そのメッセージを自分ごととして耳を傾けなければならない、という気持ちにもさせられた。
その発信で誰かの心身がおびやかされないか、その情報は裏取りをしたものなのか。情報は誰かを救うこともあれば、時に誰かの命をも奪い得るのだ。
結末は知っていても
ドキャメンタリータッチの95分ワンシチュエーションサスペンス。史上初のテロリズム生中継となってしまったミュンヘン事件をスタジオ中継室から描いているので悲劇的な結末は知っていても緊張する作品。
今や簡単にスマホでテロや戦争、殺人の映像が見られる世界と違い様々な技術的、倫理的に困難状況で苦悩し焦るTVスタッフの演技に惹き込まれた。
ミュンヘン事件は衝撃的で、いろいろな作品があるので、見比べてみても違いがあり興味深い。
その場にいるような臨場感と緊張感 当時の現場の混乱、世界の状況、何を考えていたのかを追体験することに意義がある
ミュンヘンオリンピックで人質事件が発生。
事件を全世界に発信するために奮闘する現地abcテレビスタッフたちの緊迫の1日!
観客は、まるでその場にいるような臨場感と緊張感を追体験する。
リアルタイムで刻一刻と変わる状況で、様々な問題に対応する現場判断は観ていて面白い。
また、1972年当時の設備、技術が再現されているのも見どころ。
唯一人、ドイツ語が話せる女性局員が、臨機応変に実力を発揮するのがいい。
事件は悲惨な結末を迎え、落胆する局員たちだったが、翌日の特別番組の準備がすでに始まっていて、何事もなかったかのように、また次の日の仕事が続いていく状況に虚無感を感じる主人公。
歴史的な事件の舞台裏を描きつつも、テレビ業界の非人間的な冷酷さを描いて終わる。
ただ、起きたことをドキュメンタリーのように描いただけで、なにがいいたいのかと思う人も要るに違いないが、当時現場で起きた出来事、当時の感情を、再現して改めて問うているに違いない。
それだけに、パンフレットの製作が無いのが残念でした。
ブラック・チューズデー‼️
この作品は、新たなジャーナリズム映画の秀作ですね‼️1972年のミュンヘンのオリンピックにおけるテロリストの襲撃事件を、報道局を主観として事件を描写しているにもかかわらず、観ている側にも事件の緊迫感、恐怖感が直に伝わってくる‼️これは役者さんたちの素晴らしい演技力によるところが大きいですね‼️そしてドキュメンタリータッチの演出で見せてくれるティム・フェールバウム監督の力も大きいです‼️72年当時を思わせるザラついた画面も印象的で、作品の肌触りとしてはポール・グリーングラス監督作を思い出しますね‼️そういえばグリーングラス監督作常連のコリー・ジョンソンも出演してますし‼️そして他局と放送の枠を取り合ったり、自分たちが報道したことで人質の家族への影響などの人権問題、そして警察による人質救出作戦の妨げになったりという、ジャーナリズムの問題点も指摘している‼️今作はテロリズムを初めての生中継した報道の力、その素晴らしさ‼️そして事件の顛末を考えると、ジャーナリズムの虚しさ、無力さを痛感させられる一作‼️ぜひスピルバーグ監督の「ミュンヘン」とセットで観たほうがいいでしょう‼️
何の感情も動かされない
半世紀前のドイツのオリンピックでのテロを今更映画化。
ぶっちゃけ消去法で見る作品なかったんで適当に鑑賞したんでこういう事言うのもどーかと思うんですけど、だから何?って感じ。
ABCがCBSを出しぬこーが、アナログ時代に苦労して中継してたんだよーとか、ドイツ政府が無能だったとか全体通してだから何って感じでした。
確かにテロで人質全員死亡っては痛ましいが、結果報道局全体がお通夜状態になる程他国に思い入れするか?とか私は今一ピンときませんでした。
世界初のテロ生中継に何があったのか……
ミュンヘンオリンピックで実際に起こったテロ事件を当時世界中継したアメリカの放送局ABCの内幕もの。
1972年の出来事ですから、当然、ネットも携帯電話もない時代。
目と鼻の先の場所で起きているテロについてどのように情報を仕入れ、その裏を取り、どのように伝えるか、といった裏側が克明に描かれます。
事件そのものはスピルバーグの『ミュンヘン』でも出てきているものですから出来事としては知っていました。ただ、それを報じたのは報道局のスタッフではなく、現地で中継をしていたスポーツ局のスタッフであり、早朝でカメラマンすらまともにいない状況で中継を始めていたことには驚きです。
また、国際中継であるためライバル局との時間の割り当てなどでも交渉がなされていたり、犯人が見ることを想定せずに映像を流してしまったため、テロ対策にも悪影響が出てしまうなど、かつて誰も経験してないが故の逸話なども含まれています。
邦画でも、一幕ものでテロをテレビ番組で扱うことを一つのテーマとした作品がありますが、こちらは事実ベースであり、その緊迫感や事件そのものと対峙したときのリアリティはまるで違うものでした。
本作や「ブルータリスト」といったユダヤ人の悲劇を描く作品が、なぜこのタイミングでというところに引っかかりはしますが、作品としては極上の逸品です。
実況
ミュンヘンオリンピックでこんな事件が起こってたなんて知らなかった。
突発的に起こった「黒い9月」によるテロ行為。イスラエルの選手団を人質に立てこもったらしい。
途轍もないスクープだし、前代未聞のテロだ。
平和ボケしたとは言わない。
まさか、だったのだと思う。
大多数の人類には平和の象徴であっても、一部の人類にとっては世界規模のプロパガンダでもあるのだろう。
作品自体は時系列に沿って展開されていく。
アレは当時の映像なのかな?そんなものを交えて物語は進む。TVクルー達の混乱は勿論描かれる。が…そんな事も含めて視聴者の視点が提供される。
で、倫理観というか、放送理論というか…情報を提供する側の価値観を見る事にもなる。
1972年からマスコミの考え方って変わらないんだなと思うし、全世界共通なのかなとも思う。
もしくはこの事件を機に「報道規制」なんて言葉が生まれたのかもしれない。
内部ではなく外部の詳細をつぶさに報道する。
それしか報道するネタがないからだけど、テロ犯に情報を提供する共犯者みたいなもんだ。
鎮圧する側からすると邪魔でしかない。
クルー間の問題やユダヤ人差別が下敷にあったりはしたものの、根本的には「実況」だった。
センセーショナルな事件ではあったけれど、それを凌駕するような何かがあるわけではなかった。
何を読み取るかは個人の造詣にもよると思われる。
Wikiを読んでみたけど、それで十分だったとも思えるし、その事件に再注目させた功績はあると思われる。
気に入らないのは「よくやった」と言われた時のジェフのリアクションで…これが「大惨事だったけどな」と和訳される。
随分とブレてんなぁと思う。
言ってもいいけど独り言とかボヤきにすればと思う。
ああ、そっかと思ったのは、まだメディアとして絶大な影響力をTVが有してた時代、TVマン達は「揺るがない真実」に固執してたんだなと思った。
それだけが自分達のアイデンティティであると。
それから数十年が経ち、我国のTVの没落ぶりはほぼ自業自得なんだなぁと思えた。
政府もそうだけど公的機関が勧めてくるものに裏があるような気がしてならない。今じゃ、悪魔的な暇つぶしにしか思えないもんなTVって。
…余談だけと、今日NEWSで「中学生が生成AIと chatGPTでプログラミングを自作して楽天に不正アクセス〜」みたいなNEWSがあった。
俺的には凄い衝撃的なNEWSでもあったんだけど、このNEWSもいずれ埋もれていくんだなと思うと危機感みたいなものを覚える。
風化ではなくて上書きされてく状態かな。
なんか、何でもいいんだけど1つのNEWSを徹底的に掘り下げるコンテンツがTVにはあってもいいように思う。
が…そんな気概さえないのだろうなぁ。
TVとか消費されてく運命みたいなとこあるもんな。
色々間違えてきてるような気もするなー
濃密
臨場感が凄い。まるで中継スタッフとしてその場にいるかのようだった。脚本、演出、編集、俳優陣の全てに隙がない。これは傑作。
史実はスピルバーグのミュンヘンで知っていたので展開は承知。事件はとても残念であり、あってはいけないことだが、現在の中東情勢をあらためて考えさせられる作品だった。
問われる報道の自由
スポーツの祭典を伝えるスタジオが瞬時にして血生臭い犯罪現場を伝えるスタジオに。
報道とは何か、報道が果たすべき役割とは。報道というものが抱える問題点をほぼ網羅した作品。
憲法が保障する知る権利を裏で支えるために報道の自由が権利として保障される。しかし特に民主主義社会においては有権者の民主制の過程における意思形成に寄与するために必要な情報提供するという社会的責務も負う。その義務の履行のために可及的に正確で迅速な情報提供が求められる。その公的役割を担う報道機関は営利企業的側面も有する。
発行部数確保、視聴率獲得。社会的使命感と営利追求の狭間で揺れ動きながらも報道機関として事実をありのままに伝えるマスメディアの姿。
舞台はミュンヘン五輪を中継するABCテレビのスタジオ。衛星を使用した世界同時生中継により世界中が連日繰り広げられるスポーツの祭典にくぎ付けとなる。
世界初の衛星による世界同時生中継がされた五輪大会が東京オリンピック、そしてその前年初めてアメリカと中継を結んで日本で生放送されたのはケネディ大統領暗殺のニュースだった。
その時の世界が受けた衝撃はすさまじいものがあった。現在のようにインターネットが普及していない時代に世界で起きた衝撃的事件が各家庭のテレビにタイムリーにダイレクトに映し出される衝撃。そしてそれは報道する側にとっても同じ。全世界が驚嘆する事件を自分たちが世界に先駆けて独占放送できることに報道陣として色めき立つのも理解できる。衛星生中継が可能になったことでスクープ合戦がより過熱したことだろう。
本作では少なくとも三つの報道が抱える問題点が描かれる。事実をありのまま伝えるべきかという報道倫理の問題、報道のもたらす弊害という報道被害の問題、そして誤報の危険性。
報道倫理。事件現場と近接した場所にスタジオが位置したABCテレビのクルーたちは建物の屋上にカメラを設置することで現場からの生中継に成功する。どこよりも独占的な生中継という力を得ることとなる。
犯人たちは人質を時間経過ごとに一人ずつ処刑すると宣言していた。このまま現場の生中継を続ければその生々しい殺害の瞬間映像をお茶の間に届けることになる。録画した映像を編集してから放送するのとはわけが違う。さすがに放送倫理に則りそのような場面が予想される前に中継を切り替えることでスタッフたちの意見は一致する。
報道被害。人質解放のためにドイツ警察が監禁場所を急襲する作戦を実行する。しかし生中継によりその急襲する警官たちの姿がテレビに映し出され、スタッフたちはこの映像を犯人たちも見てるのではないかといまさらながらに気づき、実際に犯人たちに見られていた。警察が中継をやめるようスタジオに乗り込んでくる。結局作戦は中止となる。
もしこの作戦が決行されていたなら多少の犠牲者を出しつつも人質全員の命が失われることはなかったかもしれない。この時点では確かにスタッフたちは悲劇の結末を知る由もないが、少なからず自分たちの犯した過ちを実感し慄然とする。しかし事態はめまぐるしく変化する、その変化に食らいつくのに必死なため自分達の行動を顧みる暇を与えてはくれなかった。
誤報の危険性。報道の役割は前述のとおり、可及的に正確な情報を伝えるためにはダブルチェックは不可欠だ。空港に到着した犯人グループから人質全員を救出したとの一報がスタジオに伝えられる。どこよりも先に自分たちが得た情報をいち早く報道したい。しかし完全に裏が取れていない情報でもある。スタッフたちを仕切るマーヴはダブルチェックを徹底しろとプロデューサーのジェフリーに念を押す。ジェフリーは選択を迫られる。他社に先んじて一番乗りで報道したい、しかし真実性には確信は持てない。苦肉の策として彼は噂によればという枕詞を使用するようキャスターに伝えて公表させる。
一報が流されてしまえば後は水流が小さな穴をいっきに流れ出し激流になるかの如く他の報道各社も追随し人質解放の報道が全世界を駆け巡った。ジェフリーを叱責するマーヴだったが、後に広報で確認が取れたためにそれ以上彼をとがめなかった。しかし、しばらくして真実が明らかになる。人質全員死亡という事実が。
噂によればという枕詞で誤報の責任が果たして免れられるだろうか。もちろん事実を断定しての報道ではなく正確には誤報ではない。しかしこの一報を聞かされた人質の家族やその関係者たち、彼らは事件が起きてから数時間もの間生きた心地がしなかったはずだ、そんなときに流れた人質全員解放という知らせを聞いてどれだけ胸をなでおろしたか。そしてその直後天国から地獄へと引き落とされるかのような急転直下の知らせを受けてどれほどの衝撃を受けただろうか。
報じてしまったからにはもう時間を元に戻すことはできない。いかに情報というものが一度流されてしまえば取り返しがつかないことになるかをABCテレビのスタッフたちは思い知らされただろうしそれは報道各社にとっても対岸の火事ではなかったはずである。
録画して編集に編集を重ねて上司のお墨付きを受けての放送ではない。予期せぬ突然の事態、起きた事件は国際的にも大きな関心事であるパレスチナ情勢をめぐる事件、対応したスタッフたちはスポーツ担当、本社報道からは荷が重すぎると言われた。しかしこの世界を揺るがすスクープを現場の目の前にいた我々が伝えなければならないという崇高な使命感と共に手柄を横取りされたくないという思いも確かにあった。
社を飛躍させるほどの特大スクープ、このスクープをものにすればもはや今後の出世が約束されたのも同然。そんな報道に携わる人間としての野心と自分もジャーナリストの端くれというプライドが混在する中で、事件をありのまま伝えようと奮闘した彼らの行いを一概に否定はできない、そしてこれが報道の在り方を再考するうえで大きな一石を投じたのも事実だ。
彼らABCのスタッフたちは偶然にも独占生中継をする特権を得た、権力を独占した。権力はもろ刃の刃だ。事実をありのままに伝えるということは社会にとって有益であるとともに時には有害でもある。報道は人々にとって必要で大切なものであると同時に人々を傷つけ最悪死にに至らしめるほど強力だ。だから報道は第四の権力といわれる。
権力を行使するには常に慎重さが要求される、どんなに差し迫った状況下に置かれていても。それが特権を与えられたものの義務でもあり使命でもある。
この事件の後、彼らは自分たちのしたことを総括したはずであり、それは報道各社も同じだろう。何が正しかったか、何が誤っていたか、あの時どうすべきだったか。そうして今回の経験を今後の報道姿勢に生かすべく糧としたはずである。こういった経験の積み重ねが現在の報道のありようを形作っているのだと信じたい。
本作はテロの脅威を伝える作品というよりはそれを伝える側のマスメディアがいかにあるべきかを問う作品。
いまやSNSの時代を迎え、報道の在り方やその真価が問われる時代。SNSに押されてテレビ新聞などの各メディアは世界中どこでも収益悪化にさらされている。
それに加えて相次ぐ不祥事や政権への忖度など、その信用性はマスごみ、オールドメディアなどと揶揄されるように地に落ちつつある。
そしてインターネット技術の進歩により彼らABCのスタッフたちが行ったような情報発信をなんら報道経験もない普通の人々ができる時代でもある。
情報発信の民主化と言えば聞こえはいいが、そんなSNS上で配信されるのは情報源が正体不明なものがほとんど。日々匿名性を盾にした真偽不明な情報が飛び交い、何の責任も負わず何の社会的使命感もない、ただ広告料目当てに閲覧数稼ぎのために注目を集めるためだけの情報が後を絶たない。そしてそれを無批判に信じてしまう利用者たち。
いまやABCスタッフたちが得た力を誰もが手軽に行使できる時代。長年現場で培われたノウハウや報道倫理、そんなものを持たない人間たちが報道の真似事を容易く行える。そこにはダブルチェックなど到底及ばない、それどころか確信犯的にデマを流すものまでいる始末。今のネットワークは無法地帯に近く、そこに垂れ流される情報はファクトチェックというフィルターに通さない、ろ過されない危険な汚水が水道の蛇口から垂れ流されているようなもの。だからこそ今報道の真価が問われている時でもある。
報道機関は自社名を堂々と前面に出して報道する。それは自分たちの情報に責任を持つことでもあり信頼性を保つことでもある。信頼を失わないために厳重なチェックを重ねて真実と確信したうえで報道する、だがどんなにチェックを重ねても人間だから誤ることもある、そうすれば迅速に訂正し謝罪する。そうして情報発信者側と受け取る側の信頼が築かれていく。古い歴史を持つ報道機関はそれを積み重ねて今がある。オールドメディアの強みはそこにある。オールドだけに新参者には決して真似できないものが。その信頼性が揺らげば利用者は離れていく。
しかし、そんな信頼関係もないネットの世界には信頼ではなく妄信だけがまかり通っているようにも思える。劣化してるのは発信者側だけでなく受け取り手側も同じかもしれない。
本作は秀逸な社会派サスペンスであると同時に現在信用を失いつつあるマスメディアにとって自戒の念をもたらしてくれるという意味でも大いに意義のある作品であった。
タイトルなし(ネタバレ)
1972年9月5日。
西ドイツ・ミュンヘンでは平和の祭典オリンピックが開催中。
選手村を、パレスチナの武装組織「黒い九月」が襲撃。
イスラエル選手団のコーチや選手を人質にとった。
現場周辺には多くの報道陣がいたが、テレビ生放送の設備を備えたのはABCのスポーツクルーのみ。
まだ生放送が一般的ではない時代だったのだ。
彼らは、テロ事件の一部始終をつぶさに放送することを決断する・・・
といった実録物語。
いわゆる、72年のミュンヘン五輪「黒い九月」事件を描いたものだが、同題材の過去作には『テロリスト/黒い九月』、スピルバーグ監督『ミュンヘン』がある(いずれも未見)。
が、本作はを報道側から描いた意欲作。
現在と比べると乏しい器材、乏しい情報のなかでの報道という、ある種「プロジェクトX」的な側面の面白さもあるが、人間の生命がかかった緊張状況、その側面を楽しむだけにはいかない。
ただならぬ緊張感が続く90分。
さらには、事件そのものの結末も「負け戦」であり、報道そのものも「世紀の大誤報」ともいえる報道を行ってしまうことになり、無力感が凄まじい。
事件を報道し続けるクルーたちは、現在のウクライナやパレスチナの混沌とした情勢を見続けるしかできない我々でもあるから、無力感をひとしお感じるのだろう。
出演者は、ジョン・マガロ、ピーター・サースガード、ベン・チャップリンと地味だが滋味。
三者三様の立場の描き方も興味深い。
英独通訳役のレオニー・ベネシュの気丈夫ぶりも印象に残る。
『シビル・ウォー/アメリカ最後の日』とあわせて観たい作品です。
今を考える映画、今観る映画
ガザ情勢はあるにせよ、何故今ミュンヘン五輪なのかと思っていたのですが、政治問題以外にも現在に通じる様々な課題を90分強の短い尺に盛り込み、とても見応えのある作品になっています。
・報道者魂 vs コンプラ、自主規制、裏取り
・組織内の衝突 リーダーシップvs 相互尊重
個人(ジェフ)の成長譚とも見れますね
・ITと人間 AIや自動翻訳機は勿論のこと携帯も
パソコンもない。知恵を絞り、考え抜いて工夫す
る。のりとハサミで切り貼り。
・今日は辛かった、とても疲れた。でも明日も仕事は
やってくる。もっと言うと人生はずっと続く。
人の死が数字に変わっても。
「コーヒー淹れてくれ」 無意識にお茶汲みは女子に言ってしまう時代。でも後でフォローを入れた描写はすごく良かったです。
実話を忠実に再現するも事件の真相までは届かず
ミュンヘンオリンピックを衛星放送駆使してリアルタイムで放送するABCテレビ。選手村のすぐ隣に設営していた事で選手村から銃声を聞く事になります。パレスチナ武装組織「黒い九月」がイスラエルの選手団を人質にして仲間の解放を目的として立てこもります。リアルタイムでこの事件を放送できる唯一の立場となったABCテレビのスポーツ班。それぞれの立場での意見が飛び交います。放送すべきの判断のもと様々な手段を講じて放送を続けます。この緊迫感やリアリティさはかなりの迫力です。実話を忠実に描いている事で、事件がどのような展開をしてるのかがかなりわかりづらい。仲間の解放を要求していたのが、次はヘリコプターを用意して空港へ行き海外逃亡へと要求が変わります。ヘリコプターに乗ると思ったら、そこにはバスで向かいます。空港に到着すると激しい銃撃となります。人質は無事なのかとなります。もたらせれたのは最悪の結果です。そして犠牲者のテロップで終了。なぜ銃撃戦となったのか?そもそも解放要求から海外逃亡に変わった経緯は何も説明がありません。テレビでの再現ドラマと内容が変わらないというのはやや残念に思いました。
緊迫感ある
映画でした。
わたしはこのようなことがあったことも、存じてませんでしたが、亡くなられた方々にはご冥福をお祈りします。
当時のアナログさがリアルでしたが、現代だったらどうなっていたのだろうと思いました。
所詮他人事
世界初の「テロの実況中継」という謳い文句だけど、同じ1972年に起きたあさま山荘事件のほうが早くないかな、と思った。
(あさま山荘事件は、追い詰められた末の立てこもりなので「テロ」の範疇にないのでしょうか)
子供の頃、あの中継を見た記憶がある。
酷寒の環境、警察と犯人との攻防、血まみれで搬送される隊員、そして、あの、見たこともない大きな鉄球の山荘破壊など、結構覚えている。テレビで生中継は、とんでもない視聴率を叩き出し、事件から50年以上経過した現在でも報道特別番組の視聴率日本記録とのこと。
まさか、これを知っていたわけではないですよね。
ほぼ放送局内での出来事で緊迫感はあるがそれほど切羽詰まったところもなく、テレビクルー達が一番気にしているのは視聴率で、所詮は他人事感が漂っているのがリアルで、テレビ人の性が面白かった。それだから犯人がテレビを見ているかも、というところに思いがいかないのだ。
「ショウタイム7」のみなさんと頭の中は同じなんだろう、と推測できる。
写真を現像したり、テロップの入れ方、犯人の顔写真の作り方、当時のアナログなやり方や機材そのものも再現が良かった。
それにしてもドイツが取ったのは悪手だった
空港での警察との銃撃戦と犯人側の自爆で人質全員死亡とは
強硬手段は人質がユダヤ人だったから犠牲が出ても良しとしたのか、と思う向きもでる。ドイツ人への怨恨がさらに拗れることにもなる。
ナチス・ドイツからの、せっかくの汚名返上、新生ドイツを全世界にアピールするはずだった大会が、後世に残る最悪のオリンピックとなり、さらに後まで尾を引く事態を引き起こすことになるとは。
また、人質全員解放、という希望的観測による早まった誤報を、政府高官が流すなんて。お粗末すぎてありえない失態を、全世界に中継してしまった。回復に向かおうとしたドイツの信用は、ここでまた地に落ちたよう。希望を持った分、落胆は深くなります。
奮闘した、クルー中のただ一人のドイツ人、マリアンネの悔しそうな、悲しそうな表情が、ドイツ人の多くの気持ちを代弁していたように思えた。
裏は取ったのか
『裏は取ったのか?』あたりまえだけど1番大事なこと
本当に現実は裏取りが曖昧過ぎて信じられなくなる
ラストの軍事施設に誘導した時はさすが!と思った
淡々と進むストーリーだけど緊迫した雰囲気が伝わって来た
報道の自由って、覗き見根性の事だろ?
ABCだけが、生放送をしていたので、スポーツ専門のチームの筈がテロの生放送をする流れになってしまい、予想外の出来事にあたふたするお話し。
映画ファンはみんな大好きショーン・ペンが制作に入っているので、作品の本気度が違う。
セットも出来るだけ本物を使って、徹底的にリハーサルしていて、いい役者を集めているので飽きさせない作りになっています。上映館が遠くても、劇場で見る価値は充分にあります!お勧めです!
と、まぁ、普通のレビューアーなら、ここまで終わる。
がぁー!?
コメントはくれないが、こんな謎文章だらけの俺のレビューを楽しみにしてくれている( だといいな?) フォロワーさんの為だけに、容赦ない突っ込みをするYO!
さぁ、虐殺タイムがはぁーじまぁーるよー!?
あのさ?ABCが生放送したせいで、テロリストに警察や軍の行動がバレバレになってしまうけど、それって生放送が原因だよね?
結果的に多くの死亡者が出たわけだけど、自分達、報道が間接的に人殺しをしたという自覚はあるのか?
世間が求めているから、報道しなければならないという信念らしいけど、テロリストが人殺しをしている所を見たいのは、世間じゃなくて、あなた方、報道でしょ?世間というのはあなたでしょ?( 人間失格より抜粋)
東日本大震災の時の、ヘリコプターで現地を飛び回っているTV局も、お前らのそのヘリコプターの騒音で、瓦礫の下にいて、助けを求めている人の声が聞こえなくなるって、想像できませんか?
死体が見つかったり、負傷者が見つかったりしたら、ここぞとばかりにカメラが寄るけど、人に対する敬意ってないの?
人の不幸を栄養分にして、生きているトコジラミ...、吸血鬼野郎ってのは、少なからず存在するが、主にTV業界に多い傾向がある。
俺が今はもう虫の息、アイアムチキン状態のフジテレビの連続ドラマで制作進行という名の小間使いをしていた時だけど、
同僚の男子が早朝からスタジオ撮影の現場に向かう途中、電信柱に激突して、会社の社用車の助手席側が無くなるくらい大破し、助手席に同乗していた女の子は集中治療室に入院するくらいの怪我をしました。
職場に向かう途中の事故だから、当然、労災が出るものと思っていたら、
撮影中じゃなかったから保険金は出ないし労災扱いにもしないから自腹で治療してください!と、フジテレビが通達があった。労災隠しかよ?
フジテレビは( 制作は共同テレビだったが) フジテレビ!呪われてしまえー!
と、20年近くずっと呪っていたが、やっと呪いが通じた!
みんな!夢は叶わない事もあるけど、呪いは結構な確率で叶うヨ!
☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
というわけで、俺は現実の人の不幸を楽しむ趣味はないので、創作物の人の不幸話を好むぞよ?
みんな、この映画の出来に騙されているけど、見方を変えれば、
人の不幸を何とかして見てみたい吸血鬼どもが、正義感の皮を被って、全世界の人間に晒す。
という、何ともおぞましい映画です。名優達の演技は流石だが、俺はこんな映画は許せない。
あー、腹が立ったから「 ミュンヘン」 を見直そう!人を感動させる為だったら、大量虐殺も厭わないスピルバーグ先生に敬礼!!
ハイル!ミュタンテ!!アクション!ムタンテ!
実際に起こった哀しい事件であるが、捉え方と描写がもひとつに感じた。
今作「セプテンバー5」は1972年9月5日発生した実際の事件、ミュンヘンオリンピック開催中にパレスチナ武装組織”黒い九月”によるイスラエル選手団の選手村襲撃事件の事をメディア報道視点で描いており 初めてテロを世界に向けて実況生中継したとされている。
しかし中継したことで警察の作戦行動がTVを通して晒され作戦変更を余儀なくされた事、後の空港への犯人ヘリ移送と銃撃戦との流れに繋がる。
何にせよ、無実なイスラエル選手団11人と警察官1名、犯人8人中5名が死亡。3人は逃亡図るが逮捕されたとされる。
この事件を受けてイスラエル側(モサド)がパレスチナに対して報復行動に。
この報復作戦映画が2005年「ミュンヘン」である。
こっちの映画は昔観ましたが、なんか電話取ったら爆弾でドカンとホテルの壁に穴が空いて・・・すんごい映画だったのを覚えてます。
確かエリック・バナさん主役でしたね。
今作の方は、ドキュメンタリチックな報道クルーの視点からの展開となってます。
よって 何やってんだか? 凄い慌ただしさは分かるのですがもう一つ重要さや
過激な部分のクロ-ズアップがほぼ無く、音声だけが語っている感じなんですよ。
立て籠もる犯人像と人質の安否とか、ヘリに乗せられた流れとか警察交渉とか、空港での銃撃戦がなぜ起こったとか・・・大事な所がぼやけてて。
何やネンの残念な思いが大きいです。
必死にドイツ語を通訳する女性だけがファインプレ-だった様な思いです。
空港でのヘリ移動後の銃撃戦。一時は人質解放とか?
一斉に喜んだとか思えば それは誤報で。
直ぐに訂正で 全員死亡とか・・・。
メディアの右往左往場面とか 未確認発表(人質安否)の半ば丁半博打的報道とか、誰が責任取るとか、まるで 巷のFテレビとB誌との報道の様相を呈してます。その程度の捉え方と 初めてのテロ中継をどうやって行ったとか、そっちの方が重点となっており ちょっと全体的にがっかりな構成を感じましたですね。
題材はシッカリしたテーマなのにね。
誰が報道側のドタバタに興味あって観るんだと思いましたね。
このミュンヘンオリンピック事件ですが
これも 米国大統領のガザに対しての動向注視しての公開なのでしょうね きっと。私的には、セプテンバー5 + ミュンヘン作品を足してちゃんと大作に再構成し直して公開されたら評価したい所でしょうか。あくまで希望ですがね。
公平でかつ平和な枠組みを持つ事が最優先されるべきだと感じます。
ご興味ある方は
今の内に劇場へどうぞ。
「真実」という言葉の功罪
例えば、ベトナム戦争は、初めてテレビでリアルタイムで見る戦争だった、という話を聞きます。その時に流れていた、アメリカ側(所謂「西側」)の野蛮で凄惨な行為がブラウン管をとおしてお茶の間に流れた結果、アメリカのみならず世界中で反戦デモが起き、アメリカ国民のベトナム戦争への意欲はみるみるうちに減退していったと言います。それが、結果的にベトナム戦争からアメリカ軍を撤退させたとも言います。わたしは、その時代に生まれてもいないので、実際のところは知りません。
真実というものは、とかく、「真実のようなもの」ほど「真実」と言われるように思います。そしてもう一つ、真実を求めることは「正義」だと思われています。特に、ジャーナリズムにおいて、真実の追求こそが職業倫理の頂点であるかのように信奉されてきたのだろうか、と思うのです。
ですが、果たしてその考えは合っているのだろうか、とこの作品を見て考えました。
1972年9月5日。ミュンヘンオリンピックに湧くドイツは、第2次大戦での苦い傷跡からの復興(精神的な意味でも)を込めて、平和の象徴とされるスポーツの祭典に国の威信をかけていました。その気持ちがどれほどのものか、世界中に見てもらうためにと用意したのは、選手宿舎も見渡せる膨大な数のカメラでした。
一方、世界中の関心が向く平和の祭典で自分たちの気持ちを知らせようとしていた者たちが、その時、暴力という手段でもって命をかけた行為に及んだのでした。
わたしが、この事件を知ったのは、かの有名なスティーブン・スピルバーグ監督作品である「ミュンヘン」を子供の頃に鑑賞した時です。まさか、オリンピックという平和の祭典の真っただ中でテロが起きていたなんて、と思ったことを覚えています。また、その頃は第2次大戦後から今も終わりなく続いている中東情勢(イスラエルとパレスチナを中心とした情勢)のことなど知る由もなかったため、何の話をしているのかまったく分からず、スピルバーグ監督がユダヤの血を引く方ということなど知りもしませんでした。それから十数年の時を経て、再びこの事件について映画をとおして知ることができるという事実は、端的に知的好奇心が擽られました。
ところで、最近まであったイスラエル(というのかネタニヤフ首相の個人的怨嗟なのかは分かりかねますが)の徹底的ともいえるほどのパレスチナ自治区への容赦なき攻撃が、実際にどのようなものだったのか、そもそも今回の攻撃は、ハマスによる強襲に激怒したイスラエルによる報復だったと思っているのですが、それらについて、結局わたしは真実を知りません。わたしは、そこにいないからです。
このように、わたしにとってテレビの見せる所謂「真実」とは、「真実のようなもの」でしかなく、わたしにとっての「真実」を引き寄せるための道具のような感覚があります。それは、「真実」という言葉に危険な中毒的作用が含まれるからだと考えるからです。つまり、「真実」という言葉は時として「正義」の象徴のように祭り上げられるのですが、その実、真実を知ることで傷付くこともあるし、余計にパニックになることもあるという副作用が大きいということ、何よりも危険だなと思うことは、そもそも人間という欲求の権化のような存在である我々にとって、「真実を知る」という行為は、一種の支配欲に通ずる快感を引き起こす麻薬的作用があると考えるからです。そして、その欲求を逆手にとって情報を金に換えた(あくまで個人的見解ですが)のが、メディアという職種だと思っています。時には嘘を振りまきメディア王(「市民ケーン」のモデルになった人のことです。)になった者もいれば、上記の通り真実を振りまくことで戦争を終結に導こうとした者もいました。なので、情報を取り扱う職業人には高い倫理観が必要なのだと思います。
この映画では、その倫理観について考える場面が幾つもあります。テロ事件が勃発した際に、テレビの放映権を巡って幹部が争う場面、嘘を吐いてまで進入禁止区域にカメラを入れようとする場面、その中で、警察の突入をテレビに映してしまい、その後、突入が中止になってしまう場面(テレビに突入作戦の模様が映ってしまったせいなのかどうかは明瞭ではなく、あくまで主人公が自責の念に駆られるだけではありますが。)、空港での銃撃がどうなったのか不明瞭な時に主人公がどう決断したのか、その結果がどのようなものだったのか、など。
確かに、「真実」はその時、その場にしかなかったのだと思います。オリンピックの試合よりも命のやり取りに気持ちが傾くのは、一人の人間として当然の欲求だとも思います。正直、色々書いているわたしも、この映画は単純にテレビのお仕事ものとしてすごく見応えがありましたし、一種のスパイサスペンスのような臨場感すら終始画面の中に感じられて、ホラーでもないのに無意識で座席を握りしめてしまいました。どうして、主人公が「カット」と言うだけでこんなに緊張するのかと思うほどのスリルを感じられ、当時の(というより常に報道の最前線にあるであろう)緊迫感を少しだけ体感することができました。
しかし、一方でそのようなスリルやスパイアクションのような快感こそが、当時の現場に流れていた「真実を知っていち早く伝える」という免罪符(個人的に言えばですが)の裏に隠されていた一種の「罪」のように思えてなりませんでした。
結果的に人質にされたイスラエルのオリンピアンは全員死亡、警官も1名死に、パレスチナ人(恐らくテロリストかと思われますが)も死亡し、事件は「終わり」を迎えます。あまりに悲劇的な終幕に肩を落とす主人公ですが、その翌日には追悼のための番組を仕切るよう上司に言われ、車に乗り込んだところで、この映画は唐突に終わります。まるで、一連の報道番組の終了とも被るような呆気ない幕切れでした。
この映画では、敢えてなのかも知れませんが、当時の中東情勢やPLO(パレスチナ解放機構)、ブラックセプテンバーについて、詳細に語られることはありませんでした。もしかすると、あまりその辺の情報を流さないことで政治的恣意性を排除しようとしたのかも知れません。また、あまりバックミュージックも流れず、現場に流れる音で当時の緊迫感を出していました。だからこそなのか、わたしは上記のような面白さとともに、わたし自身も受け入れていた罪を、最悪な最後でもって罪悪感というかたちで思い知ることになったのです。もしかすると、主人公たち報道陣も、自分たちが行っている行為の裏にある「特ダネをどこよりも最速で流してヒーローになる」というような功名心に対する罪悪感を、人質の救出というかたちでなかったことにしたかったのかも知れませんし、だからこそ、最悪な結果を受け容れられずにいたのかも知れません。つまり、自分たちの行為を正当化できるだけの「奇跡」や「勝利」が欲しかったかも知れないということです。答えは分かりません。そこにいた人たちにしか分からないのです。
現代、上記のとおり中東情勢は変わらず、血で血を洗うような憎しみの連鎖が続いています。家族を殺された子供が、大人になって敵側を殺す悪循環から、抜けられそうにありません。1972年9月5日に起こったことにどのような意味があったのか、当時テレビをとおしてその様子を見ていたおよそ9億人の視聴者たちだけでなく、この映画を観たわたしも、考えなければならないのかも知れません。
メディアの倫理観については、最近の日本でも、事件の被害者に対する対応から始まり、加害者側への悪質で恣意的な報道の仕方、その割に自身の不正を正そうとしない上層部の在り方や誤情報の発信についても取り沙汰されていますが、一方でそれをSNSで無遠慮に叩く市井による、一種数の暴力とも思える動きも多く見受けられ、わたし個人としては、どうにも「真実を追求する」とか「真実こそ正義」という風潮が、そもそも人間の在り方として正しいのか分からなくなってきたため、このような感想を書かせていただきました。
色々書いてきましたが、この映画だけを取り上げてみれば、上記で書いたとおり所謂「お仕事もの」としても十分に面白く、このような大事件を、ほぼスタジオの中だけで完結させているという点でワンシチュエーションものとしても想像力を駆り立てられるエンターテインメントになっていると思います(事件の被害者にとっては何とも言えないとは思いますし、上記したとおり、このような気持ちになること自体が危険なサインなのかも知れませんが)。個人的には、もう少しエモーショナルでも良かったかな、と思ったため、☆一つの半分を除かせていただきました。
極めて今上映されるに相応しい映画
1972年のミュンヘン五輪で起きたテロ事件を描いた映画。事件の当事者ではなく、事件の報道をするテレビクルーの視点で描かれています。
で、その視点こそ、この作品に対する好みが分かれるポイントじゃないかなと思います。描かれているのは、事件の犯人でも被害者でも、警察でもなく、その家族でもありません。報道するテレビ局です。だから基本的に事件を外から見るだけ。「外野じゃねえかよ」と思う人や、人質に感情移入する人は共感できないかもしれません。
奇しくも先週公開された『ショウタイムセブン』に続き、メディアのあり方を問う作品を2週連続で観ました。片方は現在を舞台にした作品。もう一方は生まれる前の事件を描いたもの。断然1972年のこの映画の方が、今この時代にマッチした映画だなと思いました。
メディアのミスリードが世論や事件の結果を変えてしまう。その危険性について、僕たちは改めて考えねばならないのではないかと思いました。
日本の大手映画会社ではほとんど作られないタイプの作品だと思います。こういう作品がたくさんの人に見られて、日本でももっと作られるようになればと願います。
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