ストップモーションのレビュー・感想・評価
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ホラーテイストでダークなストップモーションアニメと実写を融合させ、...
ホラーテイストでダークなストップモーションアニメと実写を融合させ、現実と虚構の境界があいまいになっていく恐怖を描いた、イギリス製の心理ホラー。
偉大なストップモーションアニメーターである母スザンヌが病に倒れたため、娘のエラは、制作が中断された作品を完成させようと奮闘していた。しかし、自分ひとりの力では作業は思うように進まない。偶然出会った謎の少女の力を借りて作業を進めていくエラだったが、次第に現実と虚構の壁が崩壊していき、精神的に追い詰められていく。
ストップモーションアニメの短編「Bobby Yeah」で英国アカデミー賞最優秀短編アニメ賞にノミネートされた、映像作家ロバート・モーガンの初長編作品。本作でも2023年のシッチェス・カタロニア国際映画祭で審査員賞特別賞を受賞するなど、高い評価を得た。主演は「ナイチンゲール」「スピーク・ノー・イーブル 異常な家族」のアシュリン・フランシオーシ。
ストップモーション
2023/イギリス
配給:スターキャット
相当グロいので、ステーキを継続して食べたい人は避けた方が良いと思います
2025.1.30 字幕 アップリンク京都
2023年のイギリス映画(93分、PG12)
母の意思を受け継ぐ娘の葛藤を描いたサイコホラー&スリラー映画
監督はロバート・モーガン
脚本はロバート・モーガン&ロビン・キング
原題の『Stopmotion』は、映画に登場するコマ撮りアニメーション映画のこと
物語の舞台は、イギリスのどこか
ストップモーション映画のレジェンドであるスザンヌ(ステラ・ゴネット)を母に持つエラ(アシュリン・フランシオーシ)は、関節炎で手を動かせなくなった母の代わりに、彼女の脳内にある物語を再現しようと試みていた
だが、微細な動きを表現できないエラは、幾度となく母親の叱責を受けてしまう
母の考える物語がつまらないと感じても、新しいアイデアを打ち出せるわけでもなく、ただひたすらに母の手先として動いていた
彼女には建設会社で働いている恋人トム(トム・ヨーク)がいて、彼の姉ポリー(セリカ・ウィルソン=リード)もストップモーションの映像作家だった
ある日のこと、スザンヌが倒れてしまい、そのまま救急病院に運ばれることになった
脳卒中を患っているとのことで、呼吸器をつけたまま意識が回復することはない
エラは、母親の映画を完成させようと作業を続けるものの、全くイメージ通りの映像が撮れずに行き詰まってしまう
そんな彼女の元に、新しいスタジオが入っているビルの住人と思われる少女(ケイリン・スプリンゴール)がやってきた
少女は母の考えた話がつまらないと言い出し、自分で考えたお話を始めてしまう
それは、ある森に迷い込んだ少女が謎の存在に追われるというもので、エラはその物語に惹かれてしまう
そこで、母の映画を中止し、少女の言われるがままに、その物語の映像を作り始めるのである
映画は、ストップモーションと実写を組み合わせた映像になっていて、そのクオリティは恐ろしく高い作品になっている
美術造形の作り込みがすごく、映画内で使われている素材で作っているかのような感覚になってくる
このあたりのリアリティがかなり高いので、グロ映像の完成度もかなり高くなっていて、正視できないシーンも多かったりする
物語は、エラが少女の映画を作っていく中で狂気に満ちた行動を取っていくというもので、少女の正体が何なのかを追って観ていくという流れになっている
彼女の正体はかなりわかりやすいものの、ラストの箱の中に入って終わりというところは解釈が分かれそうな印象があった
あの箱は劇中で顔を覗かせる小部屋なのだが、それが何なのかは観た人に委ねますという感じになっている
また、その箱に入るときに少女が放つ「最高だね」というセリフの解釈もなかなか難しいように思えた
少女は、いわゆるエラの潜在意識を具現化したもので、深層心理に近いものだと思う
それが母の死によって顕在化し、肥大化してエラを取り込むという構図になっていて、イメージショットとしての卵の孵化というものがあった
また、ラストの小箱は「潜在意識が自意識を閉じ込める」という意味合いになっていて、これから先のエラは潜在意識が支配するようにも思える
それによって現実世界のエラがどんな感じになるのかはわからないが、精神をシャットダウンしているようにも思えるので、傍から見ると人形のような存在になっているのかなと感じた
映画では、母親は常に娘を「パペット(操り人形)」と呼び、エラが母親の操り人形になっている前半が描かれていた
だが、操作する者がいなくなると途端に制御不能になり、そこに新しい操作者である潜在意識が顔を覗かせてく
少女は、抑圧されてきた自分自身であり、さらに肉体を破壊することで快楽を得ていく
これは精神が肉体を乗っ取って滅ぼしていく過程を描いているように思え、それが完結したことを示すのが箱の中に入るという行為なのではないだろうか
冒頭では、激しいライトに照らされるエラが描かれ、あの映像も実写のエラを連続で重ねているストップモーションだった
だが、表情が徐々に変化し、悪魔的な感じになっていくので、挿入する表情のバランスを変えて変化をつけているのだと思う
いくつかの表情を用意して、それを均等に連続させていくのと、意図的にバランスを崩して思い通りの表情を見せるのとでは意味が変わっていく
それは、潜在意識における自意識の侵食バランスを表していると言え、後半が悪魔的なのは、エラの潜在意識に悪魔的な部分が多いからなのだろう
現に潜在意識にほぼ乗っ取られた状態では鬼畜の所業を見せていて、それゆえに小さくなって箱に入っていく自意識は自らが望んでその箱に入ろうとしている
あの部屋自体が彼女の魂の拠り所とすれば、より安全なのは「潜在意識に守られた場所」ということになり、それは自我を超越したところにあるということなのかもしれない
いずれにせよ、かなりグロ映像が強烈なので、その方面がダメな人は避けた方が良い作品であると思う
映像的な完成度とか、精神世界の哲学的なテーマなどは面白いのだが、それを表現するのに血が必要というところに監督のセンスが凝縮されているのだろう
個人的には、話は好きだけど映像はダメという感じで、後半のグロシーンは目を瞑って音だけを聴いていた
それでも想像できてしまうのが辛いのだが、想像させるだけの積み重ねが前半にあるので、その辺りも加味しつつ、大丈夫な人は凝視したら良いのかな、と思った
抑圧された才能の開花の先にあるものは…。
ストップモーション・アニメーションと実写映像を交錯させ、1人のストップモーション作家の現実と妄想の壁の崩壊、創作に対する狂気が加速していく様を描くイギリスのサイコホラー映画。アメリカの映画批評サイト「ロッテントマト」では91%の支持率、各国の映画祭に招待され絶賛された。監督は、短編映画やストップモーション・アニメでキャリアを積み、本作が長編映画デビューとなるロバート・モーガン。
ストップモーション・アニメーションの若きクリエイター、エラは、業界の大御所スザンヌを母に持ち、関節炎で手が動かせない母に代わって、母の最後の監督作の製作を手伝っていた。エラには自分もストップモーション・アニメを監督したいという夢があるが、偉大なキャリアを持ち、高圧的な態度を取る母親には中々自身の願望を言い出せず、いざ「アイデアがある」と切り出すも、「聞かせて」と母親に言われると何も言い出せない。実は、エラは確かな技術を持ちながらも、自らが表現したい物語がないのだ。
恋人のトムは、ビジネスマンの傍らミュージシャンへの夢を持ち、仕事と夢を両立させながら、エラを支えている。トムの姉でありストップモーション・アニメーションの監督であるポーリーは、自身の手掛けた作品を満足気に披露している。
ある日、映画の製作途中でスザンヌが脳卒中で倒れ、昏睡状態に陥ってしまう。トムの助けもあって、エラは母の作品を完成させようと、取り壊し前の荒れ果てた公営団地にスタジオを構え、製作に取り掛かる。しかし、自らの内に表現すべきものを見出せないエラにとって、誰の指示もない映画製作は上手くいかない。母親が彼女を「操り人形」と称するように、誰かの指示無しでは、エラは作品を創ることは出来ないのだ。
そんな時、エラは同じビルで出会った謎の少女をスタジオに招く。好奇心旺盛にスタジオ内を見て回り、エラに製作途中の映画を見せてもらった彼女は、その作品を「つまらない」と一蹴する。少女は、「アイデアがある」と、エラに自分の物語を話して聞かせるが、エラは母の作品を作る為に、彼女を帰す。しかし、翌朝スタジオでトムに起こされたエラは、スタジオ内のセットが少女のアイデアを元にしたものに作り変わっている事、既にファーストシーンの撮影が済んでいる状況を目の当たりにする。
やがて、少女の指示を受けながら映画製作を進めるエラは、次第に現実と想像の区別を失い、狂気の世界へ足を踏み入れていく。
パンフレットによると、元々ストップモーション・アニメーションはホラーやグロテスクな表現と親和性が高いそうだが、そうした特色を抜きにしても中々にグロテスクで悪趣味な世界観(褒め言葉)。故人に塗る用のワックス、冷蔵庫の生肉から始まり、狐の死骸、遂には人間の血肉すら用いて作品に使う人形を作り出して行く様は、正に狂気そのもの。日本での年齢制限はPG-12だが、クライマックスでエラが足の傷を自ら開く様を容赦なく描写する場面は、エラ役のアシュリン・フランチオージの熱演もありR-15指定でもおかしくない鬼気迫る迫力。
しかし、そうした視覚的インパクトやグロテスクながらどこか美しささえ感じさせる世界観の新鮮味は強烈だが、物語として描かれている内容は普遍的(監督が目指した所ではあるのだが)、悪く言えば凡庸な範囲に留まってしまっているのは勿体無いように感じた。特に、ラストの展開にはもう一捻り欲しかった感は否めない。
果たして、エラは何の「操り人形」だったのだろうか?観る人によって様々な解釈が可能な本作ではあるが、私が思うに、恐らくそれは「才能」、自身のクリエイターとして(そうありたいと願うあまり、強迫観念的に膨れ上がった)の「創作意欲」、何より、本作が扱う「ストップモーション・アニメーション」の操り人形だったのではないかと思う。
だからこそ、謎の少女の正体は、エラの内面の表出に他ならないのだろう。髪型や雰囲気が似ている点も分かりやすい。彼女は他の登場人物の前には決して姿を現さず、エラの前にのみ姿を現して、自身のアイデアを披露する。少女の姿をしているのは、彼女がエラの中に眠る純粋で剥き出しな才能、高圧的な母親の下で育てられたが故に、押さえつけられ磨かれていない未熟な状態だからではないだろうか。これがもし、高圧的でない母親の下でキャリアを積み、しかし母親のような才能はないと苦悩していたのなら、少女ではなく同年代の女性として姿を現していたかもしれない。
少女は、エラが練り消しのように捏ねていたワックスを人形に使うように促し、次第に「リアリティ」を追求して、森で見つけた狐の死骸、「もっと血みどろのやつ」と最後は人間の死体すら要求する。そして、最後に人形に使った人間の血肉は、自らの恋人であるトムと彼の姉であり、自らのアイデアを盗んだポーリーという敵対者だ。トムは、献身的にエラを支え続けこそしたが、その奥底には常に憐憫があり(ケネス・ブラナー監督、『ベルファスト』(2021)に登場する「愛の奥底には憐憫がある」という台詞を思えば、トムの中には間違いなく愛はある)、彼女の映画製作を中断させようとした時点で、彼女にとっては自らの剥き出しの才能の発芽を妨げる敵になってしまったのだ。
しかし、事態は少女すら予想だにしなかった方向へと向かっていく。死体を用いて製作した灰男が、エラに襲いかかったのだから。だが、それはエラの「現在」の才能が、少女という抑圧されてきた「過去」の積み重ねによる才能を上回り、自らの殻を打ち破った(だからこそ、ラストで謎の卵が孵った)とも言える。実際には、足の傷口からの多量の出血による失血死でも、エラの中ではこれまで何もないと思っていた才能が花開いたのだ。
ラスト、自らの死体すら作品の一部とし、役目を終えて満足気に人形箱に収まっていくエラと、そんな彼女に「最高だよ」と告げる少女。処女作にして遺作。剥き出しの才能は、自らの命すらも燃やして鮮烈な輝きを放ってみせた。しかし、その作品が世に出るとは限らない。事態の深刻さを思えば、エラの作品は「お蔵入り」まっしぐらだが、自身が満足の行く作品を遺せた事こそが、彼女にとっての救済だったのかもしれない。“たった一度の輝き”というラストは、デイミアン・チャゼル監督の『セッション』(2014)を彷彿とさせる。
そんなエラを演じたアシュリン・フランチオージの熱演の素晴らしさは言わずもがなだが、個人的にはエラを導く少女を演じたケイリン・スプリンゴールの演技も評価したい。間違いなく、彼女こそ本作のMVPだろう。好奇心旺盛で、歯に衣着せぬ物言い、残酷であればあるほど高揚感を見せる姿は、単に「おませ」と表現するには憚られる、蠱惑的な魅力を放っていた。それにしても、あれだけ血みどろでグロテスクなセットでの撮影、彼女は怖くなかったのだろうか?(笑)
短い出番ながら、強烈なインパクトを残したステラ・ゴネットの演技も素晴らしかった。ストップモーション界の大御所にして、エラの母親であるスザンヌの毒親っぷりは中々に強烈。いくら親子とはいえ、娘の事を「操り人形」「人形ちゃん」(台詞ではパペット“puppet”)と呼ぶ姿は普通ではない。恐らく、これはエラの妄想の中での出来事だろうが、病室で昏睡状態の自分の手をストップモーションの手順でスマホのカメラで撮影している際、「最高の素材だろ?」と、病人すら作品創りの素材に使えと言わんばかりの狂人っぷり。そして、本作の結末を告げるが如く、「操り人形は、演し物が終われば箱に片付けられる」と、エラの役割を告げる。
妄想(夢)の世界で、エラは自らがワックス人形として灰男に追われる様を想像する。穴の奥に逃げ込んだ先は、金色の布地が敷き詰められた箱の中。それが人形箱の中である事はラストに判明するが、その時点でのエラは、まだ役割を終えていないので、箱に収まって眠りにつく事は許されない。あるいは、あの人形箱は、エラにとっての棺桶だったのかもしれない。
時に、強烈な才能は周囲の人々の生活すら一変させながら、恐ろしい程の輝きを放つものなのだろう。しかし、我々は自らの才能に「操り人形」にされる事も、自らの命すら燃やす事もせず、上手く折り合いを付けてコントロールして生きて行かなければならないのかもしれない。でないと、遺せる物はあまりにも少なくなってしまうのだから。それでも構わないと思えるのならば話は別であるが。
stopNO(脳)tion
本日2本目、 眠くはないけど、不思議な映画で頭が眠っているのか理解不能でした。
ストップモーション映画を作っているパワハラ気味の母の手伝いをしている主人公エラ。母が倒れて一人で作ることに。謎の少女が現れてあれこれ指図する。
ただでさえ不気味な人形に生肉🥩をつける。
上手く出来ないことで錯乱していくのか、それとも現実と幻想が融合していくのか?母の死によりエラをコントロールする人がいなくなり、幻想が具現化していったのだと思った。
見る人によって色々な解釈ができると思うが、不気味な映画には変わらない。
それにしても、アレが完成したらどうなったのだろう。全編を凝視できるのか?
自分には作ることを義務付けられただけで錯乱しそう。
上品でした
コマ撮りアニメと作家の狂気の物語というのは安直なアイデアにも思えるものの、監督はホントにそれ系の作家なので製作者のリアルとして作っているのだとは思う。しかし劇中に発生する悪夢的な事柄は全て脳内のお話として一線を越えることなく語られるので、映像表現としてはグロくても映画としては上品な作りになっていて、アート寄りと言えばそれまでだけど、そこが歯痒く物足りなかったりはした。脳内で組み上げた狂気のコマ撮りアニメたちが虚構を突き破ってこちら側に来てこそ、ストップモーションアニメと作り手の両方を前面に押し出した作品にした意義があったのじゃなかろうか。なのでせっかく気色悪く不気味な出来のコマ撮りアニメも、結局は劇中作家の作り物としての存在にしかなり得ず、それならコマ撮りアニメだけを単体で作品とした方が、より悪夢的世界を本物として提示出来るんじゃないかとも思えてしまった。しかしコマ撮りアニメを紹介しつつ作り手が狂気に堕ちていく物語をスマートに語っていく手際は見事だし、雰囲気もあるしで、アーティスティックなホラーとしてクオリティが高い作品なのは間違いない。そもそも被支配性とか、そちらを描きたいみたいだし、悪夢の決壊することにも興味はそんなに無いのかも知れない。ただ個人的に、コマ撮りに生肉を使うような変態ならシュヴァンクマイエルみたいに悪夢が現実にハミでてくるぐらいの映画を見せて欲しかったという勝手な願望がどうしても出てきてしまうんだよな。ちなみにサメ映画とか殺人鬼映画の類と思って(ホラーだから一緒に行こうぜと誘った…)ついてきた息子は、わりとグロかったけど、まあ面白かったと言ってたので、それは良かった。
気持ち悪いけど、面白いですよ!
面白いです。
完成度の高い、良作だと思います。
ストップモーションの人形が、だいぶ気持ち悪い方向に偏ってるというか、、まあ普通の感性で見るとすっごく気持ち悪いと思うんですけど、今のところレビューの星の数が少なめなのは、そういう気持ち悪さがダメな人が見に行っちゃってるからじゃないですかね?
それはあれです、辛いのダメな人がタイ料理食いに行ってるようなもんですからね(笑)。
まあそれはそれで、そう感じてダメってことはないですけど、少なくともいい加減なふぬけた作品ではないということは言っておきたいです。
不気味で気持ち悪いながらも美しく、なんならちょっと可愛くすらある(これぞキモカワ!)ストップモーションは、単純に見てるだけで楽しかったです。
それを作ってるうちに現実が侵食されていくという話なのですが、普通の実写と組み合わさったときにも全く違和感はなくて、映像はストップモーション部分に限らず最初から最後まで素晴らしかったです。
主人公の精神がだんだんおかしくなっていく様子も、クライマックス近くまでは描写は控えめと言ってもいいくらいなんですけど、鍵になるストップモーションがクオリティ高くて説得力があるので、それに精神を侵されていく様子がいたって自然に、かつ恐ろしく描けていたと思います。
(一応言っておくとクライマックスはなかなかに強烈です。)
これは要するに、無から何かを生み出す精神につきものの苦悩の話というか、創造に宿る狂気の話ですよね。
そもそも本当の芸術っていうのは、多かれ少なかれそういう部分があってこそのものだという気もします。
多少常軌を逸したようなところでも無ければ、ほんとに美しいものなんて作れないでしょう?
無論それは、創造したい何かに向かって突き詰めていった結果自然とはまっていくもので、狂気に陥ったフリをして悦にいるようなものとは全く違います。
この映画はその辺すごく本物で、ちゃんとしてる気がしました。
ありがちな、無理矢理狂った方向に持ってくみたいなインチキな感じは、全然ないです。
きっとあれでしょう、監督の人は、ストップモーション作ってるときは自分も半分くらいこんな感じなんでしょう(笑)。
自分も気持ち的には経験してることだから、こんなに自然に描けるんだと思います(笑)。
一方で、変にアートっぽく気取った作りにはなっていなくて、すごくホップでわかりやすいと思います。いい意味で。
ストーリーもシンプルといえばシンプルだし。
あと主人公がとても魅力的です。
単純に美人で華があって見ていて楽しいし、この話の主人公としては絶対に必要な、ミステリアスな影のある雰囲気も十分に持っています。
主人公にまとわりつく謎の少女もメチャ可愛い。
その他のキャストにも、見映えがするキャラの立った配役がされていて、変なB級感はゼロです。
総じてこの、キモ美しかわいいというか、不思議で怖い映像とストーリーを存分に楽しめる、おススメの映画だと思います。
実際自分の見に行った回はほぼ満席でした。
皆さんよくわかっていらっしゃる(笑)。
臭そう
怖い者知らず
孤高の凡才。
誰が操っているのか、誰に操られているのか
有名ストップモーション作家の娘で、「操り人形」と呼ばれている主人公。
偉大な母を前に萎縮しがちな主人公が不可思議な現象に巻き込まれて恐ろしい深みにはまっていく物語。
本作は映画題の通り実写とストップモーションが共存する映像作品で、現在ではそれだけでも珍しい作品。
見所は随所に出てくるストップモーションが精巧で非常によくできていること。特に物語が起承転結の”承“部分で見せるおどろおどろしくも、まるで息のある動きを見せるアーマーチュアは映像作品にのめり込める。
一方で、ホラーな展開でびっくり要素が強い部分が個人的には減点。折角アーマーチュアがナマモノであったので、陰湿な怖さが続くと良かったと感じた。
Hole
ストップモーションアニメの面白さに近年ようやく気づき出した人間なのですが、ここまでホラー極振りになるとストップモーションアニメの良さが活きまくっていたなと思いました。
ただお話自体はそこまで盛り上がるようなものではなく、ストップモーションアニメの作り手の母が倒れてしまい、それを受け継ぎながらも自分の作りたいものも一緒に作り始めるけれどうまくいかず、そんな中目の前に少女が現れ…といった感じでトントン拍子で話は進んでいくんですが、基本はその少女(おそらく主人公の自我)との対峙からのパニックの繰り返しなので、精神がボロボロになっていく割には同じような映像が続くので前半は物足りなかったです。
ストップモーションアニメの人形たちが徐々に現実を蝕んでいくところはホラー味あふれていたのでそっちをもっと観たかったなぁと思いました。
ワンショットワンショット動かしては撮ってとか難しすぎるだろとストップモーションアニメを作ってる方々には頭が上がりません。
グロいシーンはグッチャグチャなシーンよりは視覚的に痛い映像が満遍なく映されるので、誰もいなかったらキャー!と悲鳴をあげたくなるくらいには縫った部分を引きちぎったりするのでブルブル震えました。
そこから他の人に牙が向いていく展開になるのは視覚的な痛さがどこか行ってしまい、急にバイオレンスじゃないですかってなるのは惜しかったです。
前半の展開が後半になって活きてくるのは面白かったです。
終わりは不穏な雰囲気を払拭せずスパッと終わってくれるのでそこは良かったです。
現実と妄想の入り乱れでメチャクチャになっていくのは良かったですが、映像面や物語にもうワンパンチ欲しかったところです。
鑑賞日 1/22
鑑賞時間 13:15〜14:55
座席 A-5
Puppet
個人的にはまったく理解できなかった。
実母から「操り人形」と呼ばれこき使われる主人公。
そのストレスが臨界に達しようというタイミングで、突然の停電からの母の昏睡。
ここを不思議要素にする意図がよく分からないが、これもエラが何かしたということ?
その後は謎の少女と出会い、何故か言いなりに。
自分で創作出来ないというから物語を取り入れるのは分かるが、あまりに隷属的過ぎないか。
髪型や雰囲気がどことなく似ているし、エラの深層心理?
その後はエラが反発する→少女が機嫌を損ねる→やっぱり従うの繰り返し。
徐々に悪夢や幻覚を見るようになるが、途中でクスリ出したらそのせいになってしまうじゃないか。
…と思ったらやってない?え、どっち??
作品パクられたり母が亡くなったりとかもあるけど、あんまり効いてないような。
不敵な存在のままでいればいいのに、クライマックスで少女が急に「こんなハズじゃない」とか言い出す。
しかし最終的にはまた何事もなかったのように“作品”を気に入ったとか言ってくるが…
なんで一瞬だけキャラブレさせたんだ。
ストップモーションを取り入れたというだけで、内容的にはよくある感じでしかない。
それでいて脚本に面白味も整合性もないのだから、終始退屈でした。
せっかくの美人さんなのに、濡れ場もひたすら背中のアップだけなので、本当に見所が分からない…
冒頭の光の明滅で豹変する顔の表現はよかった。
サイコスリラーというかホラーです。
"boring!"(つまらない)のはこの作品自身
ストップモーションの作家を主人公にしたホラーで、作中でもその撮影...
毒親の抑圧から解放されるための血塗られた道程。これは女性版『ボーはおそれている』だ。
個人的にはとても面白かった!
監督の好きなものが、すごく僕とかぶっている印象。
まずは、ヤン・シュヴァンクマイエル、
それから、デイヴィッド・リンチ、
あと、デイヴィッド・クローネンバーグ。
この三人が好きな人は、本作も結構すっきり受け入れられると思う。
「フランシス・ベーコンやクライヴ・バーカー作品を彷彿とさせる」という宣伝文句も、ちょっと思いがけない比喩ではあるが、なかなかいいところをついている。
それから、パンフとかではなぜかスルーされているが、三原色の使い方とか、ヒロインのジェシカ・ハーパーそっくりのたたずまいとか、ゴア描写の作法とか、この人絶対、ジャッロ(とくにダリオ・アルジェント)大好き。
イギリスの映画なのに、なんかすっげえ映像が「ジャッロ臭い」んだよね。
内容としては、シュヴァンクマイエルやフィル・ティペットの影響の強いストップモーションと、『裸のランチ』や『ブラック・スワン』風の、主人公が脳内汚染されて現実と幻想のあわいが不分明になっていくサイコロジカル・スリラーを「がっちゃんこ」したもの。
この「がっちゃんこ」だけで、十分観る価値はあると思う。
昔から「人形」と「ホラー」というのはとても相性の良い組み合わせだったし(『マジック』『チャイルド・プレイ』『アナベル』)、ホラーのなかでストップモーションで動かすクリーチャーが出てくるものも結構ある(『顔のない悪魔』『バスケットケース』)。
ただ、「ストップモーション製作の現場を舞台に、アニメーター本人の現実と妄想が混淆してゆくせいで、実写とストップモーションが入り混じっていく」というのは、さすがにいまだかつてなかったネタではないか。
「映画監督が制作中の映画に呑み込まれる」
「作家が書いている小説に呑み込まれる」
「演技者・舞踏家が出ている作品に呑み込まれる」
これらのネタなら、いままで皆さんも結構目にしてきたはず。
それをストップモーション・アニメに置き換えたら、ここまで気持ち悪いものになりました、ということだ。
― ― ― ―
ヒロインのエラ・ブレイクは当初、関節症でうまく手を動かせなくなったストップモーションの巨匠である母親スザンヌ・ブレイクの「代わり」に、母にとって最後となるアニメ作品を制作している。
スザンヌは、娘を「パペット(あやつり人形)」と呼んで、奴隷のようにこき使う完全な毒親で、長い抑圧のなかでエラは「自分で作品を考えたりアイディアを出したり」することが難しくなっている。
そんなお母さんが卒中を起こして、口もきけない寝たきりになったら?
突然、長年の支配的状況から解放されて「クリエイティブ」に働くことを許されたとき、エラは何を撮ろうとするのか?
本作は、そんな状況下で「まずは母親の作品のつづき」を撮ろうとし、その後「自らの作品」を作ろうと尽力するエラの陥る地獄を描いてゆく。
スザンヌ・ブレイクがつくっているのが「サイクロプスの夫婦」の話というのは、いかにもレイ・ハリーハウゼンの『シンドバット七回目の航海」』に出てくるサイクロプスを想起させる。一方で、御伽噺めいた設定は、チェコの巨匠イジー・トルンカを思わせるところもあって、要するにそれだけお母さんは偉大な巨匠アニメーターだったということだろう。
新しいスタジオとして借りた廃マンションで、エラは一人の少女と出会う。
彼女は、スザンヌの巨人の話を「つまんない」と言い放ち、もっと面白い話があると持ち掛ける。それは、森で少女が謎の怪人「アッシュマン」に襲われる話だった。
観ていればすぐにピンとくるが、この少女はいわゆるエラの「アルターエゴ」というやつで、実際には実在しない「導き手」のようなものだ。
あるいは、彼女はエラ自身の少女時代――まだ全能感に満ち溢れ、自身の創作能力の可能性を信じていたころのエラ自身なのかもしれない。
ただ、少女がそそのかしてくる「作ってほしい」作品は、どこか病んでいて神経症的で、しかも「素材には生肉を使わないと」とか気持ちの悪いことを言ってくる。
こうして、エラは「そのままでいれば安穏と暮らせるかもしれない日常」から、すべりおちてゆく。
エラの抱えている問題は、長く抑圧されすぎたせいで
「自分ひとりでは良いアニメは作れない」
と思い込んで、自縄自縛に陥っている点だ。
そのせいで、彼女はせっかく「母親」という重しが取り除かれても、自分ではうまく自由にはばたくことができない。むしろ、新しい悪夢のなかで「自分に命令して仕切ってくれる誰か」を作り上げ、それに従うことでやっていこうとする。
しかし、その「誰か」も結局は、自分で作り出した内なる分身に過ぎないわけで、分身が命じてくるアニメーションもまた、自分の想像力の範疇から出るものではない。
しかも、その主題はある種の被害妄想だったり、父性による性的な加害に対する恐怖心の生々しい反映となっていて、必ずしも「面白いアニメ」とは言い難い。
作中で展開されるストップモーションは、
どこかレオン&コシーニャの『オオカミの家』に似ている。
あるいは、見里朝希の『マイリトルゴート』に。
森。少女。怪物。小屋。猫と鼠のゲーム。
『赤ずきんちゃん』『七匹の子ヤギ』『三匹の子豚』……
要するに、グリム童話的な「草食獣(被捕食者)と肉食獣(捕食者)」の物語だ。
それはおそらく、エラ自身の抑圧を表わした物語なのだろう。
彼女は、これまで何重にも支配されてきた。
母親からの支配だけではない。
一見やさしそうで、このうえなく出来の良い彼氏にしても、「守ってやりたい」「助けてやりたい」という善意で束縛してくる男は、自立できない女性を縛る枷でもある。
何年か前に『ドント・ウォーリー・ダーリン』という映画があったが、アレに出てきた旦那のようなものだ。しかも本人が良かれと思って庇護してくるからタチが悪い。
彼の姉もまた、基本的にはエラに優しくしてくれるし、職業をあっせんしてくれようともするが、それはエラを下に見て、見くびっているからだ。
さらには、物語には父親の影すら出てこない。
彼女の家庭で何があったかは、われわれにはわからない。
でもつくっているアニメを見れば、ただならぬ男性恐怖を抱いているらしいことは、なんとなく伝わってくる。
これは、そんな内なるエラが「望んで」現出した、抑圧からの解放を目指して地獄へと続く、血塗られた道程の物語だ。
― ― ― ―
●ヒロイン役のアシュリン・フランチオージは、最初にいったとおり『サスペリア』の主演女優ジェシカ・ハーパーと、目鼻立ちや腺病質な雰囲気がよく似ているし、『テシス 次に私が殺される』のアナ・トレントにもよく似ている。あのへんの雰囲気は、やっぱり意識していると思うなあ。
●冒頭すぐに出てくる、三原色のヒロインが明滅し続ける印象的なアヴァンタイトル。これって、よく見たら、どの色のエラも表情が違うんだな(たぶん)。
ということは、これもある種の「こま撮りアニメーション」ということになる。
色違いの静止画を並べていくことで作られたアニメーション、というわけだ。
ちなみに、ここの「三原色+ヒロイン」の導入部は、『サスぺリア』の冒頭のタクシーにスージー(ジェシカ・ハーパー)が乗っているシーンと呼応している。
●ドアの穴から覗き込んでくる血走った目というのも、いかにもダリオ・アルジェントっぽい描写に思える。終盤出てくる真っ赤な部屋は、ギレルモ・デル・トロの『パンズ・ラビリンス』をちょっと想起させる。あれも本作と似たような、幻想への逃避がやがて現実を侵食してゆく物語だった。
●自分をそそのかしてくる、若き姿の分身としてのアルターエゴでぱっと思い出すのが、『いけないマコちゃん MAKO・セクシーシンフォニー』という僕は人間失格でしょうか。
●狐の死体を前に座り込む少女の取り合わせは、『サスペリアPART2』におけるトカゲを殺す少女を想起させる。この子単体の主演でなにか観てみたくなるくらいの美少女。
少女が人形づくりに「生の肉」を素材として要求するのは、ストップモーションと現実のあわいを不確かにしてゆくための魔術的な暗示でもある。少女はエラに「自らの血肉を用いて分身をつくれ」「自らの身体でアニメの世界に入れ」とけしかけているのだ。
●自分の肉を割って、インナースペースに分け入ろうとする感覚は、まさにデイヴィッド・クローネンバーグの『裸のランチ』や『ビデオドローム』の延長上にある。
結局のところ、作品中で描かれる廃アパートも、衰微した町並みも、らせん階段も、すべてがエラ自身の心象風景であり、辿る話の展開も大半は妄想率90%で、最終的な結論が「母の死によって混乱をきたしたマザコンの克服と自壊」ということを考えると、本作は「女性版」の『ボーはおそれている』という言い方もできそうだ。
●ヒロインが現実の作業で「眼」を作って以降、妄想要素の強いストップモーションパートの人形にも「眼」がはめ込まれるというのは、よく考えられた展開。
●寝たきりの母親の手とスマホを使って、こま撮りアニメーションを撮ろうとするエラのシーンは、なかなか面白い。動いている間は抑圧してくる毒親に過ぎなかった母親。だが、いったん動かなくなると、命令の主体がなくなってエラはそれはそれで困るのだ。生ける屍と化した母親に、自らストップモーションの魔法で「命を吹き込もうとする」エラ。それは善意か、それとも復讐か。
●ソファにちまちまとストップモーション用の人形が這い登って、ちょこんと座っている愛らしい光景は、僕に『トイ・ストーリー』ではなく、トッド・ブラウニングの『悪魔の人形』を思い出させる(笑)。
●全編で、虫の鳴き声のような人形ボイスや、生肉の音、変な環境音、ノイズっぽい音楽、神経を逆なでするような金属音など、ありとあらゆる「気持ちの悪い音」が鳴っている。
結構、この音楽と音響の不気味な効果が、作品全体に影響しているように思う。
●「邪悪なマグリット」みたいなポスターアートは出色の出来。これを見て僕は「何がなんでも観に行かないと」と思わされたし、観終わったあとは、内容をそのまま象徴的に表しているとわかって、さらに感心した。
●パンフの土居伸彰さんのコラムがとにかくすばらしい。
ロバート・モーガン監督のつくる人形のことを「一ヶ月以上掃除されていない風呂の排水溝に詰まった髪の毛や脂で作られたような姿」と呼び、彼の短篇を観終わった感想を「絶対に手の届かない体の奥深いところを蚊に刺されたかのようなもどかしい気持ち悪さ」と評する。なんて美しい言語感覚!
●春日武彦先生のコラムも、大変興味深い示唆に満ちている。なるほどここまでがすべて完全な●●で、ここから新しい何かが始まると。全く考えもしなかった解釈だ。
●結局のところ、たとえ人間は抑圧から自由になれたとしても、自分で動かせるのは(あるいは動かして良いのは)1回に数㎜。人生そのものが、ストップモーション・アニメーションのようなものなんだろうね。
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