「丸い湖をぐるっと回っても、真ん中の島には辿り着けないのです」トレンケ・ラウケン Dr.Hawkさんの映画レビュー(感想・評価)
丸い湖をぐるっと回っても、真ん中の島には辿り着けないのです
2025.5.29 字幕 京都シネマ
2022年のアルゼンチン&ドイツ合作の映画(260分、G)
失踪した植物学者を巡るミステリー映画
監督&脚本はラウラ・シタレラ
原題の『Treque Lauquen』は、舞台となるブエノスアイレスの町の名前で、「丸い湖」という意味
物語の舞台は、トレンケ・ラウケンのとあるロータリー
失踪したラウラ(ラウラ・パレーデス)を探すために、恋人のラファ(ラファエル・スプレゲルブルド)と、彼女の同僚だったエレキエルことチーチョ(エレキエル・ピエリ)は待ち合わせをしていた
ラファの長い電話が終わりようやく出発することになった二人は、彼女が行きそうな場所を巡って車を走らせた
ラウラは植物学者として大学に在籍していて、新種の植物を探すためにこの町に訪れていた
だが、任期を終えても大学に戻らず、借宿だった場所からも姿を消していて、そこでラファとチーチョが探すことになった
ラファにはある仮説があって、彼女は仕事を全うするために出かけたのだろうと言う
そして、それを確認することで、彼女の帰りを待とうと考えていた
一方のチーチョは、ラファが知らない彼女の一面を知っていて、さらに車に挟まれた彼女の置き手紙を見つけてしまう
そこには「さよなら、さよなら、じゃあね、じゃあね」と書かれていて、これは二人が知るある楽曲の歌詞の一部だった
ラウラは植物採取の傍らで地元のラジオ局の番組「ニュースの海」にてコーナーを持っていて、ホストのフリアナ(フリアナ・ムラス)、パティタ(Eugenia Campos Guevara)、クルシオ(Matias Feldman)たちと番組を盛り上げていた
彼女がそこで語るのは「歴史を変えた女性たち」と言うもので、そこで様々な歴史上の人物を取り上げていた
番組では町で起こるニュースも配信されていて、最近の話題は「湖に謎の生物が現れた」と言うもので、その担当者だった女性がその生物を持ち帰ったなんて噂も話題に上がっていた
物語は、全12章(前半7章、後半5章)の構成となっていて、前半は「男性目線で紐解く想像の物語」で、後半は「女性目線で語る真実の物語」となっている
ラウラの失踪に関して「論理的に仮説を立てるラファ」と「状況と感情で推測するチーチョ」と言う対立構造になっていて、それが後半であっという間に覆されると言う流れになっていた
いわゆる「迷宮」と呼ばれるゴールの見えない物語になっていて、それに身を委ねられる人は楽しめると思う
逆に、あの生物は何だったとか、あの花は何だったなどの「完全なる答え」の欲しい人にとっては、中途半端なところで終わったように感じられると思う
私も当初は「これで終わりなの」と思ったタイプだったが、物語の構造を考えているうちに、論理と感覚が導くものは全く違うのだなと言う結論に至った
ラファは仮説と言うある種の答えありきの推測になっていて、チーチョよりは情報量が少ない
チーチョはラファには言えないことがたくさんありすぎて、さらに自分の行動が彼女を追い詰めたのでは?と思っているところがあった
だが、実際には、ラウラは彼女自身の思考と感情によって動いていて、二人の男の知るよしもない行動を取っていたのである
彼女がどこに行ったかとか、どうしてそのような生活をしているのかは想像の範囲になるが、映画を観て想像するものとは違うものがあるのだと思う
その正解はラウラ自身にしかなく、彼女が理想とする人物に近づきたいと言う衝動から来るのかなと感じた
私=私たちと言う記述にこだわりを見せていたラウラは、同じ感性を持つ人間と同化したいと言う衝動があって、それを発芽させたのはカルメン・スーナ(ラウラ・シタレラ)であり、成長させたのがエリサ(エリサ・カリカホ)なのではないだろうか
いずれにせよ、感覚に委ねる作品となっていて、このレビューの解釈も的外れであるかもしれない
男性脳で紡がれる文章を完全に切り離すことができないので限界があるが、それでも論理的に考えたいと言うのが根底にある
そう言った意味ではある種の仮説に近づくのかもしれないが、それは浮かび上がる事実に対して従順であればこそ近づけるようにも思える
文章として記すならばこのような感じになるが、ぶっちゃけると「ラウラ、すげえ」みたいなところに行き着くので、共感を得られるのは女性の方なのかな、と感じた