「被占領者による命懸けの告発、命懸けの蜂起。」ノー・アザー・ランド 故郷は他にない sirutobillaさんの映画レビュー(感想・評価)
被占領者による命懸けの告発、命懸けの蜂起。
ショックで唖然とした。
ああ結局「百聞」はどこまで行けど
「一見」未満なんだ、と。
16か月間 体に溜め込んできた残酷さは、しょせん断片でしか無かった。16か月間 夢中で追いかけてきたあらゆる断片を結集しても、多分一昨日見たフィルムの1/100のリアリティにも及ばなかった。
その断片たちが一昨夜、一気に繋がって生命を帯びて、目の前で化け物みたいに動きだした。
思いのままに泣けるような隙もなく、ただ驚愕し、瞬きも忘れていた。
アパルトヘイトが実際どんなふうに、人間を外側と内側から壊していくのか。
そこにいっとき立ち会うことを許可され、95分間、本当に自分はそこにいて、同じように恐れ、同じ絶望を見た。そんな感覚だった。
ずっと息苦しかったのは、
マサーフェル・ヤッタの美しい土壌に侵入する
余所者たちの傍観や偽善に対する描写が結局は自分にも向けられている批判であることを終始、感じ続けたからだろうと思う。
息子に重傷を負わせられた母親を訪れ、刹那の同情を演じて去っていく英語話者の記者たち。
気まぐれに権力を振り翳して他者の運命を管理し弄ぶ 国際社会のリーダーたち。
登場人物はみな、断片的に私の一部であり、
私が今生きている国の人々の一部だと思った。
二人の間にある抗えない構造的不平等にも胸がジクジク傷んだ。
それは膨らみ始めた友情の芽とは裏腹に浮き彫りになってゆき、ユヴァルさんがバーセルさんの心に近寄ろうとすればする程、軋んだ音を立てるみたいに、私には感じられた。
権力の不均衡を生じさせる構造。
ただ生きてるというだけで。
個々の人間性も互いの絆の深さもお構いなしに。
その理不尽さは、二人の距離が密接だったからこそ、より鮮明に、より際立って示されたと思う。
「状況が安定して民主化され自由になったら
今度は君が僕を訪ねておいでよ。
いつも僕だけが君を訪ねるのじゃなく」
ユヴァルさんは邪気のない様子で言う。
帰る場所があり、動き回れる自由があり、永遠の抑圧も永遠の敗北も知らぬ友。
私がもしバーセルさんなら、
"maybe...." と呟いたあの瞬間、
新しい友人が全く見知らぬ他人のように見え、
広い宇宙に独りぽっちで置き去りにされたみたいに感じただろうと思った。
祖父母から孫の代まで続く壮絶な占領の歴史。
彼らはアパルトヘイトに押し潰され、時々善意を放り投げてくる世界に失望し、それでも忍耐強くあらん限りの抵抗を続けながら、
一軒ずつ家が壊されるのを見届け、
一人ずつ家族を失ってきた。
共感だとか連帯だとか、知った振りをしていた自分が恥ずかしい。狂おしい自責の念で、吐き気がした。
「国境を越えた友情と連帯に希望を見出す」
この類の宣伝文句をよく見かけたけど、
本作の主題は友情ではあり得ないし、
希望を見出すような結末も用意されていない。
(と私は思う。個人の感想です)
これは、追い詰められて窮地に立つ故郷を背負い、占領国家に対し真っ向から叩きつけた告発であり、カメラという 彼らに残された最後の武器で世界に示した、文字通り命懸けの蜂起だったんだろうと思う。
希望なんて幻想がここには微塵も存在してない、それでも、バーセルさん達が彼の地から手を伸ばし世界に届けようとした真実をどう咀嚼するのか。
今生きるその場所で、私は、あなたは、何が出来るのか。
鑑賞後にそれぞれの日々の中で、自分だけの宿題を模索していかなければ、と思う。
マサーフェル・ヤッタから、
こんな声を聴いた。
「それでも僕らは、現実を変えたい。
だけどその手段はもう殆ど、僕らには残されてない。
もう分かっているよね?
変化の可能性の、その舵を、力の限り一杯に切り、これまでとは全く別の方角へ進路を変えられるのは、ここにいる僕らじゃない。
今日これを目撃したあなたでしかない。
僕はここで死と隣り合わせで
出来る限りのことをやってきた。
さあ、次はあなたが繋げる番だよ。
泣き言なんか言ってないで、
今すぐギアを100段階上げてくれ」
一方で、彼らの決死の記録を目撃したあとに
抱いて欲しくないのは「無力感」だと思う。
それが許される者がいるとするなら、それは途方もない忍耐を重ねてきた彼らであり、私たちではあり得ないと思うから。