名前のノートのレビュー・感想・評価
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濃縮された時間・記憶
事前に作品背景など調べずに鑑賞。
まずはノートに消し直して描かれるために残る、ノートの痕跡に意識が向かう。
普通のコマ撮りは1シーン描いたら新しい紙を使い描き直すため必要な線以外は残らないが、消した跡からノートの同じ1ページに描かれたものだとわかる。
オオカミの家の壁絵を思い出す。
描かれたものが消され、また描かれて消され…この作品が作られるための行為自体が、「消された名前」「無かったことにされた名前」のイメージを生々しく伝える。
一人ひとりの名前が読み上げられるシーンでは、最愛の人の名前をそっと囁くように。
コマ撮りで動きをつくるために次々に目まぐるしく進む時間と、その一瞬にしか使われない1枚のノートに刻まれた線が、次々に進み、あれよあれよと過ぎ去っていく。
日々の生活で、目まぐるしく状況が進み続ける中、ふと意識を向けようとした時にはその出来事は、この作品の一瞬前のページのように消し進み痕跡しか残っていない。
忘却がなければ生きられないけれど、忘却されぬ者の存在を、頭ではなく身体で感じる物語だった。
短いけれど、短いゆえに、濃密な作品。
8分という時間は、∞への祈りを感じる。
知ってりゃね、それなりの重みがね
不在の点呼
映画というのは、映像に台詞や音楽を載せる、つまり映像ありきのものだと思ってる。
だが、本作はまったく逆の印象を受けた。
曲を元にMVが作られるように、読み上げられた文章を元にイメージ映像をつけたような。
工程としては小説の実写化もそうなのだけど、似て非なるというか…
そんなワケで、『映画』かと言われると首を傾げざるを得ない。
ただ、抑揚を抑えた朗読は静かな、けど決して乾ききることのない怒りや悲しみを感じてよかった。
映像内のモチーフは分からないものも多かったけど。
追悼
ocho
ノートの上で綴られる追悼ストップアニメーションで、全く薄めずの原液をそのままといったスタイルでした。
ナレーションと音楽、そして燃やし破られのストップアニメーションで行方不明者たちを読み上げる感じで、日本語ではないからか重みはまだ緩和されているものの、日本語だと淡々と聞き馴染みのある言葉が流されるとドッとくるものがあるのではないかなと考えてしまいました。
1973-2023と現在もなお続いているというのが強烈なメッセージとして添えられている作りも良かったです。
単独でタメになる、とまではいかないまでもストップアニメーションのクオリティは高いし、8分という時間に詰め込まれた歴史は重くのしかかっているなと思いました。
鑑賞日 2/12
鑑賞時間 16:25〜17:50
座席 K-11
※「ハイパーボリア人」併映
「文字」にまつわるアニメ制作を、軍事政権に散った若者たちへの追悼の祈りに変える試み。
『ハイパーボリア人』の併映にて。
本編の実写長篇のほうはまったく乗れなかったが、
こちらは地味ながら、まだやりたいことは伝わった。
「文字モチーフ」を用いた「手書きアニメ」という、ある意味斬新なチャレンジ。
(「文字のアニメ」自体は、それこそ雨宮慶太『牙狼~GARO』なんかも含めて、いくつか前例は思いつくが、追悼のノートという題材は面白いと思う。)
『ハイパーボリア人』のように妙におちゃらけていない分、政治的側面も含めて素直に観られた。「軍事政権下で無名の者のように喪われた者の個人としての名前を、人々の記憶と記録に残す」という制作意図も明確だし、それを美術館における一般の若者とのワークショップで作り上げていくという、彼ら特有の制作工程にも明快な意味が見いだせる。
何より、アニメーション制作に必要とされる地道で「行」のような作業感と、「追悼」という祈りの行為の「相性」が良い。
逆にもう少しセンチメンタルな雰囲気で作ろうと思えば作れた作品を、敢えて「ざらっとした」テイストに仕上げているあたりが、レオン&コシーニャらしいといえるのでは。
このあいだ、ドゥダメルとベネズエラ軍事政権の確執を扱った映画を観たばかりなので、ことさら、南米ってのは一筋縄ではいかない地域だなあ、と。
居なかったことにはさせない
アジェンダ
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