ストップモーションのレビュー・感想・評価
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アニメーションは命のないものに命を宿す技術だから…
ストップモーション・アニメーション作りをする主人公が心の闇に囚われていく様を、実際にストップモーション・アニメーションも交えながら描くホラー作品だ。
アニメーションという技術は、動かないもの動かすので、命を吹き込むマジックと呼ばれることもある。命のないもの、というものには死体も含まれる。この作品は普通の人形から生肉や遺体を素材として用いたアニメーション作りの狂気へと主人公が堕ちていく。
母親が有名なアニメーション作家で、自分はその手伝いに甘んじていることをよしとせず、母の入院をきっかけに自分の作品作りを始めるのだが、思うように面白いものが作れない。
自分は母と違って才能のない凡人なのか、という焦燥感が出てくるころ、奇妙な少女が語って聞かせる話に熱中し、その話をストップモーションで制作しようとするが、次第に少女の指示が過激になっていき、現実と妄想の境がなくなっていく。
絵のアニメーションよりも、ストップモーションは実在する立体物を用いるために現実感が強い。その現実感の強さ故に、虚構と現実の境がわからなくなりやすいとも言える。
選ばれた手法と作品の内容が上手く合致して恐怖を生み出していた。
効果音がとてもグロい
ストップモーションアニメの巨匠である母の操り人形から逃れたいと思っていたエラが、母親が脳卒中になったことをきっかけに自分のストップモーションアニメを作ろうとするが、だんだん現実と虚構の境目が壊れ始め・・・
もっと精神的なホラー映画かとおもいきや、後半はR15にしなくて大丈夫?といった感じのかなり気持ち悪い映像が続く。そして痛い。とにかく見ているだけで痛い映像が多い。血も多い。
そしてワックスで作られた人形の少女や、生肉で作られた灰男の効果音が、ぐちゃ、ぬちゃ、ぐちゃ、とかなり気持ち悪い。現実と虚構の境目がわからなくなるような不快な音響の作り方がとにかく気持ち悪い(褒めてる)。
結局あの少女は現実でないのか、母親なのか、またはエラの少女時代七日もよくわからなかったもののパペット以上になれなかったエラの悲哀を描くなら母との確執をもっと描いても良かったのではないかと思う。
いろいろ考えるとけっこうつらい
シュヴァンクマイエルが好きな方は是非
単体で『怖い話』として成立しそうなストップモーションアニメを題材としながら、それを主人公の生き様にがっつり被せる心理的なホラー要素もあり、恐怖の欲張りセットのような映画でした。
主人公のエラを演じたアシュリンフランチオージは、笑っているときは気さくでいい人そうなのに、どん詰まっているときは挨拶代わりに耳を噛みちぎってきそうな鬼気迫る表情をしていたり、とにかく顔の振れ幅がすごい女優です。
本作は、ストロボのように明滅する光の中でのフランチオージ表情博覧会からスタートしますが、その時点でお腹いっぱいであるのと同時に、母親の操り人形であるエラの自我がいかに歪んでいるか、最初から答えが提示されているようで背筋が寒くなります。
母が倒れたのと入れ違いのように少女が出てきたとき、お約束的にこれはエラのやんちゃな別人格か? と予測しましたが、母の作品を見て「つまんない」と屈託なく言う辺り、もう一歩踏み込んで幼少期のエラそのものなのではないかと思いました。
そして、この少女が提案する『森で灰男から逃げ回る女の子の話』は、かなり不気味です。ホラーの才能アリアリです。しかも、死に化粧に使うワックスで人形を作ったり、ガチの肉を詰め込んだり、こだわりも強い。
地味に怖かったのは、エラがこの作品プロジェクトに『Me』とタイトルをつけていたことです。GirlとかWoodsではなく、あくまで自分。
だとしたら、森の中を追ってきて二日目には触れてこようとする灰男の正体を、エラは無意識に知っているのでないか。もしかして全く登場しない父親ではないかとか、虐待されていたのではないかと変に想像が働きました。
現実との境目は、この辺りからぼやけてきます。
ポリーに『あんな会社で働くかよ!』と啖呵を切った後に、同じ会社にしおらしく入社してたり、物語を大きく動かす要素(母のサイクロプスをゴミ箱にドーン)とかが、結構あっさりと軽く描かれるので、ほんまに起きてるんやんなと、常に疑ってしまいました。
その疑念を補強するように、少女が登場してから、まるで自身が人形になってしまったように、アーマチュアのギコギコ音が生身のエラの動作に少しずつオーバーラップしてくる音響の巧みな演出は、見事でした。
そして、灰男がやってくる三日目、エラは作品に食い尽くされます。『物語』だったはずの人形劇が、急に四次元の壁を突き破ったようにエラの方へ向かってくるときの怖さは、近年中々味わったことのないタイプのやつでした。
最後は少女が満足そうに『I love it.』と言い、操られ終えたエラは箱の中へ。
この展開を見ていると、外の世界では何が起きたのだろうと気にかかります。
例えば、本当にポリーとトムを殺したのかとか、色々と考えてしまいました。
エラは消火器を顔面に打ち下ろしていましたが、ポリーは骨がめちゃくちゃ固いのか、鼻血ぐらいしか出していませんでした。
そして、終始『それは母さんが悪いね……、じゃあ、コマ割るね……』な雰囲気のトムも、いびきを止める要領でそのままあの世行き。
ほんまか?
これは、エラに箱へ戻ってもらうまでの、少女の物語なのでは? だとしたら、ハッピーエンドです。
想像するとキリがない映画でした。
映画の中身からちょっと距離を置いて細部を楽しむにも、いい感じです。例えば、ステーキ肉がちょいちょい登場するのは、シュヴァンクマイエルの『肉片の恋』かなとか。
ーー
予告でトムヨークという名前を見たとき、レディオヘッドの人だと勘違いして、本編中全然出てこないので『あー、ハンニバルのゲイリーオールドマンみたいなノリで、灰男役かな?』とか失礼な想像をしていました。
クエイ兄弟に謝りに行っとこう
終わったあと、しばらく『放心状態』でございました、アタクシ。
●ポスタービジュアル:キモ怖い
●ジャンル:ホラー
というその二つの事実だけで全く観るつもりがなかった作品だったけど、またしてもホラー有識者の方にお誘い頂き、これは神による試練(越えられない試練は与えられすらしない)だと思い挑んだ作品。
急にドーン!静からバーン!みたいなジャンプスケアは未だにひどく苦手だし、一瞬『え?心霊系?』と思わせる不思議少女の登場とかあったけどさして心霊感もなく。
キモグロクリーチャーとサイコパスホラーの要素が強く、その部分は意外とイケることが判明✨自分の成長を感じるぜ🌀
内容について『最後の〇〇はあたし的には無いなー。あれさえ無ければ〜』みたいなちょっとわかってる風なこと言ってみたけど、やはりホラーは難しい。
そして何よりもストップモーションのアーティストさんたちはあんな細かくて終わりが見えなさそうな作業を何十時間も何百時間もかけて映画を作ってるんだと知り(←学び・知識は嬉しい)、あたしには絶対できない苦行レベルなホラーだと感じた……
心理ホラーなのか?
厳しい母と共にストップモーション映画制作する主人公が、母が病気で倒れたことをキッカケに精神崩壊していく過程を不気味に描くホラー作品。
そもそも主人公が制作する映画が、気味悪過ぎるクリーチャーなので、ずっと画が気持ち悪い。「リアルを追求する」的な芸術家マインドにスイッチが入ってからは、自身も周りも傷付けていき、その様が痛々しくグロテスクでございました…。
不思議で不気味な美少女との謎の交流で精神を病みまくり、ひたすら献身的な彼も蔑ろにし、ただただ周囲の人々に同情してしまう。
現実と妄想と映画の世界が交錯し、境がどんどん曖昧になり、ラストは結局どうなったのか…?とにかくあの母親が元凶なのだとは思うけれど、やや主人公の心理描写は強引で、心理ホラーという感じはしなかったかな…。
普通にグロくて不気味で暗くて怖かったです。そして尺のわりに長く感じました。
解釈が難しい〜
ホラーテイストでダークなストップモーションアニメと実写を融合させ、...
ホラーテイストでダークなストップモーションアニメと実写を融合させ、現実と虚構の境界があいまいになっていく恐怖を描いた、イギリス製の心理ホラー。
偉大なストップモーションアニメーターである母スザンヌが病に倒れたため、娘のエラは、制作が中断された作品を完成させようと奮闘していた。しかし、自分ひとりの力では作業は思うように進まない。偶然出会った謎の少女の力を借りて作業を進めていくエラだったが、次第に現実と虚構の壁が崩壊していき、精神的に追い詰められていく。
ストップモーションアニメの短編「Bobby Yeah」で英国アカデミー賞最優秀短編アニメ賞にノミネートされた、映像作家ロバート・モーガンの初長編作品。本作でも2023年のシッチェス・カタロニア国際映画祭で審査員賞特別賞を受賞するなど、高い評価を得た。主演は「ナイチンゲール」「スピーク・ノー・イーブル 異常な家族」のアシュリン・フランシオーシ。
ストップモーション
2023/イギリス
配給:スターキャット
相当グロいので、ステーキを継続して食べたい人は避けた方が良いと思います
2025.1.30 字幕 アップリンク京都
2023年のイギリス映画(93分、PG12)
母の意思を受け継ぐ娘の葛藤を描いたサイコホラー&スリラー映画
監督はロバート・モーガン
脚本はロバート・モーガン&ロビン・キング
原題の『Stopmotion』は、映画に登場するコマ撮りアニメーション映画のこと
物語の舞台は、イギリスのどこか
ストップモーション映画のレジェンドであるスザンヌ(ステラ・ゴネット)を母に持つエラ(アシュリン・フランシオーシ)は、関節炎で手を動かせなくなった母の代わりに、彼女の脳内にある物語を再現しようと試みていた
だが、微細な動きを表現できないエラは、幾度となく母親の叱責を受けてしまう
母の考える物語がつまらないと感じても、新しいアイデアを打ち出せるわけでもなく、ただひたすらに母の手先として動いていた
彼女には建設会社で働いている恋人トム(トム・ヨーク)がいて、彼の姉ポリー(セリカ・ウィルソン=リード)もストップモーションの映像作家だった
ある日のこと、スザンヌが倒れてしまい、そのまま救急病院に運ばれることになった
脳卒中を患っているとのことで、呼吸器をつけたまま意識が回復することはない
エラは、母親の映画を完成させようと作業を続けるものの、全くイメージ通りの映像が撮れずに行き詰まってしまう
そんな彼女の元に、新しいスタジオが入っているビルの住人と思われる少女(ケイリン・スプリンゴール)がやってきた
少女は母の考えた話がつまらないと言い出し、自分で考えたお話を始めてしまう
それは、ある森に迷い込んだ少女が謎の存在に追われるというもので、エラはその物語に惹かれてしまう
そこで、母の映画を中止し、少女の言われるがままに、その物語の映像を作り始めるのである
映画は、ストップモーションと実写を組み合わせた映像になっていて、そのクオリティは恐ろしく高い作品になっている
美術造形の作り込みがすごく、映画内で使われている素材で作っているかのような感覚になってくる
このあたりのリアリティがかなり高いので、グロ映像の完成度もかなり高くなっていて、正視できないシーンも多かったりする
物語は、エラが少女の映画を作っていく中で狂気に満ちた行動を取っていくというもので、少女の正体が何なのかを追って観ていくという流れになっている
彼女の正体はかなりわかりやすいものの、ラストの箱の中に入って終わりというところは解釈が分かれそうな印象があった
あの箱は劇中で顔を覗かせる小部屋なのだが、それが何なのかは観た人に委ねますという感じになっている
また、その箱に入るときに少女が放つ「最高だね」というセリフの解釈もなかなか難しいように思えた
少女は、いわゆるエラの潜在意識を具現化したもので、深層心理に近いものだと思う
それが母の死によって顕在化し、肥大化してエラを取り込むという構図になっていて、イメージショットとしての卵の孵化というものがあった
また、ラストの小箱は「潜在意識が自意識を閉じ込める」という意味合いになっていて、これから先のエラは潜在意識が支配するようにも思える
それによって現実世界のエラがどんな感じになるのかはわからないが、精神をシャットダウンしているようにも思えるので、傍から見ると人形のような存在になっているのかなと感じた
映画では、母親は常に娘を「パペット(操り人形)」と呼び、エラが母親の操り人形になっている前半が描かれていた
だが、操作する者がいなくなると途端に制御不能になり、そこに新しい操作者である潜在意識が顔を覗かせてく
少女は、抑圧されてきた自分自身であり、さらに肉体を破壊することで快楽を得ていく
これは精神が肉体を乗っ取って滅ぼしていく過程を描いているように思え、それが完結したことを示すのが箱の中に入るという行為なのではないだろうか
冒頭では、激しいライトに照らされるエラが描かれ、あの映像も実写のエラを連続で重ねているストップモーションだった
だが、表情が徐々に変化し、悪魔的な感じになっていくので、挿入する表情のバランスを変えて変化をつけているのだと思う
いくつかの表情を用意して、それを均等に連続させていくのと、意図的にバランスを崩して思い通りの表情を見せるのとでは意味が変わっていく
それは、潜在意識における自意識の侵食バランスを表していると言え、後半が悪魔的なのは、エラの潜在意識に悪魔的な部分が多いからなのだろう
現に潜在意識にほぼ乗っ取られた状態では鬼畜の所業を見せていて、それゆえに小さくなって箱に入っていく自意識は自らが望んでその箱に入ろうとしている
あの部屋自体が彼女の魂の拠り所とすれば、より安全なのは「潜在意識に守られた場所」ということになり、それは自我を超越したところにあるということなのかもしれない
いずれにせよ、かなりグロ映像が強烈なので、その方面がダメな人は避けた方が良い作品であると思う
映像的な完成度とか、精神世界の哲学的なテーマなどは面白いのだが、それを表現するのに血が必要というところに監督のセンスが凝縮されているのだろう
個人的には、話は好きだけど映像はダメという感じで、後半のグロシーンは目を瞑って音だけを聴いていた
それでも想像できてしまうのが辛いのだが、想像させるだけの積み重ねが前半にあるので、その辺りも加味しつつ、大丈夫な人は凝視したら良いのかな、と思った
抑圧された才能の開花の先にあるものは…。
ストップモーション・アニメーションと実写映像を交錯させ、1人のストップモーション作家の現実と妄想の壁の崩壊、創作に対する狂気が加速していく様を描くイギリスのサイコホラー映画。アメリカの映画批評サイト「ロッテントマト」では91%の支持率、各国の映画祭に招待され絶賛された。監督は、短編映画やストップモーション・アニメでキャリアを積み、本作が長編映画デビューとなるロバート・モーガン。
ストップモーション・アニメーションの若きクリエイター、エラは、業界の大御所スザンヌを母に持ち、関節炎で手が動かせない母に代わって、母の最後の監督作の製作を手伝っていた。エラには自分もストップモーション・アニメを監督したいという夢があるが、偉大なキャリアを持ち、高圧的な態度を取る母親には中々自身の願望を言い出せず、いざ「アイデアがある」と切り出すも、「聞かせて」と母親に言われると何も言い出せない。実は、エラは確かな技術を持ちながらも、自らが表現したい物語がないのだ。
恋人のトムは、ビジネスマンの傍らミュージシャンへの夢を持ち、仕事と夢を両立させながら、エラを支えている。トムの姉でありストップモーション・アニメーションの監督であるポーリーは、自身の手掛けた作品を満足気に披露している。
ある日、映画の製作途中でスザンヌが脳卒中で倒れ、昏睡状態に陥ってしまう。トムの助けもあって、エラは母の作品を完成させようと、取り壊し前の荒れ果てた公営団地にスタジオを構え、製作に取り掛かる。しかし、自らの内に表現すべきものを見出せないエラにとって、誰の指示もない映画製作は上手くいかない。母親が彼女を「操り人形」と称するように、誰かの指示無しでは、エラは作品を創ることは出来ないのだ。
そんな時、エラは同じビルで出会った謎の少女をスタジオに招く。好奇心旺盛にスタジオ内を見て回り、エラに製作途中の映画を見せてもらった彼女は、その作品を「つまらない」と一蹴する。少女は、「アイデアがある」と、エラに自分の物語を話して聞かせるが、エラは母の作品を作る為に、彼女を帰す。しかし、翌朝スタジオでトムに起こされたエラは、スタジオ内のセットが少女のアイデアを元にしたものに作り変わっている事、既にファーストシーンの撮影が済んでいる状況を目の当たりにする。
やがて、少女の指示を受けながら映画製作を進めるエラは、次第に現実と想像の区別を失い、狂気の世界へ足を踏み入れていく。
パンフレットによると、元々ストップモーション・アニメーションはホラーやグロテスクな表現と親和性が高いそうだが、そうした特色を抜きにしても中々にグロテスクで悪趣味な世界観(褒め言葉)。故人に塗る用のワックス、冷蔵庫の生肉から始まり、狐の死骸、遂には人間の血肉すら用いて作品に使う人形を作り出して行く様は、正に狂気そのもの。日本での年齢制限はPG-12だが、クライマックスでエラが足の傷を自ら開く様を容赦なく描写する場面は、エラ役のアシュリン・フランチオージの熱演もありR-15指定でもおかしくない鬼気迫る迫力。
しかし、そうした視覚的インパクトやグロテスクながらどこか美しささえ感じさせる世界観の新鮮味は強烈だが、物語として描かれている内容は普遍的(監督が目指した所ではあるのだが)、悪く言えば凡庸な範囲に留まってしまっているのは勿体無いように感じた。特に、ラストの展開にはもう一捻り欲しかった感は否めない。
果たして、エラは何の「操り人形」だったのだろうか?観る人によって様々な解釈が可能な本作ではあるが、私が思うに、恐らくそれは「才能」、自身のクリエイターとして(そうありたいと願うあまり、強迫観念的に膨れ上がった)の「創作意欲」、何より、本作が扱う「ストップモーション・アニメーション」の操り人形だったのではないかと思う。
だからこそ、謎の少女の正体は、エラの内面の表出に他ならないのだろう。髪型や雰囲気が似ている点も分かりやすい。彼女は他の登場人物の前には決して姿を現さず、エラの前にのみ姿を現して、自身のアイデアを披露する。少女の姿をしているのは、彼女がエラの中に眠る純粋で剥き出しな才能、高圧的な母親の下で育てられたが故に、押さえつけられ磨かれていない未熟な状態だからではないだろうか。これがもし、高圧的でない母親の下でキャリアを積み、しかし母親のような才能はないと苦悩していたのなら、少女ではなく同年代の女性として姿を現していたかもしれない。
少女は、エラが練り消しのように捏ねていたワックスを人形に使うように促し、次第に「リアリティ」を追求して、森で見つけた狐の死骸、「もっと血みどろのやつ」と最後は人間の死体すら要求する。そして、最後に人形に使った人間の血肉は、自らの恋人であるトムと彼の姉であり、自らのアイデアを盗んだポーリーという敵対者だ。トムは、献身的にエラを支え続けこそしたが、その奥底には常に憐憫があり(ケネス・ブラナー監督、『ベルファスト』(2021)に登場する「愛の奥底には憐憫がある」という台詞を思えば、トムの中には間違いなく愛はある)、彼女の映画製作を中断させようとした時点で、彼女にとっては自らの剥き出しの才能の発芽を妨げる敵になってしまったのだ。
しかし、事態は少女すら予想だにしなかった方向へと向かっていく。死体を用いて製作した灰男が、エラに襲いかかったのだから。だが、それはエラの「現在」の才能が、少女という抑圧されてきた「過去」の積み重ねによる才能を上回り、自らの殻を打ち破った(だからこそ、ラストで謎の卵が孵った)とも言える。実際には、足の傷口からの多量の出血による失血死でも、エラの中ではこれまで何もないと思っていた才能が花開いたのだ。
ラスト、自らの死体すら作品の一部とし、役目を終えて満足気に人形箱に収まっていくエラと、そんな彼女に「最高だよ」と告げる少女。処女作にして遺作。剥き出しの才能は、自らの命すらも燃やして鮮烈な輝きを放ってみせた。しかし、その作品が世に出るとは限らない。事態の深刻さを思えば、エラの作品は「お蔵入り」まっしぐらだが、自身が満足の行く作品を遺せた事こそが、彼女にとっての救済だったのかもしれない。“たった一度の輝き”というラストは、デイミアン・チャゼル監督の『セッション』(2014)を彷彿とさせる。
そんなエラを演じたアシュリン・フランチオージの熱演の素晴らしさは言わずもがなだが、個人的にはエラを導く少女を演じたケイリン・スプリンゴールの演技も評価したい。間違いなく、彼女こそ本作のMVPだろう。好奇心旺盛で、歯に衣着せぬ物言い、残酷であればあるほど高揚感を見せる姿は、単に「おませ」と表現するには憚られる、蠱惑的な魅力を放っていた。それにしても、あれだけ血みどろでグロテスクなセットでの撮影、彼女は怖くなかったのだろうか?(笑)
短い出番ながら、強烈なインパクトを残したステラ・ゴネットの演技も素晴らしかった。ストップモーション界の大御所にして、エラの母親であるスザンヌの毒親っぷりは中々に強烈。いくら親子とはいえ、娘の事を「操り人形」「人形ちゃん」(台詞ではパペット“puppet”)と呼ぶ姿は普通ではない。恐らく、これはエラの妄想の中での出来事だろうが、病室で昏睡状態の自分の手をストップモーションの手順でスマホのカメラで撮影している際、「最高の素材だろ?」と、病人すら作品創りの素材に使えと言わんばかりの狂人っぷり。そして、本作の結末を告げるが如く、「操り人形は、演し物が終われば箱に片付けられる」と、エラの役割を告げる。
妄想(夢)の世界で、エラは自らがワックス人形として灰男に追われる様を想像する。穴の奥に逃げ込んだ先は、金色の布地が敷き詰められた箱の中。それが人形箱の中である事はラストに判明するが、その時点でのエラは、まだ役割を終えていないので、箱に収まって眠りにつく事は許されない。あるいは、あの人形箱は、エラにとっての棺桶だったのかもしれない。
時に、強烈な才能は周囲の人々の生活すら一変させながら、恐ろしい程の輝きを放つものなのだろう。しかし、我々は自らの才能に「操り人形」にされる事も、自らの命すら燃やす事もせず、上手く折り合いを付けてコントロールして生きて行かなければならないのかもしれない。でないと、遺せる物はあまりにも少なくなってしまうのだから。それでも構わないと思えるのならば話は別であるが。
stopNO(脳)tion
本日2本目、 眠くはないけど、不思議な映画で頭が眠っているのか理解不能でした。
ストップモーション映画を作っているパワハラ気味の母の手伝いをしている主人公エラ。母が倒れて一人で作ることに。謎の少女が現れてあれこれ指図する。
ただでさえ不気味な人形に生肉🥩をつける。
上手く出来ないことで錯乱していくのか、それとも現実と幻想が融合していくのか?母の死によりエラをコントロールする人がいなくなり、幻想が具現化していったのだと思った。
見る人によって色々な解釈ができると思うが、不気味な映画には変わらない。
それにしても、アレが完成したらどうなったのだろう。全編を凝視できるのか?
自分には作ることを義務付けられただけで錯乱しそう。
上品でした
コマ撮りアニメと作家の狂気の物語というのは安直なアイデアにも思えるものの、監督はホントにそれ系の作家なので製作者のリアルとして作っているのだとは思う。しかし劇中に発生する悪夢的な事柄は全て脳内のお話として一線を越えることなく語られるので、映像表現としてはグロくても映画としては上品な作りになっていて、アート寄りと言えばそれまでだけど、そこが歯痒く物足りなかったりはした。脳内で組み上げた狂気のコマ撮りアニメたちが虚構を突き破ってこちら側に来てこそ、ストップモーションアニメと作り手の両方を前面に押し出した作品にした意義があったのじゃなかろうか。なのでせっかく気色悪く不気味な出来のコマ撮りアニメも、結局は劇中作家の作り物としての存在にしかなり得ず、それならコマ撮りアニメだけを単体で作品とした方が、より悪夢的世界を本物として提示出来るんじゃないかとも思えてしまった。しかしコマ撮りアニメを紹介しつつ作り手が狂気に堕ちていく物語をスマートに語っていく手際は見事だし、雰囲気もあるしで、アーティスティックなホラーとしてクオリティが高い作品なのは間違いない。そもそも被支配性とか、そちらを描きたいみたいだし、悪夢の決壊することにも興味はそんなに無いのかも知れない。ただ個人的に、コマ撮りに生肉を使うような変態ならシュヴァンクマイエルみたいに悪夢が現実にハミでてくるぐらいの映画を見せて欲しかったという勝手な願望がどうしても出てきてしまうんだよな。ちなみにサメ映画とか殺人鬼映画の類と思って(ホラーだから一緒に行こうぜと誘った…)ついてきた息子は、わりとグロかったけど、まあ面白かったと言ってたので、それは良かった。
気持ち悪いけど、面白いですよ!
面白いです。
完成度の高い、良作だと思います。
ストップモーションの人形が、だいぶ気持ち悪い方向に偏ってるというか、、まあ普通の感性で見るとすっごく気持ち悪いと思うんですけど、今のところレビューの星の数が少なめなのは、そういう気持ち悪さがダメな人が見に行っちゃってるからじゃないですかね?
それはあれです、辛いのダメな人がタイ料理食いに行ってるようなもんですからね(笑)。
まあそれはそれで、そう感じてダメってことはないですけど、少なくともいい加減なふぬけた作品ではないということは言っておきたいです。
不気味で気持ち悪いながらも美しく、なんならちょっと可愛くすらある(これぞキモカワ!)ストップモーションは、単純に見てるだけで楽しかったです。
それを作ってるうちに現実が侵食されていくという話なのですが、普通の実写と組み合わさったときにも全く違和感はなくて、映像はストップモーション部分に限らず最初から最後まで素晴らしかったです。
主人公の精神がだんだんおかしくなっていく様子も、クライマックス近くまでは描写は控えめと言ってもいいくらいなんですけど、鍵になるストップモーションがクオリティ高くて説得力があるので、それに精神を侵されていく様子がいたって自然に、かつ恐ろしく描けていたと思います。
(一応言っておくとクライマックスはなかなかに強烈です。)
これは要するに、無から何かを生み出す精神につきものの苦悩の話というか、創造に宿る狂気の話ですよね。
そもそも本当の芸術っていうのは、多かれ少なかれそういう部分があってこそのものだという気もします。
多少常軌を逸したようなところでも無ければ、ほんとに美しいものなんて作れないでしょう?
無論それは、創造したい何かに向かって突き詰めていった結果自然とはまっていくもので、狂気に陥ったフリをして悦にいるようなものとは全く違います。
この映画はその辺すごく本物で、ちゃんとしてる気がしました。
ありがちな、無理矢理狂った方向に持ってくみたいなインチキな感じは、全然ないです。
きっとあれでしょう、監督の人は、ストップモーション作ってるときは自分も半分くらいこんな感じなんでしょう(笑)。
自分も気持ち的には経験してることだから、こんなに自然に描けるんだと思います(笑)。
一方で、変にアートっぽく気取った作りにはなっていなくて、すごくホップでわかりやすいと思います。いい意味で。
ストーリーもシンプルといえばシンプルだし。
あと主人公がとても魅力的です。
単純に美人で華があって見ていて楽しいし、この話の主人公としては絶対に必要な、ミステリアスな影のある雰囲気も十分に持っています。
主人公にまとわりつく謎の少女もメチャ可愛い。
その他のキャストにも、見映えがするキャラの立った配役がされていて、変なB級感はゼロです。
総じてこの、キモ美しかわいいというか、不思議で怖い映像とストーリーを存分に楽しめる、おススメの映画だと思います。
実際自分の見に行った回はほぼ満席でした。
皆さんよくわかっていらっしゃる(笑)。
臭そう
怖い者知らず
孤高の凡才。
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