「抑圧された才能の開花の先にあるものは…。」ストップモーション 緋里阿 純さんの映画レビュー(感想・評価)
抑圧された才能の開花の先にあるものは…。
ストップモーション・アニメーションと実写映像を交錯させ、1人のストップモーション作家の現実と妄想の壁の崩壊、創作に対する狂気が加速していく様を描くイギリスのサイコホラー映画。アメリカの映画批評サイト「ロッテントマト」では91%の支持率、各国の映画祭に招待され絶賛された。監督は、短編映画やストップモーション・アニメでキャリアを積み、本作が長編映画デビューとなるロバート・モーガン。
ストップモーション・アニメーションの若きクリエイター、エラは、業界の大御所スザンヌを母に持ち、関節炎で手が動かせない母に代わって、母の最後の監督作の製作を手伝っていた。エラには自分もストップモーション・アニメを監督したいという夢があるが、偉大なキャリアを持ち、高圧的な態度を取る母親には中々自身の願望を言い出せず、いざ「アイデアがある」と切り出すも、「聞かせて」と母親に言われると何も言い出せない。実は、エラは確かな技術を持ちながらも、自らが表現したい物語がないのだ。
恋人のトムは、ビジネスマンの傍らミュージシャンへの夢を持ち、仕事と夢を両立させながら、エラを支えている。トムの姉でありストップモーション・アニメーションの監督であるポーリーは、自身の手掛けた作品を満足気に披露している。
ある日、映画の製作途中でスザンヌが脳卒中で倒れ、昏睡状態に陥ってしまう。トムの助けもあって、エラは母の作品を完成させようと、取り壊し前の荒れ果てた公営団地にスタジオを構え、製作に取り掛かる。しかし、自らの内に表現すべきものを見出せないエラにとって、誰の指示もない映画製作は上手くいかない。母親が彼女を「操り人形」と称するように、誰かの指示無しでは、エラは作品を創ることは出来ないのだ。
そんな時、エラは同じビルで出会った謎の少女をスタジオに招く。好奇心旺盛にスタジオ内を見て回り、エラに製作途中の映画を見せてもらった彼女は、その作品を「つまらない」と一蹴する。少女は、「アイデアがある」と、エラに自分の物語を話して聞かせるが、エラは母の作品を作る為に、彼女を帰す。しかし、翌朝スタジオでトムに起こされたエラは、スタジオ内のセットが少女のアイデアを元にしたものに作り変わっている事、既にファーストシーンの撮影が済んでいる状況を目の当たりにする。
やがて、少女の指示を受けながら映画製作を進めるエラは、次第に現実と想像の区別を失い、狂気の世界へ足を踏み入れていく。
パンフレットによると、元々ストップモーション・アニメーションはホラーやグロテスクな表現と親和性が高いそうだが、そうした特色を抜きにしても中々にグロテスクで悪趣味な世界観(褒め言葉)。故人に塗る用のワックス、冷蔵庫の生肉から始まり、狐の死骸、遂には人間の血肉すら用いて作品に使う人形を作り出して行く様は、正に狂気そのもの。日本での年齢制限はPG-12だが、クライマックスでエラが足の傷を自ら開く様を容赦なく描写する場面は、エラ役のアシュリン・フランチオージの熱演もありR-15指定でもおかしくない鬼気迫る迫力。
しかし、そうした視覚的インパクトやグロテスクながらどこか美しささえ感じさせる世界観の新鮮味は強烈だが、物語として描かれている内容は普遍的(監督が目指した所ではあるのだが)、悪く言えば凡庸な範囲に留まってしまっているのは勿体無いように感じた。特に、ラストの展開にはもう一捻り欲しかった感は否めない。
果たして、エラは何の「操り人形」だったのだろうか?観る人によって様々な解釈が可能な本作ではあるが、私が思うに、恐らくそれは「才能」、自身のクリエイターとして(そうありたいと願うあまり、強迫観念的に膨れ上がった)の「創作意欲」、何より、本作が扱う「ストップモーション・アニメーション」の操り人形だったのではないかと思う。
だからこそ、謎の少女の正体は、エラの内面の表出に他ならないのだろう。髪型や雰囲気が似ている点も分かりやすい。彼女は他の登場人物の前には決して姿を現さず、エラの前にのみ姿を現して、自身のアイデアを披露する。少女の姿をしているのは、彼女がエラの中に眠る純粋で剥き出しな才能、高圧的な母親の下で育てられたが故に、押さえつけられ磨かれていない未熟な状態だからではないだろうか。これがもし、高圧的でない母親の下でキャリアを積み、しかし母親のような才能はないと苦悩していたのなら、少女ではなく同年代の女性として姿を現していたかもしれない。
少女は、エラが練り消しのように捏ねていたワックスを人形に使うように促し、次第に「リアリティ」を追求して、森で見つけた狐の死骸、「もっと血みどろのやつ」と最後は人間の死体すら要求する。そして、最後に人形に使った人間の血肉は、自らの恋人であるトムと彼の姉であり、自らのアイデアを盗んだポーリーという敵対者だ。トムは、献身的にエラを支え続けこそしたが、その奥底には常に憐憫があり(ケネス・ブラナー監督、『ベルファスト』(2021)に登場する「愛の奥底には憐憫がある」という台詞を思えば、トムの中には間違いなく愛はある)、彼女の映画製作を中断させようとした時点で、彼女にとっては自らの剥き出しの才能の発芽を妨げる敵になってしまったのだ。
しかし、事態は少女すら予想だにしなかった方向へと向かっていく。死体を用いて製作した灰男が、エラに襲いかかったのだから。だが、それはエラの「現在」の才能が、少女という抑圧されてきた「過去」の積み重ねによる才能を上回り、自らの殻を打ち破った(だからこそ、ラストで謎の卵が孵った)とも言える。実際には、足の傷口からの多量の出血による失血死でも、エラの中ではこれまで何もないと思っていた才能が花開いたのだ。
ラスト、自らの死体すら作品の一部とし、役目を終えて満足気に人形箱に収まっていくエラと、そんな彼女に「最高だよ」と告げる少女。処女作にして遺作。剥き出しの才能は、自らの命すらも燃やして鮮烈な輝きを放ってみせた。しかし、その作品が世に出るとは限らない。事態の深刻さを思えば、エラの作品は「お蔵入り」まっしぐらだが、自身が満足の行く作品を遺せた事こそが、彼女にとっての救済だったのかもしれない。“たった一度の輝き”というラストは、デイミアン・チャゼル監督の『セッション』(2014)を彷彿とさせる。
そんなエラを演じたアシュリン・フランチオージの熱演の素晴らしさは言わずもがなだが、個人的にはエラを導く少女を演じたケイリン・スプリンゴールの演技も評価したい。間違いなく、彼女こそ本作のMVPだろう。好奇心旺盛で、歯に衣着せぬ物言い、残酷であればあるほど高揚感を見せる姿は、単に「おませ」と表現するには憚られる、蠱惑的な魅力を放っていた。それにしても、あれだけ血みどろでグロテスクなセットでの撮影、彼女は怖くなかったのだろうか?(笑)
短い出番ながら、強烈なインパクトを残したステラ・ゴネットの演技も素晴らしかった。ストップモーション界の大御所にして、エラの母親であるスザンヌの毒親っぷりは中々に強烈。いくら親子とはいえ、娘の事を「操り人形」「人形ちゃん」(台詞ではパペット“puppet”)と呼ぶ姿は普通ではない。恐らく、これはエラの妄想の中での出来事だろうが、病室で昏睡状態の自分の手をストップモーションの手順でスマホのカメラで撮影している際、「最高の素材だろ?」と、病人すら作品創りの素材に使えと言わんばかりの狂人っぷり。そして、本作の結末を告げるが如く、「操り人形は、演し物が終われば箱に片付けられる」と、エラの役割を告げる。
妄想(夢)の世界で、エラは自らがワックス人形として灰男に追われる様を想像する。穴の奥に逃げ込んだ先は、金色の布地が敷き詰められた箱の中。それが人形箱の中である事はラストに判明するが、その時点でのエラは、まだ役割を終えていないので、箱に収まって眠りにつく事は許されない。あるいは、あの人形箱は、エラにとっての棺桶だったのかもしれない。
時に、強烈な才能は周囲の人々の生活すら一変させながら、恐ろしい程の輝きを放つものなのだろう。しかし、我々は自らの才能に「操り人形」にされる事も、自らの命すら燃やす事もせず、上手く折り合いを付けてコントロールして生きて行かなければならないのかもしれない。でないと、遺せる物はあまりにも少なくなってしまうのだから。それでも構わないと思えるのならば話は別であるが。