劇場公開日 2025年4月4日

「なぜ定点映画は「感動と退屈」が同居するのか、考察してみた。」HERE 時を越えて ソビエト蓮舫さんの映画レビュー(感想・評価)

2.0なぜ定点映画は「感動と退屈」が同居するのか、考察してみた。

2025年4月8日
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鑑賞方法:映画館

鑑賞前。映画としての「定点」というアイデアは斬新だし、
日本人の場合、テレビ史的に古くは「進め!電波少年」の「電波少年的懸賞生活」で、なすびの定点映像を私は見てきたし、
最近だと「水曜日のダウンタウン」で「クロちゃんの自宅定点」を見てきたように、
映画ファンよりも、お笑いファンの方が、定点カメラをバラエティの側から接し、日頃から慣れ親しみがあるジャンルだ。

テレビ以外にも、たとえば下ネタ映像文化でいう所の「マジックミラー号」とか「家庭教師の隠しカメラ」とか、例は数多あるが
エロ方面からも、定点作品には一定の信頼があり(笑)、

YouTubeライブでは「高速道路定点」や「渋谷スクランブル交差点定点」「河川水位監視カメラ」など、
日常レベルで定点カメラは意外と面白い、という市民権を得ている。
また、ニコニコ生放送、ツイキャス、ふわっちなど、個人配信サイトの普及により、
子供の頃から定点映像文化を浴びているので、
気づかぬうちに、日本は定点カメラ大国の一部を担う存在だともいえる。

これに加えて制作陣が、ロバート・ゼメキス監督で主役がトム・ハンクスならば、
「フォレストガンプ」の再来とまではいかずとも、近づくぐらいの名作を、嫌でも期待してしまうのは仕方ない。

そういう期待値高めの状態で、いざ鑑賞したわけだが、、、
中盤辺りから睡魔との戦いに、悪戦苦闘するとは夢にも思わなかった。
一応寝ずに完走は果たした。
客席15人ほどだったが、約半分の6〜7人がエンドロール途中で退席し始める。
かくいう私もそのうちの1人である。

またしても「恐縮です梨元勝」で申し訳ないけれど、
売れない芸人時代に、映画館でバイトしてたオードリー若林の体験談を引用するなら、
「エンドロール途中で席を立つ映画作品は、打ち切り週が早くなるんだよね〜」の法則が発動したというわけだ。
(´・ω・`)

アイデアは確かに良かった。
期待値は確かに膨らんだ。
ストーリーも変ではなかった。
むしろ感動的ですらあった。

それでもこの映画は、私にとっては眠くて退屈だった。
もしかすると、昼食後の血糖値バカ上げ鑑賞時間帯という、
通院中ゆえの個人的問題なのかもと、一瞬自分を疑ったが、
エンドロール時に退席する人の波、という客観的事実もある。
私だけでは無いはずだ。

この定点映画、どこかに致命的な欠陥があるはずだ。

1つ、原因の仮説として頭に浮かんだのは「被写体がよくなかった」という説。

よくよく考えれば、なすびも、クロちゃんも、マジックミラー号の中の男女も、家庭教師の隠しカメラも設置者も、
被写体として「異常者」であり、「狂人」であり、「頭のおかしい人」なのだ。
\(^o^)/

異常者だから定点カメラの被写体として「映える」という考え。

よくよく考えれば、高速道路も、渋谷スクランブル交差点も、河川水位監視カメラも、
被写体として「ハプニング待ち」であり、
「事件事故待ち」であり、
「氾濫待ち」だからウケるのだ。それが、ライブ=生放送の定点カメラとしての醍醐味なのだ。

配信者達のライブ配信も、やはりハプニング待ちで、動画化し切り取られ、まとめられる部分は、そういう映像なのだ。

ところが、この作品の定点カメラの被写体は、
隕石衝突直後の地形、恐竜、先住民などの他、4つほどの家族が対象で、
とりわけクローズアップされるのは、トム・ハンクス親子の家族。

この複数の被写体を、かつての「インセプション」や「パルプ・フィクション」らの名作同様の、
時系列順ではなく、時系列バラバラ大作戦の流れで観客に見せていくスタイルで、
最初はゴチャゴチャしたが、まあ恐竜や隕石辺りの描写は、観続けられる内容ではあった。

しかし、トム・ハンクス家族が縦軸の中心に据えられた辺りから、
急に退屈な展開で、定点ゆえの窮屈なデメリットな感じが強まり、
鑑賞継続が困難になってくる。

被写体として、あまりに平凡過ぎる家族なのだ。

無論、家族の歴史の中でもとりわけエポックな瞬間、たとえば、
妊娠、出産、誕生日パーティー、夫婦の離別、認知症発覚、死別など、
それなりの出来事を抽出し、定点で切り取り、描いて見せることで、
共感を誘い、それなりの刺さり方はするのだけれど、

我々日本人が培ってきた定点文化の映像からすると、比較的に「他愛もない事過ぎる」と思うのだ。

そもそもの話、定点視点というのは、言い換えれば「覗き視点」だ。
覗き視点というのは「後ろめたい視点」とも言える。

見てはいけないものを、見る。
こっそり見てる自分自身が、後ろめたい。
見られている側が、異常者だから、後ろめたい。

そういう「危うい感覚」を内包したものが、覗きであり、定点の面白さの根源なのだから、
果たして、トム・ハンクスの家族にそうした「危うさ」があったかと言えば、ほとんど無い。
ちなみに、破水シーンだけはその「危うさ」があったが、
あれが誰の家族の破水なのかは、眠たくてよく覚えてない。

だから、家族史としての感動はあっても、刺激的ではないゆえの退屈もある。
一言でまとめれば、

「感動と退屈が同居する映画」

になっているのだ。
なので、見る側に共感部分が存在した人にとっては、「感動の作品」になるし、
その部分が無ければ「退屈が感動よりも上回る」結果になるだろう。

もう1つだけ、欠陥原因の仮説を短めに提示するならば、
定点だと演者の表情が見えづらい事だ。

定点カメラの長所は、出来事、
つまり「起こってしまった事」を映像としてはっきり捉える事に、その良さがある。
逆に短所は、「近づけない事」や「別の角度から見る気づきの機会を喪失する事」になる。

映画は、出来事を映像として捉えるだけでなく、演者の表情一つで印象すら変わる場合がある。
顔のヨリを撮る、背中から撮るなど、そうした細かい表現の機会を、
一方的に破棄した映画になるから、撮影技法としてのパターンが少ない。
だから、単調な時間が長くなればなるほど、退屈な時間帯も長くなる。

とにもかくにも、実験的な映画でチャレンジ精神は多分に感じる作品ではあったが、
万人ウケするような作品ではなかったかなあ、という感想に落ち着いた次第。

ソビエト蓮舫
YOUさんのコメント
2025年4月14日

実はギャングのアジトだったとかですよね(笑)

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