名前のノートのレビュー・感想・評価
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アウグスト・ピノチェト
2023年制作
2025年公開
監督と脚本は『オオカミの家』『ハイパーボリア人』のクリストバル・レオンとホアキン・コシーニャ
脚本は他に『オオカミの家』『ハイパーボリア人』のアレハンドラ・モファット
2024年・第48回オタワ国際アニメーション映画祭出品作品
チリのピノチェト軍事政権下で行方不明となった未成年者たちを追悼したアニメ作品
終盤に犠牲者の名前が次々に読み上げられる
アニメーションだが扱っている内容が内容だけに愉快なものではない
それでも仮にもアニメなのだから『愛してるって言っておくね』のような表現はほしかった
チリで何が起きたのかある程度は詳しくないと面を食らう
このような形でのアニメーションという表現方法が適切かどうか疑問
カンボジアのポルポト政権に比べると日本での知名度はなぜかかなり低い
自分の思い込みか
これもまたアメリカの影響なのか
ポルポトはマルクス主義者だがピノチェトは反マルクス主義だからだろうか
犠牲者がマルクス主義者なら「しゃーない」なのか
1973年に選挙によって選ばれたチリの大統領はマルクス主義者
民主的な自由選挙で誕生した世界初のマルクス主義者の国家首脳サルバドール・アジェンデ
アメリカ大統領ニクソン大統領は強く反発
チリは大混乱
アメリカの支援を受けたチリ陸軍総司令官アウグスト・ピノチェトはクーデターを起こしアジェンデ大統領は拳銃で自殺
クーデターを成功させたその日にアジェンデ大統領を支持していた民衆たちを集め全員殺害
マルクスはもちろんのこと社会主義関連の書物はほぼ全て焼き払われた
翌年大統領に就任したピノチェトは更なるアカ狩りを指導し1973年から1990年にかけて死者行方不明者は三千人を優に超えた
アメリカの支援を受け続け陸軍から支持されるもの空軍海軍の反発を受けて90年ついに大統領を辞任
だが陸軍総司令官は引き続き君臨し退任後も大統領経験者だけがなれる終身上院議員に就任し反ピノチェト政権に圧力を加え続けてきた
2006年に軍病院にて91歳で他界
拷問をやめるよう説得するため訪問したローマ教皇に対するピノチェトの発言は強烈
その自信満々な軍人の言いっぷりは支持こそしないが不謹慎ながら感心してしまう
さすがの教皇も呆れていた
仮に90年代にこんなアニメを見せられても多くの日本人からすればチンプンカンプン
だが今はインターネットがある
スマホで気軽に調べられる
入門編として有意義かもしれない
突破口は必要だ
政治弾圧によって遺族になってしまった人たちからすれば無関心が1番辛い
作品そのものは高く評価はできない
政治的メッセージと作品の価値は全くの別物
アート的にも自分の好みに全く合わない
鑑賞者によっては感動もするだろう
それは別に構わない
尊重しよう
8分の経験は無駄ではなかった
だが映画には娯楽性が欲しい
たとえ低予算だろうと実験的だろうとドキュメンタリータッチだろうと
このショートムービーもチリのクーデターについて詳しく特集したドキュメンタリーのオマケとしてなら良いのだが単体では鑑賞する側としてはかなりキツイ
【”社会を良くする事を夢見た少年達の名前は、ノートには無い・・。”ピノチェト独裁政権下、行方不明になった若者達を追悼する陰鬱、重厚なアニメーション作品。】
だから、アカデミー賞は取れない。
消しては描く作業。3Dを使ったストップモーションよりも技術は必要とされんじゃないかなぁ。
ベトナムの水上劇場と同じで、抑揚が無くても技術は凄く必要に感じる。
ピノチェトのバックボーンが美国なのだろうから、今はどうなったのだろうか?
濃縮された時間・記憶
事前に作品背景など調べずに鑑賞。
まずはノートに消し直して描かれるために残る、ノートの痕跡に意識が向かう。
普通のコマ撮りは1シーン描いたら新しい紙を使い描き直すため必要な線以外は残らないが、消した跡からノートの同じ1ページに描かれたものだとわかる。
オオカミの家の壁絵を思い出す。
描かれたものが消され、また描かれて消され…この作品が作られるための行為自体が、「消された名前」「無かったことにされた名前」のイメージを生々しく伝える。
一人ひとりの名前が読み上げられるシーンでは、最愛の人の名前をそっと囁くように。
コマ撮りで動きをつくるために次々に目まぐるしく進む時間と、その一瞬にしか使われない1枚のノートに刻まれた線が、次々に進み、あれよあれよと過ぎ去っていく。
日々の生活で、目まぐるしく状況が進み続ける中、ふと意識を向けようとした時にはその出来事は、この作品の一瞬前のページのように消し進み痕跡しか残っていない。
忘却がなければ生きられないけれど、忘却されぬ者の存在を、頭ではなく身体で感じる物語だった。
短いけれど、短いゆえに、濃密な作品。
8分という時間は、∞への祈りを感じる。
知ってりゃね、それなりの重みがね
不在の点呼
映画というのは、映像に台詞や音楽を載せる、つまり映像ありきのものだと思ってる。
だが、本作はまったく逆の印象を受けた。
曲を元にMVが作られるように、読み上げられた文章を元にイメージ映像をつけたような。
工程としては小説の実写化もそうなのだけど、似て非なるというか…
そんなワケで、『映画』かと言われると首を傾げざるを得ない。
ただ、抑揚を抑えた朗読は静かな、けど決して乾ききることのない怒りや悲しみを感じてよかった。
映像内のモチーフは分からないものも多かったけど。
追悼
ocho
ノートの上で綴られる追悼ストップアニメーションで、全く薄めずの原液をそのままといったスタイルでした。
ナレーションと音楽、そして燃やし破られのストップアニメーションで行方不明者たちを読み上げる感じで、日本語ではないからか重みはまだ緩和されているものの、日本語だと淡々と聞き馴染みのある言葉が流されるとドッとくるものがあるのではないかなと考えてしまいました。
1973-2023と現在もなお続いているというのが強烈なメッセージとして添えられている作りも良かったです。
単独でタメになる、とまではいかないまでもストップアニメーションのクオリティは高いし、8分という時間に詰め込まれた歴史は重くのしかかっているなと思いました。
鑑賞日 2/12
鑑賞時間 16:25〜17:50
座席 K-11
※「ハイパーボリア人」併映
「文字」にまつわるアニメ制作を、軍事政権に散った若者たちへの追悼の祈りに変える試み。
『ハイパーボリア人』の併映にて。
本編の実写長篇のほうはまったく乗れなかったが、
こちらは地味ながら、まだやりたいことは伝わった。
「文字モチーフ」を用いた「手書きアニメ」という、ある意味斬新なチャレンジ。
(「文字のアニメ」自体は、それこそ雨宮慶太『牙狼~GARO』なんかも含めて、いくつか前例は思いつくが、追悼のノートという題材は面白いと思う。)
『ハイパーボリア人』のように妙におちゃらけていない分、政治的側面も含めて素直に観られた。「軍事政権下で無名の者のように喪われた者の個人としての名前を、人々の記憶と記録に残す」という制作意図も明確だし、それを美術館における一般の若者とのワークショップで作り上げていくという、彼ら特有の制作工程にも明快な意味が見いだせる。
何より、アニメーション制作に必要とされる地道で「行」のような作業感と、「追悼」という祈りの行為の「相性」が良い。
逆にもう少しセンチメンタルな雰囲気で作ろうと思えば作れた作品を、敢えて「ざらっとした」テイストに仕上げているあたりが、レオン&コシーニャらしいといえるのでは。
このあいだ、ドゥダメルとベネズエラ軍事政権の確執を扱った映画を観たばかりなので、ことさら、南米ってのは一筋縄ではいかない地域だなあ、と。
居なかったことにはさせない
アジェンダ
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