「問われる報道の自由」セプテンバー5 レントさんの映画レビュー(感想・評価)
問われる報道の自由
スポーツの祭典を伝えるスタジオが瞬時にして血生臭い犯罪現場を伝えるスタジオに。
報道とは何か、報道が果たすべき役割とは。報道というものが抱える問題点をほぼ網羅した作品。
憲法が保障する知る権利を裏で支えるために報道の自由が権利として保障される。しかし特に民主主義社会においては有権者の民主制の過程における意思形成に寄与するために必要な情報提供するという社会的責務も負う。その義務の履行のために可及的に正確で迅速な情報提供が求められる。その公的役割を担う報道機関は営利企業的側面も有する。
発行部数確保、視聴率獲得。社会的使命感と営利追求の狭間で揺れ動きながらも報道機関として事実をありのままに伝えるマスメディアの姿。
舞台はミュンヘン五輪を中継するABCテレビのスタジオ。衛星を使用した世界同時生中継により世界中が連日繰り広げられるスポーツの祭典にくぎ付けとなる。
世界初の衛星による世界同時生中継がされた五輪大会が東京オリンピック、そしてその前年初めてアメリカと中継を結んで日本で生放送されたのはケネディ大統領暗殺のニュースだった。
その時の世界が受けた衝撃はすさまじいものがあった。現在のようにインターネットが普及していない時代に世界で起きた衝撃的事件が各家庭のテレビにタイムリーにダイレクトに映し出される衝撃。そしてそれは報道する側にとっても同じ。全世界が驚嘆する事件を自分たちが世界に先駆けて独占放送できることに報道陣として色めき立つのも理解できる。衛星生中継が可能になったことでスクープ合戦がより過熱したことだろう。
本作では少なくとも三つの報道が抱える問題点が描かれる。事実をありのまま伝えるべきかという報道倫理の問題、報道のもたらす弊害という報道被害の問題、そして誤報の危険性。
報道倫理。事件現場と近接した場所にスタジオが位置したABCテレビのクルーたちは建物の屋上にカメラを設置することで現場からの生中継に成功する。どこよりも独占的な生中継という力を得ることとなる。
犯人たちは人質を時間経過ごとに一人ずつ処刑すると宣言していた。このまま現場の生中継を続ければその生々しい殺害の瞬間映像をお茶の間に届けることになる。録画した映像を編集してから放送するのとはわけが違う。さすがに放送倫理に則りそのような場面が予想される前に中継を切り替えることでスタッフたちの意見は一致する。
報道被害。人質解放のためにドイツ警察が監禁場所を急襲する作戦を実行する。しかし生中継によりその急襲する警官たちの姿がテレビに映し出され、スタッフたちはこの映像を犯人たちも見てるのではないかといまさらながらに気づき、実際に犯人たちに見られていた。警察が中継をやめるようスタジオに乗り込んでくる。結局作戦は中止となる。
もしこの作戦が決行されていたなら多少の犠牲者を出しつつも人質全員の命が失われることはなかったかもしれない。この時点では確かにスタッフたちは悲劇の結末を知る由もないが、少なからず自分たちの犯した過ちを実感し慄然とする。しかし事態はめまぐるしく変化する、その変化に食らいつくのに必死なため自分達の行動を顧みる暇を与えてはくれなかった。
誤報の危険性。報道の役割は前述のとおり、可及的に正確な情報を伝えるためにはダブルチェックは不可欠だ。空港に到着した犯人グループから人質全員を救出したとの一報がスタジオに伝えられる。どこよりも先に自分たちが得た情報をいち早く報道したい。しかし完全に裏が取れていない情報でもある。スタッフたちを仕切るマーヴはダブルチェックを徹底しろとプロデューサーのジェフリーに念を押す。ジェフリーは選択を迫られる。他社に先んじて一番乗りで報道したい、しかし真実性には確信は持てない。苦肉の策として彼は噂によればという枕詞を使用するようキャスターに伝えて公表させる。
一報が流されてしまえば後は水流が小さな穴をいっきに流れ出し激流になるかの如く他の報道各社も追随し人質解放の報道が全世界を駆け巡った。ジェフリーを叱責するマーヴだったが、後に広報で確認が取れたためにそれ以上彼をとがめなかった。しかし、しばらくして真実が明らかになる。人質全員死亡という事実が。
噂によればという枕詞で誤報の責任が果たして免れられるだろうか。もちろん事実を断定しての報道ではなく正確には誤報ではない。しかしこの一報を聞かされた人質の家族やその関係者たち、彼らは事件が起きてから数時間もの間生きた心地がしなかったはずだ、そんなときに流れた人質全員解放という知らせを聞いてどれだけ胸をなでおろしたか。そしてその直後天国から地獄へと引き落とされるかのような急転直下の知らせを受けてどれほどの衝撃を受けただろうか。
報じてしまったからにはもう時間を元に戻すことはできない。いかに情報というものが一度流されてしまえば取り返しがつかないことになるかをABCテレビのスタッフたちは思い知らされただろうしそれは報道各社にとっても対岸の火事ではなかったはずである。
録画して編集に編集を重ねて上司のお墨付きを受けての放送ではない。予期せぬ突然の事態、起きた事件は国際的にも大きな関心事であるパレスチナ情勢をめぐる事件、対応したスタッフたちはスポーツ担当、本社報道からは荷が重すぎると言われた。しかしこの世界を揺るがすスクープを現場の目の前にいた我々が伝えなければならないという崇高な使命感と共に手柄を横取りされたくないという思いも確かにあった。
社を飛躍させるほどの特大スクープ、このスクープをものにすればもはや今後の出世が約束されたのも同然。そんな報道に携わる人間としての野心と自分もジャーナリストの端くれというプライドが混在する中で、事件をありのまま伝えようと奮闘した彼らの行いを一概に否定はできない、そしてこれが報道の在り方を再考するうえで大きな一石を投じたのも事実だ。
彼らABCのスタッフたちは偶然にも独占生中継をする特権を得た、権力を独占した。権力はもろ刃の刃だ。事実をありのままに伝えるということは社会にとって有益であるとともに時には有害でもある。報道は人々にとって必要で大切なものであると同時に人々を傷つけ最悪死にに至らしめるほど強力だ。だから報道は第四の権力といわれる。
権力を行使するには常に慎重さが要求される、どんなに差し迫った状況下に置かれていても。それが特権を与えられたものの義務でもあり使命でもある。
この事件の後、彼らは自分たちのしたことを総括したはずであり、それは報道各社も同じだろう。何が正しかったか、何が誤っていたか、あの時どうすべきだったか。そうして今回の経験を今後の報道姿勢に生かすべく糧としたはずである。こういった経験の積み重ねが現在の報道のありようを形作っているのだと信じたい。
本作はテロの脅威を伝える作品というよりはそれを伝える側のマスメディアがいかにあるべきかを問う作品。
いまやSNSの時代を迎え、報道の在り方やその真価が問われる時代。SNSに押されてテレビ新聞などの各メディアは世界中どこでも収益悪化にさらされている。
それに加えて相次ぐ不祥事や政権への忖度など、その信用性はマスごみ、オールドメディアなどと揶揄されるように地に落ちつつある。
そしてインターネット技術の進歩により彼らABCのスタッフたちが行ったような情報発信をなんら報道経験もない普通の人々ができる時代でもある。
情報発信の民主化と言えば聞こえはいいが、そんなSNS上で配信されるのは情報源が正体不明なものがほとんど。日々匿名性を盾にした真偽不明な情報が飛び交い、何の責任も負わず何の社会的使命感もない、ただ広告料目当てに閲覧数稼ぎのために注目を集めるためだけの情報が後を絶たない。そしてそれを無批判に信じてしまう利用者たち。
いまやABCスタッフたちが得た力を誰もが手軽に行使できる時代。長年現場で培われたノウハウや報道倫理、そんなものを持たない人間たちが報道の真似事を容易く行える。そこにはダブルチェックなど到底及ばない、それどころか確信犯的にデマを流すものまでいる始末。今のネットワークは無法地帯に近く、そこに垂れ流される情報はファクトチェックというフィルターに通さない、ろ過されない危険な汚水が水道の蛇口から垂れ流されているようなもの。だからこそ今報道の真価が問われている時でもある。
報道機関は自社名を堂々と前面に出して報道する。それは自分たちの情報に責任を持つことでもあり信頼性を保つことでもある。信頼を失わないために厳重なチェックを重ねて真実と確信したうえで報道する、だがどんなにチェックを重ねても人間だから誤ることもある、そうすれば迅速に訂正し謝罪する。そうして情報発信者側と受け取る側の信頼が築かれていく。古い歴史を持つ報道機関はそれを積み重ねて今がある。オールドメディアの強みはそこにある。オールドだけに新参者には決して真似できないものが。その信頼性が揺らげば利用者は離れていく。
しかし、そんな信頼関係もないネットの世界には信頼ではなく妄信だけがまかり通っているようにも思える。劣化してるのは発信者側だけでなく受け取り手側も同じかもしれない。
本作は秀逸な社会派サスペンスであると同時に現在信用を失いつつあるマスメディアにとって自戒の念をもたらしてくれるという意味でも大いに意義のある作品であった。