劇場公開日 2025年2月21日

「まさに“観る悪夢”」SKINAMARINK スキナマリンク 緋里阿 純さんの映画レビュー(感想・評価)

3.5まさに“観る悪夢”

2025年2月26日
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鑑賞方法:映画館

怖い

寝られる

悪夢を再現した映像でYouTubeを中心に活躍している映像作家カイル・エドワード・ボールによる長編監督デビュー作。製作費僅か1万5000ドルながら、北米で最終興収200万ドル超えのスマッシュヒットを叩き出し、『ブレアウィッチ・プロジェクト』(1999)、『パラノーマル・アクティビティ』(2007)に続く超低予算ホラーの金字塔を打ち立てた。

これはまさに、“観る悪夢”だ。“幼い頃に見た悪夢”のような映画だ。ストーリーらしいストーリーも、説明らしい説明も殆ど無いので、僅かな情報を頼りに、あとの判断は各々観客一人一人に委ねられている。100人中99人がついて行けなさそうな作風で、賛否両論(どちらかと言えば否が優先)も納得だ。

早い話が、雰囲気全振りなのである。
天井を見つめた映像や地面から登場人物の足の動きを捉えた映像は非常に実験的。ホラー映画でありながら、アート系にも片足突っ込んでいるような作風。
廊下の奥、部屋の奥に広がる闇を見つめ続ける映像は、それ自体が悪夢の再現であり、それ以上でもそれ以下でもないように思える。しかし、そんな闇の中にこそ、我々は“恐怖”を生み出すのだ。「何か居るかもしれない」「何か動いたかもしれない」と。そして、暗闇で次第に目が慣れて視界に映るものの正体が分かるように、ジワジワとこちらに“見えない恐怖”を蓄積させた上でのジャンプスケア。見事。

正直、私は無闇なジャンプスケアを多用するホラー作品は嫌いである。恐怖ではなく、刹那的な驚愕でしかないので。しかし、本作は観客の想像力を刺激して、しっかりと恐怖を増幅させた上で、トドメとばかりにジャンプスケアを用いる。分かり切っているのに、驚かずにはいられない。私は特に、母親の顔が消滅してのっぺらぼうのようになっている件と、電話型のキャラクターの玩具のベルが鳴るシーンに驚いた。しかし、どちらも素晴らしい恐怖演出だったと満足している。

肝心のストーリーについては、分かる範囲で情報を整理すると、
・ケヴィン一家は、家ごと異空間に囚われてしまっている。
・家の2階に巣食う“何者か”は、超常的な力を持ち、窓や扉を消してみせたり、家具や玩具を壁や天井に貼り付けたり出来る。
・一家は終わらない悪夢を繰り返し続けている。
という事だろう。

天井に積み上げられた、夥しい量のブロックやドールハウスをバックに提示される“572日目”のテロップ。ケヴィンやケイリー達は、これまで幾度となく果てしない悪夢の夜を彷徨い続けているのだ。考えてみれば、作中度々「あれ?これは別の日の真夜中なのかな?」と違和感を感じさせるシーンもあった。特に、2人が流しっぱなしにしているカートゥーンアニメの作品が何度か変わっている事。物語中盤で映像がループしている事がその証左だろう。

そして、恐らくこの悪夢は終わらない。暗闇に木霊する不気味な声の主は「遊びたい」と告げている。“何者か”にとって、この繰り返される悪夢は悪意ある遊びなのだ。
散らかっていた部屋を一瞬にして片付けてみせ、ケヴィンに「どうしてそんな事が出来るの?」と問われた暗闇の“それ”は「私は何でも出来る」と豪語する。それは、幽霊というより悪魔のように感じられる。となると、あの異空間は地獄なのかもしれない。

ラスト、暗闇に不気味に浮かぶ顔のような何か。ケヴィンに「名前を教えて」と言われるも、何も答えないまま、画面には“THE END”の文字。投げやりとも取れるラストだが、観客は良くも悪くもこう思うはずだ。
「良かった。ようやく終わった」と。

2023年の作品ながら、ビデオカメラで撮影したかのようなノイズだらけの荒々しい画面、絶えずブツブツとなり続ける音は、明確に好みが分かれるだろう。個人的には、舞台が1995年である事、ホラー作品である事を考慮すると、こうした選択は大賛成だ。そして、映像が荒く不鮮明だからこそ、観客は闇という未知の中に恐怖を見出すのだから。

本作は、悪夢を見させられているという感覚を存分に味わう意味で、映画館のスクリーンでの鑑賞がマストだろう。何せ、自主的に席を立たない限り、ケヴィンらと同じく終わらない悪夢に取り込まれる事になるのだから。

緋里阿 純